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「歴史をよく知る必要がなぜあるのですか」について雑感

 日本の政治家、官僚の右傾化、復古症候群のお粗末な発言はいつまで経っても相変わらずです。
 一般大衆の政治への姿勢、教育、外国、外国語、及び外国人に対する姿勢は、 これほどの経済大国で外国とかかわりあいのある国の割には貧弱で能動性に欠けています。
 日本人のこのような傾向の要因に歴史認識が希薄なことは大いに考えられます。

 "歴史をよく知る必要がなぜあるのですか"は戦後の学校教育の実態と現代若者の歴史認識の関連を明確に指摘しておられると思います。
 日本史を教えたり教えなかったり、その上現代史は全く教えないのでは、歴史認識の希薄な若者が増えるのは当然です。 速やかに改善してもらいたいものですが、なかなかそうはしないのですね。

 戦前(中)、日本軍は近隣アジア諸国に多大な残虐行為、非人道的な被害を与えました。 日本そのものを占領した軍部はレイテ、ガダルカナルの敗北で戦争遂行不可能であったにもかかわらず、 ただ自らの保身のため(又は強過ぎた"愛国心"?)、ポツダム宣言を蹴り戦争を続行したため、 ソ連の満州侵攻の口実を与え数十万人のシベリヤ抑留者を生み、広島長崎の原爆投下を招き、 沖縄の惨状を招きました。近隣アジア諸国の被害ばかりか、日本国民自身が避けることのできた犠牲を重く払わされました。

 しかし、1944年生まれの私が小学生のころ、授業中先生から何度か聞いたことは、日本軍は強かった、 米軍は物量があるから勝ったに過ぎない、日本語は特殊で、敵には分からないので、暗号の必要はなかったなどなど、 全くの誤りも含めて旧軍寄りの話が多かった。 また、しつけ礼儀忍耐を挙げて戦前教育、懐古話が何かというと出たものです。 一部の先生だけではなく、普通のオジサン、オバサンも似たようなことを言っていました。  負けてよかったのだと言う人もいましたが、大勢ではなかったと思います。 負けたことの残念さはまだ生々しかったわけです。

 教育勅語で育った人々にとって、"GHQから押し付けられた民主主義"が戦前の日本社会との違いが余りに大きいため、 その意味が新しい社会体制に賛成の人も反対の人も心底から理解容認できず、とまどい、反発や懐古となって表れた心情だったのでしょう。 そしてこういう国民的心情は50年代半ばから始まる教育の右傾化を、容認する作用をしたと思います。

 新憲法、教育基本法で軍国主義を反省している割には、教育の現場では文部省通達が優先され"反省"を実際にはしないよう、 反省すべき事実には触れないようコントロールされてきました。

 おかげで青少年は、太平洋戦争で日本軍は外国にどんな迷惑をかけたのか、なぜ原爆を落とされるまで、 食べるものも無いのに(戦争をやらせている人たちだけにはあったのかも知れませんが)老人や婦女子に竹やりで本土決戦をやろうとしたのか、 それは伝統や愛国心だったのか、教えられもせず、語り合うこともなく、昔のことは水に流し古いことをいつまでも繰り返さない健全な良い子として育ち、 大人になって、戦前の人々がお国のために尽くしたと同じく、会社のため、発展のためにわき目も振らず尽くしてきました。 外国から歴史認識が足りないと言われながら。

 戦前、愛国心を持て、日本は神国、と先ず教育現場から軍国調に染まって行ったことを教え、 では今は、これからは大丈夫なのだろうか、というところに目を向かせるような教育をせねばならないと私は思うのですが、 それを一番不愉快に思う人たちがいるのですね。青少年がおかしな疑問を持たずに健やかに育つよう指導するのが教育。 自虐的思考を押し付けて、明るさ、覇気を奪ってはならない、というところですか。

 この3月、教育基本法の見直し案が中教審から文科省に答申されました。 国を愛する心や伝統文化の尊重、他が法律で定められるということです。 右傾化も第二ステップへということでしょうか。  本来、人の心に宿る信条的なことを法律で定めるということは、異なる信条による発言は違法となり、 規制されることになります。

 教育基本法改正派の人々は、「敗戦で"押し付けられた憲法"を屈辱」とし、教育勅語を懐古、 現在の教育の荒廃を憂い(またはこれに付け込んで)、修身、道徳の復活を願い、 愛国心教育を主張します。そして反対派の人が愛国心教育をすぐに右翼的、国家主義的とするのは偏狭な先入観と切り捨てます。

 しかし、それはけっして偏狭な先入観などではありません。 終戦60年になろうとしているのに日本では、戦争の反省と総括がほとんどされていません。 戦争を起こした人たちはもちろん、戦場に駆り出され帰った人々も、どんな戦場だったのか、 何があったのかについて戦後長く口を閉ざしているため、こうしたことについては教科書の歴史記述に対する中国・韓国など被害国の訴えから断片的に聞こえるのみです。

 しかも政府の対応たるや、バレたから仕方なく事実の一部を認めたり認めなかったりという感じで、 よかったという戦前教育の"大和魂"や"潔く散った"イメージからはほど遠い。 戦前の教育が間違っていなかったのなら、その精神で、行ったことを堂々と、他国から言われる前に自ら明らかにすべきです (戦後50年も経った95年に村山総理が初めて、外国に迷惑をかけたことを正式に認め、謝りはしましたが)。
 それどころか閣僚レベルの(戦争の反省を否定する)問題発言が続出する始末ですから、 戦前戦中によく使われた言葉が日本の政府、国会議員、省庁官僚から聞かれれば、 警戒心が呼び起こされるのは当然です。日本国民も、外国も。

 人々がこれまでどおり希薄な認識で歴史教育問題を傍観すれば、そこには日本の歴史が再び繰り返しの方向へ歩きだす可能性があります。
 私たちは今、歴史(現代史)をよく知る必要に迫られているのです。

 歴史は現実の政治経済、世相の動きを評価判断するという私たちの日常的思考のベースとなる大事な知識です。 しかし学校の歴史教育を今よりもよほど改善したとしても(ぜひとも改善しなくてはなりませんが)、 日本人の政治や教育への姿勢が大きく変わるとは残念ながら思いません。
 また、戦後、教育は右傾化していますが、それは権力機構に近いところにいる右翼的思想の人たちの力によると同時に、 この人たちも含めて、良くも悪くも日本人の本質的なところからも起因していると思うのです。

 日本人が歴史教育を軽視するのも、伝統を軽視するのも、学校が人の教育の場から受験教育の場に堕ちるのも、 民主主義とか自由の意味がなかなか分からないのもみな、日本の地理的、歴史的環境に育まれた民族的キャラクターの表れと私は考えます。
 日本は地理的に外界とは荒い海と気象で隔てられ、他民族に征服されることなく、 水田耕作で永い歴史をもつことができ、温暖のため少ない平地に比較的多くの人口が生活できる、 恵まれた国です。

 反対に陸続きで他国と接している小国(ときには大国でさえ)がいかに悲惨な運命を歩かされるか、 いま、戦争だらけの世界を見ればしみじみと思わされます。

 太平洋戦争ですっかり評判を下げた日本人ですが、永い歴史本来の日本人は情緒豊かでやさしく、 繊細な感覚に恵まれ、美術工芸に優れ、正直で勤勉。これが私たち日本人古来の良いキャラクターです。 私たちはこの古来の日本人像をもう少し勉強したいものです(民族優越とは違う点、ご注意)。 そうして、長い歴史の中で、日露戦争に勝ったころから始まり、昭和に入って狂気の軍国主義として発症、 太平洋戦争に至った日本人はどうして生まれたのかを探りたいものです。

 さて、私たち伝統的日本人は誇るべき良いキャラクターがある反面、認識すべき弱いキャラクターもあるのです。

 江戸時代の末期で日本の人口の85%が農民であったそうですが、過酷な労働と村内協調最優先の永い歴史は、 皆と違ったことを言わない、しない。議論を避ける。目先の実利にまい進する(大局的なことは考えない)。 皆で決める(自分で考えない)。村人間の家族的絆(よそものに対する閉鎖性)。 村人の過ちを問わない、水に流す(責任ある人の義務不履行、不正をとがめない)などの、 よく言われる日本人の特色を作りあげました。

 現在、省庁の、学内の、医療の、公務員の、企業の、それぞれ閉鎖性、かばい合い、 責任者は"偉い"だけで大証券会社を潰しても、狂牛病で国中が震えても責任は取らない、生え抜き優先、 新参冷遇は常、などなどはそれを物語っています。

 読み書き算盤なら実用技能? のため分かりよいのですが、"人の教育"となると目先の実利が見えにくいため、 なかなかとらえ難い。そこで分かりやすい"よい大学に入れる教育"に国民の要求が集中する結果が様々な学校、 教育、の問題を生み出しました。珍妙な対策もいくつか考案されました。 子供に受験意外の価値観を否定したことは日本の若者に新たな歪みを与えたといえます。

 節操のない(親の)高学歴願望は、少年期から体得しないと身につけることのできない様々な伝統技術、文化、 あるいは新しい芸術技能などに少年が打ち込む機会を奪っています。 このままでは日本の産業、文化の将来に取り返しのつかないブランクができる恐れがあります。 多くの親が受験という目先の実利を、皆がするからといって無批判に追い求める結果、 日本人にとってかけがえのないものを失っている状態といえます。高学歴自体はよいことです。

 少年期に受験勉強以外のことに打ち込んでも、後に、大人になってからでも復学または高等教育を受けられるよう、 日本の教育機関のあり方も成長しなくてはなりません。 また現在の学校そのものも、勉強以外の価値観に応じられるよう進化する必要があります。 これこそ国民が強く求めるべきですし、当局も熱心に検討すべきことです。

 もうひとつ英語教育を見ますと、昨今、日本中が英語フィーバーで、米国やヨーロッパに旅行に出かけ"国際化"が進み結構なご時世です。 ところで欧米人(又はアジア人)とコミュニケーションした場合、あちらの人には、家族が太平洋戦争当時、 日本軍に被害を受けたという人はよくあります。

 青い目の"外人"さんと英語でしゃべることに憧れて行くまではよくても、相手にそう明かされたら、 どう答えますか? そんな昔のことは知らないと言いますか?  できるだけきちんと説明しなければ、その後はあまり信用されないことでしょう。 どこの国にも歴史には明るい部分と暗い部分があるわけで、暗い歴史だからといって若い世代が恥ずべきことでもありません。 堂々と説明したほうがよいのです。黙っているのが不審につながります。

 これは中学程度の英語で十分説明できるのです。あなたがそれを日本語で説明できるのならば。
 しかし現実は、ご承知のように、英語はコミュニケーション能力が低い、歴史認識は低いで、 どちらも有名です。それもそのはず、日本の英語教育は受験用で、コミュニケーションなどは教える体制になっていないのです。

 日本の学校英語が読み書き中心であること自体は悪いことではありません(日本の語学が読解翻訳中心であることは古来の伝統です)。 読み書きの基礎力の上に会話力を備えることは正統法でもあります。問題は受験一辺倒の教育に尽きます。 入試に出ないから会話は削られるという点で、現代史と同じことが起こっています。

 この両方が不十分ということはこれからの、狭くなった世界で生きていく日本にとって深刻な欠陥にもなりかねません。 インターネットで世界がカバーされ、企業も国際化が進み、国民が個人レベルで世界の人々とコミュニケーションする機会は否応なしに増えているのですから。

 ここでも「"自虐的"なことを教えるな」というそのスジからの圧力と、「受験教育」がミックスされ、 結果として将来に対して無責任な状態が起こっています。

 学校教育は、直接的には学校当局、地方委員会、文科省官僚、族議員閣僚、などによってコントロールされ、 実施されますが、一方、国民のキャラクターから生ずる要求に応えての対応であったり(例えば受験教育)、 (教育に限りませんが)議論を避ける、皆と同じ意見を持ちたがるなどのキャラクターを利用して、 コトが進められるという成分があるといえます(例えば教育の右傾化、教育基本法見直しなど)。

 皆が同じようなことを考え、そこに多様性がない集団は、利用または誘導されやすい集団ということにもなります。
 私たちはこのことをよく認識する必要があります。

 人の教育といいますが、子供は多様な価値観をもともと持っているのです。 それを一様に受験のみの価値観を押し付けているのは大人なのです。 皆と違ったことを言わないようにし、皆で決めて自分では考えない、のは大人です。 子供はそれを見て育つのです。

 教育問題とは本当はどこにあるのでしょうか。 それは大人はいつになったら反省できるかの問題と言えるのではないでしょうか。

03/4/14 丸舛敏郎


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