一方、何年も前から都市センターホテル・四〇九号室を借り切り、昼間仕事をするというサラリーマン的生活を送っていた。
朝、夫人や私たちの運転する車かタクシーで出勤し、夕方まで書き続ける。
パーティや会合、旅行などがなければ、原稿はホテルのフロントに預け、そのまま夜の銀座へというのが日課であった。
このフロントに若き日の作家森村誠一氏が勤めていて、預かった原稿を“盗み見”ては小説の修行をしたという(「ただ一人のもぐりの弟子」『追悼号』)。
平河町の都市センターホテルは便利な場所にあって、その仕事部屋には編集者や友人など訪れる人が絶えなかった。
電話もひっきりなしになる。梶山は来るものは拒まずで、酒を出したりコーヒーを取り寄せたりと、だれにでもサービスする。
来訪者が酒を飲んでいる間も、ペンを休めることはなかった。
馴れれば、どんなところでも原稿は書けるというが、このころの梶山は仕事も酒も遊びにかけても、人並み外れていたのではないか。
担当編集者もそれを証言する(「“梶山番”編集者座談会・原稿と酒と『三土会』」『追悼号』)。
中本 洋(文藝春秋) 講演旅行の後は、例によってどんちゃん騒ぎになるんだけど。
明け方目が覚めて、梶山さんの部屋をのぞくと、ふとんが上げられ、机をパッと置いて、ビールをその上において、原稿書いてるわけだ。
それが七時頃だから、ほとんど、寝るひまはないわけだよ。
佐藤隆三(光文社) ぼくも講演とか取材旅行にいったが、朝五時というのは知らないけど、二時、三時頃まで飲んでて、
六時頃にはもうあの甲高いセキの声がするんだね。ほんと、スーパーマンだったな。
川端幹三(講談社) それもたまにやるんじゃなくて、毎日やってるわけだから、それはすごかったよ。
書くスピードは、平均一時間に五、六枚(四百字詰め)。モンブランやペリカンなど太めの万年筆で書く、マス目一杯の大きな字は旧漢字交じりだが、ほとんど書き損じがなかった。
万年筆を長く持ち、原稿用紙のやや右下に置かれた手首はほとんど動かさず、ペン先だけが上下するという独特の書き方で、これは書痙(しょけい)にかかってから編み出したものだ。
週刊誌の連載小説は大体一回十七、八枚だから、約三時間で書き上げる。締切りが重なったりすると、一時間に八枚となり、さすがに、つらら(会話体)が多くなった。
四十五年秋、市ヶ谷仲之町へ転居してからも、そのペースは変わらなかった。
何十枚という原稿でも、美濃部修氏(集英社、当時)のようなベテラン編集者は、書き始めた時間を知ると、では何時ごろにはこれぐらい出来上がってますねなどと計算する。
そのとおり大した狂いもなく、原稿を渡していた。
『オール読物』『小説新潮』『小説現代』などの中間小説雑誌は発売日が同じ、つまり締切日も重なるのだが、混乱することもなく、並行して書き分けていた。
脂が乗っているときはすべてうまくゆくのだろうが、もし、スーパーマン(超人的能力者)がいるとすれば、こういう人をいうのではないかと、 広島で三回忌の集まりがあったとき、私は地元テレビのインタビューに答えたものである。
どんなに締切ギリギリでも、引き受けたからには、他人の穴埋めをするだけでなく、要求以上のものを提供する、重宝な人なのである。
「彼(梶山)は、原稿の注文をほとんど断らなかった。そして、締切りに必ず間に合わせた。何でもひきうけるライターはいる。
しかし、何でもひきうけて、みんな間にあわせる人は珍しい。しかも書いたものは一応面白い。
この三拍子揃った物書きとしての機能は、現代では大へんに価値がある。稀少価値ともいえる」と評論家の中島誠氏は解説する
(「梶山季之と現代ジャーナリズム」『追悼号』)。
生前に、先輩ジャーナリストの扇谷正造氏とのこんなやりとりもある。
同氏はマスコミ界の大先輩であり、かつて『週刊朝日』を百万部の大台に乗せた名編集長でもあった。
東京スポーツ新聞等に連載された対談で、月刊『噂』の奮闘ぶりなどに触れたあと、こう梶山を評している
(『表の風に吹かれろ』扇谷正造対談集・第一部「文学・女・人生」作家・梶山季之の巻、産業能率短大出版部、四十七年三月刊)。
扇谷 ぼくはあなたをみていると牧逸馬を思い出す。あと谷譲次と林不忘と三つの名前を使って書きまくって、コンスタントに八十五点のものを書いていた……あなたもよ。
しかし、あなたはこれは遊び、これは勝負と区別して書いていますね。牧逸馬並みあるいはそれ以上でよくもつなと感心しているよ。六十五ぐらいまで…。
梶山 六十五でヨイヨイですか。(笑)
『噂』を発刊して四号目を出した四十六年秋、まだ元気なころの対談である。現実には六十五どころか四十五年の寿命である。
八十五点から始めると、なんだか落語好きの梶山向きのトントン落ちのようではないか。
なお、牧逸馬など三つの名前を使い分けた長谷川海(うみ)太郎は佐渡の生まれ、昭和の初めに活躍した作家で、
それぞれの名で推理小説や「丹下左膳」などの時代小説、「テキサス無宿」などの“めりけん”ものなどを書き分けていたが、
三十六歳の若さで亡くなっている。
ところで、この一年前に『小説現代』から“一人三人全集”の企画が出たとき、トップバッターを引き受けたのが梶山で、 四十五年十月号に“梶山季之一人三人全集”と銘打ち「青の執行人」(企業内幕篇)、「赤い岡っ引」(時代捕物篇)、 「黄運譚」(好色ユーモア篇)が同時掲載された。
当時の編集長大村彦次郎氏が、「鞍馬天狗」のような子供でも分かる時代小説をと、これまでと視点を変えた売り物を作ろうと考えたもので、 これが当たり、以後何人もの作家が“一人三人全集“に挑戦するのだった。
ともあれ、何とか引き受けると、その雑誌には“ハシラ”が立つ。担当者の顔も立つ。
「いやあ、助かった」という安堵の言葉を聞くのも悪いものではない。
ところで、間髪入れず「原稿料は倍額でお願いしますよ」とでも口にすれば、私は立派な作家助手であろうが、それがなかなかいえるものではない。
いや、一度も口にしたことはなかった。
梶山から、ときどき冗談交じりに「キミはいったい、編集者と俺のどっちの味方なのだ?」と、皮肉をいわれたものである。
もっとも、ご本人はいくら原稿料を貰っているのか知らないというか、ほとんど無頓着であった。
「よく私は、ワイフなどにいうのだが、アイウエオでも、イロハニホヘトでもよい、二晩徹夜して二百七十枚( これが私の記録である。私は次号に書く約束であったのだが、有馬頼義氏が入院したため、一週間前に頼まれ、赤坂の旅館で三日二晩、徹夜して書いた。 別冊文芸春秋の“ミスターエロチスト”という作品がそれで、その号の別冊文芸春秋は売切れとなった筈である)を書いてみろ、というのである」 (「小切手と原稿の違い」『問題小説』四十八年二月号)
実はピンチヒッターを務めたのは、これが二度目である。
かなり前の三十六年六月、ある芥川賞作家がノイローゼにかかり、新聞の連載小説が書けなくなった。
アナをあけることができないと、ツテを頼りに、トップ屋をやめたばかりの梶山に白羽の矢が立ち、引き受けて連載したのが「赤いダイヤ」(『スポーツニッポン』紙上)であると、
文芸評論家の尾崎秀樹氏は「『赤いダイヤ』の魅力梶山季之の原点」の中でふれている(『追悼号』)
早くから、ほんとうに“便利な人”だったのだ!
さて、その「ミスターエロチスト」だが、当時『別冊文藝春秋』の編集者だった池田吉之助氏は、あとでこう語っている。
「校了三日前になって、……有馬さんの病状が悪化し、……さあ、どうする。(Y編集長の方針の)三百枚システムを通すとすれば誰に頼むか。
色んな条件に照し合せれば先ず梶さんだろう。だが余すは正味二日。いかな梶さんとはいえ不安は残る。(中略)
『梶さんでいこう』。Y編集長の決で、梶さんの居場所探しが始まる。が、容易につかまる訳はない。
……旅館『N』に立籠もった梶さんは、掘炬燵に足を入れたままの姿勢を少しも崩さず、約束の時間迄に原稿を書きあげてくれた……。
二百五十二枚の原稿には誤字も脱字も消しもなかった」(「正味二日で二百五十二枚」『積乱雲とともに』)
そんな事情の下に書かれたこの小説は、発表当時さまざまに論じられた。その状況を伝えるものとして、二人の作家の見解を並べよう。
まず、山口瞳氏はいう。
「業界には『困った時の梶頼み』という言葉がある。梶山は二日か三日で二百五十枚の小説を書いて急場を救う。
その小説は、当然のことながら、不消化であり、文章は粗雑になっている。しかし、内容は面白い。評判になる。雑誌は売りきれてしまう。
すると、読者は、あるいは事情を知らない他社の専門家(編集者)は、梶山はヒドイ、文章が荒れている、こういうものを書くようになったと言う。
儲かるのは出版社である。梶山は一人で損をする。……」(「男性自身・梶山季之の年齢」)
これが単行本化されるのは、死後二年経ってからである。その時、野坂昭如氏は次のように解説した(光文社刊、五十二年五月)。
「……有馬さんが病いに倒れた。
三百枚の穴をうめるのは、容易なことではない。いや、この日数では、不可能といっていい。
まして、別冊文春は、物書きの注目する雑誌なのだ。誰だって、やっつけ仕事で、評判を落としたくない。
そして梶山がひきうけた。正味二日半で、『ミスターエロチスト』三百枚を、書き上げた、文章が雑である、何もあそこまで書かなくてもといったような、
評言があらわれた、サービス精神のいきすぎ、自滅の道と、梶山に面と向かっていう人もいた。
短い期間に書いたから、やっつけとは限らぬ、あきらかにこの作品は、何年もかかって、梶山が素材をあっため、
おもむろに発酵させつつあったことはたしかだし、今、その取材ノートを拝見して、これはまちがいない。
現在の、性を扱った小説の、あらゆる原形がここにあることを見ても、『ミスターエロチスト』は、先駆的作品である」
執筆は四十二年十一月である。実はその最中に美季さんの私立小学校受験(父母の面接)とも重なり、梶山は途中で抜け出さざるを得なかった。 こればかりはピンチヒッターを立てるわけにはいかない。私たちは送り迎えしたが、それ以外は旅館にこもって徹夜の中、神経を張り詰めた梶山に、 時々連絡や差し入れに行くなど、私たちもかなり緊張を強いられた。これは、このような私的にも緊迫した中で執筆した作品でもあったのである。
一つの作品の原稿枚数について、二百五十枚、二百七十枚、三百枚といくつもあるのはなぜか。
いつも、本人の説が真実とは限らないが、前後のは伝聞によるものか記憶違いかどうか。
ともあれキリのいい“三百枚”というのは、そもそも編集部の注文であり、やや誇張した惹き文句の数字で、正確なのは池田氏がいう二百五十二枚である。
余談だが、この赤坂のN旅館は気のあった作家仲間の定宿で梶山もよく利用していたが、あるとき財布から現金を抜き盗られるという災難に遭ってから足が遠のいた。
およそ三十年前の出版状況の一端を示したが、各誌の下に小説やエッセイとあるのは梶山の作品名である。
さらに少しさかのぼると、『現代』(講談社)は四十二年一月の創刊で、同号にレポート「日本を操る悪徳政商の正体」を発表したほか、
その年小説二本を含め七本を執筆している。これは『宝石』(光文社)が四十年十月創刊号より連載の「日本の内幕」シリーズで評判を得ていたのに触発されたものだろう。
三十二回の内幕シリーズの、ほとんどに梶山は筆を執っている。
このシリーズ企画について、当時編集長だった伊賀弘三良氏(のち、祥伝社社長)は、「梶山さんとの仕事上のお付合いは常にきわめてスムーズだった。
それはいつもこちらが得をし、梶山さんがワリを食っていたからではないか、と後ろめたい気がしてならない。
特に、われながら厚顔無恥だったと思うのは『宝石』の創刊時である」と述懐する。
梶山にそろそろ風格を備えてもらいたいと思っていた氏は、事あるごとに、小説以外の雑文は止したほうがいいですよと忠告していたが、
「『日本の内幕』の成否が雑誌の命運を支配するだろう。筆者は梶山さん以外にないと信じた」。
しかし、先の忠告の手前、「今度の依頼だけはきつかった。エエイママヨ、体当たりで頼みこむしかなかった。
ところが、またも、『いいですよ』と即座に引き受けてくれたのである」。
同氏は、デビュー作『黒の試走車』発刊時の編集長で、その恩義を忘れない梶山は二つ返事をしたのだろうが、
「しかし、さすがにその顔には皮肉な微笑が浮かんでいたし、たまたま傍にいたあの温厚な美那江夫人に
『ホッホッホ、雑文は止めなさい、とおっしゃっていたのは伊賀さんでしたわねェ』と、やられてしまった」そうである(『積乱雲とともに』)。
創刊誌が成功するかどうかは企画や宣伝力によるところも大きいが、小説誌などの場合、ハシラとなる知名度の高い作家や人気者が名を連ねているかどうかにもよるのだろう。 当時、硬派のルポルタージュから“軟文学”まで幅広く活躍していた梶山だが、義理と人情、泣き落としに弱く、ついサービス精神を発揮して、 「やりましょう、やるからには雑誌が成功しなくては」と、“斬り込み隊長”として張り切るのだった。
『週刊文春』の編集者で、「と金紳士」連載当時(四十三年夏〜四十六年夏)、梶山の担当だった中本洋(現・同社宣伝部長)は、
次のように小説のもつ影響力を語っている。
「当時のK編集長は折にふれ、『週刊文春は特集記事で売れる、とぼくら自惚れているけど、本当は梶山さんの「と金紳士」のお陰で売れているのかもしれないよ』と述懐していたものだ。
で、ある時、軽い気持ちで梶山さんに自信のほどを聞いた」ところ、
「『僕が週刊誌の連載をはじめると、必ず十万部は部数を伸ばしてみせるよ』
大言壮語したことのない梶山さんが、マジメな顔でこう言ったので驚いたなあ、実際そのようであったけれど……」
そして、「ふと思う、小説がこんな大きな役割を果たした時代はもう二度とこないのではないか、と。まことに往時茫々の感が深い」
(角川文庫『踏んだり蹴ったり』解説、昭和六十二年三月刊)。
たしかに、その後の中間小説誌の衰退ぶりは著しく、コミック誌などに押されてか、全盛期(四十年代)三十万部だったものが、
最近は平均十万部前後となっている。
自らもいうように、“読者と編集者に奉仕することに、生き甲斐を感じている男”一集英社『巷説 梶山季之――裏から見た梶山読本――』、後出)である。
創刊号には欠かせない存在となり、いつしか“創刊号男”“突破口”などといわれるようになった。
私自身、この雑誌を作った(成功させた)のは梶山さんだと、編集者から直接耳にしたのは『問題小説』(徳間書店、四十三年八月号創刊、隔月刊『別冊アサヒ芸能』を改題)であり、
『週刊小説』(実業之日本社、四十七年一月創刊、隔週刊)である。
『週刊小説』の初代編集長となった峯島正行氏は、新企画についての相談で都市センターホテルに梶山を訪ねた。
それまでの『漫画サンデー』編集長時代に、「梶山さんには……『非常階段』『一匹狼の唄』等の長編小説を連載して戴き、これが雑誌の呼物になった。
そんな関係で、漫画雑誌の編集者だった私が、梶山さんと親しくなっ」ていた。
色々プランを出し相談した結果、「新書判の小説シリーズのプランは、有難く戴いた。これが今日の『ジョイ・ノベルス』となっている」という。
新雑誌のプランは、かつて梶山が「(ある社の月刊漫画雑誌を)なぜ週刊化しないのかなあ」といっていたことをヒントに、
同氏は小説雑誌の週刊化を思いついた。社内でもやろうということになり、「早速梶山さんにその報告をすると、
『そうか、よかったな。そういう仕事をやるとなると、柴田錬三郎親分を味方にせねばいかんよ』といって」面識のなかった同氏を引き合わせたり、
増田義彦社長の設けた席に柴田氏を引っ張り出してくれたという。
「こうして『週刊小説』が創刊されたが、柴田さん、梶山さん、それにお二人の親友であった黒岩重吾さんの連載小説をもって創刊号を飾ることができた。
梶山さんは『週刊小説』の恩人である」と、峯島氏は追悼文集『積乱雲とともに』に一文を寄せている。
梶山は同誌に死ぬまで顔を出し、連載小説を三本書き続けた。
画家の村上豊氏によると、
「ヘンに原稿の内容をまわりくどく説明されることもなく、一言程度いわれるだけです。
一度、マツタケとハマグリを描いておいて下さいなどと軽くいわれたことがありますけれど、そのときはそのものズバリで描きました。
ところが半年もたった頃、同じ絵組みをもう一度もらい、正直弱ってしまいました。
仕方がないのでマツタケは籠にハマグリは皿に入れて出しました」(『巷説 梶山季之』)
原稿が遅れるというのは、梶山だけとは限らない。いよいよとなれば旅館やホテルにカン詰めになったり、はては印刷所で書く作家もいた時代でもあった。
絵組みになっても、編集者をやきもきさせても、梶山がわりあい平然としていたのは、トップ屋時代の経験から、折と締切りの関係を熟知していたからであろう。
また、編集者の個人的都合や、印刷所がどうのこうのという理由で、締切りを一日早くしてなどというのを、不快に思っていたフシがある。
当時はまだ一般的ではなかった週休二日制などという新しい変化にも、なかなか合わせることができなかったようだ。
ドライで利己的な人が多くなった、ベースアップやボーナス闘争などで、人に迷惑をかけても平気なのが多い、編集者気質も変わったなあと、嘆いていたことがある。
そのころ、同じように嘆いていたと、中国文学者竹内好氏に関するコラムがある。
「竹内好が出版労組の盲点をついた発言……竹内によれば、組合は社員の給与や印刷費の上昇に応じて、原稿料の値上げを予算に計上すべく、
団交で企業に要求しないのはおかしいという……」(『東京新聞』四十六年十二月十日付夕刊「大波小波」)
逆に、意気に感ずる編集者を大切にしていた。日く、作家は出版社の看板を見て原稿を書くのではなく、担当者の顔を思い浮かべながら書くのだと……。
心に訴えるものがあれば、○○さんのためならと、原稿の仕上りも早いし、それだけ力もこもっていたようだ。
昭和四十五年ごろ、担当していた雑誌が創刊数年で廃刊という事態を経験したある編集者も、次のように証言する。
「企業が利潤追求のみに血眼になり、一人の編集者の存在など機械の一部ぐらいにしか思っていなかった時代に、梶山さんは常に人間関係を大切にし、
編集者の立場に深い配慮を払っておられた。その時も梶山さんは終始編集者を擁護する立場を鮮明にとられた」と。