私が梶山に“弟子入り”したのは大学を出た年、四十一年十一月のことである。すでに流行作家となっていた氏は、まだ三十六歳。
初めて見る長身痩躯の姿は威圧感があり、メガネ越しの、やさしいまなざしに気づくまで、しばらく時間がかかった。
青山のマンションにうかがい、初対面の美那江夫人に、当時はやりの「女子学生亡国論」をぶった私は二十四歳。
いっぱしの作家志望、世間知らず、生意気盛りでもあった。
それから約八年半、“作家助手”を務めてきたが、当時は理解されなかったり、何をやっているのかと不思議がられもした仕事であった。
ライフワークはならず、また『噂』の再興も叶わなかった。早すぎた死である。
作家活動は人の何倍にも相当するといわれ、心優しい人だったとその人柄を愛された梶山だが、一方で、他人がさまざまに評かるのに任せたため、
“虚像”ばかりふくれあがった感がある。
いわく色豪、いわくポルノ作家などと。
しかし、何も語らず、何も抗弁しない人だった。
「梶山君は、われわれの世代に共通の偽悪的な面があるんですが、心情は非常にきれいな人でしたね」とは
中学時代の同窓、成田豊氏(現・電通社長)の言である(平成七年五月、『文化通信』創刊五十周年企画、同社会長山口比呂志氏のインタビューに答えて)。
エッセイや短文を改めて読み返して見ると、悪や不正に対して敢然と戦い、最後まで言論擁護の姿勢を貫き、 また性表現とその取締りに対しての、一貫した姿勢と主張がうかがえる。 二十数年前と今では、ワイセツの概念に隔世の感があり、あらゆる分野で性の解放が見られるが、それでも真の解放となっているとはいいがたい……。
時は流れ、忘れさられようとしている今、一時代を画した梶山が、作家として、また日本人として、何を考え何を訴えようとしていたのか、 その書き残したもの、多くの方々が語っている印象や回想を中心に、この目で見た真の梶山像を伝えたい、 それが元“助手”の責務だと思い筆を執った次第である。
よく気がつく人である。相手がだれであれ、分け隔てなく手をさしのべる。
ある日、真ん中の部屋のソファベッドで寝ていた私は、早朝、風呂場へ行く途中の梶山に、ずり落ちそうになっていた毛布をかけ直してもらった。
すぐ目が覚めたものの、そのさり気ない心遣いに「ありがとうございます」とも言えず、しばらくは寝たふりをしたものだった。
みんながそろうと朝食である。ビールが朝食がわりのときは、ユデ卵の黄身だけとか、チーズぐらいしか口にしない。
時には、自分でつけたヌカ漬で、ご飯を食べることもあったが、小食のほうだった。
仕事があれば、他の人が起きてくるまでに、週刊誌の連載一本(十七、八枚)ぐらいは軽く仕上げていた。
四十七年四月の喀血後、ここで静養するために書斎を増築することになった。そうなると、早く造ってほしいと思う梶山である。
一か月以内で出来るかどうかと地元の深谷建設の社長とカケをしたところ、深谷さんはわずか二十七日間で完成させた。
喜んだ梶山は二十七日庵と名づけ、作家で平泉中尊寺貫主だった今東光氏に「二十七日庵」の扁額と表札を書いていただき、
書斎のうち外それぞれに掛けた。盗まれやしないかと気になったが、今ほどぶっそうな時代でもなかった。
≪外の「表札」は長い間、かかっていたが、21世紀に入って、無くなっていた≫
やがて、近くの農家杉山さんから借りた百五十坪の畑で、キュウリ、ナス、トマト、枝豆、サツマイモなどの収穫を楽しみに、畑仕事に精を出し始める。
私たちも指導を受けながら手伝う。
健康保持の目的もあるが、「公害問題が世間を騒がしているので、化学肥料を殆ど使わずに、自分で野菜づくりに励んでみようと考えた」からだという(『噂』四十八年八月号)。
昔とった杵柄? 麦わら帽子をかぶり、地下足袋を履いて鍬などを降り下ろす姿はかなり本格的といってよかった。
中学二年生だった美季さんは、亡き父あてに綴った手記「パパ さようなら!」(新評社『別冊新評 梶山季之の世界』追悼号五十年夏号、以下『追悼号』)の中で、こう書いている。
「パパは、伊豆、好きだったね。私は、特別、好きでは、なかったけど。年寄りみたいに、お酒、飲みながら、景色ながめてたね。
畑仕事も、やってたね。伊豆のトマトは、あまくって、おいしかったのに、もう食べられないのかな。
柴田先生と、永井先生との、約束、守れなかったね。パパ、人との約束、守ってたんでしょう? さつまいも、あげなきゃいけないのにね」
両先生とは、柴田錬三郎氏と永井路子氏。死の直前、尾崎秀樹氏が司会するNHKテレビ・市民大学講座「大衆文学を語る」でご一緒したのだが、
それが最後の仕事となった(五月四日収録、放映は死の翌日五月十二日と十三日)。
その際の発言を一部再録する。
「私は作家というのは、よく新しいのをね。というのは柴田さんが『眠狂四郎』を作ったように、クリエートしていかなきゃいけない。
それが、今までの作家の行き方というのは、主人公を作るという行き方をしているわけですね。
そうじゃなくて、私はもっといわゆる社会組織といいますか、機構というものを書いてみようと思うの。
まあトップ屋育ちのせいもありますけどね。そこヘメスを当てなければいけないと」(『追悼号』)
ぴんぴん会はそのころふた月に一度くらい集まる、ごく内輸の会で、伊豆への遠征も年中行事となり、昼間から飲んだり、
ペタンク(芝生に鉄球を転がして点数を競うフランス生まれの球技)で遊んだり、泳ぎに行ったりした。
また、庭の芝生でバーベキューもやった。そんな時、大宅昌さん(評論家・大宅壮一氏夫人)から贈られた、
背中に「噂」の一字を大きく染め抜いたハッピを着て、みんなと楽しげに飲みながら、いかにも寛いでいる梶山の姿が印象的だった。
夜は夫人の手料理で、また飲んではマージャンとドボン(カード遊びの一種)の組に別れ、残ったものは囲碁将棋に興ずる。
夜食のおにぎりを頬張りながら、グラス片手にほとんど徹夜というパターン、飲めない人はいなかった。
亡くなった年の八月にも、「恒例の夏のぴんぴん会(これが最後になるかもしれません)のお知らせです。
八月八、九日の両日、庵主がいなくなりました、伊豆遊虻庵にて、その遺志をついで、昼は畑の手入れ、夜は追善の、
いやお骨を前の(?)マージャン大会を行いたく思います。ご参加をお待ちしております」と、私は皆に案内状を出したものである。
雨の日など仕事の手を休め、大小さまざまなカンバスに、窓から見える景色や、美季さんやソファの背に寝そべるアロ(オスのペルシャ猫)をモデルに絵を描いていた。
壁に貼った大きなカレンダーの裏を使った水彩画には、私たちもイタズラ描きをした。気取らない人だった。
油絵にも手を染めていて、活字とはちがった世界に苦労しつつも、個展を開くんだと、本気とも冗談ともつかず話していたのが現実となった。
五十二年十二月、京橋の東京近代美術クラブで「梶山季之遺作展」が開かれた。案内文は、友人の画家大歳克衛氏(国画会会員)の筆による。
「今度、彼が余技として描きためていた油絵やスケッチ類の展覧会が開かれることになり大変うれしいことです。
……事実、彼のスケッチなどは、素人ばなれした酒落たもので、本当にきれいな線で、当時(九歳)の美季さんの姿体を適格に捉えています。
そういえば、彼の原稿の字もまた美しい線で、格調があったことを想い出します」
このあと、広島では七回忌のあとに、さらに尼崎市立北図書館でも遺作展が開かれた。
別荘地内はバスもタクシーも走っているが、車がないと不便なところ。
「黒の試走車」の作者でも、運転ができない。急坂の多いところで、一人の時は仕方なく自転車を乗り回していたこともあり、
近くに買い物に行った帰りにフウフウいいながら、上り坂を押して来なければならなかった。
車といえば、四十二年春、東京へ帰るとき、私は一家を乗せて伊豆スカイラインを通っていた。
見晴らしがよく、曲りくねったこの道路を、少しスピードを出して運転していると、「ラリーの車より怖いよ!」といわれたものである。
正月早々に、カメラマンの榊原和夫氏とモンテカルロ・ラリーの取材に行ってきたばかり。
すぐさまそれを題材に小説「傷だらけの競争車」を書いたが、私の未熟な運転は、ラリー車が凍りついた山道の急カーブを逆ハンドルで上るのより怖い、とのことだった。
伊豆高原駅から別荘地に入る、メインストリートの両側の桜並木は年々みごとな花を咲かせていた。
「まもなく伊豆も軽井沢なみになるぞ」とよく話していたが、企業などの保養所がいくつも並び、
その後テニスコートや若者向けのレジャー施設や観光客目当の美術館などもでき、年中多くの人が訪れる。
そのあと何度も起こった伊豆沖の地震も、人々に恐怖心を植えつけることはなかったようだ。
同じ別荘地内には、地下にワインの貯蔵庫を持つという田中清玄氏(実業家、社会運動家)はじめ、知人が何人もいた。
この辺りは、すでに幾つもの別荘分譲地が造成されており、近くには田辺茂一氏(作家・紀伊國屋書店社長)や、
また少し離れた山の上に三好淳之氏(銀座「ラ・モール」などクラブ経営者)所有の建物があり、互いに行き来していた。
田辺氏によると、梶山の亡くなった年の正月は、
「伊豆高原の梶山別荘と、私の社の寮が、クルマで、五分ばかりのところにある。毎年、正月の酒盛りが恒例となっていたのだが、
それで今年は、元旦はこちらで、先方に出向き、三日の夜は、私の社の寮でやった。
いつも二人だけだが、今年は、伊東にいる、三鬼陽之助と田中清玄さんを誘った」(「梶山は死んだのである」『週刊読売」五十年五月十一日号』
という。
一年中いつでも行けるのが魅力だと、梶山はこの地を愛していた。眺めもよく、西側の窓を開ければ太平洋、晴れた日には大島も見える。
北は間近に、ゆったりとした大室山が眺められた。
近くの家の桜も大きくなって、春にはみごとに花を咲かせていた。
身内だけのときなど、夕方風呂から上がってくると、「さあ、飲もうや」と私たちに声をかける。
あとは、いつもの調子で、冷蔵庫からビールを出したり氷を割ったり、人のグラスが空になっていないかとのぞいたり……。
テレビを観ながら、夏は扇風機の風向きや蚊取線香に気を使い、冬は石油ストーブの油が切れていないかと、実にマメに動かれる。
私たちが何もやらないわけではないのだが、それ以上に先周り? して、気を遣ってくれる。
“サービス精神”を発揮するのは外部の人たちばかりではなかった。
夜、早い時間には美季さんを中心にゲームやカードで遊んだり、レコードで三遊亭円生の落語を聴いて、
“上げ潮のごみ!”とか、“三つ目のボタン”などと、「風呂敷」の台詞を面白おかしく真似てみたり、
深夜はテレビの名画劇場を見ながら、一時、二時までグラスを傾ける。
ほんとうに強かった。
四十二年の夏だったと思うが、他に男はいなく、たまたま二人で、ビール二、三本を飲んだあと、賀茂鶴の無添加・超特級を冷やで一升、
それにダルマ(サントリーオールド)一本を空けるという“コース”をふた晩続けたことがある。
これは私にとっても記録的なことであった。よい酒は悪酔いしないというものの、到来物の多い梶山家でも、これ以上の日本酒にはお目にかかったことがない。
酒といえば、タバコも手放さなかった。これは最後まで罐入りピース。両切りのタバコを罐から取り出し、
閉じた蓋の上でトントンと二、三回たたいたあと、デュポンのライターで火をつける。
いかにも旨そうにゆっくりとくゆらす、目を細め、ときには深く吸い込む……。
五十年のはじめ、この罐入りピースが店先から消えたことがあり、“梶山季之氏タバコ大幅値上げ前の品不足を怒“った、
と『週刊現代』(四月二十四日号)は報じていた。日本専売公社 (現・JT)の知人に聞くと、理由は葉っぱの不足だそうだ。
なんと二十種類以上もの葉を使ってブレンドするので、どれが欠けても均一のものは作れないのだという。
このころの梶山は若さがみなぎり、気力も充実して、余裕さえ感じられた。いちばん輝いていた時代ではなかったかと思う。
日本酒は自然に、賀茂鶴や酔心など広島の酒が多かった。しかし、あまり銘柄にこだわるほうではない。
昔はよく飲んでいたそうで、このころも季節や雰囲気で口にしていた。
しかし、招待された席などでは礼を失しない程度に、二、三杯口にしたあと、ウイスキーに代えてもらっていた。
今は焼酎も種類が豊富だが、当時はあまり無かった。ある時、梶山グループの中田建夫さんの紹介で、
奄美大島の焼酎「加那」のメーカーに求められて“加那は清洌な味なり 梶山季之”という色紙を書いた。
やがて、その色紙どおりのラベルのついた焼酎が送られてくるようになったが、これはほとんどたしなまなかった。
到来物に、スコッチなど外国産のものも目についたが、本人はほとんど口にしなかった。
もっとも、ブランデーは紅茶にたらすか、夫人のナイトキャップ用になっていた。
ある時、梶山は一万円もするスコッチより、二千円(当時)のダルマのほうを喜ぶと、編集者に話すと、
それはいいことを聞いたと、三千円のコメント料(謝礼)の代わりに、毎回ダルマが送られてくるようになった。
ちょっと雑談のつもりだったが、バレでもしたら「お前は(編集者と私の)どっちの味方だ」と叱られたかもしれない。
ウイスキーの飲み方にも流行があるようで、梶山もストレート→ハイボール→コークハイ→オンザロックス→水割り、と変わってきた。
四十二、三年ごろは、コカコーラで割るコークハイ専門であった。ちょうど小学生の美季さんが“コーラ中毒”にかかっていたころでもある。
この甘いコークハイに付き合った翌日は、必ずといってよいほど、私は二日酔いに悩まされた。
その数年間、仕事をはじめ何をやっても勢いがあり、酒にも強く“月に八○万円飲む梶山季之氏の私生活”(『週刊現代』四十一年三月二十四日号)と誇張して書かれたり、
雑誌『酒』主宰による文壇酒徒番付では四十五年から四十九年度まで西の横綱に選ばれたりした。
四十七年、市ヶ谷の家(季節社ビル)を改築したとき購入したアメリカ製の大型冷蔵庫は、小さな三日月形の氷をつくる。
また広い二階の応接室には、グラスやアイスペールを収納するワゴンがあり、気のおけない客には自ら、この氷を取ってきてオンザロックス、
あるいはミネラルウォーターで割るなどのサービスに努めていた。
昼間、仕事で来られた編集者が赤い顔をして帰ることもしばしばだったが、梶山はいつも平気な顔をしていた。
自らもワインを造った。四十九年秋のことである。
ある企業の招待旅行があり、小石原昭氏(知性コミュニケーションズ代表)のお声がかりで、永六輔氏や久里洋二氏、カメラマンの渡部雄吉氏らとフランスヘ出かけた。
目的地は地中海沿岸のリゾート地。そのときの様子は小石原氏によると、
「毎夜、ルーレットに打ち興じたが、それ以上に彼(梶山)を喜ばせたのは、毎朝の協働自炊だった。
宿舎のあるペルピニアンは、一二世紀マジョルカ王国の旧都、スペイン国境に近い人口一○万の静かな町。
ぼくらは毎朝、鯛・鰯・海老・烏賊・浅蜊・田螺などを市場で買い、蜒々昼まで、にぎやかな朝めしを楽しんだ。
彼はサラダを担当、土地のワインを飲み飲み、『来年になったら、ここでひと月すっかり休養しよう』をくり返した」(『追悼号』)
という。
この旅行に合わせて夫人と美季さんも、ジャルパック・ヨーロッパ十一日間に参加してあとを追った。
ついでに私も急きょ、勤続約八年だからという妙な理由の? 特別ボーナスで同行させてもらった。
待ち合わせたのはスイスのジュネーブ。週刊誌連載の原稿を旅行会社の人に託して、一泊したあと、一家は美季さんをスイスの学校に入れるんだと、
下検分のためアデリア・硲さん(元日本画家の夫人)の案内で、コート・ダジュール、モナコなどを回った。
ピカソが好んで描いたというニースの白い鳩が沢山たわむれるレストランで、シモーヌ・シニョレ(女優、イブ・モンタン夫人)と出会い、
親善の意味を込めてそのほっぺたにキスをしたとか、ブドウ園を見学し、若い娘たちが素足でブドウを踏みつぶすのに感心したり、
パリヘ戻る機内では犬を連れた素顔のアラン・ドロンと一緒になったりした。
日本語の達者なアデリアさんは、梶山に劣らず駄酒落の好きな人で、スイスのレマン湖を「れ・マンコ」などといって、
笑わせていた陽気なおばあちゃんだった。
その後、ルーブル美術館やベルサイユ宮殿、蚤の市などを巡り、親子水入らずの旅行で、のんびりとした時間を過ごせたようだ。
通常のパック旅行(ほとんどが新婚さんだった!)を続けた私はこのあとマドリッド、ロンドンと回り、パリで再び一家に合流した。
そして、写真家の向田直幹さんにベルサイユ宮殿の奥のプチトリアノンに案内してもらったり、やはりパリに滞在していた画家の朝比奈隆さんとは、
ワインを飲みながら中華料理をご馳走になったりした。
日本への帰りは同じ飛行機だが、梶山はファーストクラス。居心地はよいのだろうが、私たちパック組のいるエコノミーのほうが賑やかである。
時々やってきては酒を振る舞ったり、冗談を飛ばしたり……。
やがて、乗り換えのため、いったんモスクワ空港に降りる。二人で空港内のバーに行き飲み物を注文するのに、私はまったくロシア語が出てこない。
「キミ、大学はロシア語専攻じゃなかったのかね」とからかわれて、返す言葉がなかった。
そして、帰国後、毎年私が親戚から送らせていた甲州ブドウを、梶山は二粒、三粒口にしただけで、愛娘にもやらず、
いきなり、ワインを作るんだと握り潰し始めたのである。
四キロほどのブドウはまたたくまに潰され、一升瓶に詰められてしまった。
それを台所の奥にしまいこみ、
「さあ、来年が楽しみだぞ」と、一仕事終えたかのように、冷えたフランスワインを冷蔵庫から取り出し、美味しそうに飲み始めたのだった。
ふだんは白かロゼをよく飲んでいた。仕事のないときなど、市ヶ谷の二階の、居間兼食堂で、昼前から時間をかけて飲んでいた。
ひとり楽しむ寛ぎの時間でもあったようだ。
しかし、ついに自ら造ったワインを飲むことはなかった。
死後五年ぐらい経って、小さな集まりのとき、夫人が倉庫の片隅から出してきた一升瓶を開けて、みんなでおそるおそる飲んでみると、
なんともいえない甘酸っぱい味がした。
私もずいぶんお相伴にあずかったが、休刊していた『噂』を改めて季刊で出そうという話をしながら、白ワインを飲んだのが、最後。 香港で亡くなる十日前の、メーデーの午後だった。
エッセイ「酒と私と友」で、こう述べている(『小説サンデー毎日』四十八年七月号)。
「酒は、友情を深める。
私の知る限り、肝胆相照らしている(と、当人は思っている)のは、酒の上の友だ。
酒は人を裏切るかも知れぬ。しかし、酒の友は、友人を裏切らないと思う。
酒は、自分のためにあるのではなく、友と自分のためにあるのである」
飲まない人を、まったく信頼していなかったかというと、そんなことはない。
四十六年七月から百五十三回、『夕刊フジ』に連載のエッセイ「梶山季之のあたりちらす――女と酒と政治について」でコンビを組んだ挿絵の山藤章二氏はお酒が飲めないそうだ。
しかし、事前の打ち合わせで初めて会って、一度で惚れたというか、信用でき安心して任せられる人だと話していた。
要は、人物次第なのだ。酒飲みをみんな信じていたわけでもないのだから……。
もう一つ、相手の目をちゃんとみて話をしない人間は信用できないともいっていた。 ヤマシイところがあったり、何か隠していることがあるのでは……と。
トップ屋、ルポライター時代に、さまざまな階層の人と会い、独特の人物鑑別法ができていたのであろう。 その取材の心得として、目の前でメモをとっては警戒される、トイレに行く振りをして外でメモをするとか、 タバコも右のポケットには「ピース」、左には「新生」などを入れておき、その時の相手によって吸い分けたという。 取材のコツは同じ仲間、階層だと相手を安心させ、警戒心を与えないことが大事だと、私は助手になって直ぐに教えられたものだ。
たしかに取材では、さまざまな人に会う。直接マンションまで訪ねてくる人もいる。
殺人犯で無期懲役だったが、模範囚として出所したばかりという男から、会ってほしいと電話があったのは、四十三年十一月のこと。
私も先輩について行った。場所は新宿の喫茶店・白十字である。
二十年以上も刑務所にいてシャバを知らない相手は、まず“電気エレベーター”に驚く。
そんな浦島太郎のような殺人犯を前にして、世慣れたはずの先輩の顔は青ざめ、言葉も震えがちである。
殺したのは実は二人だったなどと平然としゃべられると、包丁でも隠し持っていやしないかと、私もなんとなく落ちつかない。
しかし、殺人を犯したのは過去のこと、私たちには関係のないことである。これからは更生して真っ当に生きたい、
ついては少しお金が要るので、自分の話を買ってくれないかというのである。
私は教えられた通り、相手の目を見て話を聞いていたが、また人を殺ったら、一生シャバに戻れないという、その言葉にウソはないと思った。
ただし、この人の話は小説には向いておらす、日の目は見なかった。