「梶山季之」 「筋を通す、手を貸す」その1

インデックスへ    前のページへ    次のページへ


「筋を通す、手を貸す」

“銀座の決闘”

「数年前、梶山先生と銀座のバーで飲んでいるとき、先輩の作家がホステスにけしからんことをした。 ぼくは不愉快になってその作家に詰め寄ったわけですよ。すると、先生もその作家に注意した。 そうしたら、“梶山、そんな口をきくのは十年早い!”と怒って、先生につかみかかってきたけど、先生は毅然とした態度で、 “年齢に関係なく、悪いことは悪い”とピシャリ。 居合わせたほかの作家は、ニヤニヤしているだけなのに、先生はさすがに立派でしたよ。 ぼくはそのとき、勇気ある正義漢とは梶山先生のような人間のことをいうんだ、とつくづく思いましたね」
 これは『女性自身』五十年五月二十九日号“追悼特集・作家梶山季之氏(46)香港で客死!”で、語った俳優・田宮二郎氏の言葉である。
 数年前とあるが、四十一年暮れのことで、先輩作家とは五味康祐氏である(「五味康祐と梶山季之の銀座の決闘」『週刊サンケイ』四十二年一月二日号)。
 同氏がホステスの頭の上からお酒をかけた。髪も着物も台無しになる。無礼であり、営業妨害でもある。 それを梶山が止めようとしたとき、五味氏が飛びかかってきて、先のせりふが出たのだろうが、今度は田宮氏が飛びだした。 同氏は俳優という人気商売であり、その名にキズがつくといけない。 またボクシングをやっていたので、本気で殴りでもしたら大変だと、慌てた梶山は怒った田宮氏を止めるのにも苦労したという。
 田宮氏は三十七、八年に、『黒の試走車』『やくざの勲章』などの梶山原作の映画に立て続けに出演しており、それ以来の付き合いであった。

 このような梶山の資質と文学について、友人の成田豊氏は、「梶山文学は、悪と対峙し、悪をあばき、悪を否定し、葬り去るものであった。 梶山の文学は、悪の宿る病巣に肉薄し、掘り起こしつつ炎天下にさらけ出し、悪を破壊するためのものであった。 その精神は、中学時代からすでに形成されていた。時代なのか、環境・植民地・京城という風土なのか、我々の少年時代は“卑怯・未練”を最も憎み、 “正義・正々堂々”を最高のモラルとしていた。 特に梶山はそれが強く、相手が悪いと判断すると、負けると分かっている大男(当時の梶山はさほど大きくなかった)にでも敢然と挑む正義漢だった。 そして弱いものには、徹底して優しかった」と述べている(徳間文庫『色魔』完結篇・解説、五十七年五月刊)。

『週刊新潮』に「売卜(ぼく)記」という連載があった。 筆者の五味康祐氏は、第十七話“死の凶相”(五十年五月二十九日号)のなかで、梶山の手相には不吉な兆候が必ずあらわれていただろうといい、 そして、「私になにがしかの忠告はなし得たろうにと、この点が心残りである(生前の彼とはほとんど私は会う機会がなく、交際もなかった)と書いているが……。
 これこそ、死んだら負け、の典型であろう。

放っておけ!

 梶山は、ある意味で常識人である。体制的人間であったとも思う。自ら世の中に騒ぎや混乱を引き起こそうとは考えなかった人でもある。
 しかし、先に見たように、権力の横暴や理不尽なこと、筋の通らないことには徹底して抗議したり、抵抗した人であった。 たとえば、四十五年二月、藤原弘達氏の『創価学会を斬る』への出版妨害問題で創価学会系雑誌に対し、作家仲間七名の連名で執筆拒否官言を行っている。
 また、マスコミがいわゆる差別語・差別表現に対し自主規制したり、また抗議を受けると簡単に謝ったりする風潮を、快く思っていなかった。 差別を助長するような表現、人を傷つけるような表現は避けるべきだ。 しかし、いったん口にしたからには、自分の言集に責任を持つべきだと、当然至極の考えの持ち主だった。

 だから、他人の書いたものをウの目タカの目で、(文脈上必要であるにもかかわらず)差別表現だから撤回しろと、徒党を組んで圧カをかける人たちにも、 激しい憤りを感じていた。多くの場合、差別だ!と抗議するのは、差別とは直接関係のない“運動家”であろう。 人の弱みにつけこんで、代弁してやっていると正義の味方ぶる人たちを苦々しく思ってもいた。
 四十六年春、『小説現代』三月号に「ケロイド心中」という中編を発表した。 原爆被災者の女性が実の兄と心中する、近親相姦も絡んだ話だが、梶山と出版社に抗議の手紙(“被爆者からは奇形児が生まれるとの印象を与える……”二月二十一日付『毎日新聞』ほか)が出され、 また『中国新聞』は被団協の一方的な抗議文を載せた(同二十五日)。
 続いて、三月二日、『朝日』『毎日』『サンケイ』『中国』の各紙は、「『梶山季之氏の被爆小説 差別を助長さす』 原爆文献を読む会など抗議」(『朝日』)などと一斉に報道した。 同記事によると、「原爆文献を読む会」は文献を通して被爆者問題を考えようと四十三年に、また同様の趣旨で「原爆を問い続けるグループ」が最近作られたとあり、 前者は世田谷区(会員数二百人)に、後者は川崎市に存在するとある。
 また、地元の『中国新聞』には、こうある。
「原爆被爆体験の継承を目ざす市民グループ『原爆文献を読む会』(会員約百人)は一日、『小説現代』三月号に掲載された小説「ケロイド心中」について、 『原爆―ケロイド―奇形児出産という図式で被爆者を一面的にとらえ、被爆者差別に拍車をかけるものだ』との抗議文を作者の梶山季之氏と発行元の講談社に郵送した」。

 その小説は被爆者たちを傷つけたわけではない、むしろ、彼らの立場で書いたのだどいう著者の真意も伝わらないようだ。では、梶山はどう対処したか。
 同じ二日の『中国新聞』は、「『被爆者の立場で書いた』「ケロイド心中」で梶山季之氏語る」(横見出し)と、次のように談話を載せている。
「広島の被爆者団体の一部から、“被爆者差別”の拡大と抗議を受けている広島出身の梶山季之氏は一日夜、 『観念的な“聖ヒロシマ”的見方では被爆者は救われないと思い、実話に基づき、生身のハダで庶民が感じるヒロシマを書き、 世間の目をいまも続くきびしい現実に向けさせようと思った』と著作の意図を語った」とのリードに続き、 「同氏は『世間の関心が公害に集まり、それに戦後の風化作用が加わって、原爆被爆者への関心が薄くなっている現実に、 被爆者団体からさえ見捨てられている庶民の被爆者の立場で、実話をモデルに書いた作品』」とくりかえす。
 梶山は広島県原水協、同被団協(共産党系)や『原爆文献を読む会』からの抗議文はまだ届いていないが、 「はじめから団体幹部などから抗識があるのは予想していたが、現実を避けてヒロシマを観念的に美化する手法では、 庶民の怒りはどうしようもないので筆をとったのだから反論はしない。枝葉の表現ではなく作品全体をもう一度読んでほしい」と要望している。
“実話”については、「広島の被爆者七家族に五年ごとに会い、三十年たった時、ヒロシマを題材に長編を書こうと思って集めている資料の一部」と答えている。

 なお、広島県原水協、同被団協からの抗議文は、「梶山氏が広島出身であることも考えて、作品を理解しようとしたが、理解出来なかった」として、 「この作品が被爆者差別を広げ、今なお救われない全国二十二万の被爆者に無用の不安を与えている」ことに強い不満を表わし、 「作品にある発育の遅れ、性格のゆがみは原爆とはなんら関係ない」と反発、また、「結婚や日常生活で被爆者差別が生きているとき、 この作品はヒロシマの告発にはならない」と強調し、抗議が無視されれば、重ねて梶山と出版社に抗議するとしている。

 抗議が本当の被爆者からきたのならともかく、梶山は「放っておけ!」と取り合わなかったのだ。 何度か抗議の手紙がきたが、それだけで終わった。彼らは同じころ、子供向けの怪物マンガも槍玉にあげていた。 “抗議者”の真意はどこにあったのだろう。

 当時、梶山は地道に活動している原爆被災資料研究会(中国新聞の担当取締役だった金井利博氏主宰)に資金的援助を続けていた。
「昭和四十四年、金井氏は同志を集めて『原爆被災資料総目録 第一集』を刊行した。一種の市民運動なので、たちまち資金難に陥った。 金井氏自身、私費を投じてもなお悪戦苦闘が続いたが、それを東京で伝え聞いた梶山は「金井さんのためなら……」とかなりの資金援助に踏み切ってくれた。 ただし彼は、広島での原爆被災資料集大成の運動に対し『俺の名は決して表面に出してほしくない』と固い注文をつけたと、 大牟田稔氏(中国新聞社論説委員、現・(財)広島平和文化センター理事長)は証言する(「原爆記者とのつき合い」『追悼号』)。
 梶山には、つまらない“対立”の巻き添えを食ってはかなわないという気持ちが強くあったにちがいない。

 夫人はその遺志をついで、卒哭忌(死後百日)にかつてと同額の寄付をしていることは同会関係者の一人、文沢隆一氏が報告している(「梶山季之の“原爆”」『安藝文学』第三十九号、五十年九月)。
 同氏はまた、「ケロイド心中」に触れていう。四十一年暮れに初めて会って「今でも私の印象に残っているのは、彼(梶山)が広島はあまりにも美しく語られ過ぎている、 原爆はもっと穢くて、卑猥なものだといったことである。 その言葉には、本当の広島を知っている者の真実の響きがあり、梶山が広島で過ごした時期は「まだ焼け跡の匂いが色濃く立ちこめ、広島がもっとも原爆都市らしい悲惨さと無関心の中におかれていた時代」で、 梶山が「広島を去って後、原水禁運動とか、平和都市とかのレッテルがつけられるようになった」という。 さらに、広島の神聖化、神格化が強固となり「本当の広島を書こうとすると、もう一つの作られた広島の強い抵抗に出会う」というパターンができていると、証言している。
 同じ広島在住の岩崎清一郎氏(『安藝文学』同人)も、「いま(「ケロイド心中」を)読み返してみると、この小説のどこが問題視されなければならなかったのか、納得しがたい。 (中略)被爆者の問題をこうした立場――差別問題に絡めること自体が却って“被爆者差別”を助長するという擁護の発言もあった。 このみかたは今日でも肯綮〈こうけい〉にあたる論理とデリカシーの配慮が息づいている」と、のちに語っている(講談社文庫『那覇心中』解説、平成元年十二月刊)。

 梶山は正義漢という以上に筋を通す人でもあった。 頼まれて日本ペンクラブの会員になっていたが、四十七年秋に同クラブが国際会議を主催するとの案内状を出したとき、 多くの作家が資金調達と会議の運営について拒絶反応を起こした。
 たとえば佐野洋氏は、「“皇太子殿下(現・天皇)御夫妻の御臨席を賜り”……案内状にこの文字を見たとき、誇張でなく、私は悪寒に似た感覚を味わった。 ……それは、理屈抜きの、自分でもどうにもならない感覚であった。そして、その瞬間に、私は日本ペンクラブからの脱会を決めた」と語っている (「ペンクラブは蛇の卵か?」『サンデー毎日』十一月二十六日号)。
 寄付を拒否したり、取り返した作家もいた。同誌で、梶山はこう述べている。
「五十万円寄付をする約束はしたが、持っていく気はなかった。……私は“皇太子”うんぬんがなかったら、寄付もしたし、脱会もしなかった。 私たち昭和一ケタ世代は、思想的にというより、体質的に皇室などにちょっとイヤな感じがあるんです。 天皇制の中で育ってきて、それがいっぺんに引っくり返えるのを体験しましたからね」
 そして、「もともと一匹オオカミであるべきだ。私がペンにいたのがおかしいのだ」とも述懐している。
 これは、若き日の心の師ともいうべき郷土の詩人、鉄道自殺した原民喜から届いた遺書「若き友へ」にある“文学とは所詮おのれしかない。 だから師匠につくなんてことは、止めたほうがよい”との教えに従っているという。
「こと小説に関する限り、私は師匠と名のつく人をもたないし、文芸家協会にも入らないでいる。作家とは、一匹狼でよい、と考えるからだ」と、 (『原民喜全集』第二巻、四十四年刊)に、「花の幻」との一文を寄せている。

放っておけない性分

 四十三年六月、韓国人作家の李真變、韓雲史両氏を自費で日本に招待し、東京プリンスホテルで、「韓国作家を囲む集い」を開いた。 (前述のように)のちに梶山の『族譜』をテレビ化、映画化した韓氏には『玄海灘は知っている』などの作品があり、韓国滞在中に世話になっていた。 そのお礼の意味で二人を招待して、五味川純平氏や松山善三氏ら日本の作家との交流を図ったのである。
 韓氏と交際するようになったのは、『李朝残影』の合作映画化の話が持ち上がり、ビデオ・プロの藤田社長と、夫人同伴で二度目の韓国訪問のとき(四十年三月)からだという。
 なぜ“招待”となったのか。梶山の個人的な面倒見の良さともとれるが、それだけではない。 当時も数年前までも、韓国から日本に来るのは容易ではなかったようだ。
 当時の事情について、「その時(二度目の訪問)、李さん、韓さんのお二人の口から、日本へ行きたいのだが、 オール・ギャランティの招待でないと、出国できない、という話がでた。 それで僭越ではあるが、私が滞在費を負担して、文芸春秋杜の池島社長にお願いし、お二人を文春の招待という形式で、来日も願った」のである (「韓雲史さんのこと」『季刊まだん』四十九年八月)。
 ちなみに、梶山が戦後初めて韓国の地を踏んだのは三十八年十一月末のことで、「ちょうどケネディが暗殺され、犯人とされたオズワルドが、警察署の中で殺害された日だった」。 大宅先生とご一緒で、「ロッテ製菓の重光杜長の好意によって、やっと訪韓できた」のだった(同右)。

 四十四年七月のこと、ある社に母校広島大学のドイツ語教授の自選文集の刊行を依頼したところ、見返りに梶山は単行本を二冊出すことを約束させられてしまった。
 それでも、当の羽白幸雄教授によると、「随筆集『点心帖』を出した時、序文も書いてくれ」たり、すべての手配をした梶山は広島での出版記念会まで提案した。 「それは気恥ずかしいので断ると、それでは文芸講演会にしようという事になり、柴田錬三郎、黒岩重吾、田辺茂一の諸氏を引っ張って来て花を添えてくれた」と、 『積乱雲とともに』に記している。
 その原稿は、随筆や学生に与える言葉など、かなり細かいものが多く、分類し並び換える作業を、私は担当の久保寺進さんと何日も続けたものである(四十四年十一月刊)。

 四十七年三月、ポーランドの若い作家、ヘンリク氏を日本に呼びよせ、日本研究の手助けをした。 彼は二年前の十月徳間書店の栃窪宏男氏と東欧旅行をしたときの通訳で、早稲田大学の聴講生として一年間滞在している。
 同行した栃窪氏が、その状況を語っている。
「彼はユダヤ系のポーランド人で、大学では鶴屋南北を研究していた。物静かな学究肌の男で」、気に入った梶山は、知り合ってまだ一日か二日なのに、 「歌舞伎や鶴屋南北の勉強をするんなら、いちど日本に来なければだめだ」、「きみを日本に招待しよう」といった。 「『あんなこといって、喜ばせてもいいんですか』。私が訊くと、『ああ、いいんだ』。 梶山さんはテレくさそうに」いい、同氏は日本に帰ってから大学受入れの手配を依頼されたという。
 やがて梶山はワルシャワヘ航空券を送り、来日した彼を伊豆の山荘や銀座のフランス料理屋などに誘ったが、 「梶山さんはこのことはほとんどだれにも話さなかった。ヘンリクにも、何の代償も求めなかった」(「あるポーランド人との交友」『積乱雲とともに』)。
 市ヶ谷の家に何度もやってきたヘンリクさんは、いつもニコニコしていたが、政治の話はご法度だった。

 四十八年四月から、ハワイの日系三世の歌手、ウェン・林の面倒を見たこともあった。 彼は梶山の京城中学時代の先輩、ハリー・浦田氏の教え子であった。 仕事場に使っていた都市センターホテルの部屋や空いていた自宅のマンションに住まわせ、作詞までプレゼントした。 それだけではない。『小説宝石』の連載対談「こんにちは、梶山です」に招き、それとなく売り込んだりと、面倒見も徹底していたのである。
 しかし、アメリカナイズされた若者は、マンションの瞬間湯沸し器のガス(たね火)が切れただけでも電話をかけてきて、 マメな蔵知君がかけつけることもたびたびであった。

 ところで、四十五年の報知新聞社の争議のときに、他の作家らと労資の間に入り、 「七日、映画監督の篠田正浩さん、作家の柴田錬三郎さん、梶山季之さん、テレビタレントの青島幸男さん、前田武彦さんら文化人、芸能人、 スポーツ関係者二百九人が“報知新聞の労使が話し合いで解決にあたることを望む”とのアピールを発表した」(『毎日新聞』七月八日付)。
 同じ年に起きた光文社争議のときも、佐野洋氏らと日本推理作家協会として事態収拾に乗り出す一方、 『黒の試走車』などの単行本の増刷を一時ストップさせるなどして、会杜側に圧力をかけたこともある。
「ぼくの基本的な立場は、会杜、労組、どちらの見方でもありません。 ……出版社はいかなる場合にでも言論擁護の姿勢を守らねばならぬという当然のことについて、物書きとしてこれまた当然ですが、抗議したまでです」
 新聞に「争議“留め男”で奔走する梶山季之氏」(『東京新聞』七月六日夕刊)などと書かれたころである。

 こんなこともあった。四十五年『別冊文藝春秋』に「ああ、媚薬」を書いてしばらくのち、
「橋本君、これを文春に届けてくれ」と、小さな紙包みを渡された。
 行くと、玄関で待っていた気の弱そうな中年の男性が顔を赤らめ、恥ずかしそうに受け取った。 あとで聞くと、スパニッシュ・フライという媚薬の一種であった。
“スケベ作家”もたまには人助けをするんだなあ!とは、本人のひとりごとである。

友人、そして会合

 週刊誌時代のはじまり、三十四、五年ごろ梶山が、『週刊文春』の創刊時に岩川隆、加藤憲作、中田建夫、有馬將祠さんらを率いて参画し、 活躍したとき彼らは“梶山部隊”あるいは“梶山師団”といわれた。 のちに私たち比較的若い季節社の社員も加わって梶山グループとなり、さらに『噂』発行所の編集者らも交えて、「ぴんぴん会」と呼ぶようになった。
 つね日ごろ、編集者をもっと大事にしなければと思っていた人である。 写真説明でも、作家だれだれ、一人おいて、だれだれとある。 この“一人おいて”がたいてい編集者であるといっていた梶山は、各社の担当編集者と月一回、親睦と勉強会を兼ねて会合を持つようになった。
 四十四年暮れから第三土曜日に集まったので「三土会」。 まだ週休二日制などなかったころで、初期のメンバー(講談社・川端幹三、光文杜・佐藤隆三、新潮杜・初見国興・横山正治、徳間書店・広段勇・萩原実、 文藝春秋・中本洋・堀江礼一の各氏)は中聞小説雑誌の編集者で、いわば梶山番といった人たちだ。
 彼らの日ごろの夢と、梶山の構想が一致して現実化したのが、月刊『噂』である。創刊号の奥付に“編集メンバー 三土会”とある所以である。

 また、この『噂』を母体に「文壇野良犬会」という作家仲間の集まりもできた。
 今東光会長、柴田錬三郎副会長以下、黒岩重吾、藤本義一、井上ひさし、戸川昌子、田中小実昌、野坂昭如、吉行淳之介、山口瞳、陳舜臣、長部日出雄各氏に梶山の十三名。
「野良犬会であるから、会員の推薦で、今会長がオーケーとならば、文士ならば参加できるわけだ。 なにをやるか、その目的すら明確でない会であるが、こういった内輪の会が存在するのは面白いと思う」(『噂』四十八年八月号)。
 今はない四谷三丁目の「とり一」の二階で、シャモ鍋をつついたり、四十九年秋には誰かがゲストに呼んだスプーン曲げの超能力少年Sが、 父親とやってきて、技を披露した。

 藤本義一氏によると、
「その時、酒が入っていたが、梶山先輩は少年に正座で対して、涙ながらにいったものだった。 『君ね、そういうものを見世物にして世間を渡ってはいかん。おじさんは、君のやっていることをイカサマとはいわんよ。 が、見世物ということになれば、イカサマもやらにゃ相手は納得せんことになる。 それはいかん。人生、人を騙してよけれという考えをもってはいかん。やめなさい。これからの人生のために……』
 座は、しーんとなった。少年は頷いて帰って行った。
『そや、それがカジのええとこや』黒岩先輩が呟くようにいって酒を飲んだ」(「梶山先輩のこと」徳間文庫『すけこまし』(下)解説、五十九年八月刊)。
 今会長のいう、悪い冗談、戒名代がタダですむから、みんなに戒名をつけてと、梶山が頼んだのも、この会合だった。

 友人を大事にすることはよく知られていたが、
「私は、かなり天邪鬼的なところがあって、昔から年長者の友しか持たない主義だ。
 なぜなら、同年配の友人や、後輩たちからは、教えられることが少ないからである。 別に打算でそうしているのではないが、早熟のせいか、自然と年長者の“友”ばかりが、増えたのである。
 ところで、文壇以外に眼を転じてみると、私も案外、いろんな分野の人々と、交際していることに気づいて、吃驚している」 (「私の財産たち」『小説新潮』四十二年八月号)と、まず「廿日会」にふれている。
 メンバーは梶山が亡くなった直後に、有馬將祠さんが報告した「梶山季之人脈図」(『追悼号』)によると、 「青木彰(サンケイ新聞)、安藤明子(セントラル病院長)、浅利慶太(劇団四季)、川島廣守(内閣官房副長官)、原文兵衛(参院議員)、 笹原金次郎(東京タイムズ論説主幹)、木村礼子(帝国観光)、吉武辰雄(元警視庁防犯部長)、栗田純彦(朝日新聞)、山科雅子(洋品店・ティファニー社長)、 山口洋子(くらぶ「姫」)。ほかに女優の清川虹子、江利チエミ、金沢の鍔良一(ツバジン)。梶山氏を加えて計十五名」(肩書は当時)であった。
 ずいぶんバラェティに富んでいる。向島や吉原、神田明神下など、花街めぐりとはいえ、女性も多く加わっているのだから、清遊だったにちがいない。
 四十年二月に発足したこの会は、東京に四十八か所ある花街を毎月一か所ずつ回るというのが会則で、一巡したあと解散するはずだったが、その後も続けられ、 夫人も何度か招待されていたようだ。
 メンバーの一人、川島氏(現・セントラル野球連盟会長)によると、「よくもまあ休まずに“粋と野暮”との出会いが何年ものあいだ続いたものだ。 それらのめぐり合いのなかで、一再ならず、静かに盃を交わしながら土地の老妓の語りかけを、じっと顔を見ながら耳を傾け、 ときに頷いている梶さんの姿がいかにも美しいものであった。心の通いあったもの同士の語らいか、親子のそれに似ていた」という(「無常迅速」『積乱雲とともに』)。
 会場の設営は順番にやるのだが、年末は梶山と決まっていて、毎年みんなを喜ばせようとかなり苦労していた。 行ったこともない料亭に電話予約するのは私たちの仕事だった。
 梶山はそんな花街の一つ、中野新橋、とりわけ「尾花」をよく利用し、小説やエッセイにも登場させた。 お客さんの接待場所として、比較的気軽に出入りできたのか、老作家や大書店の社長、韓国はじめ外国の作家、留学生などをお連れしたようだ。

 私も一度だけ、その「尾花」に連れていってもらったことがある。四十二年の秋、何のときだったか忘れたが、午後一家を乗せて車を走らせた。 フラリと出ることなど滅多にないのに、その日は時間のゆとりもあったのだろう。
 いわれるままに、都内を運転して、かつて夫妻がすぐ近くに住んでいた中野新橋近くに着いたのが夕方、橋のたもとの寿司屋でお相伴にあずかった。 食事が済むと、夫人たちを先に帰して、さも当然のように、私についてくるようにいい、くぐったところが「尾花」の門である。 そこが、どういうところか知らない私ではなかったが、よもや……。 上がって、また酒を飲み、その夜の私は何の役にも立たず、せっかくの“好意”も無駄にしてしまったものだ。
 その後の中野新橋は、「昭和四十年代には五十ほどの料亭が軒を並べ、副都心、新宿の裏座敷としてにぎわった花街。 しかし、今では三軒を残すだけだ」(『東京新聞』平成三年三月八日付夕刊「微風」)と、花街としての衰退は著しいらしい。

 このほか、いくつか参加していた会があった。
「広島カープを優勝させる会」は、広島関係の人たちの集まり「賀茂鶴会」や「広島なまりを懐かしむ会」を母体として四十一年に発足したもの。 カープがなかなか優勝しないので、業を煮やした梶山は四十九年春に「カープが優勝したら、全選手を連れて、花街で芸者遊びをするんだ」と宣言したが、 この年も五月ごろまで鯉の滝上りのように元気だっただけ。 初優勝は皮肉にも、梶山の亡くなった翌五十年のこと、後楽園球場(当時)には会のメンバーとともに夫人に抱かれた遺影が、その偉業を称えていた。

「末金会」。生地韓国の京城中学校第三十五期の同窓、成田豊氏、大野康氏、桑垣功氏ら気のおけない数人の集まりで、 月末の金曜日に会合をもったのがその名の由来である。四十四年七月には、みんなで故郷ソウルを訪問している。
 この間、梶山はエッセイに、「京城〈ソウル〉よ、わが魂〈ソウル〉」(『太陽』四十年三月号)、「韓国への郷愁を一週間の旅に」(『旅』四十一年四月号)とか、 『サンデー毎日』の特集“ああこの切ない大陸への望郷”で「瞼の裏を横切っていく京城」(四十六年一月十七日号)などを綴っている。

 友人を大事にするのは、男ばかりではない。
「今撮っているTVドラマの局が梶山さんのお宅のすぐそばなので、香港にいらっしゃるすぐ前までも、 『お茶漬けが食べたいわ』とか『お味嗜汁、用意しておいてね』などと、皆といっしょに、ちょくちょく寄せて頂いて楽しい時間を過ごしたものです」と、 女優の新珠三千代さんは朝日放送『愛の渦潮』(三十六年)以来の長い親交を語っている(『追悼号』)。
 これは撮影が日曜日と重なると、当時は近所の食事をする店が休みになり不便だったこともあるが、梶山は来る者は拒まずのきさくな人だったのだ。 ちなみに、彼女は初期の短編『李朝残影』(四十年、日韓合作映画)にも出演している。

 しかし、時には緊張することもある。 ある夕方、私たち季節社社員が伊豆から帰って来ると、留守のはずなのに玄関に、梶山の靴のほかに見慣れないハイヒールが一足あるではないか!
 夫人のでないのは明らか。いったい誰が来ているのだろう?と仲間で顔を見合わせたが、これも親しい歌手のSさんで、 テレビ局に来たついでに寄ったと分かり、ホッとしたものだった。

前のページへ    次のページへ


お問合せは・・・ kenha@wj8.so-net.ne.jp