ひたすらコラム目次

「ひたすらコラム」 2006年6月上旬号

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「エセ正義感、の真相?!」
 天に代って不義を討つ、なんて言葉があったように思うが、世の中には"面倒見"のイイ人がいるもんですなあ。
 いや、又聞きなので詳しいことは分からないが、十人前後の文章同好会で、講師がある年輩の人の作品について、 執筆の動機とか内容について質問したところ、当人の答えが的外れだったらしく、何度も聞き返すうちに、 講師の声がちょっと大きくなったらしいんだが、中途半端なまま、他の人の講評に移ったらしい。
 「まあ、そんなことはよくあるんじゃないか」と言うと、その通り、その後は何ごともなく終ったそうだ。 ところが、翌日になって会場事務所に、別の会員から電話で「あの講師の態度はなんだ。まるで、老い先短い老人をいじめているとしか思えない。 なぜ、あんな講師を雇っているんだ!」などと矛先をその事務所に向け、十数分にわたって講師の悪口を並べたそうだ。
 「ふーん? 話を整理すると、怒鳴るA、老い先老人B、講師Cに事務所Dということになるが、その後どうなったの」と聞くと、 事務所が事実関係を調べたところ、老い先老人Bは別に何とも思ってないらしく、他の会員も「先生はいつもの通りで、 別に声を荒らげてというほどでもなかった」らしい。それを怒鳴るAに伝えると「そんなことはない! みんな講師のマインドコントロールにかかっているんだ。 誰も立ち上がらないなら、私が人権擁護委員会に訴えてやると、すごい剣幕だったそうだ。
 「よく分からないが、そんなことぐらいで、人権擁護委員会は動くのかね」。いや、やりなされと言われたと、 怒鳴るAは自信満々だったという。「なるほど。その程度の話がしょっちゅう来ているということか」。
 もう少し事情を話すとね、と彼は声を潜めた。「じつは、怒鳴るAは自分の文章に対する指摘にカチンときたらしいんだ。 何せ大学で学んだ専門用語を自信を持って使ったのに、講師や他の会員から、用法が違うのではと言われたんだって」 「つまり、プライドを傷つけられたっていうことか。それにしても、何の関係もない老い先老人Bを、人質だか道連れにするなんて八つ当たりは"人権蹂躙"じゃないのかなぁ?!」 「それだけじゃないだろう。講師Cに対しても、名誉毀損になるのじゃないか!!」

「"必要"ということ」
 新聞の投書欄は、世の中の映し鏡だが、5月29日の東京新聞「わかものの声」8本は、さながら中学生特集、 しかも14歳女子が七人と壮観である。残りの13歳一人の男子「国宝に落書き モラルはどこに」は、なかなかに格調が高かった。
 さて、七人の内容をみると、部活に関するものとBRO(放送倫理・番組向上機構)の中学生モニターが各一人、 あとは勉強・受験に関するものだが、勉強嫌い・数学嫌いに、勉強は必要という三つの意見のキーワードは"必要"である。
 まず「勉強嫌い」サンいわく、「社会に出て、必要なものもあるけれど、どうして、まったく必要のないことを習わなければいけないのだろう」。 うーん、これに賛成する大人は多いと思うが、まだ人生経験の少ない中学生が、どうして「まったく必要のないこと」と決めつけることができるのだろう。
 ついで「数学嫌い」サンいわく、「考えるだけで混乱するような数学は果たして今後の生活の役に立つのであろうか」に、 その親は「受験に出るでしょ」と答える。だから、"受験"が存在しなければ、やらなくてもよいのでは? と悩む彼女は、 全国の悩める中学生に問う。「人生に数学は必要ですか」と。多少の経験をつんだ大人たちのなかには、これにも賛成するものは多いだろう。
 もうひとつ「勉強は必要」サンいわく、「学校がなければ、まず、勉強ができない。勉強ができないと、コンビニで買い物ができない」。 その理由として、計算ができないから、お金を多く払ってしまうことがある、からだそうだ。見事な"三段論法"ではないか。
 彼女らの疑問は、家庭環境からなのか、学校での教え方の問題なのか、よく分からないが、コンビニがなければ買い物をする必要はない。 買い物をしないならば、勉強する必要はない、のじゃないかしらん。
 ともあれ、諸嬢よ、くれぐれも「あんたなんか必要ない!」と言われない人生を送ることだ。

「絵画盗作…言い訳すれば、いいわけ?」
 絵画盗作 絵空事?!/確信犯。サギ氏、スギ氏を真似る。――などと思ったのは、「芸術選奨の和田氏作品/伊画家『盗作された』/文化庁調査」(東京06・05・29)の、 類似作品の比較写真と、サギ氏のコメント「平面的に『似ている』と言われるかもしれないが、実物はまったくちがう。 ただ、公の場に発表したことは倫理的に問題があったかもしれない」という、オン年66歳の主人公和田義彦氏の芸術的でない"弁明"に呆れたからだ。
 彼は「似ているけれど、実物はまったく違う」と強弁しながら、「公にしなければ、バレなかったハズ」と"後悔"している。 "公開"しなければ問題は起こらなかったばかりか、表彰もされず、展覧会にも出品されないわけで、それでは"創作者"いや"盗作者"の自尊心を満足させることは出来ないハズ。
 また、彼はイタリアの画家スギ氏(77)に対して、「この作品だけでなく、(同じ構図で描くことは)すべて了解を得ている。 日本で発表することも伝えてあったつもりだ」そうだが、スギ氏曰く「彼が画家とは知らなかった。毎年遊びに来て、 私の作品を写真に撮っていた」とか、「ファンだと思っていた」そうだ。
 一方の文化庁らの"弁明"はどうか。「『盗作』と授賞取り消し/文科相 選考法の改善指示/審査、図録と略歴のみ」(東京06・06・06)によると、 小坂文科相は「芸術選奨は非常に権威のある賞。取り消しという事態を招いたことは誠に遺憾」と、きわめてお役所的なコメント(当然か!)。
 ついで、再招集された臨時の選考審査会(7名)は和田氏の作品23点を盗作とみなしたそうだが、欠席した選考委員の一人は「(自分は)和田君を弁護する態度であった」といい、 スギ氏との関係を知っていながら、"共同制作"と理解していたそうだ《本件がバレなければ、きっと「和田君はもっと困ったことになるだろう?!」》。
 さらに、「審査は図録と略歴のみ」(そして、強力に推すものがいれば、それに反対しない)ばかりか、 「スギ氏は日本で紹介されておらず、調べようがなかった」からと、展覧会を開いた美術館員までもがわがごとのように言い、 「世界中の作品をチェックすることは、個人の負担を考えても、現実論ととして無理」と開き直る文化庁や選考委員を弁護している。
 しかし、これらは自分たちが選んだ"権威"ある選考委員の意見を鵜呑みにするだけで、だれも責任を取らない"お役所仕事"が、 官から民にも及んでいる実態を垣間見せた点で、有意義であったと言えるかもしれない。
 さらには、"権威"とはこの程度のものだから、だれでも欲しがったり、崇めたりするのだろう。

(以上、06年6月6日までの執筆)


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