まもなく昭和63(1988)年も終ろうとしているが、およそ20年前の社会はどういう状況であっただろうか?
この『青い旋律』は、昭和44年7月から12月まで「女性セブン」に連載された。
梶山先生が、これに先立ち同誌に執筆した『苦い旋律』(42年9月〜43年7月、集英社文庫所収)が大反響を呼び、
読者から"異常"性愛に関して数多くの手紙が寄せられたため、『浮世さまざま』と題して、男性を含めたそれらの悩み、
告白に答えるエッセイも引き続き連載された(43年7月〜同12月、集英社版『性科学XYZ』所収)。
つまり、本書は前2作とともに、当時の性風俗を中心とした社会状況の一端を伝えているといえよう。
性風俗は、表面に現れて社会現象となるものと、一部の好事家、いや趣味(マニア)の世界で密かに行われるものとがある。 前者は流行、すなわち世の多くの人々は顔をしかめるが、とくに若者がよくも悪くもそれに染まって行き、やがてすたれる……をくり返す。
20年前をふり返ってみると、先のソウルオリンピック後の韓国の状況と同じように、昭和39年の東京オリンピックを契機に、
日本の経済は活発化し、社会は一見"成熟"の様相を呈し、「昭和元禄」などといわれたが、やはり様々な歪みも生じた。
外ではベトナム戦争が激化、軍事介入したアメリカの若者たちは戦場に狩り出され、
彼らは恐怖や厭戦気分からLSDやマリファナに手を出す、それが日本に上陸して流行し始めた。
ザ・ビートルズの初来日(41年)で、エレキギター・ブームに拍車がかかり、3C(カラーテレビ、カー、クーラー)
が新3種の神器といわれるほど生活も向上するが、車の増加にしたがい、交通事故も多発化。
新たに9月15日(敬老の日)、10月10日(体育の日)と祝日が増え、余裕が出始める一方、
最近のリクルートコスモス事件ではないが、「黒い霧」などと呼ばれる一連の汚職や腐敗事件も相次いだ。
42年に入ってもベトナム戦争は相変わらず(この戦争を知らなくても、枯葉剤による? ベトちゃん、ドクちゃんの悲劇はご存知だろう)、 中東戦争も始まり、国内ではイタイイタイ病、四日市ぜんそくなどの公害病が深刻化し、 若者の心のスキをつく原理運動も社会問題化、その反面、ツィッギーの来日でミニスカートが大流行、 新宿の「アングラ」(地下街)を中心に「フーテン族」が出没し、翌年にかけてシンナー遊びが激増し、 年間で死者が42人も出、1万人以上の少年たちが補導されるありさま。
43年は"明治百年"にあたるとして、日本武道館で大々的な記念式典が行われるなど、やや復古調。
しかし、天下太平の世の中に不満分子もいる。学園民主化をとなえて東大紛争、日大紛争が起こり、成田空港阻止集会も始まる。
12月の「東芝ボーナス強奪」の三億円事件は、世の"喝采"を浴び、犯人(いまだ不明)は英雄視されるのだった。
流行語も、「ハレンチ」、「ズッコケ」、「サイケデリック」などのほか、「ゲバルト」(闘争)と「ノンポリ」など政治的、
あるいはアンチ政治的と入り乱れる。
44年、アメリカ全土でベトナム反戦デモが広がる一方、宇宙飛行船アポロ11号が初の月面着陸に成功、 目を宇宙にまで開かせる。国内では新宿西口地下広場を中心に、反体制フォークソングが流行するが、 キャッシュカード、2ドア冷蔵庫の登場と生活も豊かに。パンタロン、マキシコートの流行で、男女の区別がますますつかなくなる。 はやり言葉は「ニャロメ」、「造反有理」、「やったぜ、ベイビー」、「オー、モーレツ!」。
以上見てきたのが、オモテに現れた現象とすれば、本書などに出てくるのは、ウラの世界といえようか。 この小説を書くにあたって、先生は「小説家の仕事のひとつは、現代の隠された病根、風俗、流行などを、読者に伝えることである。 少なくとも私は、他の作家に先駆けて、そうした新しい材料を、読者に提供してきたつもりであるが、 ふたたび本誌に執筆するにあたって、恰好の新材料を得たと自負している。――」と述べている。
人間の隠された一面、すなわちホモ、レスビアンの同性愛、サド・マゾ、フェチシズム、女装癖など、いわば倒錯、
アブノーマルの世界である(当時、24,5歳で先生の助手をしていた私には、資料整理だけでも刺激が強すぎた!)。
本書は、人間の性欲には男女間の正常な性愛だけではない、様々な形があることを教えてくれる。
大方の人からすれば、いずれも異常、嫌悪すべきものかもしれないが、たとえば男の同性愛。
アメリカでは離婚の慰謝料が高額なため、ホモが大はやりとなり、近年は同性愛好者の団体が、市民権を! とデモを行うなど、
堂々とオモテ社会に進出しているようだ。
日本でも当時すでに、映画関係者、音楽家、芸能人などの何人かが噂されていたし(ゲイは身を助く)、
男社会だった旧軍隊、あるいは自衛隊、刑務所などではしばしばあったようだ。
歴史的にみれば、若衆、稚児、陰間など、主として美少年を愛する言葉が残っており、「男娼」さえもある。
女性同士(レスビアン)の場合も、レスポス島の女流詩人サッフォーの故事にその語源があるように、
ギリシア神話の時代からと、これまた歴史は古い。
同性しか愛せないというのは、それぞれに原因、キッカケがあるのだろうが、最近のエイズ騒動のように、
死に至る病の主原因が同性愛にあるとなると、他人ごとながら気になるところである。
一方、SM(サディズム・マゾヒズム)――いずれもサド侯爵、マゾッホ博士と、その名の由来が存在する――はどうか。
虐められたい、虐めたいという性向は、人間だれしも多少なりともあるもの。たとえば、コトバによって他人をいじめる、
小動物をもてあそぶ、あるいは好きな先生から叱られたくて、わざとイタズラをする……。
しかし、それが高じて性的に満足を得たいと行動に移すのが、SMなのであろう。
そういう人たちは自ら、正常ではない、恥ずかしいと考え、隠れて行う。
つまり、"趣味"の世界で同好の士同士で密かに愉しむものだろう。
ところが最近は、「S=○万円、M=○万円」などと週刊誌やスポーツ紙の広告にあるように、SMプレイ、
"商売"として流行っているのだ。
新風営法の施行(1986年2月)で、ソープランド(かつてはトルコ風呂といった)の営業も難しく、ホテトル、
マンヘル、ファッションマッサージなど新手の商売とともに出現したものらしい。
にわかSM愛好者が増え、中には責めの七ツ道具を片手に、男の待つホテルに出張する女性もおり、金銭トラブルからか、 "プレイ"に満足できなかったからか、今年(1988)に入って何件かSM嬢が殺害される事件が起こっている。 SMプレイを売春の隠れミノにしようというのは、同好の士からみれば"邪道"であろう。
フェチシズム――ハイヒールや下着など、女性が身につけていたものを愛好し、自らの性のはけ口を求めることらしいが、
これも近ごろはソープ嬢から汚れたパンティがプレゼントされたり、アダルトショップで売られているという。
自分の好きな○○さんのモノを愛するというならともかく、どこの誰のものでもよいというのは――趣味の世界は、
もう少し純粋、高尚? なものではないのだろうか。なんとも理解しかねる。
このほか、20年前にはあまり聞かれなく、最近はやっているのは夫婦交換(スインギングとかスワッピングという)であろうか。
なお、スワッピングとはもともと、「スワップ取引」などと国際経済用語である。
そして、不倫、フリン――かつては三角関係といったり、男社会らしく女性は二号さん、日陰の女などと下位にあったが、
今では自立する女、非婚の時代、男女平等というよりは女性上位の様相を呈している。
それかあらぬか、男が化粧する時代、男性専用の美容院も目につく。
かつての管理売春はダサく、テレクラが大はやり、ここでも女が男を殺す――世紀末という言葉があるが、 これでよいのだろうか? などと慨嘆しては見たものの、時が移り、形が変わっても、男と女のいる限り、 しょせん人間の営みに大差はないということかもしれない。そういう観点から、この小説を読んでみるのも一つの方法であろう。