「彫辰捕物帖」の連載が週刊読売で始まったのは1970年(昭和45)10月23日号で、1年の約束が好評だったため、 3年以上つづき、156回を数えた(73年10月27日号まで)。
梶山先生が時代小説に手を染めたのはかなり初期のことで、松尾芭蕉がモデルの「合はぬ貝」(1955)や
頼山陽を題材とした「雲耶山耶」(1961)などがある。
しかし、その後は朝鮮もの、社会派・推理もの、さらに風俗小説などで幅広く活躍していたが、
この年(昭和45)の夏ごろ小説現代編集部から風変わりな注文が来た。
やがて、その10月号に梶山季之一人三人全集と銘打ち「青の執行人」(企業内幕篇)、「赤い岡っ引」(時代捕物篇)、
「黄運譚」(好色ユーモア篇)が同時発表された。
当時の大村彦次郎編集長は、「鞍馬天狗」のような子供でも分かる時代小説をと、
これまでと視点を変えた売り物を作ろうと考え、まず先生に依頼したところ、企画は見事に当たり、
以後何人かの作家が"三人全集"を書いているという。
これは昭和のはじめごろ活躍した大衆作家長谷川海太郎が、牧逸馬、林不忘、谷譲次とペンネームを操り推理小説や、 「丹下左膳」などの時代小説、さらに「テキサス無宿」などのめりけん・じゃっぷものを巧みに書き分けていたというひそみにならった? ようだ。
ところで、この年9月、先生一家は青山のマンションからフジテレビそばの市谷仲之町に新築した3階建ての家(季節社ビル)に引っ越している。
先生は、75年(昭和50)に亡くなるまで、この家にわずかしか住まなかったが、執筆活動は本書『彫辰捕物帖』で新境地を見出したほか、
相変わらず精力的に注文をこなしていた。
名前こそ一つだが、長谷川海太郎流にいえば、『銀座遊侠伝』(文藝春秋刊)、『見切り千両』(講談社刊)、 『現代悪妻伝』(新潮社刊)、『名人にて候』(徳間書店刊)、『カポネ大いに泣く』(講談社刊)など時代もの、 社会もの、事件もの、艶笑もの、アメリカものなど幅広いジャンルにわたっている。
また、このビルに発行所を置き、71年(昭和46)7月から自費で月刊『噂』を発行し、 作家、評論家などの人物を中心に出版界の"活字にならなかったお話"を紹介していたが、 74年2月石油ショックなどの影響も受け32号をもって休刊となった。
季節社は先生の仕事のマネジメントなどを業とする会社で、社長は美那江夫人、 われわれは"梶山事務所"からそのまま"社員"に移行したのだった。 設立は69年11月で、今年(1989)めでたく20周年を迎えたレッキとした株式会社である。
人は死んでも名を残すではないが、季節社ビルは健在である。とはいっても、この10年近く他人に貸していたので、 元のように修復させるには、かなりの手間ひまがかかるようだが、新装なったら、盛大に? 記念行事を行う計画もあるとか。
このビルに先生たちより早く引っ越したものがある。ビルの一階に大きなスペースをとった窓のない部屋があり、 ここに大量の蔵書が収納されたのである。青山のマンションで書庫用に借りていた部屋が手狭になったこと、 それまで長年あたためていた構想に本格的に取り組もうと、心機一転をはかったのだった。
資料は朝鮮関係をはじめ、移民・原爆関係から、政治経済・事件・風俗・歴史・国際問題など多岐にわたり、
雑誌を含めると1万数千点にのぼった。この中には小説や随筆などは含まれておらず、最終的には約2万点に達していた。
今それらの蔵書のうち、朝鮮・移民・原爆関係を中心に約8千点がハワイ大学図書館に"梶山季之記念文庫"として収められ、
「新青年」などの雑誌約4千点をはじめ、司法・捜査・軍事や文壇関係など6千点余が大宅壮一文庫に寄贈された。
さて、本書は江戸時代に材をとり、刺青師・彫辰を主人公に殺人事件などのナゾを解く推理小説だが、
同時に当時の日本の状況、社会風俗を活写し、かつ現代人にも通じる性にまつわる欲望、変わった嗜好などを紹介している。
刺青を彫ってもらうのは一種の被虐趣味(マゾヒズム)だろうが、
最近では若い女性の間でファッションとして流行っているというのは理解に苦しむ。
読んでお分かりのように、先生の小説の多くは、とくに性に関して超人的な主人公を活躍させ、 読者の願望・征服欲などを代弁し、一方でストーリーを損なわない程度に、性をはじめいろんな知識・情報を盛り込み、 読者に伝えるという姿勢がいつもある。
また、毎日のように原稿を書いており、その日その時の社会情勢もそれとなく取り入れられている。 たとえば、ことしの東京・埼玉での連続幼女誘拐殺人事件の容疑者Mの異常性・残虐性は目を覆うばかりだが、 この小説を連載中の71年(昭和46)に連続婦女暴行殺人事件の犯人大久保清(36歳)が捕まった。
群馬県内で、わずか2か月ばかりの間に若い女性8人を次々に暴行し殺すという世間をにぎわす大事件だった。
新車を乗り回し、ハンチングをかぶり美術教師になりすまし、「モデルになって」と、若い女性の弱みをついた手口と、
"ボクちゃん"などと甘ったれた口癖がより話題を大きくした。
先生はさっそく、この物語のその二「日光街道の怪」にあるように、"ボクちゃん"を登場させたわけである。
この連載が始まった70年(昭和45)の11月下旬に先生の師・大宅壮一氏(評論家)が亡くなり、
続いて三島由紀夫氏(作家)がすぐ近くの自衛隊で割腹自殺を遂げている。これもかなりショッキングな事件だった。
先に述べた月刊『噂』の創刊号(71年8月号)で、「知られざる大宅壮一」特集をやり、
翌年の創刊1周年記念号で「三島由紀夫の無視された家系」のレポートを載せた。
休刊していたこの雑誌をもう一度出そうと、死の直前の75年4月に季刊としての目次や執筆者の予定まで考えていたことは、 『別冊新評』「梶山季之の世界・追悼号」(1975夏号)に所収の、拙稿「ドキュメント 梶山季之の死」でふれたとおりである。
大衆作家の大先輩長谷川海太郎は、佐渡に生まれアメリカで成長し、その活躍ぶりはモンスターと呼ばれたが、
36歳で夭折した(1900〜1936)。一方、先生は京城(現ソウル市)で生まれ育ち広島で学び、取材先のホンコンで、
走り去るように急逝した。45歳だった(1930〜1975)。
お墓はともに、鎌倉にある。
(1989年12月)