”書くこと”−創作「生きるべく道へ」

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創作「生きるべく道へ」

1960年(昭和35年)夏

     <1>
 小田金之助は、急に予定を変更してどうなるだろうと考えながら、車中の人となった。
 大阪S市から豊橋と浜松の中間にある小さな町に行くところである。東海道線はすでに電化されていたが、 新幹線の開通はその四年後である。外はすこぶる上天気であった。
 京都駅で乗り換えるとき、後になって、この真夏の太陽を直接受けないようにと、わざと陽の当たるほうへ座った。 客はまばらである。

 金之助は大阪の私立高校の三年生、十八歳になったばかりであった。
 彼はこういう旅にはもう慣れていた。たいていの休暇に、両親の元へ帰省するというだけのこと、 鈍行でわずか七時間ばかりの隔たりしかなかった。
 しかし、今度ばかりは少し事情が違っている。元気に働いていた母が急に入院したため、見舞いに行くというのが目的であった。 幸い生命に関わるような病気ではないので、心配にはならなかった。お見舞いとはいえ、彼はなぜかこころ浮かれていた。

 同じ所を同じように往復しながらも、旅情というのは年とともに変化する。 一度、中学の友人と一緒だったことをのぞけば、いつも一人旅である。 話しかけてくる相手は男女を問わず、好奇心の強い人か退屈を持て余す人間であった。 友人と帰ったときは、お互いに男であったし、時間の経つのも忘れて、女性論に夢中になっていたものだ。

 始めのころは、外の流れるような景色や、しばらく仕事の手を休めて汽車を見送るたんぼの人や、 無心に手を振る子供たちを、大した感動もなく眺めていた。日本にはたんぼや川の多いこと、 小さな家が疎らにならんでいるかと思うと、都会にはえらく人間が多いんだなとぼんやり思っていた。

 彼は、一人旅ってなんて素晴らしいのだろうと悦に入る。座席は四人掛けである。 前に人が座らなければなお、というときに情け容赦なく座る人を恨んだりする。
「どこまで行くの?」
「豊橋の少し先。両親や友だちがいますから」
「おや、大阪に遊学しているんですか? 一人で下宿しているの、偉いわねえ、寂しくない?」
「別に寂しくありません。そんなこと考えている暇がないくらいですから」

 このとき、金之助は中学一年生であった。"遊学"なんて変な言葉だなと思った。別に遊ぶために行っているわけじゃない。 それに下宿しているなんて勝手に決めてしまって、お陰でえらく感心されてしまった。まあ、どうだっていいや、 どうせ見知らぬ人だもの……と思ったものだ。

 二、三年も経つと、窓の景色に見飽きてしまう。外がいやになったら、内側を見る。三等車の乗客なんて雑多だなあ、 と自分自身もその一人であることを忘れて観察している。終いには、どの駅にはどの立ち売りの人がいるなんてことも覚えた。 そのくせ、彼らから駅弁以外に買った試しがない。

 高校生になると、いろんな本を読むようになった。中学時代は夏目漱石が好きだったが、 時にジュリアン・ソレルになりきってみたり、ボーヴォワールに傾倒したりしていた。
 世の中の動きにも敏感で、二年前(昭和33年)の三月末の赤線廃止には大人の勝手だと憤り、 翌年四月前後のミッチーブームはいささか異常だと思い、この六月の安保改定阻止行動で犠牲となった東大生樺美智子さんの死には限りなく悲しみを覚えたものだ。

     <2>
 米原まで来たのに、いっこうに日陰にならないことに気がついた。
 どうしたものかと思案していると、急にもう一つのことが気になり出した。 いつもなら、旧友と遊ぶのが目的で帰るのだが、今回はそういう打ち合わせはない。
 金之助は、ひとかどの受験生づらをしており、当然夏休みも返上して"猛勉強"中のはずだった。

 ところが、予期しなかった母の入院だ。そうでなくても、あまり勉強したくないのに、予定が狂うじゃないか。 あの本とこの参考書を省略してなどと考えていたとき、電車が停まった。
 いやに人が降りるなと外を見ると、もう名古屋である。またすぐ別の客が乗ってくる。 金之助は空いたすきに、陽の当たっていない席に首尾よく移動した。

 受験勉強のことは後回しにして、今日向こうに着いてからのことを考えなければ……。
 向こうには、大森道子がいる。今日行くということはとくに知らせていない。急に顔を出したら何と思うか、 金之助にはまったく分からない。そのうえ、もし留守だとしたら、ガッカリだなあと不安になった。

 また、暑さがひどくなった。いつの間にか、裸の腕に陽が当たっている。アンダーシャツもびしょびしょになってしまった。
 汗で眼鏡が煩わしくなり、よけいに暑さが身にしみる。道子のことを考えると、不安が頭の中に広がって行く。 彼には母の見舞いよりも大問題となった。

 道子は小学校時代のクラスメイトで、卒業後、三年前に初めて口を利いた。
 その年の暮れに帰省したとき、金之助は間宮明から同窓会をやろうといわれ、久し振りにかつての友達に会えると喜んだ。 しかし、間宮も金之助も、同窓会など経験したことがなく、二人とも引っ込み思案である。 道子の家が近くだからといっても、幼馴染みの間宮は動かない。

 仕方なく、金之助が行くことにしたが、彼は中学以来男子だけの学校で学んでいるため、 若い女性とはほとんど話をしたことがなかった。
 おどおどと切り出すと、道子は「出席させていただきます!」即答、快諾だった。少し拍子抜けしたくらいだった。

 金之助は小学校卒業直前に大阪へ行ってしまったので、道子とは没交渉だった。もっとも在学中から大して親しくもなく、 ただ背が高くて近づき難いと感じたくらいだった。休暇のたびに帰省しても顔を合わせることはめったになく、 会ってもお互いに素知らぬ顔をしているというような、縁遠さであった。 それに、彼女よりもっと惹かれた女生徒が何人もいたので、道子の比重は軽かった。

 中学生にもなると、美しいものとそうでないものの区別ぐらいはつくようになったが、相変わらず、道子とは縁がなかった。
 帰省するとき、いつもボストンバッグにいっぱい本を詰めて、これだけ勉強をするんだと力んではいるものの、 ほとんど真面目にやったことがなかった。
 プランにはお構いなく、彼は間宮と二つ年下の中村洋の三人組で、近くの山へ登ったり、海岸へ行ったり、 野原を他愛もなく駆け回ったりという、毎日を送るのだった。
 話題はいつも、女性論と食い物論の二つが必須であった。

 金之助の女性観は中学三年のときに、心的な大変化が起こって、甚だしく変わってしまった。 そればかりか、すべてのものに対して批判的な態度をとるようになり、妥協というものを許さなくなった。 そんな彼と他の二人の現実的女性観とは、だいぶ隔りがあった。
 彼が改めて道子を知るようになったころには、すでに彼女の父親は亡くなっており、 家族は化粧品店を経営する母親と三人姉妹、彼女は次女だった。

     <3>
 同窓会は正月三日に母校の教室を借りて、なんとか間宮と二人でボロを出さずに済ますことができた。 頼んだわけでもないのに、道子は手伝ってくれた。自分に好意をもっているんだろうなどとはさらさら考えず、 女の子だからそうするのだろうと単純に思った。
 その夜、間宮の家で二次会があった。わざわざ迎えにきたのを断るわけにもいかなかった。 いやきっと道子もいるに違いないと、そのとき初めて彼女を意識する気持ちが芽生えていたのかもしれない。

 男女十数人が集まっていた。中には同窓会に出ずに、そこだけ顔を出している男もいた。 やがて、金之助は自分がお客さんとして遇されていることを悟った。昼間と違う服を着ている道子もいた。 どちらが似合うか分からないが、素顔だけは可愛く、いっこうに変わっていないのに彼は安心した。
 喋りながら、おかきをボリボリかじり、お茶をガブガブ飲んだあと、トランプや「ジェスチャー」をしたが、 遊びの苦手な彼は、道子のせっかくの演技にも報いることができなかった。

 金之助はそれから二、三日して、S市に帰った。
 すぐに、頼りない腕で写した写真を道子に送った。折り返し、この次から同窓会のお手伝いをさせてくださいと返事がきた。 彼の手紙はいつ読んでも笑えてきますと加えてあった。道子に手紙を書いたのはそれが初めてだったので、 間宮に出したのを読んでいたのだろうと合点した。それにしても"彼"扱いはひどい。 ひょっとすると"貴方"という言葉を知らないんじゃないか? いや、そんなはずはない。 きっと、テレ隠しに"彼"と書いたのだろう。となると、こちらは"彼女"と書かなければならないわけだ。 でも、道子は誤解して、もうお付き合いしませんなどというかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、金之助の頭の中に道子の全体像が浮かび上がってきた。 みんなで写真を撮るとき一人だけ金之助のカメラのほうを見ていたな……、いや、そればかりではない。 そうそう、会の最中も時々こちらを見ていた、案外きれいだった。
 ああ、こんなきれいな人が、こんな身近にいるなんて、おれは何と幸せなんだろうと調子に乗って、 「彼女はチャーミングな人で……」と書き送ったところ、返事はいつまで待ってもこなかった。

 彼はいま、東海道線の電車に乗っているところだ。前の座席の主は、中年男から若い女に代わっている。 手には週刊誌、口にはチューインガムと、隣りには若い男もいて、時々話しかけている。 金之助は道子との関係も彼らのようになるのだろうかと思いながら、またその顔を思い浮かべた。

 次に会ったのは、それから一年後である。二回目の同窓会を、前と同じ母校でやることにした。 金之助と間宮、道子とその友達が幹事役となり、準備はスム−ズに運んだが、こっそり買ってきた酒を飲んで暴れ出すものがいて、 途中で混乱してしまった。

 金之助には、この事件は嫌な、しかも強烈な印象を残した。まだ酒を飲んだこともなく、もちろん酔ったこともなく、 その乱暴ものをどう扱ってよいか分からない。道子もなだめるだけで、どうすることもできなかった。 座はまったく白けてしまって、とくに女の子たちは迷惑そうな顔をしていた。
 そんなことが起こるとは夢にも思わなかった彼らは、呆然とするだけだった。自然、会は予定より早く終わった。 失敗だった。四人は後片付けをしてから、職員室のストーブにあたりながら、黙々と昼食の寿司弁当を食べた。 もう、四時近かった。

 金之助はその夜の夜行でS市に帰るつもりで、間宮と中村の三人で豊橋に行く約束をしていた。 これには訳がある。前日の、元旦の夜、徹夜をしようじゃないかと中村のうちへ行った。雑談に花を咲かせていると、 十時ごろ、中村の兄が出てきて、徹夜なんてバカなことは止めろと、水をさすのだった。 お母さんが心配するからとも言った。先生のタマゴである彼は、少年たちに道徳教育をはじめようとするのだった。

 金之助らも、徹夜することにさしたる意義を見出しているわけではなかった。一種の虚無である。 しかし、こうなった以上、意地でも徹夜しなければと決意するのだった。
 親にはちゃんと許可を得ている。電気代が勿体ないというなら、あとで払うなどと負けずに対抗したが、 相手はなにしろ"権威"でくる。徹夜するしないは個人の自由ではないかといっても譲らない。 空念仏のごとく、道徳をくりかえしている。

 さすがの金之助も、こんな石頭を相手では仕方がないと諦めることにした。いったんは引き下がったが、 けして負けたんじゃないぞなどと、スゴミを利かせたつもりで表へ出た。
「あぁあ、元旦そうそうこれじゃ、今年が思いやられるなあ」
「それじぁ、明日豊橋へいってやり直そう」
 ということになったのだ。

 その話を道子にすると、私もついていくと言い出した。どうぞというわけで、先の幹事役四人と中村とで行くことになった。
 学校から駅前の道子の家まで帰ってくると、また一騒動があった。先に帰っていた件の酒のみ君が仲間を引き連れて、 ご丁寧にも道子の母親に、「男と女が二人ずついるのは危ない」と告げたという。 「うちの道子に限って間違いはない」と取り合わないと、残念そうに、「帰ってきたら、俺の家までくるように」 と頼んでいったのだ。
 女性たちはひるむこともなく出かけてゆき、「家の用事で、今から豊橋に行かなければならないといって、うまく逃げてきた」 と快活に笑った。
 まったく、うちの道子に限って……である。

 その夜、金之助はこの天真爛漫で、恐れを知らない道子を独占してしまった。独禁法なんて、てんで気にならなかった。 他人行儀はすでに過去においてきたし、図々しくもなり、道子に睨めつけられるのも何ともなくなり、無遠慮になった。
 一年に一度の逢瀬だもの、遠慮や理性など眼中に無いさ、あるのは道子ばかりなりと、車中でも食堂や喫茶店でも、 歩くときでも道子は完全に彼の"所有するもの"だった。

 世間のこと、学校生活、親の話、アルバイトを四日間やって千五百円貰ったことや、料理はたいていできるという自慢話。 女のやれることがなんでもできれば、次は男のやることも……という。若い女性がみんな逞しくなれば、 男の出る幕がなくなるのではと、気の弱い金之助は少し心配になってきたが、そんなことはおくびにも出さなかった。 むしろ、こんな"意志の強い"女性は彼の理想とするところであった。

 いよいよ別れる段になってみせた道子の笑顔、良かったなぁと、夜ははっきり目が見えないはずなのに、 彼は一人悦に入ったものだ。しかし、せっかく豊橋行を楽しみにしていた下級生の中村をなおざりにしたのは、 ちょっと悪かったかなと、朝まだきの京都駅に下り立ったときに思い出した。
 やがて、母校の廊下で深刻な顔をして、「ちょっと頼みたいことがあるの」といったことも、迷惑だからと断ってきて、 道子との通信はまた途絶えてしまった。

     <4>
 ここまで思い出を辿ってきた金之助は、どうしていつも同じ結末になるのだろうかと不思議に思いながら、窓の外を見て、 ようやく陽が陰ってきたことに気がついた。豊橋に近いことも、どっと乗ってきた海水浴客で分かった。

 道子のやつ、俺のこと何とも思っていないんだろうか? 間宮から恨めしそうに、
「君はたまに帰ってくるから、女性に大事にされるんだよ」
 といわれたときは嬉しかったが、今となってみれば、自惚れてばかりもおれないだろう。 間宮のいうことが本当かもしれない。独り合点している俺はいい面の皮か。だけど、癪だなあ、高い汽車賃を払って、 振られにくるなんて。ああ、バカバカしい。バカバカしいと思うと、あんなに可愛いと思っていた道子が急に憎たらしくなった。 もう、何といってきても、相手になるもんか。たかが、一人の女の子じゃないか。そんなことを気にするより、 大学受験に専念せよか。

 大学か女の子か? いや、しかし、これは難しい問題だな。大学へ入るまでは女の子は見送りか。 それも仕方がない、人生、辛抱が大事だ……、などと、独りごちていると、とつぜん奇妙な手紙が金之助のところへ届いた。 四月始めのことだ。もう"他人"のはずの道子からで、彼は喜んでいいのか悲しんでいいのか、当惑しながら封を切った。

 それは、"親愛なる金之助様"で始まって、同じ言葉で終わっていた。間に三枚半の文章があった。 さっばり手紙を寄越さずに、いきなり、"親愛なる"とはどういうことか、彼には解せなかった。まず桜の便りがあった。 最後の新学期が始まったともあった。その後お変わりありませんかとあり、自らも元気であるという。 手紙を出しても何も返事がこないので、どんな女であるかを考えたかと尋ね、もう二か月以上もお便りをしなかったようですとあった。

 さらに、"彼"が私にどんな思いを抱いているか、多分ウンザリしていることでしょうと付け加えてあった。 彼は実際、ウンザリもガッカリも通り越して、半分は軽蔑し、半分は忘れかけているところだった。 訳も分からず音信不通になるほど、金之助にとって気味の悪いことはなかった。

 しかし、今は先を読むことにした。調子ががらりと変わって、次のような内容が書いてあった。
 ――人間という言葉、あるいはその人物のことを考えると、いつも途中で分からなくなる。 本当の、より良い人間とは? 自分というものが時々分からなくなるように、人間というものが分からなくなる。 人間というより、自分自身と他の自分というものかもしれない。 明るいときや悩んでいるときなど、様々な"私"というものがあるからだと。

 ここまで読んできて、金之助はしばらく考えざるをえなかった。彼自身もいろいろ思い悩むことはあるが、 こんなことを書いてきた道子の意図が分からなかった。むしろ、無邪気な、曇りというものを知らないような道子が、 こんなことを考えているのかと、奇異にさえ思った。しかし、彼女をあまり子供扱いにするのは失礼と思い、つぎに進んだ。

 ――他人をすべて軽蔑したくなり、何もかも信用できなくなる、と。
 これは、ニヒリズムではないかと彼は考えた。
 ――たとえ、自分が間違っていると思っても、それは表面だけのことで、あくまで自分は正しいのだと。 私は強情である。呑気に構えていたほうが得かもしれないが、そんな種類の女ではない。 もっと正直であればいいのかもしれないが、バカ正直などというのは大嫌いだ、とも書いてあった。

 金之助は理解しようと骨を折ったが、いっこうに道子の真意が分からない。今まで、天真爛漫で、 悩むことなど無いと思っていた彼女が、"強情な"女の子だとは考えてもみなかったことに、自ら驚いた。

 もう一度読み返した。自らを反省しているらしいことは分かったが、 他人というものをすべて軽蔑したくなるというところが引っかかった。他人といっても、自分以外の他人すべてか、 あるいは金之助のことを暗に指しているのか、どちらにもとれた。何か彼女に悪いことをしたかと考えたが、心当たりはなかった。

 また、先に進んだ。
 ――女らしい女と、男らしい男ということが書いてある。女性は嫉妬深いともある。
 まさか、道子は嫉妬心から手紙を出さなかったのか? これも心当たりがなかった。最後に、
 ――またいつか逢える日がくるでしょう、その日を楽しみに待っていますと結んであった。金之助は嬉しくなった。

 だが、まだ気になるものがあった。タイプの練習をしていて、好きな詩だというヘッセの「霧の中」と聖書の中から "明日は明日みずからを思いわずらわん 一日の苦労は一日にて足れり"の言葉が打ってあった。 気になるのは、ヘッセのほうである。
 "…… …… ……/不思議だ/霧の中を歩くのは!/人生とは孤独であることだ/誰も他の人を知らない/みんなひとりぼっちだ" 

 いくら好きだからといって、わざわざこんなものを打ってよこさなくてもと、彼は思った。 そして、手紙といい、ヘッセといい、道子は自殺するのではと、突飛なことを考えると、いても立ってもいられなくなった。

 しばらく手紙を睨んでいて、彼はまた読んだ。自殺するかもしれないという考えは、 また逢うことを楽しみにしているという言葉で、ようやく否定することができた。 さらに飛躍して、あの同窓会の日と同じ状態に戻ったのだと考えた。ひょっとして、俺を好きになったのかなと、 金之助は自惚れてみた。満更でもなかった。それが証拠に、手紙のなぞも半分は解けてきた。 あの夜、道子からいろいろ話を聞いたが、"心"の問題はこれが初めてだ。告白、愛の告白だ!  でも、こんな分かりにくい告白ってあるだろうか。

 しばらくして、金之助は自分も初めてなら、道子も初めてだろうと合点した。 分かりにくいほど、深く思っているのだろうと変なこじつけをして、ひとり納得した。 義理がたい彼のことだから、俺も好きだと告白しようかと思った。実際、義理など関係なかった。 法律があっても、関係ないはずだった。ただ、先手を取られた以上、男として黙っているわけにはいかないじゃないかと、 彼はぶつぶつ言った。

 彼はその日一日中、道子のことを考えていた。写真家がモデルを立たせたり座らせたり、あっちこっち向かせたり、 笑わせたりするように、金之助はさまざまな道子を思い浮かべた。しかし、どれもピントはずれでうまく行かない。 えぃ、クソっと、メガネのレンズに息を吹きかけると、いっそうひどく曇ってしまった。 モデルは諦めることにして、また手紙のほうを見た。

 少しも形式張らない文章が彼の気にいった。それは自覚してなくて粗野だというのではなく、 何か他人とは違った自己というものの存在を明確にしようとムキになっているように受けとれた。 個性を抹殺するのが美徳と考えているような連中は敵ではなかった。処世上はそのほうが有利でも、 自分に恥じないように生きるのが真の生き方というものだ。そのためには、人一倍の努力が必要なことも彼は痛感していた。
 さらに、自分を磨くことは真に生きがいのあることだと考えていた。 世間に妥協して、なるべく当たり障りのないようにうまく生きようとする大多数の人たちを軽蔑していた。 ところが、どうだ。道子はまるで俺と同じような考えの持ち主ではないか。

 そこで"男らしい男""女らしい女"とはこのことだろうかと考えてみたが、あまり都合よくはいかなかった。 しかし、道子が従来の女性の型、衆愚がよいと認めているものから抜け出そうとしていることだけははっきりと分かった。 つまり"自覚ある人間"だと判断した。頼もしくなった。好きだという感情が、それ以上に発展してもいいと思った。 金之助の将来にとって、この投ぜられた一石は非常に大きな意味をもつことになった。

 それから、二、三日して、金之助は親しい学友の家にいって、政治問題から、芸術論、大学問題、 それにメッチェン(女友だち)論を、昼ごろから十二時間ばかりぶった。 メッチェン論における彼は、ビッグニュースが入ったばかりなので、友の羨むばかりに道子のことを話していた。

     <5>
 彼は、道子に丁重な返事を送った。手紙のお礼と、新学期のことや友達の話、修学旅行のことなど。 そして、最後にこうつけ加えた。「もしあなたに、同情心というものがあるならば、次に書くことを守ってほしい……、 せっかく手紙を貰って嬉しいけれど、返事はこれきりで出さない。来年三月になったら、合格かどうか分かるだろうから、 そのときは知らせる。今度会うときは、多分そのときになるだろうと思う。それまでお互いに辛抱しよう。 ではお元気で。修学旅行はいい思い出の残るように。親愛なる大森道子様」

 道子のように、不分明なことは一切書かなかった。すべては来年三月に会ったときだと心に決めた。 合格したら、もっと有利になるかもしれないと思った。しかし、その考えをすぐに取り消した。 彼はそういう、人間の評価の仕方を好まなかった。その代わり、どういう状況になっても、 道子は変わらず正しく評価してくれるだろうと思った。

 道子のために、一生懸命勉強して、首尾よく志望校に入り、それから彼女に"真意"をただそうとばかり考えていた。 どこへいくにも、道子がついて離れなかった。それでいて、電車はおろかバスとも心中しなかったのは、 彼女がお守りだったのかもしれない。

 もっとも、金之助は何ごとも既成の観念に囚われることなく、自ら倫理規定を設けて実行し、 自分で律するという自己に厳しい性格を備えていた。孔子もキリストも釈迦も全面的に否定はしなかった代わり、 また全面的に支持もしなかった。言うなれば"人の振り見てわが振りなおせ"主義である。

 つまり、誰でもいい、その人の美点・長所を取り入れて、欠点は自分でも無くすようにという態度である。 完全な人間というものは存在しない。しかし、誰にでも、良いところはあるのだ。 金之助には、強烈に尊敬する人物がいない。しいていうならば、自分に何らかの影響を与えた人すべてが、 それに値するということになる。

 そう考える彼は、道徳教育などいらないと思う。あればなおさら、有害である。復古主義者、 国粋主義者の思う壺になっては大変である。儒教がどうの、二宮尊徳がどうのという人種にどれだけの自覚があるというのか ――ひとたび脱線すると、金之助はまた腹が立ってくるのだった。いくら文句をいっても、いっこうに埒が開かず、 腹を立てるだけ自分が損をすると悟り、また道子を思い出すのだった。

 金之助は道子からの手紙によって、いままで以上に親密になったと喜んだ。 しかし、彼女との文通が再開されたからといって、せっかく出した"宣言"を引っ込めるのは、自尊心が許さなかった。 また、たとえ一時中止したからといって、すぐ気が変わるような道子ではないと思うと安心だった。毎日が楽しかった。

 四月、九州を回った修学旅行は、観光地よりも夜遅くまで戦わした女性論が印象に残った。 若いに似ず日本趣味の男が口火を切った。
「なんというても日本的で、おとなしくて綺麗で擦れてなくて、夫に忠実な人がええな。社会に出ると擦れてしまうから、 そんなのは敬遠するよ」
 別の男が言った。「美人で、俺を満足させてくれるような女性なら誰でもええよ。男にしろ女にしろ、一皮はげば、 みんな性欲の塊なんやから、あんまり上品ぶってる奴は気に食わん。第一人生がおもろうない。人生は快楽が一番やで」

 今度はちょっと年のいった女中さんにばかりイカれている男が、
「俺はああいうのがええねん。あんな風に俺のところに酒ばっかり持ってくるんが。 ときどき自分でも飲んで『ねぇ、あんた』なんて言われたら最高やで」
  こいつは女性論には興味がなくて、酒が飲みたくて仕方がないんだろうと金之助は判断した。 すると、お前はどうなんだと聞かれた。金之助は勿体ぶって話を切り出した。
「みんなは勝手なことばかり言ってるが、どれも女性を一面的にしか見ていない。性欲説もうなずけないこともないが、 四六時中そんなふうなら異常じゃないか。女性の頭脳をまったく無視している。なにも特別頭がよくなきゃというのではない」

 一呼吸おいて、また続けた。
「大概の女性は、映画俳優や流行歌手に夢中になったり下劣な歌を歌ったり、美智子妃がどうのこうのと言ったり、 べたべた化粧したりして、いっこうに知的な活動をしていないし、しようと考えたこともないように見える。 ところが君らはそういう女性をモノにしようとしている。第一に女性の顔が美しいからといって、 その全人格が素晴らしいとはけして言えない。外見がよかったら全体もいいだろうという考えは間違いだ。 俺は"美貌は皮一重"(Beauty is but skin-deep.)という諺を信じている……」
「そう難しいことばかり言わんと、お前の理想とする女性を言えよ」と横槍が入った。

「もう一つ不満なのは、君らは一様に自分の方が上で、女性は従属すべきものだとしていることだ。 これはおかしい。自分の方が上だと考えるような自惚れがそもそもの間違いだ。男女は平等でなければならない。 全生活において、お互いに平等でなけりゃうそだ。そりゃどうしたって、生理上の差というものはある。 だから俺がいうのは、完全な平等じゃない。そんなことはあり得ないし、第一に男女の区別がなくなって、 味もそっけも無くなる。君らは家庭的な奥さんを望んでいるようだが、共稼ぎだって必要とあればやってもいい。

 俺の理想とする女性は、精神面に優れている人だ。頭も賢い方がいいし、常に学問・研究に関心と理解を持っている人。 あんまり綺麗でなくたっていいんだ。奥さんは他人に見せるものじゃないし、飾っておくものでもない。 どんなに綺麗な女だって、性格が卑しいとかケチンボだとかいうなら愛想が尽きるというものだ。 内面的な女性がいい。内面的というのは、始めから男に従属してやろうなんて考えないということだ。

 君らが考えているように、うまく結婚してしまえば、後は大丈夫という安易な考えの女性が多いようだ。 しかし、そういうのは問題外だ。一般の男も、いかに進歩的であろうと、家の中では相変わらず亭主関白だ、 これもよくないことだ。自分の力で生きようとしないのは、甘えよう、従属しよう、 なるべく楽で贅沢な生活を望んでいるからじゃないか。もっとも、男にも責任があるのだが」

 黙って聞いていた連中から、俺にも言い分があるという男が出た。
「こっぴどくケチつけられたが、俺かて、嫁はんを幸せにしてやろうという気はあるで。 しかし、やはり色気がなくちゃ面白うない。それにお前と違うて俺は大学を出たらなるべくええところに就職して、 後は平凡に暮らそうというんやから、嫁はんが学問に趣味なんかもっとらへんでもええ。そもそも俺が勉強嫌いなんやからな」

 この男は、それだけ言うと気が晴れたと見えて、黙ってしまった。さっきから、奥のほうで寝ていると思った男が、 「ところで道ちゃんは、その内面的なほうなんか」 と突然聞いた。
「彼女、美人やそうやないか。お前の言うてることと矛盾せえへんか」 と皮肉を言うものもいた。
「別に矛盾はせんさ。俺は道ちゃんの顔が綺麗だからと、友達になったわけじゃないからな。可愛いとは思ったけど、 美人とは思わなかった。君らがそう言うのなら、認めてもいいが……」
「調子に乗んな」「おい、妬かせるなよ」

「まあ冗談はさておき、道ちゃんが内面的であるというのは、まず彼女は社会的である、政治的である。 それに計画性がある、女々しくない……、これぐらいあげればいいだろう。 実をいうと、後は"道ちゃん研究"をやってからでなければ分からないのだ。そういう意味で、 どんな魅力的なものが内在しているか興味津々たるものがある」

 と金之助が付け加えたとき、襖が激しく開けられて、「おい、もう二時だぞ。早う寝んか! あしたは四時半出発だぞ」  とどなる声がした。
「先生、明日じゃなくて今日でしょう」。誰かがからかうと、「どっちでもええ。早う寝んと、電気を消すぞ!」と同時に、 部屋は真っ暗になった。
 徹夜する気でいた連中も仕方なく寝ることにした。さすがの金之助も道子のことを思い浮かべる暇もなく寝入ってしまった。

     <6>
 金之助は、大学へ行くのは学問をし、人格を形成するためだという正統な考えの持ち主だったが、 同じ考えをもつものは身近に一人も見出せなかった。
 このころの日本では将来の楽な暮らしを保証してくれる理工科系へ志望者が殺到し、 能力の不足するものは一段下って文科系の、就職に有利な法科か経済に進もうと考えていた。 国立の、なるべく有名校と名のつくところへという傾向が、半ば常識となっていた。

 しかし、猫も杓子もというのは大いに問題だと思う金之助は、資本主義は大体利己的な人間に向いている。 博愛主義者などは雀の涙ほどの恩恵しか受けず、むしろ馬鹿にされるのがふつうだ。 日本人が大和魂のゆえか、天皇制のゆえか、一等国だったゆえか知らないが、人情に篤いといわれながらも、 そういう人は全体から見ればほんの僅かで、大部分は利己的な人間ではないか。

 勤勉なのは利己的な証拠だ。あの二宮損得を見よ、先人がその範とするくらいだから、 日本人の根性が分かろうというものだ。資本主義社会で実際に私腹を肥やしているのは、一握りの大独占資本家と、 名ばかりの大臣と与党の"実力者"だろうと想像するが、一般の国民(かつては、"民草"という草であった) も少なからず恩恵を受けて、かなり裕福になったらしい。 それが証拠に、最近の安保騒動を除いて大きな暴動や反乱の起こったためしがない、と彼は断定した。

 政府は科学技術振興だとか国力を富ますためにと、技術者を大量に養成しなければならない。 大学当局に対して文学部などの定員を減らしてでも、理工系の増員をせよ、とやる。 学生は学生で、理工ブームに乗って、大学に入りさえすればトコロテン式に卒業させてくれ、 しかも給料が良くて一生安全な就職も保証されるとあって、得意であろうが不得手だろうが、興味があろうが無かろうが、 とにかく理工系へという風潮であった。

 この産学共同の現実を見よ。それに、日本は"大国"だと偉い人は言うし、国防には莫大な金を使って、 どこかの国からお古の戦闘機を買ってきては落とす。これでも外敵からは安全で、 安全でなければ援助してもらうつもりらしい。経済は西ドイツとならんで驚異的な発展を遂げたと、誠に結構な話であるが、 どこかが狂っている。なにが狂っているかといえば、資本主義が利己的な人間にしか向いておらず、 そういう人間しか得をしないようになっているからだ。

 金之助はまた、考えをつづける。
 大学には教養課程があり、高校には一般教養科目がある。 しかし、"教養"とは、高校にあってはいかにして大学をすべり予備校に入るかであり、 大学においてはいかに遊び暮らすかということらしいから、正常な頭の持ち主が不思議に思わぬはずがない。 しかし、そういう卒業生が社会においてむしろ歓迎されるのだから、社会というのは荒海どころか、箱庭の池のごとき、 まったく波ひとつ立たないところであるらしい。

 なるべく楽をしようと大学にどっと押し寄せるのも無理はない。だが、それで政府のお題目である総合的な国造りができるのか。 大学出身者をエリートとして自他ともに許していながら、そのエリートの大多数のものが果たして真のエリートたりうるのか、 指導者たりうるのか。科学技術がどれほど進歩しても、人間の知力が停滞しておれば、科学者の警告を待つまでもなく、 人間自らを滅ぼすのは歴史の教えるところである。
 刹那的な生き方を貴ぶ現代にあって、良識のあるものが考えなければならないのは、このことではないか、と。

 次に、利己について――大学を出なければ社会が認めてくれないという現状認識から、 たとえボンクラでも少々経済力のあるものは大学に行こうとするし、そうでなければ優秀な頭脳の持ち主でも、 社会的に冷遇されているところに勤めざるを得なくなる。

 ここに断層ができて、上部と下部が別々に回転し、下の者は無闇に上を羨み、 上のほうは単に下にいるというだけでその人を軽蔑する。やがて、優越感のために、単に大学を出ればよいという考えに連なり、 軽蔑するという悪循環を繰り返す。上のものは優越感だけでなく、自ら努力しなくても裕福になることがたやすい。 またそれをよしとして、けして不当ではないというのが社会通念として通ってもいる。 利己心がどこで発揮されるかといえば、大学に行こう、行かせねばならないと考えるところにある。 自分だけが、自分の家族さえ豊かになればよいというのがそれである。………
 どうも、こう眠くなってきては、いくら文句を並べて、腹を立てても何の功徳にもならない。 もう寝るしかないと悟った金之助は、そそくさと布団に潜り込んだのだった。

 道子は夢にも出てきた。底抜けに明るい性格で、みんなの人気者だった。いつもニコニコしており、 何の悩みも無さそうなのが彼には羨ましかった。
 ある時、「映画を見に行かない?」 と道子が言った。
「映画なんて、道ちゃん嫌いなくせに」
「でもね、急に見たくなっちゃったの。嫌ならいいわ、他の男の子を誘って行くから……」
「いや、行くよ。なんていう映画?」
「ええと、何だったかな。題を忘れちゃったけど。見ているうちに姿が見えなくなるんだって。 そして男の人と女の人が出てきて……」
「キスするのかな」

「やだ、そんなの違うわよ。でもね、とても怖い映画なんだって、怖いのは困るけど、見たいのよ」
「ああ、それで一緒に行こうというわけか。怖くなったら、男と女が出てきて、キスをや……らなくて、 お互いの無事を確かめて、さあもう出ましょうってわけだ」
「そうなのかもしれないわ。でも、金之助さんがいてくれたら安心だから、行きましょうよ。服を着替えてくるから待っててよ」
 と家の中に入ったまま、いっこうに姿を現さない。姿を現さないのと、道子の話の関係がどうも変だった。 ひょっとすると、今のは道子じゃなくてキツネかなと思い、彼女の部屋のガラス戸をたたくと、 コンと音がしてはっと目が覚めた。

 こんなこともあった。
 ある夏の寝苦しい晩だった。いつもの道子は二、三人の女友達と登場してくるのだが、 そのときは金之助の知っている男どもであった。 間宮が、「今日は幸いに小田がいないから、鬼のいぬ間の何とやらだ、道子さんを誘い出そうじゃないか」と言う。 間宮がいつの間にか、敵方に寝返っている。

「面白いぞ。豊橋に行こう。豊川でボ−トに乗ろうじゃないか」と別の男が言った。 暫く様子を伺っていると、始めはイヤイヤをしていた道子がとうとう行くことにしたらしい。
「チクショウ! 俺に黙って行くなんて」と思わず声が出たのがいけなかった。
「なにがチクショウなんだ?」と隣りで寝ているはずの人から叱られてしまった。

 しかし、金之助は夢ばかり見ていたわけではなかった。日中は勉強もし、学校へも行った。 教室では修学旅行の後日談に花を咲かせてむせかえっていたが、彼にとってはバスガールも九州の女もどうでもよかった。 ただひたすら、道子のために勉強して大学に入ることだけを考えていた。この"ために"はかなり功徳があった。 その一つは校外模擬試験の英語で約千人の受験生のうち二十五番、彼の学校では最高点をとったことがあるからだ。

     <7>
 しかし、良いことばかり続くのが世の中ではない。
 六月になって、町立病院で働いていた母親が入院してしまった。弱い体に無理がたたり、過労で倒れたという。 父は金之助たちと同居しており、母のそばには誰もいなかった。

 知らせを聞いた金之助は、大したことはないというものの、少なからずショックであった。 気が散って勉強にも身が入らない。しかし、友だちと山籠もりする予定もあり、 見舞いは夏期休暇の最後の一週間を当てることにした。

 道子に知らせるべきかどうか迷ったが、七月に入って手紙を出した。 どこにも一通も出していない手紙を書くのに少々手間どった。予期せぬことが起こったのだから、 道子も許してくれるだろうと思った。

 金之助は夏休みに入ると、すぐにも帰省したかった。母の入院という不幸なできごとが、 彼に思いがけなく道子に会えるという幸運をもたらしたからだ。来年の三月まではと諦めていたのだから、 この機会を彼はどれだけ密かに喜んだことだろう。しかし、ここで我慢するのが男だと一人で力んで、 八月末にと書いてしまった。

 道子に会うまで、まだ一月以上もあると思っていた矢先、山のお寺に籠って勉強していた友人とちょっとしたいざこざがあり、 金之助だけ先に山を下りた。地上の暑さが身に応え、勉強する意欲もなくなってしまった。 そうだ、どうせ見舞いに行くなら、いつだって同じじゃないかとコジつけた。それが昨日の午後のことだ。
 父や兄の驚いたり不審に思ったりするのを尻目に、今朝飛び出してきたというわけである。 そして、もう豊橋を過ぎた。目的地はまもなくである。

 道中の彼はニヤニヤしたり真顔になったりで、前に座った人たちは何と思ったことだろう。道子のことばかり考えていた。 というのも、彼女がどんな顔をするかで、これからの一週間が楽しくもあり、味気無くもなるからだ。 汗でシャツが黄色くなったぐらい、それに比べれば些細なことであった。

 四時ごろ見慣れた駅にやっと着いた。が、着いた途端に足が重たくなった。道子に知らせた予定より一か月も早いし、 今日来ることも連絡していない。とつぜん「今日は」などと言えば、彼女は変な顔をして足元を見るだろう。 見れば下駄履きも目に入るだろう。"紳士"らしくない格好に、もう一度変な顔をするに違いない。 入院中の母にしても、驚いて血圧が上がって、なお病気が重くなるんじゃないかと気になった。 どうも軽率だったかなと後悔したが、もう遅かった。

 それだけしか考えないうちに、もう道子の家の前にきてしまった。彼女の家は駅前の通りを隔てた向かい側にあり、 歩いて二分もかからない、主に化粧品や婦人ものの雑貨を扱っていた。"女性の店"という看板がかかっていたが、 この際、男である金之助も勇を鼓して入らざるをえない。
 当たって砕けろと、「あのう、小田です。月刊雑誌のように、一月も早く来てすみません、驚きましたか」というと、 道子は一瞬目を丸くした。

 相変わらず、愛くるしかった。金之助は道子は笑うことしか知らないんじゃないかと思ったが、 後でそうでないことを知らされた。
「ずいぶん早いじゃない。どうして今ごろ来たの」
「どうしてって、止むをえずっていうところかな。あんまり気分がよくなかったので、見舞いに行って来るって、 今朝出てきたのさ」
「いまはもう気分悪くないの?」
「うん、道ちゃんの顔みたら治っちゃった」

「お母さんが病気ってこと、ちっとも知らなかった。どこが悪いの」と今度は母親の番だ。
「さあ、どこっていうことはないんですが、過労とか言ってました。今から行ってみれば分かるでしょう」
「相変わらず、呑気ね」と道子が横槍を入れた。
「そうでもないけど、今さらじたばたしたって始まらないと思ってさ」

 彼女は店の手伝いをしているところだった。ちょうど日曜日で、妹もいた。これでどうやら第一関門は突破したと、 金之助は安堵した。さいわい、道子の母親も嫌な顔はしていないと、彼は我ながら上首尾を祝福した。
 しかし、彼は道子に会うのが目的ではなく、母の見舞いにきたのだ。いかに暑い中を七時間もゆられたからといって、 また道子がどんなに魅力的だからといって、それを混同するわけにはいかない。

 ところが、彼はまた重大なことに気がついた。病院は次の駅で降りるのだが、どの辺りにあるのか知らなかったのだ。 上首尾のつもりが、早くもボロが出てしまったが、すぐに一策を思いついた。道子に案内してもらうというのはどうだろう、と。
「あの、病院がどこにあるのか知らないんだけど」
「えっ、よく知らずにここまで来たわねえ」
「うん。病院へ行く道までは気がつかなかたったんだ」
「金之助さんの呑気さ加減にはあきれるわ」
「あきれていないで、教えてほしいな」

 金之助は本当は教えてほしくなかった。案内してくれたほうが、どんなに嬉しいか。彼は次の答えに期待した。
「私も一緒にお見舞いにいくわ。ねぇ、奥さん、いいでしょ」
 と彼の思う壺になりかけたが、"奥さん"とは誰のことかと不審に思った。 俺は男だから関係ないと考えていると、奥のほうから「いいよ」という声がした。店の女主人で道子の母親のことだった。

 二人は下りの汽車に乗った。彼は有頂天になった。始めは考えもしなかったことが、次々に彼を喜ばすように展開している、 有頂天にならないほうがどうかしていた。一方、道子は澄ました顔をしている。 女の子は慎ましいから感情を露骨に現さないのか、こういうことにはもう慣れっこだから、 別段嬉しくもないのだろうかとも思った。とたんに、この間の夢を思い出した。

「道ちゃん、さいきん、間宮や他の連中と豊橋にボート遊びに行ったことがある?」
「ないわ。どうしてそんなこと聞くの」
「いやね、ちょっと気になったから、聞いてみただけ」
「変な人ね、私がいつも遊んでいるみたいじゃない。これでもまだ学生よ、れっきとした」
「そう開き直らなくたっていいじゃないか。実はね、この間夢を見たんだよ」
「夜もお勉強ね、感心だわ」

「皮肉を言わなくたっていいさ。ある女の人が出てくるんだ。彼女は僕より少し背が低くて、若くて綺麗で、 髪の毛は三つ編みにして長く垂れた下のほうに紫色の可愛いリボンをつけていた。 それからどうだったかな。あ、そうそう、笑ったら綺麗な白い歯並びが見えるんだよ。それに額が広くって、声は……」
「ちょっと、黙って聞いていると、いつまでも喋ってるようだけど、そのひと私にそっくりじゃない。金之助さんも案外ね」
「なにが案外なんだい」
「なにがって、見直したわ……」

「言わなきゃそれでもいいけど。その大森道子という可愛いい人に似ている人が、ね。 愚連隊風の奴に連れ去られようとしているんだが、こんな無邪気な顔しているお嬢さんを兄貴のところへ連れていくのは勿体ないっていうんだよ。 そこでさ、いよいよクライマックスなんだけど、もう聞きたくない? さっきから変な顔してるけど、妬いているのかな」
「そんなことないわ。面白そうだわね、それからどうなったの」
「どうなったのって、……ちょうど時間となりましたというわけで、もう駅についちゃった。後は来週のお楽しみ!」
「来週なんか、いやよ」
「それじゃ帰りにしよう。帰りの汽車の中で」

     <8>
「病院はこちらよ」
 と道子が言った。汽車の中で彼女の顔立ちや様子を窺いながら作り話に夢中になっていた金之助は、 母の見舞いのことをまた忘れてしまっていた。道子は冷静そのもので、
「あなたの"母なる人"が入院したってこと、お手紙を見るまで知らなかったのよ」
 と言った。彼は仕方なく「すみません」と答え、現実に呼び戻された。
「きれいな傘さしているね」
「これ? 私んじゃないの、姉さんのよ。私傘なんか持ってないわ」
「へぇ、暑いのによく我慢できるね」
「えぇ、我慢強いから。それに煩わしいじゃない」

 自分の家(店)にはたくさんあるのに、変わっている娘だなあと彼は思った。
「そのくせ、色は白いんだね」
「そうよ、私の肌はとってもいいんだから」
「言わしておけば、ずいぶん勝手なことを言うね」
「私は図々しいから、仕方がないわ」
「本当にそうだ」
「あなただってそうよ」
「そんなことないだろう。見てごらん、ちゃんと婦人を内側にして歩いているじゃないか」
「そんなこと関係ないわ。第一こんな狭い道に内側も外側もないもの」

 駅から歩いて十分ぐらいの静かなところに病院はあった。受付で母の病室を聞くと、反射的に七号室だと答えた女性が、 二人を不思議そうに眺めていた。
 二階への階段を上ると、その部屋はま正面にあった。
 「ラッキーセブンだね」と金之助が口を滑らせると、「失礼だわ」と道子がたしなめた。彼よりだいぶ大人だった。 病室のドアは開け放たれており、白いレースのカーテンが少し風に揺れている。

「今日は」と金之助は"母なる人"に挨拶をした。会うのは半年ぶりである。どんなにやつれているのかと心配だったが、 案外元気そうである。安心すると同時に、しばらくは気が抜けたような、肩の荷が下りたような変な気分だった。

 突然の出現にだいぶ驚いたと見えて、母はどうかしたのかと我が身を忘れて、金之助の顔色を窺った。 道子に話したことを繰り返すと、やっと安心したらしく「そうかね」と安堵の笑みを浮かべた。
「ここまで道ちゃんに案内してもらった。まだ家に行ってないんだ」
「そう、道ちゃん、ありがとう」
「いいえ、大したことありませんわ。それよりお体のほうはいいんですか」
「ええ、おかげさまで。どこがどうっていうことはないんだけど、なんだか頭が重くってね。 こうして毎日ぶらぶら過ごしているのよ。……ああ、そこに桃を冷やしてあるから、二人で食べなさいよ」

「こりゃ、有り難い。ちょっとそのナイフを貸して」
「あら、金之助さんでも、皮をむけるの?」
「むけるのとは失礼だね。こうやってこうやれば自然にむけるじゃないか。一つ君のもやってあげようか」
「いいわよ。自分でやるから……」
「男がこんなことやっちゃおかしいと思っているんだろう」
「そんなことないわ。だって、奥さん助かるもの」
「ずいぶんズボラな奥さんだなあ。こんな奥さん貰った人は不幸だね」

「おあいにくさま」………
「この部屋に道ちゃんのお父さんが入っておられたんだねえ」と母が感慨深げに言った。
「亡くなったのは二年前だったかしら」
「そうよ。私あのころよく来たわ」
「どういう気持ちがした?」と言ってしまって、金之助は残酷な言い方だと後悔した。
「不思議に悲しいという気持ちはなかった。今でも分からないわ」と、あっさり返事したので、彼は救われたような気がした。

 道子と母はさきほどから患者のことや世間話をしている。どこのだれが入院していると言われても、彼にはさっぱり分からない。 もっとも、金之助には世間や世間の噂が耳障りであったし、煩わしくもあった。
 二人は病院の屋上に上がった。よく晴れた日には、正面に富士山が見えた。すぐ下には東海道本線が走っている。 後ろ側には結核病棟と、小さな町営住宅がいくつか並んでみえた。ようやく涼しい風が吹いてきた。

 しばらくして病室に戻ると、三十五、六の独身の女性患者が遊びにきていた。
「この娘さんも大阪からきたの」と道子のほうを見ていった。
「いや違いますよ、隣りの町に住んでいるんです」
「それじゃガールフレンド? 恋人?」と今度は病人らしからぬ質問をした。
「僕は恋人と思っているんだけど、この人はそう思っちゃいないらしいんです。浮き世はままなりませんね」と冗談を言うと、 道子が応戦した。

「あらいやだ。勝手にそんなこと言って。私はそんなつもりで来たんじゃありません。お母さんのお見舞いにきたのよ」
「だけど、僕は本当にそう思っているんだもの」
「私そんなこと知らないわ。ずいぶん酷い人ね」
「何もそんなに怒らなくたっていいよ。気に食わなければ、残念だけれど、取り消します」
「残念だなんて言うもんじゃないわ。第一男らしくないわよ」
「もういいじゃないか。いつまでも子供みたいに。金之助も謝りなさい、ねえ道ちゃん」と母が仲裁に入った。
「若いっていいわね。さあ私もう帰るわ。お元気で。仲よくするのよ」と意味ありげな笑いを浮かべながら、 独身女史は引き上げて行った。

     <9>
 金之助はもう一つ重大な"忘れ物"をしていた。一週間の滞在で、寝るところはあるが、食事のことを失念していたのだ。 母にどうするのかと言われるまで、まったく考えもしなかった。妙案はなかった。 一食や二食はなんとか……と考えていると、さっきまで機嫌の悪かった道子が打って変わったように 「私が作ってあげる」と言うではないか。
「おお、わが美しい女神よ、汝は何と慈悲深いのでしょう!」と言おうとしたが、また機嫌を損ねてしまうといけないと思い、 「どうかよろしくお願いします。今後皮肉ったり、悪ふざけはしませんから、無事生き長らえさせてください」 と誠心誠意を尽くしたつもりで言うと「そんな堅っ苦しい人は嫌いです」とやられた。

 まったく何を言っても反論されてしまう。金之助には取りつく島がなかった。
 それでもなんとか"契約"は成立した。寝るのは自分の家で、三度の食事は道子の家でという"二重生活"をすることになった。 今朝S市を出てくるときには考えもしなかった、生まれて初めてのことである。

 不安というより、どうしてこう何ごともうまく行くのかと、むしろ不気味に思うのだった。 道子の顔を見ても何の変化もなく、別に企みもないようである。いつまでも見ていると、「そんなに見詰めないでよ」 と苦情が出た。
 仕方なく「早く道ちゃんの作った晩御飯が食べたいな」と言うと、「食いしん坊ね」と皮肉られた。
「食いしん坊でもなんでも、早く帰ろう」と、母には、また来ると言って表に出た。現金なものである。

 道子はまんざら嫌いな相手でもないから、一つ腕の見せ所と思って引き受けたのだろう。 金之助さえも料理しかねない勢いだった。
 いっぽう金之助は、いよいよ"有望"だと思った。なにが有望なのか自分でも判然としなかったが、とにかく有望だと感じていた。 幸いなことに、料理を作ってくれるという、ここで実地に観察できるなんて……。 今夜こそ、彼女が俺のことをどう思っているか聞き出さねばならないと決意した。

 病院からの帰り道で道子は「ねえ、どんなものが嫌い?」と尋ねた。面白いことを言うなと思った。 普通なら、どんなものが好きかと聞くところだ。
「ええっと、鳥肉とトウフと、それから…(小声で)道ちゃんが嫌い…」と後半は冗談めかした。

「今変なこと言ったわね。もう一度言ってごらんよ」
「鳥肉とトウフと、それから、あのチャーハンが嫌いって言ったんだよ」
「ほんとかしら。ウソだったら承知しないから、覚えてらっしゃい」
 彼女は聞こえていたのだろうと、良心が咎めた彼は、「ほんとはね、思っていることと反対のことを言ってしまったんだよ」
「分かってるわ。私にはそのほうが都合がよいけど、それは御飯には関係ないことよ。おあいにくさま」と澄ましていた。

 上りの汽車はちょうどラッシュ時で混んでいた。来るとき約束した"怪談"のつづきは、二人とも忘れていた。 金之助は周りの同年輩の男女の羨ましそうな視線を背に浴びながら、道子と他愛ない話をしていたが、内心、得意であった。 "勇者こそ佳人を得るのだ"(None but the brave deserves the fair.)と呟いた。 もっとも、すぐに道子は佳人と言っても差支えないが、俺はどうも勇者に値しないなと、気弱になった。

 道子は家に着くとさっそく準備を始めて、七時過ぎに最初の食事が終わった。
 妹は始め好奇の目で彼を見ていたが、そんなに悪そうなやつでもないし、道子の友だちだから安心だろうと、 すぐに仲良くなった。長女は九時ごろ、仕事から帰ってきた。金之助らの一年先輩である。さすがに大人びていた。

 みんなでスイカを食べた。中でも中学一年の妹がいちばんよく食べる。そのせいか道子と同じぐらいの体格をしており、 余興でだれかの真似だと言ってしきりに流行歌をうたってくれた。金之助は歌手にも映画俳優にも興味がなかったが、 陽気な彼女の熱演を見ていて、楽しい一家だと思った。父親がいないということの、何の暗さも感じられなかった。羨ましかった。

 十一時が過ぎた。
 道子の"奥さん"はすでに休んでおり、姉妹も寝にいった。道子と金之助だけが後に残った。 そうなることを彼はどれだけ待ち望んでいたことだろう。
「屋上へ行こうよ」と道子が誘い、二人は鉄筋の倉庫の屋上に出た。

 下にいてもだいぶ涼しく感じられたが、屋上はかなり涼しい。そこから見渡す辺りは人っこ一人見当たらず、 まったく寝静まっている。ところどころの門灯のみが、静かな夜の町を照らしていた。 ときどき通る汽車の音が、眠たげに聞こえるだけだ。

 金之助は小さなころ、母に連れられて夜行列車で雪国を走っているときのことを思い出していた。 もうどこの駅だったか覚えていない。しかし、それはどの駅でも同じようなシーンだった。 いつまでもどこまでも走り続ける夜汽車が、銀世界の中の人気のない駅に停まる。本当に、やっと着いたというように停まるのだ。 その時の、なんとも言えない切ないような、わびしいような気持ち、夜がいつ果てるとも知らず、旅がいつ終わるかも知らず、 ただ、その駅ごとに停まるときの切なさが、この屋上から夜汽車を眺めている金之助の脳裏に彷彿としてきた。 子供心に悲しい思い出だった。

 そんな思いに耽っていると、とつぜん道子が口を開いた。
「汽車の中で約束した、夢のつづきを話してよ」
「まだ覚えていたの。もうあれは面白くないよ。なぜかって? だってね、大森道子に似た人は道ちゃんその人だし、 愚連隊風の連中は小田金之助のような男にやっつけられるって他愛ない話だからさ」
「金之助さんはずいぶん強いのね」

「うん、別に強くもないけどさ。夢っていうのは自分で見るものだから、主人公は強く見せるものだよ。 もし、道ちゃんのような美人が看護婦かなんかで出てきて介抱してくれるのなら、 名誉の負傷って場面も無きにしもあらずだけどさ。そうなると、夢を二人で見なきゃならないから面倒だね」
「二人で見るなんてできないわよ。第一私は夜は眠ることにしてるんだし、夢を見る時間なんてないわ」
「僕だってないさ。無いけど、見ることもあるって話だよ」………

「ところで、この間の僕の手紙をどう思った?」
「四月に、勉強の邪魔になるから手紙はいらない、自分も書かないってあったでしょ。もう約束を破ったのかと思っちゃった。 でも、お母さんが入院したっていうから、びっくりしたの。それで、許してあげることにしたのよ、約束を破ったのではないと」

 金之助は「どうもありがとう」と言ったものの、急に真顔になって道子のほうを見た。 自分ではあの"宣言"を別に大したこととは思っていなかったのに、彼女が真剣に考えていたことを知って、 またいい加減さを許さない人だと知って、一時は"恋人"役を返上しなければと思ったくらい、自らを恥じた。 なかなか骨のある娘だと、改めて認識させられもした。

「あの手紙ね、面白いと思ったから学校で千恵子さんに見せたのよ。あの中に"彼女が好きだ"って書いてあったでしょ。 千恵子さんたら、彼女ってS子さんのことかって言ってたわよ」
 金之助は少し赤くなりながら――暗くてはっきり見えなかったからよかったものの―― 「ふうん。どうしてそんなことを言うんだろうな。しかし、あれは大森道子という人以外に見せるつもりで書いたんじゃないよ。 肝心の道ちゃんはいったい誰のことと思ったの?」
「私……私はもちろん……」
「もちろん、何?」
「そんなこと、言わぬが花だわ」
「そうかもしれない」

 かつての同級生の千恵子もS子も、道子と同じ浜松のN女子学園という中高一貫教育の学校へ通っていた。 始めは三人とも仲よしだったが、ある時S子と道子たちがケンカして以来、口も利かなくなったというのである。
「どうしてあんなことになったのか分からないのよ。一度向こうのお母さんがきて、仲よくしてやって下さいっていうから、 いつでもそのつもりですって言ったのに、あの子がちっともうちとけてこないんだもの」
「いやに強情っぱりだね」
「このごろはすっかり澄してしまってね」

「だけど、S子さんも寂しいだろうね」
「あらS子さんの肩なんかもって、彼女のほうが好きなんでしょう」
「そんなことはないさ。ただ僕にもそういう経験があるから、その気持ちが分かるというだけのことだよ」
「どうだか分かりゃしないわ。千恵子さんの言うのもほんとかもしれないわ」
「女の子ってどうしてそんなに焼き餅焼きなんだろう」
「私、焼いてなんかいないわよ」………

「そうそう、この前の道ちゃんの手紙に、どうも理解できないことが書いてあったよ。 そうだ、女は嫉妬深いってあったな。道ちゃんもやはり女の子なんだろう」
「あら失礼しちゃうわ。私だって女の子よ、こう見えたって」
「それから、自分というものが分からなくなると言ったり、他人を軽蔑したくなるっていうのは?  今でもそんな気持ちになることがあるんだろうか」
「あるかもしれないし、無いかもしれない。別に気にすることないわ、私だって時には考えることもあるんだから。 これは知っておいたほうがいいわよ」
「ああそう。それじゃもう気にしないことにしよう。その代わり道ちゃんも僕がS子さんが好きだなんて思っちゃいけないよ。 約束するね」
「約束するわよ。大したことじゃないもの」

 また汽車が通った。下りの貨物で、ずいぶん長い編成だ。駅と反対側の路上を見ると、一匹の小さな猫がそぞろ歩きしている。
「あれ、うちの猫よ。昼間は家の中で寝そべってばかりいて、夜になるとああやって外を歩くの」
「きっと、恋人に会いに行くんだろう」と金之助が冗談をいうと、「案外そうかもしれないわ」と素直な返事が返ってきた。 また、「女の一人歩きは危険だね」と余計なことをいうと「平気よ、あれオスだもの」

     <10>
 金之助は至極幸せであった。もう食いはぐれる心配はないし、帰って寝るところもある。 おまけにこうして道子を"独占"しているのだから、これで文句をいえば罰が当たるというものだろう。 夜がいつまでも続けばよいと思った。

 喉が乾いたので、お茶がほしいと言うと、道子はお茶はないが黄瓜がある。それでもいいなら切ってくると下りていった。 ちゃんと切ってきたが、彼女は食べようとしない。金之助は一口食べて驚いた。ひどく塩っからいのだ。
「こんなの無茶だよ。いくらなんだって、これじゃ余計喉が乾くよ」と悲鳴を上げても、道子は悪戯っぽく笑うだけで、 ちっとも取り合わない。だまされたと思ったが、すでに遅かった。
「君は無茶だね」と言ったら「だから、始めからお茶がないっていってるじゃない」金之助は仕方なく、 残りの黄瓜を一杯食わされた。
「君は茶目っけがあるのはいいけど、こんな塩っからい瓜なんてもう沢山だよ。 いつか仕返しをしてやるから覚えておきなさいよ」と言えば「楽しみに待ってるわ」と受けてたった。

 まったく手に負えないお嬢さんだと金之助は妙なところで感心していた。いや、感心と満足が半々だった。
「私ね、今またアルバイトしているのよ。このあいだも職安に行ったら、あんたはアルバイトのベテランだねって言われてしまった。 もう顔を覚えられてしまったのよ」
「いいじゃないか。大森道子はこんなお転婆ですっていう登録商標だから。もっといいところを世話してくれっていえば」
「それが駄目だったのよ、遅く行ったものだから。明日はね、学校へ行ってアルバイトの証明書を貰ってくるから、 アルバイトには行かないのよ」

「それじゃ、ボートに乗りに行こうか。こう見えても僕は案外うまいんだよ。百聞は一見に如かずだから、明日見せてあげるよ。 行くだろうね」
「ええ、行くわ。金之助さんにかかったら仕方がないわ。だけど大丈夫、金之助さん泳げるの。私はカナヅチよ」
「僕も自信がないけど、ひっくり返えさなきゃ泳ぐ心配はいらんさ」
「でももし、突風が吹いてひっくり返ったらは?」
「そのときは仕方がないね。手を取り合って心中するよりないじゃない」
「私、心中なんて真っ平よ。そんなの、嫌よ。もっと長生きしたいわ」
「今のは冗談だよ。冗談も分からんようじゃ、出世しないよ」
「出世しなくたって、死ぬよりましだわ」

「まだ言ってる。今のは嘘だったら。そんなに不安なら、間宮も連れていこう。三人なら、誰も心中なんて思わんだろう」
「………」
「道ちゃんも案外気が小さいんだな。見直したよ」
「何を?」
「道ちゃんの気が小さいってこと、誰かさんと同類だっていうことをさ」
「やっぱりあなただって怖いんじゃない」
「そうだよ。怖いから無理をしないっていう理屈にもなるんだ」

 こんな静かな夜、世の恋人たちは一体どんなことを話題にしているのだろうと考えていると、後ろから、 「ここにきて座りなさいよ」と道子の声がした。彼は手摺に寄り掛かりながら、星空を見たり下の夜景を見たり、 猫の逢引を想像したりしていたのだ。

 何と美しい夜ではないかと感心していると、道子のあくびするのが聞こえた。
「なんだ、もう眠いのか」
「眠いわよ。昨夜も一時過ぎに寝たんだもの」
「今夜はまだ早いよ」
 屋上は暗かったが、街灯の明りでお互いの顔はなんとか見える。
「道ちゃんは暗いところにいるのが好き、明るいところが好き?」
「なんのこと」
「つまり、こんな風に二人でいるときに、暗いところがいいか明るいところがいいかっていう意味だよ」
「そりゃ明るいほうがいいわよ」
「やっぱり。だけど、どうして?」
「暗かったら、男の人って変なことをするかもしれないじゃない」
「そうかな。それじゃ僕も、しそうに見えるかな」
「金之助さんは別よ。とてもそんなことしそうにないわ」
「実際、僕もそう思っているんだ」
 これでは話にならなかった。

     <11>
 しばらく沈黙がつづいた。道子はじっと金之助のほうを見ている。何を考えているのだろうか。 俺の顔を見て、明日のお数のことを考えているのだうか。いや、そんなことはない。聞いてくるはずだし、 聞かれたらみんなお任せというつもりでいる。それではなんだろう。ひょっとすると?  と思ったが、金之助は慎重に別の話題を切り出した。

「修学旅行は面白かった?」
「ええ、面白かったわ。でも京都、大阪それに奈良でしょ。お寺や仏像ばかり見て回ったって、 それほど興味が沸かなかったし、大阪は人が一杯で、迷子になりそうだったわ」
「それじゃ、お上りさんと同じだね。もっと他へ行ったらよかったのに。北海道とか、九州に。 九州はよかったな。あの阿蘇の広々としたところなど、気持ちが大きくなるね。もう一度行ってみたいくらいだ。 そのときは道ちゃんと一緒に……」
「行ってみたいわね。だけど私は駄目なのよ。行かせて貰えないもの。あっちこっち旅行はしたいのよ。だけど駄目なの」

 道子が何をいっているのか、金之助はしばらく分からなかった。たしかに、一緒に行こうといった。 そういう願望が皆無ではなかったが、ほとんど成り行き、口から出任せに近い言葉だ。 しかし、彼女の答えはまったく予期せぬものだった。
「どうして?」
「………」
「だけど、もっと大人になれば、行けるようになるよ。道ちゃんは、よそへ行く気はないの?」
「………」
 どうも変な調子である。心なしか、道子の顔が冴えなくなった。

 夜が急に冷たくなったように感じた。金之助は考えた。 まだ結婚前の男女が一緒に旅行するなんてよくないと考えるのが常識だろう。 しかし、俺はなにも二人だけで行こうというわけではない。お互いの友達でも誘ってと思っているのだ。 別に悪だくみもない。ただ、そうすることによって人生がより楽しくなるだろうと思っただけだ。 それなのに、道子はこちらの話も聞かずに、頭ごなしに否定した。どうしてだろう?

「私はどこにも行けない……。ここを離れられないのよ」
「………」
「………」
「ここを離れられないって、この家を?」
「ええ、まあ、そういうことになるわ」
「どうしても離れられないの?」
「どうしても」
「………」

 一体これはどういうことだろう。金之助はその理由を聞こうにも恐ろしくて聞けなかった。 道子もそれ以上のことを言わなかった。彼は今の今まで、こんな現実を予想すらしなかった。
 道子は"ここを離れない"とは言わず"離れられない"と言った。しかし、いまの彼にとっては、どちらでも同じことだ。 彼女が動かなければ……、でも俺はここの人間じゃない! すると、長い間夢に描いていたあの計画は……、 いずれ必ず実現すると一人信じていたのに! 俺の最大の望みは無残にも崩れてしまったというのか。そんなことってあるか! 

 金之助は道子に許婚がいるのだろうかと考えた。この十七歳の娘に許婚がいても不思議ではないが、 そんな人はいないという。この店を継ぐのかとも思ったが、姉さんもおりその可能性もないという。 許婚もいない、家も継がないとしたら、何のためにここを離れられないのだろうか。どう考えても、彼には理解できなかった。

 道子の生き方が疑わしくなった。あの手料理も単なる友情のしるしとして終わるのか。 あの手紙の告白も単なる告白の遊びにすぎないのか。一体俺はどうしたらいいのだろう。四月の手紙に書いていたように、 独立心の強い、自我のある女性ではないか。都会に出れば、才能を発揮できる方面もあるだろう。 しかし、ここに燻っているかぎり、けして彼女は本来の"彼女自身"を見出さないだろう。

 何かが道子をあるがままにさせないようにしている。それが何であるか、金之助には想像もつかない。
「ねえ、どうして急に黙ってしまったの。私の言ったことが気に触ったの」
「………」
「そりゃ、私だって憂欝になるときがあるわ。でもね、運命だと思って諦めてるのよ」
「………」
 運命だって? そりゃまた、どういう意味だ! ああ、彼女はやっぱり運命論者なのか。 しかし、それでは道子の存在理由はどこにあるのだ。

 金之助の中ではもう一人の金之助が、ささやく。"運命を肯定しようが否定しようが、 どの方向へ進もうが本人の自由ではないか。彼女は自ら選択したのであって、他人のお前が彼女をどうしようというのか"………
 ああ、分らない、分らない! あれほど"自分自身"をもち、あれほど活発な道子を、こんな小さな社会集団に埋没させるなんて、 とても許せないことだ。ここを一生離れないという。一生! 人生はどんなに長いことだろう。

「さあ、もう遅いから寝ましょう。何よ、急に黙ってしまって。もっと元気を出しなさいよ。 星がいっぱい出ているわ。明日もきっとお天気がいいわね。ボート乗りは約束したわよ。きっと連れてってくれるわね」
「うん。連れていく。明日の午後だよ。ではさようなら。お休み」
「おいしいご飯作っておくからね。お休みなさい」

 金之助は道子に自転車を借りて、家路についた。ペダルがうまく足に馴染まない。のろのろ、よろよろとこいだ。 暗い夜道で涙がこぼれそうだった。
 道子は俺の目の前にいる。ましてや逃げようともしない。なのに、俺はその道子を掴まえることさえできないでいる。 こんなバカなことがあるか。今度の帰省の目的も、半分は彼女の真意を知るためだったのに。

 道子がここを離れないという話は、分からないことだらけだった。しかし、ただ一つはっきりしたことは、 彼女とは一緒になれないだろうということだった。諦めたわけではない、直感である。 彼のそれまでの幸福感がいっぺんに吹き飛んでしまった。
 ああ、失恋! 真夜中の失恋か!

 誰もいない家に着いた。暗い、空気の澱んだ部屋は、よけい金之助の心を惨めにさせた。 押し入れから引っ張り出して敷いた布団の上に、どさっと力なくへたりこんだ。
 先ほどの道子の言葉を思い出していると、ほんとに涙が出てきた。
 でも、しばらくして冷静になった彼は考えた。

 ひょっとしたら、これまでの自分は単なる一人相撲をとっていたのではなかったかと、金之助は悲しさを通り越して、 なぜか自分が滑稽に見えておかしかった。
 布団の襟から微かに母の匂いがした。

 間宮と三人で豊橋へボート遊びにいった次の日、道子のところで遅い朝食を済ませてから、 金之助は一人暑い陽射しの中を病院に向かった。
 そこで、何も知らないはずの母から、道子の"離れられない"理由を知らされた。
「近くにいる伯父さんが、道ちゃんを養子にして土地などの財産を相続させるということが、 亡くなったお父さんとの間で決められていたらしいよ。お父さんの遺言なんですって。道ちゃんはいい娘だから、 素直に言うことを聞くんだね……」
 しかし、金之助の耳には、もう何も聞こえなかった。



(これを書こうと思いついたのは、八月二十五日の、月のとても綺麗な真夜中ごろだった。〈1961・9・3〉)
(第一稿8/25,26 第一回清書8/27〜9/2)
(のち、第2章を加えて「少年だったころ…」と改題)


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