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文庫本の解説〈2〉「ニッポン一匹狼」(角川書店1985年3月発行)

 梶山先生の作品には海外に題材をとったものが数多くある。 この春(1985年)封切の映画『カポネ大いに泣く』(角川文庫版)もその一つである。 そして、本書に収められた小説のように、海外で活躍する若い日本人の心意気を描き、彼らに限りない愛情をそそぐ。 それは多分に、ハワイ生まれの母を持ち、自らも京城(現在の韓国の首都ソウル)生まれであることと無関係ではないだろう。

 題材を海外に求める以上に、先生と外国旅行は切り離せない。最初は昭和38(1963)年、大宅壮一先生との韓国訪問で、 40年には美那江夫人と自作『李朝残影』の合作映画化(日本未公開)のため、ソウルを訪問している。
 本格的なのは同じ40年8月から2か月、ハワイ・ブラジル・メキシコやアメリカ西海岸への一人旅である。 日系移民の取材が目的であったが、出発前からいろいろと苦労があったようだ。

 当時、持ち出せる外貨は今のように無制限ではなく、500ドル(1ドル=360円)という厳しい時代。 3000ドルを必要としたので、その申請をした。五省会議(大蔵・通産・外務・経企・文部)が毎週火曜に開かれ、 ここで審査を受ける。旅行代理店が本人に代わり、渡航理由書を作成、前週の木曜午後3時までに日銀に届ける。 土曜・月曜は各省をまわって担当官に補足説明して何とか希望通りの外貨持ち出し許可を取りつけた。 「まるで代書屋のようだった」とは、以来ずっと先生の渡航手続きを担当したKさんの述懐である。

 翌41年9月、先生は大宅考察組(他に青地晨・三鬼陽之助・草柳大蔵氏ら十数名)の一員として、中国各地をまわり、 紅衛兵らと議論をたたかわしたなどというニュースを新聞や雑誌で知った。 やがて11月、ひょんなことから私は先生の事務所に"作家助手"として勤めることになった。 まだ、大学を出たばかりの世間知らずであった。

 その年の夏ごろだったか、私は『なせばなる』という渥美清扮する旅行代理店の男を主人公としたテレビドラマを見ていたが、 それが先生の原作で、モデルがKさんであると知ったときにはちょっとした驚きであった。 以来、Kさんの会社に何度も足を運んで、先生の手続きをしてもらったものだ。

 42年1月にはモンテカルロ・ラリーの取材、6月大宅考察組として、今度は東南アジアへ。 43年1月台湾、2月バンコク、9月には大森実氏の「太平洋大学」でアメリカへ。しかし、台風のため帰国が遅れ、 『小説・太平洋大学』の第1回原稿をヘリコプターで吊り上げ、締め切りに間に合わせるという前代未聞のハプニングがあった。

 旅行から帰れば、一と月と経たないうちにその見聞や取材の成果が、小説やエッセイとなってあらわれる。 本書の『海師ボルギュウ』などがまさにそれである。

 また、エピソードや土産話は面白おかしく披露してくれた。
 パリのレストランで食事のとき、「勘定してください」はフランス語で「アジシオン・シルブプレ」というから、 アジシオといえば通じるよと同行の友人に教えたんだ。友人はアジシオ、アジシオと口の中でくりかえしていたが、 いざ支払いの段になって、いささか酔っ払っていたのか、「アジノモト・シルブプレ!」って叫んで困ってしまったよ、などと。

 韓国やホンコン・マカオは毎年のように出かけ、45年10月にはソ連・東欧圏も訪ねている。 アメリカ、特にハワイには友人知人が大勢おり、一家で何度も行くほどなじんでいた。 ちなみに、没後、ハワイ大学図書館に「梶山季之記念文庫」が特設され、7千冊余の蔵書がそっくり保管され、 国内外から利用されている。

 先生はハワイの若い歌手を日本で売り出そうとしたり、ポーランドで知り合った作家を私費で招いて1年間面倒を見たこともある。 日本人ばかりでなく、外国人にもあたたかい目を向けていた。国際親善などというのではなく、その心意気や意欲を買い、 一肌脱ごうという気になったのだろう。

 助手の仕事は電話番や資料整理などさまざまで、事務所にはいつも2、3人いたが、私は週刊誌の連載小説などを出版する前のゲラを随分読まされた。 ときどき細かいことを見つけては、いかがでしょうというのに、先生は滅多にイヤな顔をされなかった。
 外国の話などは、風俗・習慣や民族、地名人名、それに通貨の単位などに神経をつかったが、その分、 まだ見ぬ土地を知ったような気になったものである。

 49年は夏に一家でハワイに遊び、10月には同じくヨーロッパへ行くことになった。先生はある招待で先発し、 夫人とお嬢さんは途中で合流するのである。ついでというか、先生は「キミはうちに来て何年になる?」と聞かれた。 「およそ8年です」「じゃ、特別ボーナスだ。キミも一緒に行けよ」ということになった。

 すでにJALパックに移っていたKさんに、都合のよいツアーを頼んでいたのだが、その時出発まで一と月もなかった。 私は初めての海外旅行だし、語学がからきしダメなので(大学ではロシア語をやったことになっていたが)、 簡単な英語・フランス語の会話集を買い、通勤の電車の中で必死に? なってやった。

 いざ出発。なんと35人の団体のうち新婚さんが13組、あとは親子、老姉妹や友人同士、ホテルは2人1組なので、 見知らぬ者同士でもペアにされる。添乗員も2人である。私は申し込みが遅かったため、一人だけはみ出した(ホテルでは寂しかったなあ!?)。

 先生とは4日目、ジュネーブで落ち合い、週刊誌の連載1回分の原稿を受けとり、日本に帰る旅行者に託した (旅行中はときどき、日本の留守宅に国際電話を入れるのも、私の仕事だった)。
 翌日から先生一家はニース、カンヌを経てパリへ。私は新婚さんにアテられながら、マドリッド、 ロンドンを経てパリへ向かった。

 どこへ行っても日本人が多く、金払いがよいせいか、土産物屋の店員はかなり上手に日本語を話す (折角、勉強していったのに!)。お人好しの日本人は気をよくして、財布のヒモがさらにゆるむというわけである。
 無事パリで落ち合い、日本人の写真家にベルサイユ宮殿の奥のプチ・トリアノンに案内してもらったり、 先生の友人の画家とはワインを飲みながら中華料理をごちそうになった。

 帰りは同じ飛行機だが、先生はファーストクラス。居心地はよいのだろうが、エコノミーの方がにぎやか。 ときどきやってきては酒を振るまったり冗談を飛ばしたり。いったんモスクワ空港に降りる。 空港内のバーで飲み物を注文するのに、ロシア語が全く出てこない。 「キミ、ロシア語専攻じゃなかったのかね?」と先生にからかわれて、返す言葉がなかった。

 この旅行前後から、先生は十数年あたため、"ライフワーク"となるはずだった移民・原爆・韓国をテーマとした大河小説『積乱雲』に取りかかっていた。 翌50年春にはもう一度ハワイに念押し取材に行き、休む暇なくホンコン・マカオへも取材に出かけた。

 誰が予想したであろう。これが最後の旅立ちとなり、5月11日早朝、夫人とお嬢さんにみとられながら、 わずか45年の生涯を閉じてしまった。
 翌日私は、先生の遺体を迎えにホンコンに飛んだ。

 仕事半ばにして逝ってしまったのは、さぞ無念だったことと思う。 しかし、"足で書く作家" といわれ、取材精神旺盛だった先生の顔は、まるで眠っているように安らかだった。(1985年)

 〔収録作品:ニッポン一匹狼(「夕刊ニッポン」昭和48年10月11日〜49年4月16日)/ 俺は歩いてゆく(「小説現代」昭和48年2月号)/海師ボルギュウ(「別冊文藝春秋」昭和42年10月)〕


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