「梶山季之」 「教師と作り話」その1

インデックスへ    前のページへ    次のページへ


教師と作り話

作り話

 時には、話の半分も信用しなかったと夫人はいい、美季さんも「パパはウソつき!」とよくいっていた。 作家は実生活でも、フィクションの世界で生きているのだろうか。
 小説は、作者の創造(想像)力により、誇張・美化・歪曲・意外さ・飛躍・トリックなどさまざまな工夫が凝らされているから、読者は虚構の世界にひたり楽しむことができる。
 しかし、思いがけないこともある。長編『悪人志願』には「浮沈六十年」という主人公の書いた伝記からの引用がたびたび出てくるが、これが読者を迷わせることになった。
 小説も面白かったが、「浮沈六十年」をぜひ読みたい。どこに行けば買えるのか、という問い合わせがいくつもあった。 読者の反応に作者はニヤニヤしている。それもそのはず。モデルがいるとはいえ、『悪人志願』は創作であり、「浮沈六十年」ももちろん創作で、作中にしか存在しないのだった。

 ある色紙に「一九七五年三月三日 於巴里 季之」とサインした夫人の似顔絵(スケッチ)がある。 遺作展(五十二年十二月)を見ただれもが、五木寛之氏に似ているといったのは、スケッチされた当時の夫人は病み上がりで、少し頬がこけていた? からであろう。 問題はサインで正しいのは日付だけ。自宅で即興的に描いたもので、パリにはいなかった(前年十月に、一家で滞在したのは事実だが)。

 私も作り話? の現場に立ち会ったことがある。
 ある年配の商社マンの取材に同行したときのこと。 雑談になって、相手が「先生はあちらのほうは相当お強いとか……。奥さんとは何回ぐらい?」と“性豪作家”にストレートに質問した。
 すると、事もなげに「先週は三回で、少ないほうでしたね」と答える。
「さすがですなあ」と相手は感心しきりだが、私は「えっ?」と思った。
 そのころ、夫人は病気入院中である。いったい、いつその“チャンス”があったのだろう?
 もちろん、真偽については確かめる術もなかったが……。

 四十六年秋、『夕刊フジ』に連載中のエッセイで、こう書いている。
「私が嘘をつくのは、ワイフだけでたくさんである。駄法螺を吹いても、他人には嘘をつくまいと心に誓っているのだ。 時代小説を除いて、自分で見聞きしたこと以外は、嘘を書くまいときめている。(中略)みんな足で調べて書いているツルー・ストーリーなのに、 小説だからみんな嘘だと思うんだよな。だから、小説家のいうことを、信じない方がよろしい」(『あたりちらす』)
 ますます、話はこんがらがってきそうだ。

モデルと小説

 小説はもちろんフィクション(虚構)であるが、筆者自身を含めて現実の事件や人物を模したものが多い。 とくに現代小説では、モデルはだれかと読者の興味をそそることにもなる。
 梶山の場合も、人物名を冠するとか、サブタイトルにしたものをはじめ、政財界から市井の人まで、数多くの人物や彼らにまつわる事件・エピソードを小説化してきた。 小説とモデルの関係、エピソードなどを拾い出すだけで、優に一冊の本になるのではないか、それを研究してはどうかと、私をそそのかす人もいたぐらいだ。

 自伝的なものは、四十三年十月講談社刊の『わが鎮魂歌』や「髪結いの亭主」(『別冊文塾春秋』四十五年一月。いずれも作中では、中山俊吉)があるが、 俊吉ものは亡くなる直前に「負け犬」(『小説新潮』五十年四月号)、「人生至る所に」(『小説宝石』同年五月号)、「小説・梶山交遊録 猛宗竹」(『問題小説』同年六月号)と、立てつづけに発表している。
「わが鎮魂歌」は四十三年三月号から半年間、『現代』に掲載された“自叙伝”で、書くのにかなり苦労したと話していた。 しかし、夫人によれば、これは小説でウソばっかりということになる。二人が結婚する前後を中心に、若かったころの話である。 どこがどう現実とちがうのか詳らかではないが、まだ仲間がほとんど健在なのだから、書きづらかったのだろう。

 それ以上に、書くのに苦労したと話していたのが、四十六年春の『別冊文芸春秋』第一一五号に発表した「炎は流れる――小説大宅壮一」だった。 前年十一月二十二日、七十歳で没した同氏のジャワ時代から、戦後のペンネーム“猿取哲”時代までの知られざる側面を描くというのが編集部の注文だった。
 原稿を書き終えた直後、ある会合に出席するというので、私は築地の料亭「金田中」まで車で送っていった。
「昌夫人を始め、関係者で生きている人が多いからなあ、書くのに苦労したよ。それにしても、“白馬会”とは大宅先生もうまく名付けたもんだね」という。 何のことかよく分からなかったが、あとで掲載誌を読んで、白馬とは白人女性のことだと知り、合点がいったのだった。
 これは、同じ月二十五日に自衛隊で割腹自殺した作家三島由紀夫を描いた、林房雄氏の「悲しみの琴 三島由紀夫への鎮魂歌」(同号より四回連載)とならんで掲載されている。

 一口にモデルといっても、いろいろある。女優のシュザンヌ・プレシェットに似ていると自称する東北地方のある若い女性は、 「狂い咲き」(『小説現代』四十四年九月号)と、「現代悪妻伝2 出入り妻」(『小説新潮』四十五年二月号)の二本に登場する奇特な人物であった。
 彼女は春になると、事務所といわず仕事場といわず、やたらに電話をかけてくるので、私たちは一時“岩手のリンゴ”(面識はなく、リンゴを送ってきたので)と呼んでいたのだが、 電話に出た私に、何度違うといっても、「(あなたは)先生でしょ」と決めてかかり、身勝手な長話に付き合わされたものである。

三億円事件

 四十三年十二月十日白昼、東芝府中工場に向かう途中の現金輸送車から、その日社員に支払われるボーナス約三億円がニセ白バイの男にまんまと奪われる事件が起こった。
 当時としては、その金額の大きさ、鮮やかな?犯行手口(爆薬が仕かけられたと、運転手らを下ろす)、だれも傷つけず、東芝も損害を被らない(現金に保険がかけられていた)。 さらに、モンタージュ写真の若い男はなかなかの美男という要素も重なって、事件は日本中の語題をさらい、犯人は“英雄視”までされたものだ。
 事件の翌日、朝十時前、いつものように青山の自宅兼事務所に顔を出すと、すでに岩川さんや中田さんら何人かの先輩が梶山を囲んで、取材の作戦を練っているではないか。 あわよくば自分たちの手で犯人逮捕という意気込みである。分担を決め打合せが終わると、さっそく行動開始となった。 私の知らない、『週刊文春』草創期のころ活躍した“梶山部隊”の復活である。

 事件は初動捜査のつまずきから、捜査は長期化した。推理作家なども動員され、民間人の活躍の舞台は広がった。 犯人像はヘルメツト、映画雑誌などの遺留品から、土地カンのある元自衛隊員、パリに行ったことがあり、映画ファンらしい、ということである。
 私も下働きで加わり、各地の自衛隊に片っ端から電話を入れた。何年か前まで在勤していた該当者を捜し当てようと、気の遠くなるような作業である。 それらしき人物を知っていると聞くと、水戸や浜松まで飛んでいったが、みな空振りに終わった。
 パリ・映画ファン関係では通報者に会いに、銀座や新宿に出向いたが、高い食事をご馳走するだけで、いずれも確たる裏づけがとれない。 獄中からの通報もあったが、取材したのは出所後で、単なる金目当てのものだった。

 これはイケそうだという通報には、先輩について大阪や九州まで飛んだ。 初めてその土を踏む町で、それらしきアジトを探し出すのは並大抵のことではない。
 この経緯は『週刊文春』の特集「梶山家を震櫨した“三億円犯人”情報タレこみ“真犯人はアイツだ“を追跡して」に詳しい(四十四年三月三十一日号)。 文中、記者とあるのは梶山グループの先輩、のちに作家となった岩川隆氏で、H秘書として私も登場している。
 梶山家に通報がたくさんあったのは、真犯人に結びつく情報には賞金を出すといったからだが、自らも取材に当たり、週刊誌に状況を書いたり、 コメントしたり、使った取材費は数百万にのぼったと語っている(『週刊プレイボーイ』四十四年十二月三十日号)。

 この事件は話題性があり、その直後から新聞・雑誌が書き立て、沢田研二主演の映画も上演された。 推理派、社会派作家の多くが競うように、犯人は○○だと推理した小説を発表した(五十年十一月、グリーンアロー社はアンソロジー『推理小説 三億円事件』を刊行)。
 梶山も例外ではなく、「小説三億円事件」(『オール読物』四十四年五月号)を書いている。 さまざまな推理を働かせ、また読物として面白くしているが、ここでは作家助手が端田某として出てくる。 当時流行っていた「帰って来たヨツパライ」を歌うフォーククルーセイダーズのメンバーの名がヒントだろう。
 端田助手は北海道に行ったことになっているが、現実には九州である。 小説(フィクション)とは、このように書くのだという、見本を示されたように思ったものだ。 また、取材で知り合った学生が、事務所のアルバイトにくるという副産物もあったが、犯人はついに捕まらず、五十年十二月には時効も成立し、事件は人々の記憶から去った。
 三億円と聞いても、今ではそれほど驚く金額ではないが、その当時かなり話題となったのは相当の値打ちがあったからだろう。

 同じ時期、梶山は学園紛争の小説も書くことになっていた。
 四十三年一月末から始まった東大紛争、二月二十六日に成田空港阻止集会に反日共系全学連が参加、 四月半ばには不正経理発覚による日大紛争が始まり、学生運動の火は全国の大学に広がった。 翌四十四年一月十八日には、東大紛争を支援する学生や市民が、御茶の水駅前や明大・中大付近の道路にバリケードを築き、 交通マヒを起こさせた“神田カルチェラタン”と呼ばれる示威行動を起こし、同日、警視庁の機動隊員八千五百人が出動して、 東大安田講堂の封鎖解除に向かい、翌日、催涙ガス弾四千発などを使用して封鎖を解除、三七四人が逮捕された。……
 これら一連の運動を題材に「青い群像 小説・全学連」の連載が始まったが(『小説セブン』四十四年六月号〜十一月号)、 なぜか当初から大手の広告会社がからんでいた。といっても、全学連の動きや派閥関係と取締りに関する警察の資料を持ってきてくれたり、 騒動が一段落した翌年四月に、連休明けに警察関係者を集めて秘話を聞く座談会の段取りをしてくれただけであるが。
 その座談会には私もついて行き、メモを取った。全学連の分析は、たとえば六十年代と比較した学生の変質が上げられた。
〔六十年代〕○おおらか ○肩を叩きあえる ○素直 ○勉強している ○可愛らしいなど。
〔六十九年当時〕○陰険である ○下劣(病院に立て籠もる) 〇リンチを加える ○思考力なし ○マスコミを利用する などとあった。
 なお、安田講堂を占拠していたのは、東大生ではなく、ほとんどが地方の学生で、風呂にも入らず薄汚れたまま、男女入り乱れて乱交まがいのことが行われていた、とか。
 梶山はそんな話を聞いて呆れており、筆はなかなか進まなかったようだ。

徹底してやれ!

 ある節分の日の午後、私は後ろの座席に小学生の美季さんを、助手席には入社したばかりの蔵知君を乗せて、フジテレビ近くの一方通行から、 自衛隊・第四機動隊の前の広い道に、右折して出ようとしていた。
 片側三車線のその道は、夕方近くでやや混んでいた。手前の車線の車が止まってくれたので、そろそろと車首を出し始めたところ、 まん中の車線をスピードを落とさず上ってきた白いフォルクスワーゲンが、いきなりバンパーをかすっていった。
 ワーケンはすぐ止まり、中からズボンの片足をまくり上げた中年の女性が(美季さんによればオニガワラのような顔の)、 血相変えて降りてきて、まくし立てた。ぶつけておきながら、どうしてくれるッ!というのである。
 こちらの車の中は覗いても、お怪我はないですか? の一言もないばかりか、はじめから、自分は正しい、被害者だという意識である。 私たちは先を急いでいたので、相手に住所、氏名、保険会社の連絡先を告げ、明日話し合いましょうと別れた。
 幸い、だれに怪我もなく、物損だけですむはずだと思ったが、そうはいかなかった。

 行った先にすぐ電話が入り、警察から、ただちに出頭しろ、と命令口調であるという。お前は加害者、しかも逃げた卑怯もの!と決めつけている。 とにかく、明日行くといって“命令”を拒否した。
 警察では、お前が悪い、相手は常識のある女性で、ご主人は立派な人(某テレビ会社の東京支社長)である。 お前みたいな(ジャンパーを着た)杜員がいて、何をやっているか分からぬ会社(季節社)が何をいうかという図式が、どの署員の顔にも書いてある。
 先方は全額弁償すればそれでいいといっているから、示談に応じろという。しかし、私としては、こんな決めつけ方にはとても承服できない。 何も調べず、一方的に自分が正しいとまくし立てた女性の言い分だけで、ことを済ませようというのではかなわない。
「応じられません。調書をとって、事故扱いにしてください!」
 この一件で、警察というところは、男所帯のせいかまったく女性に弱い、いやアマイということがよく分かった。 一方、私を信用してくれた梶山は、徹底してやれ!と、ハッパをかける。

 調べてみると、その支社長夫人は任意保険に入っておらず、修理屋泣かせ。ケチで、しかも自分は絶対事故は起こさないとう考えの持ち主であった。 こちらの保険会社が、示談にしましょうというのも断わり(双方の保険屋は仲間である)、何度も日比谷の家裁の調停室でやり合った。
 はじめ十二万円ぐらいだった請求額が、やがて八万になり、六万、四万と、どんどん下がる。 いよいよというとき、彼女の調書の一節(横から車が出てくるとは夢にも思いませんでした(前方不注意―)を証拠に出すと、ついに何も要求しなくなった。
 先方の身内には、法律の専門家(検事)がいたのである。
 この間、私は梶山のかの字も口に出さなかった。別にほめられはしなかったが、この時の体験メモを出しておいたところ、 やがて、夕刊紙のエッセイと短編小説の素材(「有閑マダムと少年」『オール讀物』四十七年一月号)となった。 さすが、プロである。

木の芽どき

 川上宗薫氏が、まだ小説(たしか「電話セックス」)を発表する前だった。
 そのころ、梶山家は自宅と事務所・書庫に分かれていて、私たちはマンションの三階の事務所にいた。 私はよく内線で呼ばれて上と下を行き来しており、原稿の受け渡しなどは、たいてい三階で間に合った。 図書の整理には、学生アルバイトや文学青年が出入りしていた。
 ある時、元気に電話の応対をしていた、高校を出たばかりの女性が、受話器を持ったまま黙ってしまった。 やがて電話を切ると、半ベソをかいたような顔をして、「ヘンなんです。若い男の人がヘンなことをいうんです」。
 よく聞いてみると、適当にダイヤルして若い女性が出れば、卑猥なことをいい、相手の困惑ぶりを楽しんだり、 自慰に耽るというような卑劣な行為に及ぶ、気が弱く、女に持てない暗い感じの男が、脳裏に浮かんだ。
 私はこれをヒントに、二十枚ほどの短編を書いて、梶山に見てもらった。

 ある作家の家政婦をしている若い女性が、だれもいないのを幸い掃除の手を休めていると、年若い男から電話がかかり、卑猥なことをいい始める。 彼女を知っている口振りであり、なぜか話に引き込まれる。男は電話の向こうで手を動かしているのか、息遣いが荒くなる。 ふと、彼女はずっと昔、納屋で三つ下の義弟にイタズラしたことを思い出す。やがて、男は「お姉ちゃん!」といって果てる。 「これで、やっとボクも結婚できるよ。ずいぶん探したんだぜ、あのときの復讐をしようと思って……」というのが粗筋。
 ちょうだいした批評は一言、もっと、この“ポルノ作家“について書き込むこと。――私としては、どうしても、遠慮が先に立ってしまう。 だから“作家”の資質に欠けるのか!

 電話といえば、春になると若い人妻からかかってくるのがあった。電話の向こうで、小さな子供がむずかっているのが聞こえる。 彼女は先生に悩みを聞いてほしい。主人との夜の生活が物足りないのだという。たまたま在宅なので、代わりましょうかといっても、 あなたでいいと話し続ける。そのとき私は、まだ二十四、五の独身である。
 朝から、しかも梶山のいる前で、人妻の悩みを聞きながら、相槌を打ったり、慰めたり、まったく冷や汗ものである。 彼女は十分ぐらい勝手に喋ると、気がせいせいしたわと一方的に切ってしまうのだった。
 ところが、翌年も同じころにかかってきた。もういっぱしの馴染みのように気安い。 また代理を務めさせられたのだが、話の内容は前と変わらず、一方的に喋っては切ってしまう。いい気なものであった。
 世の中には変わった人もいるだろうとは思っていたが、現実に遭遇すると、梶山が“奇妙な人たち”や“悪女・悪妻伝”“名人”シリーズを書くのもうなずけるのだった。

前のページへ    次のページへ


お問合せは・・・ kenha@wj8.so-net.ne.jp