最近、ある雑誌の書評欄でこんな文章を読んだ。
「作家・梶山季之が生前、色紙に好んで、『人生だア!』という言葉を書き記していた。
溌剌たる氏の人柄と作品をよく表しているその言葉は、……」
(筆者 亀岡修氏、「オール讀物」92年5月号、胡桃沢耕史著『天地紙筒之説』について)
もうひとつは、田中小実昌氏が「小説新潮」92年9月号に寄せた「忘れえぬ文士たち 梶山季之」で、次のように回想している。
「梶山季之さんはまったく端倪すべからざるところがあった。現代の英雄豪傑は梶山さんみたいな人ではないか、
とぼくはかねがねおもっていて、本人に言ってしまったことがある。すると、梶山さんは、そ、そんな……、と口ごもり、
それがまた梶山さんらしかった」
さて、この『人生だあッ』に収められている3編の小説は、事業や運命に左右される男のそれぞれの生き方を示している。
『人生だあッ』(初出「小説新潮」昭和42年2、3月号)
昭和27年師走、丹下耕之輔は東京の隣県F市の海岸11万坪を埋め立て、そこに"東洋のディズニーランド"をつくるつもりで、
土地造成事業に乗り出し、昭和30年11月Fヘルス・センターを完成させる。テレビの宣伝などで大成功をもたらすが、
生来のお人好しのせいか、腹黒い仲間に裏切られ、乗っ取られる。いくたびか失意に見舞われる耕之輔だが、
そのたびに「人生だあッ」と呟いたり、叫ぶのだった。
昭和41年に発覚した虎の門国有地払い下げ事件など、当時「黒い霧」と呼ばれた政財界の生々しい現実を織り込んだ小説である。
なお今では同センター跡は、巨大な商店街「ららぽーと」になり、
一方、本家そっくりの東京ディズニーランドが浦安に開園したのは昭和58年4月である。
『流浪の人』(初出「小説現代」昭和41年10月号)
大阪・松島遊郭の経営者の子として生まれた安藤寅夫は、68歳の今はサンドイッチマンをしている。
国立競技場の正面玄関に据えられた北村西望作の「健康美」と名付けられた男性像のモデルだった彼は、
若いころ一時は器械体操や陸上競技の選手として、勇名をはせたものだ。その後サーカスに加わったりしたが、
長続きせず妻子と別居して気ままな暮らしをしている。
物語は、ビルの建築現場から足を踏み外して宙吊りになった若い女性中戸川ユキを助けたことから、
彼に興味を持った彼女を前に、昔話をする男の哀愁がにじみ出ている。
『俺は歩いてゆく』(初出「小説現代」昭和48年2月号)
日本の美容界に君臨する母親を持つ矢野正雄は名門学習院の高校を出ただけで、単身アメリカに渡り、
保険のセールスを続けながら、ユダヤ人らの人脈を広げ、ビューティ・サロンをつくって大当たり、
さらに会員制のカード組織を全米だけでなく、ヨーロッパにもと、次々に事業を拡大してゆく。
いまでいうアメリカンドリームの体現者(英雄)であろうか。
同様の梶山作品には、アメリカでステーキハウスのチェーン化に成功した日本人がモデルの『ラッキーボーイ』がある
(初出「小説現代」昭和44年1、2月号)。
ところで、故人となった梶山先生の"その後"はどうであろうか。
17回忌に合わせて、昨(平成3)年6月1日、広島市に梶山季之文学碑が建立され、その除幕式が行われた。
同年1月に落成したばかりの中区市民文化センター(アステールプラザ)の隣接地の川岸で、
本川筋を上り下りする遊覧船の発着場のそばである。
碑の高さは約160センチ、大きな大理石に直筆の『花不語』(花ハ語ラズ)が彫られている。
この言葉も、よく色紙に書いていたものだ。
式当日はやや曇り空の、蒸し暑い日であったが、先生の広島高等師範学校(現広島大学)時代の恩師や広島市長、
作家の黒岩重吾氏ら来賓をはじめ、東京からも編集者や友人がかけつけ約100人が立ち会った。
昭和41年秋から50年5月香港で亡くなるまで、先生の助手をしていた私も出席した。
文学碑建立の話は広島在住の、故人にゆかりのある人たちを中心に、数年前から持ち上がっていたが、
東京側の友人知人による世話人会も動き出して、その2年前から本格化したものだ。
碑文に「……梶山季之は昭和五年にソウルに生まれ、終戦後、両親の郷里・地御前(現廿日市市)へ引揚げた。 のち、市内水主町(現加古町)に居住、学生生活を送った。在学中より文学の素志を培い、有志をあつめ、 主導的役割をもって、焦土広島の地における文化の創造と振興に関与、その実践力は抜群の成果を生み、 文化的営為の基礎づくりに貢献した。昭和二十八年上京、昭和三十七年、『黒の試走車』により、一躍、世評を高め、 文学の一分野を拓いた。……」とある。
建立基金出資者は東京の出版社や広島の代表的な企業など、また多くの編集者や知人友人の寄付のほか美那江夫人ら親族を含め、
その数約640名に上った。
やがて8月には、文学碑建立の経緯、先生を偲ぶ関係者の思い出話、初期の作品『族譜』(初出「文学界」昭和36年9月号)
などを掲載した『梶葉』(かじのは)―梶山季之文学碑建立記念誌―も刊行された。
因みに、『族譜』は戦前の韓国における国策(内鮮一体の名の元に、創氏改名を強制する)と、
それに抵抗する地方の大地主、間に入って苦悩する日本の若い役人(元画学生)を描いた小説である。
さまざまな脅し、迫害にあっても抵抗する大地主だが、最後は孫たちに泣きつかれ彼らには日本名を許すが、
彼自身は「700年も続いた由緒ある一族の系図を、自分の代で絶やすことはできない」と、自殺する。
今でも日本・日本人によい感情を持たないといわれる韓国人だが、日本人作家がこのような小説を書いていたことに驚き、
彼らの手で78年(昭和53)にテレビ化のあと、映画化もされたのである。
何千年もの歴史を持つ民族に共感し、民族の誇りである苗字・言語を抹殺しようとする国策に違和感を覚えるこの日本青年の心情は、
ソウルで生を享けた先生自身のそれではなかったか。
昭和54年の命日(5月11日)には、韓国大使館から寄贈されたフィルムを市谷の自宅で映写し、参会者に披露した。
その後に日本でも何回か小規模ながら上映されているが、今年(1992)4月13日、岩波ホールの「自由と人間」国際映画週間で上映され、
新たな反響を呼んだ。
ところで、文学碑除幕式のすぐあと、『梶山季之のジャメーコンタント(決して満足しない号)』が、
夫人の手により刊行された(季節社刊・非売品)。
夫人の"ごあいさつ"に「……未発表にこだわらず、ライフワークだった"積乱雲"のテーマ(韓国・原爆・移民)にそった作品を含め、
あまり皆さまのお目にとまっていないと思われるもの――表紙の絵からカットに至るまで統べて季之の手になるものを蒐めました」
とあるとおり、少し毛色の変わったものとなっている。
なお、"ジャメーコンタント(決して満足しない号)"とは、『黒の試走車』(書下し、昭和37年光文社刊)の最終章のタイトルで、
元は1898年に作られたフランスのシャスル・ローバ社製の競走車の名である。
ことしの命日には、広島に「梶山季之文学碑建立記念基金」が夫人の全額拠出で設立され、文学碑管理委員会が中心となって、
移民・原爆・朝鮮の三つを柱とする一般公募の研究論文集を来年5月から順次刊行することになった。
夫人によれば、未完に終わった先生のテーマの集大成の意味もあるが、碑建立に格別の配慮をいただいた広島市と、
建立に賛同・協力くださった方々への謝意でもあるという。
同様の「基金」は、すでに87年ハワイ大学に創設された「ハワイ大学財団」への総額12万ドルの拠出により、
この財団にも「梶山基金」がつくられている。
先生の死後、同大学に寄贈された蔵書の一部(8千冊)は「梶山季之コレクション」として大切に保存され、
内外の研究者に利用されているという。
また、ハワイ大学関係者による『李朝残影』『族譜』など、朝鮮ものの短編を英訳して刊行する作業も大詰めを迎えていると聞く。
死後17年が経ったにもかかわらず、このような文庫本がいくつも刊行され、また内外の方たちのさまざまな活動が続けられている。
先生も「(ジャメーコンタントだが)これも人生だあッ」と、叫んでいることだろう。
(平成4年秋)