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文庫本の解説〈1〉「かんぷらちんき」(徳間書店1983年6月発行)

 『かんぷらちんき』は昭和42(1967)年5月から約1年間、週刊現代に連載され、47年11月徳間書店より刊行された。 少しブランクがあるのは、連載中に"ワイセツ"だとマークされたためと記憶している。
 梶山作品とワイセツ、というより警視庁とのつき合い? は「(41年)5月、『週刊新潮』連載中の『女の警察』摘発される。 一方で、硬派のルポルタージュを執筆し、政財界の悪事を追及しているがためとの噂なり。 以後、同じケースが続く」(「梶山季之年譜」季節社編)のだった。
 私がそんな先生のもとで"助手"として勤め出したのは、『かんぷらちんき』の連載が始まる半年前の、41年11月からである。 知人の紹介で予備知識は少々あったものの、面識はなかった。

 初対面のことは全く忘れてしまったが、間もなく始まったスポーツニッポンの連載コラム「堪忍やでェ 川上監督」で、 "野球の神様"を平然とコキおろすのを見て、神様の虚像しか知らない私は、大変なところに来たと思ったものだ (これもクレームがついて19回で終った)。
 その年の暮、一杯どうだとナポレオンのお相伴にあずからなければ、長続きはしなかっただろう。 "先輩"にはイビられるし、いつクビになるかとヒヤヒヤの連続だったからだ。

 それはさておき、先生は、様々な人間がいるからこの世は面白いと大悟され、数多くの作品を生み出したのだと、今にして思う。
 その一つが、本書や同じころ執筆の『苦い旋律』、『青い旋律』(ともに女性セブン連載、集英社刊)などに顕著な性描写、 同性愛やゴムマニア、被虐趣味などの異常性愛〈アブノーマル〉の世界である。

 これらは、内外の文献を渉猟しただけの、空想の産物ではない。先生は資料をよく調べるのはもちろんだが、 現実にわれわれの身近なところで、そのような世界が繰り広げられているのを、自ら見聞して描き出したのだ (今やこれら異常世界も、専門誌などもあって大っぴらに"正常"となりつつあるが……)。

 私も聞いたことがある。会社では鬼より恐れられているある財界人は、若い愛人のマンションで彼女の汚れた下着を喜んで洗っているとか、 ある大学教授は夜な夜な女装して盛り場を歩くのを無上の楽しみとしている……などと。

 後に、ポルノ作家などと言われるが、根は真面目な人だった。性風俗の種々相を描写してやまないのは、 乙に澄ましている人の鼻を明かしてやれというよりも、知り得たことは何でも読者と分かち合いたい気持が強かったからだ。 その表現が懇切丁寧? なのは、多分に教師的性格からであろう(旧広島高師出身で、実際に教壇に立ったことがある)。

 また、直接小説のテーマには関係ないが、本書でも「そのアパートは……四畳半で三千円、敷金二つ、権利金なし」とか、 「支出・ラーメン代・50円。……」、「学生アルバイトとして時間給百五十円」、「いま東京で一番の大工が、日給二千七百円」などと、 具体的な数字が至るところに見られ、いつ読んでもその時代が手にとるように分かる。

 これは、庶民の生活を記録として残そうという年来の考えからで、亡くなる直前(昭和50年4月) にプランを練った季刊『噂』用の巻き物(目次)にも、 それをうかがうことができる(別冊新評「梶山季之の世界 追悼号」)。
 ちなみに、私の初任給は2万5千円で、これは中小企業の大卒の初任給という、歴とした根拠のあるものだった。

 物書き志望というだけで、この流行作家の事務所へ入った私は、電話番から新聞の切り抜き、書庫での資料整理を主な仕事としていたが、 時たま車での送り迎えをして点数を稼いで? いた。 というのは、このころ月に1回、50枚ぐらいの原稿(本人は小説のつもり)を書いては見てもらってはいたが、 皆目評価の対象になっていなかったからだ。

 助手の仕事は、デスクワークだけでなく取材もあった。たとえば三億円事件(43年12月)では先輩について地方に行ったり、 犯人像の割り出しに各地の自衛隊に何十本もの電話をかけたりした。 あるときは十年ぶりに刑務所から出てきた殺人犯(エスカレーターを知らなかった)に会いに行ったり、 "銀座警察"の関係者には先生の代理で会ったこともある(『銀座遊侠伝』文藝春秋刊)。

 そのころにはだいぶ馴れてはいたが、最初の取材には戸惑った。なんと、カルーセル麻紀のインタビューである。 有名人に会うのは初めてだと本気で尻込みし(すでに有名人の家にいることも忘れて)、 男か女か分からない相手では気持が悪いと……。しかし、仕事である。ここを突破しなくては、物書きへの道もなくなる、 と悲愴な? 決意で私は高級ウイスキーを2本持って、六本木近くの"彼女"のマンションを訪ねたのだった。

 そんな私だから不安があったのだろう、先生は20数項目にわたる質問事項を書いて渡してくれた。 曰く、家庭環境は? いつから女になりたいと思ったか? 男性遍歴について? 今までどういう生活をしていたか?  地方での思い出、苦労や後悔をしたことはないか? などと細かいものだった。

 当時、24、5歳の私と同年の"彼女"は、はるかに大人だった。小柄で色白の肢体をなまめかしいネグリジェに包んで、 初心な私には自慢の入れ墨など見せてはくれなかった。 カラッとした男っぽい気性なのに、どうして男しか愛せないのか不思議な気がしたし、 それが分からないでは取材は失敗ではないかと不安だった。

 やがて、『実名小説 カルーセル麻紀』は、43年7月創刊号の小説セブンに掲載された。 いくつか、取材原稿が使用されたのを発見して、私はひとりホッとしたものである。

 二度目の取材は、東京拘置所(今はサンシャイン60で、もう跡形もない)に未決収監されている女性で、 今度は女性しか愛せないというのだからややこしい。詐欺で捕まったのだが、先生にハガキを寄こして曰く、 先生の小説は間違っている、女同士の気持はあんなものじゃない、私の体験を教えてやる、云々。

 『苦い旋律』などのために、若い女性の恋人同士に5万円を払って、実演? を取材した先生としては後に退けない、 キミ、行ってきてくれと、私は再び、異常性愛の取材行となったのだった。
 拘置所に行くのは、もちろん生まれて初めて。受付は朝8時からで、面会は1日2人までと制限があった。 身内ではないし、面識もない相手に、ハガキ1枚持って会いに来た私に、看守は好奇の目をそそぐ。

 "梶山季之 助手"という私の名刺を見て、"カジヤマトシノスケ テ"と読んで首をかしげている。 作家の助手だというと、ヘぇ、そんな職業があるんですかと聞く。 今でこそ作家が事務所を構え、助手や秘書を置くのは当たり前となっているが、当時は看守でさえ? 知らない職種だった。

 その中年の女性は男のような髪型をし、わしは下着まで全部男物だと自慢していたが、金網越しには確かめる術もない。 女はおろか、男の同性愛にも興味がない私は、短時間にまくしたてられて何も理解できなかった。
 帰って簡単な報告はしたが、彼女は詐欺師らしく、方々に売り込んでいたことが分かり、一行だに素材とはならなかった。

 こんなこともあった。やはり、身の上話を聞いて欲しいという若い男に会いに行った。 外見は全く識別がつかないが、ホモだという。お金が欲しいから、自分の体験談を小説の材料として買ってくれというのだ。
 ホモ友だちには、今を時めく歌手やタレントのだれそれがいるなどと実名を上げるのだが、 大して値打ち? のある話とも思えない。私に全くその気がないからかもしれないが、相手が熱心になればなるほど、 白けるばかりである。

 2日にわたって数時間つき合わされたのだが、別れ際に男はガッカリしたように、ポツンと言った。 「あきらめました。橋本さんは"仲間"じゃないですね」
 "虎穴に入らずんば虎児を得ず"とか――小説を書くだけでも大変なのに、取材はそれより難しいと改めて悟ったのだった。

(昭和58年5月)


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