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「ミニ自分史」(125)1962年3月…ワセダ入学一月前  2010・08・24 橋本健午

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(I) 「ノオト 最初の十日間 (足良 哲)」(1962・3・1〜9・14)より抜粋

<一浪の後、東京の大学2校を受けるために上京、B通信添削会と懇意の文京区にある学生用の下宿に到着>

<p1>…3月1日(木)夜:ここへ来て6時間余。
 目の前に私が持って来たハサミがある。そして、それは凶器ともなりうる。 /大根一本50円、キャベツのはっぱ一枚10円!(下宿の小父さんの話) ああ、私はどうしようというのだ。・・・・・

<p4>…3月1日(木)夜:夕方、下宿の小母さんから、電話に呼ばれたあと、いきなり別棟にいる母親と上京したNさん(現役生・B添削会仲間)を紹介される。 彼女の部屋へ案内され(母親は外出中)、初対面ながら、受験の話などをする。東大には自信がないとし、浪人生活はどんなものかと聞かれる。 …彼女の考え・思想は、アメリカ主義には反撥する。平和共存はないという。将来に向けて技術を習得する理由、結婚(子孫を残す)の話など。 自分の勉強もしたいという。クラブ活動はテニスと新聞部、これは私の場合と全く一致していた。
 “印象”…私が見た中ではいちばん美しい。つやつやとしたそのほほ、私を見つめては―全くごく自然に―ふくみわらいをする。 魅力的なのは、その美しい顔をおおう、きれいな髪、その分け方がまたすばらしい。何と形容しようか。両の耳をかくし、頭の中央から長くしたその髪は、 彼女が下を向くとはらはらと、ほほをおおう。そのカミの毛を彼女はまた耳の後に持っていくが、やがてまた落ちる―そんな動作を何度も何度もあきずにくりかえす。 それを私は面と向って、わずか1メートルぐらいのところから見ているのだ。
 5時半ごろ、小母さんが彼女のところへ夕食を運んできた。私のは部屋に置いてあるという。 が、しばらくすると、気を利かした小母さんは彼女の部屋へ持ってきてくれた。二人で食べる。 彼女は少し残して、私に食べないかといったが、もういらないというと、「私、あとから食べるわ」と、また自分の方にとった。ほんとにかわいい人だ。
 …彼女は私の行ったとき、数学の勉強をしていたようだし、それを続けるつもりであっただろうに、3時間ばかり邪魔をしたのじゃないかと思う。
 ……ああ、5時半の夕食は少し早すぎる。とても空腹である(11時15分前)。 明日、早稲田まで行ってみよう。 《朝食は8時前》

<p7>…3月2日(金)夜:ここまで来るということさえ、単純なことではないのに。その上、恋までしようというのか、私という人間は。 私は一体何を考え、何をしにここまで出てきたのだろうか。

<p11>…3月2日(金):めずらしいことに、この東京で火の用心のだろう、さっきからヒョウシギの音が聞こえてくる ―昔、小学生のころ、皆と同じことをやったのを、なつかしく思い出す。おくびょうで、寒がりの私がカライバリをしながらまわったことを。
 そして、美しい人である。私は“美しい”という形容詞を使うのがいやなのだが、この人はそんな冷たさを感じさせない。 最も私をうれしがらせたのは漱石が好きだということや琴ができるということ、国際問題―広くいえば政治―に関心があるということなど …どれほど私を喜ばせたことだろう。それに、創作に関しては私の先輩をゆくのだ。…

<p12>…3月2日(金)…“ひねくれてる!”―彼女を評してT(“婚約者”)はそういったそうだ。強情だということらしい。 それで私は聞いた。そのコトバを承認できるのかと。すると彼女は、そんなこととっくの昔に自覚しているのだと…。

<p12>…3月2日(金)…私には二人の女友だちが既にある。《高校時代の》S君流にいうと、こりゃウワ気だ。 だが待てよ。…当の本人である彼女が何と思っているのか、それは全然考慮されていない―ということは、これが喜劇あるいは悲劇として終わる可能性を充分に持っているということだ。

<p13>…3月2日(金)…すでに、この下宿を背景とした、人物モヨウなどを主題とする小説が出来そうだなどと、私は本分を忘れたことを考えてしまっている。

<p14>…3月2日(金):…今、起きているのは私だけのようだ(0時7分前)。あす東大を受ける人は、ここに二人いるそうだ。 Nさん、全力を尽せ! 心から成功を祈る!

<p14>…3月3日夕方6時30分…何ともわびしい生活! 今日は土曜日であって、下宿の中は静かなのだろう。全く所在ない“身分”である。 これが下宿生活だとしたら、少々考えものだ。

<p17-21>…3月3日(土):…
“詩”ラヴローン!〔失恋〕Lovelorn To Miss N H (112行) 省略

<p27>…3月6日(金)夜:無事、早大の受験が済んだ。…全般的に考えてみると、どうも易しいようで、余程の高得点じゃなければ、 パスしないのじゃないかと思う。(英語・国語・世界史)

<p33>…3月6日(金):2時過ぎ、洗濯。シャツとズボン下、下着をやった、少しお湯をわかして。シャツはすぐにかわいたようだ。
 …小浜市役所から、戸籍謄本と抄本各一通がとどいた。これで一安心。午前中、数学の勉強をやった。これからも主にそればかりやるつもり。
 …ココアはおいしいせいか、よく飲むので直ぐになくなってしまいそうだ。腕時計がこわれてしまって、なおそうかどうかと迷っているところ。

<p34>…3月6日(金):ああ、今夜はどうも気分が悪い。頭が痛い。さっき少し昼寝をしたとき風邪でも引いたのかも知れぬ。
 …先ほど、風がひどく、前の運動場の砂が舞い上がって、部屋に容赦なく入り込んでいる。東京では、春になると、こういうのが多いという。
 …Y君のところには、今父親が来ている。彼は明日から3日間東大2次の試験を受ける。自信があるようだ。 私は昨日彼から、京都から送ってきたというミカンをかなりもらった。誠に申訳ない気がする。 別に大したことではないのだが、何もおかえし出来ないということが私を悲しませるのだ。
 また紅茶だってよばれた。私は実際情けなくなる。これはどこにいても同じ気分だが、何故にこのような現実のギャップがあるのだろうか。

 考えてみるに、そもそも私などが、私学のしかも東京まで出てきて早稲田に行こうということ自体が、すでに身分不相応なのだ。 大学に行かしてもらえるだけで大いに幸福としなければならないことは確かである。大学生がエリートであるならば、東京の大学に行くというのは、 さらにエリート中のエリートである。それは経済的にめぐまれているという意味だ。しかも、同じめぐまれているという中にあっても、 さらに上下の差は甚だしい。裕福であるということは絶対の強みである。
 そこで考える。学問には貧富の差はない。そんな差別を設けることは間違ったことだ。人間が―この場合、学生だけに限るが―裕福だということは、 何も彼らが自らの力によって、そうなったわけではない。同じことは逆の場合だって、いえる。 つまり、貧富の差はその学生の意思・責任には無関係に存在するのだ。
 しかしながら、現実には、それをもって学生自体を評価するのではないか。それは甚だしく不当なことだ。 そこで、そのような不当なことを、より是正するために努力せねばならない。 ・・・中断・・・

<p36-37>…3月8日(木)夜:…父から、また手紙が来た。早稲田で昨年まで理事をやっていた人を知っている、その人に連絡せよという。 私はどうしようかと、下宿の小父さん・小母さんと相談した。やっておいた方がいいというので、父の書いた文面どおり写して速達(これも指示通り)で出してきた。
 これは一種のコネだ。小父さんらの話によると、世の中はすべてこれだという。確かにこちらへ来てからも、その話ばかり聞かされた。 私は、そんなコネがあるとは夢にも思わなかったし、またコネを頼りに早稲田に入ろうとも考えてはいなかった。 とにかく、実力だけで入ろうと思ってやって来たし、また試験もそのような心構えで一生ケン命やったのだ。
 もし、そのようなことが事前に知らされていたら、私は恐らく余りいい気持がしなかっただろうし、受験にも熱が入らなかっただろう。 だから、それに関して私は少しもいやな気分になることもなかったし、無事に受けることができたのだ。
 処で、もしそういうコネのために合格するとしたら、私は一体どうすればいいのだろうか。私は依然として当り前の気持でいることができるだろうか。 そういう“関係”が成立することによって、私はある程度、行動が制限されることになる。出来ることなら、一切のそういうものを頼らず、 アテにせず、自分の唯一の実力と努力で生きていこうと考えている。
 それは、ある意味においては人間の弱点をついたものである。一般的には、処世上そういうものがあるとないとでは、随分違うということはうなずけるのだが。 今度の場合、もう出してしまったのだから、仕方がない。今後気をつけることにしよう。
 考えてみれば、私がこうして東京に出てきて、安心して生活できるということも、広い意味での“コネ”故ではないか。
 社会というものは、人間と人間の相互関係であるから、それらと無縁であることは絶対免れられないということも真理だ。 だが、出来るだけそういうものに頼らないことを心がけよう。なぜなら、それら故に、行動を制限されることは、人間の本来のあり方として不自然だからだ。 何も無責任なことをやるという意味ではない。ただ折角得た自由が己の意思に関係なく侵害されるということがガマンならないのだ。
 今度の場合も、もし事前に知らされていたら、士気は恐らくくじかれていたことであろう。それがなかっただけでも、私は救われたのだ。

 日中、数学の勉強をやった。思ったより、よく解けるので、少しは気が楽である。やるだけやるのだ。悔いのないように。

 東大2次試験第1日。Y君得意の数学ができなくて、愉快になったといっていた。Nさんは、どうだったのだろうか。

<p38-43>…3月9日(金):…“詩”「いらだちIrritation」 130行
 (文中に「黒い瞳」の歌詞) 省略

<p44>…3月9日(金):今、大分良くなっているが、朝から頭が痛い。それに昨夜から、Y君に借りた小説を読んでいた。 “面白い”部類に属するが、ただそれだけのことだ。
 〜〜夕方〜〜
 少しばかり数学の問題をやったが、今日はさっぱり分からない。

<p45-52>…3月10日(土):…“詩”「無題」 184行
(早朝)

ああ遂に貴女に会えなかった
貴女は今や最後の努力をするのみ
私は貴女がここに帰ってくるころには、もう
いないのだ
貴女は午後に ここを発つ

そして、恐らく永遠に私の前には現れないのだ
それが私にとってどんなに悲しいことであるか
貴女は理解してくれるのだろうか
・・・・・

<p46->
私は遂にチャンスを逃がした
チャンス? そうだ、確かにチャンスというものだった
貴女はそのまま消えて、出て来なかったのだから

3・10 格言浮ぶ「生活は貧困でも/恋をするとき/人は“貴族”となる」

3月11日(日): (午後) 続き

貴女は遂に去って行った 風の如く
私の前から消えてしまった

それで、私はもう貴女に会うまいと
あきらめていた
貴女の後姿を見たところで 私は
貴女に会ったことにはならないのだ

私は不本意ながらも貴女の部屋を
訪ねた、あの日以来 貴女に
会うことはないだろうと考えていたのだ
何故なら如何なる理由も見い出せないからだ

受験中に貴女に会うことは 尚更許されない
ことだと
私は決めてしまっていた
しかし、現実はそうではなかった
貴女には予想通りの成績かも知れないが
貴女は充分な実力でもって、難関を
突破したのだ―いや、確実に貴女は突破する
ことだろう

貴女にはささいな事柄は苦にならないのだ
私は貴女を訪ねるべきであった
一口声を掛けるべきであった。それがむしろ礼儀だったのだ
だが私はそう思うことがどうしても出来なかった

貴女をそのようなときに訪問するのは
極めて不誠実なことだと思っていた
だから、私は自分を抑えた
行くべきであるというのより、行くべきでないという考えの方が
私にはまだ苦痛が小さかった

私は貴女が出掛けた後
貴女方がもう故里(クニ)へ帰ってしまうと聞いていたので
貴女の母上へあいさつに行った
これには随分決意が必要だった

私は色々話をした
貴女の母上はとてもいい人だ。 話をしていると
母上の顔がだんだん貴女と混(コン)じ合うように
私には見えて来た 私は実は貴女と話していたのに
他ならなかった

母上はほとんどすべてのことを 短時間の内に
話してくれた
貴女が、ひとり東京に出て 下宿などする
ということは
母上には、この上もない心配の種なのだ

貴女が今までのような 自分以外の生活から
今度は 自分自身の生活を始めるにあたっての
幾多の困難と苦労は
それは貴女にとって プラスにこそなれマイナスには
決してならないのだ

<p50>
貴女の母上に 私はいわれた
どうかよろしくと
私も同じ気持だった
これは世辞ではないことが 後刻明瞭に
知ることができた

ああ、それでも貴女は去っていった
ただ、ひとこと これで帰ります と私に告げただけで
貴女は いつもの微笑をこのときに限って見せなかった
私にはその意味が解りかねた
私には、貴女を見送っていく勇気がなくなっていた
私は逃げるように部屋に帰った

貴女の筆名が“モナ・リザ”だということを思い出した
貴女のあの私に見せた最後の表情は、その名の如く
私には謎であった
私は例の男たちがいなかったら もっと快活になれたものを
(地方出身の兄弟:3年浪人の東大生とまだ浪人中の東大受験生)

<p51>
それに貴女の表情は
私にほとんど何事もしゃべらせなかった
いうべき言葉は無数にあった
語り合うことも無限だった
だのに、あの お別れの貴女の表情は
私にはとてもおそろしいものだった

貴女は行ってしまった
私がどんな気持でいるかということを
少しも理解せずに

私は貴女と語り合いたいということ以外に
貴女に接近する理由がないかもしれない
だが、それだって立派なものではないか
私は弁解がましく
自分の行動を正当化しようと
あのとき貴女の前で
お互いに求め合うものがあるから
このように一緒に話し合うことができるのだと
いった
貴女は、それを認めてくれた、きわめて容易に
私はとてもうれしかった

<p52>
それが恋というものかどうか、私には分からない
だが、そんな定義は不要なのだ
考えられる、もっとも気高き結合は、何と呼ばれようと
そんなことはどうだっていいのだ

貴女の現実存在は、私にとってすばらしい利益なのだ
私が貴女にしてあげられることといったら
全く皆無かもしれない
だが、そうだとしても私は貴女を忘れはしない
そして、貴女と離れることはとてもたえられることでは
ないし、またそんなことは考えることもできないのだ

貴女は去っていった。終始貴女につきまとう、あの男たちと
共に、私の目の前から去ってしまったのだ。

<p55> 3月12日(月): (午前)
 昨夜、Y君と話をする。そして、私はいやというほど自分の不勉強・無努力ぶりを知らされ、かつ思考力が不完全であることを知った。 それは私にとって甚だシャクにさわることだが、そのような未熟さを知ることによって、より高い水準に達しようと努力する糧とすることができたら、 私はむしろ喜ばねばならない。・・・・・もっとも、私は何をいわれたっていいのだ。不完全なこと―一般の人以上に―はよく承知で、 そのために東京へ一人で出てきて、なるべく多くの人と接して、学ぶべきところは学び、また自分の欠点を教えてもらって、それを直そうと思っている。 やはり、大阪にいたのでは、井の中のカワズになってしまう危険が充分にあるのだ。人と接するには、何かを学びたいと思えば、 自分以上の人と交際しなければならない。

 …これ以前にも、私は学問を続けようと考えてはいた。しかし、それは私が茨木で生活していて、ほとんど自分の、 まさに自分だけの考え方で勉強しようとしか考えてはいなかった。だが、それは甚だ偏った、ちっぽけなものでしかないことを、ここへ来て知った。
 まわりには―高槻時代―相当勉強をし、かつ出来る人がいるにはいた。しかし、それらの人に関して、私はある種の尊敬の念と、 それと裏ハラの軽蔑的な考えを持っていた――これが、私自身に関し、勉強をしないという口実の元となり、 今やその勉強しなかったことが最大の不幸となっていることを悲しくも認めざるを得ないのだ。 私は、人間は学問も出来、かつスポーツや趣味など、人格的にも円満であってはじめて立派だといえると考えていた。 いわば、それは理想像だが―私はよくできる人、単に勉強しかしない人を軽蔑した。だが、軽蔑しながら、自分自身は彼らに勝つ程の勉強をしていたのなら、 そしてそれ相応の成果を得ていたのなら、少しも悪い考えではなかった。 ところが、私は単に軽蔑するだけで、勉強の方は少しもしなかった―全く、しなかったという方が正しいだろう。 こういう考え方をした背景には、不幸にして、次のような理由がある。それは、私より勤勉で―多くの同級生がそうだった―実際よく勉強していた。 しかし、その成果を見ると、彼らは一様に大した成果を挙げていなかった。つまり、やれば出来るはずなのだろうが、現実はそうではないものだから、 私は何だ、あんなに勉強しても少しも成績が上がらないじゃないか、と考えてしまったのだ。

<p56-57> 3月13日(火): (朝) ―上の“ザンゲ”を続けよう―
 それは甚だしく卑怯な考え方だった。しかし、彼らに比べて、英語だけは一人前(私たちの水準における)になった。 …だから、彼らを嘲った。なお悪いことに、私は自己満足をしてしまった。それがために、勉強はおざなりになった。
 その最も大きな原因の一つは、高槻において、よい教師に恵まれなかったことだ (だからといって、恨みはしない。もう過去のことであるから) 。 そのために、真面目に教師の言う通りにやっていたら、あるいはもっといい人間になっていたかもしれない。 ところが、私たちの教師には権威がなかった。この場合の“権威”とは、真の人間的にもすぐれ、また学問に対する熱情とそれ相応の信頼するに足る実力とを備えた人を指す。 信頼できない、信用することができないということは、私の場合最大の欠陥となった。 この考えがすべての考えの根源となり、そこから発するために、物事に対して懐疑的となり、そのために物事から一歩離れて見るという習慣をつけてしまったのだ。・・・・・
 学校の教師のいう通りにやればよいと書いたが、この通りの意味では承認できない。 教師―教育というものは、生徒の内に持っている力を引き出して、それでもって生徒に正しい方向付けをしてやればよいのだ。 ところが、私の場合―私の学校ではそうではなかった。あれは教育ではなかった。単に教科書上の活字をそのまま伝えるということに過ぎなかった。 それは生徒にとっても教師にとっても甚だ楽な仕事だった。なぜなら、学校は試験の成績さえよければ卒業させてくれるのだから。 その上、その試験というのは、その愚かな教師の出題であるから、教師のいった通りを書けば、いい点が取れるという“大法則”が厳然としてあるのだ。 だが、それが甚だしく生徒に不幸であるということを、悲しいかな生徒自身は知ることができない。 そのために学問を知ることなく“卒業”した。それは借り着なのだ。自分のを持っているということに少しも気づかずに、他人のを借用しているのだ。 だが、それもやがて効き目がなくなる。なぜなら、それには深みも何もないのだから。しかも、大学に入るのはいい就職がしたいというためだけなのだ。 そのために、一生ケン命勉強するということが、私には少しも理解できなかった。
 私も大学には行きたい。それも真の学問のために、人格形成のために、そういう考えだから、皆がやっているような“受験勉強”などする気にならなかった。 大学に行くのは、人生における単なる一時期であって、ゴールではない。ために、勉強をするとしても、将来の自分の人生コース上にのっとって、 それにあった勉強をするのが本当だと考えていた。
 その考えは非常によくて、正しいのだが、一般の受験生のように勉強をせずに、目的を貫徹しようと思えば、彼ら以上の努力が必要なのだ。 ところが、私はそれをしなかった。しようという気が起こらなかった。
 ・・・・・私の場合、文句をいうばかりで何ら建設的なことをしなかった。私は受験勉強というものを、ひどく軽蔑していた。 なぜなら、それは真の学問ではなくて、単なる大学に入るための手段でしかないからだ。そして、失敗した。 今年、早稲田にパスしても、それが成功ということにはならない。もっと根源的なものなのだから。 <中止>
学園新聞 2「認められる矛盾」参照》

<p59>…3月13日
 “You are the object of my affections.”(意中の人)
 所在なき故、略す

<p59>…3月14日(水) 早朝:早大R文1次合格 内定す。
 昨夕5時ごろ、N氏夫人より電話があり、1次は通った旨を聞く。

<p60>…3月15日(木):夜半…
 昨日、私は(通信添削会の)Y先生(女性)と一緒に、早稲田の発表を見にいく(午後1時)。結果はすでに分かっていたが、やはり確認して安心した。 先生からおめでとうをいわれる。ジュースで乾杯(?)した。
 《過保護的だが、先に受けた同志社の入学金の納入期限(同日3時)のため、大学近くの印刷屋の電話を借りて、茨木に知らせるためだった》

<p61>…3月15日(木):夜半…
 早稲田大学学生身上記録に、自己の性格を評して穏和・愛他的・悲観的・ペシミスティックと記す。 在京保証人には、当然のこととしてN氏にお願いすることとして、今朝お宅を訪問。直筆で書いて下さった。
 《1浪での受験は、東京外語大を受けることも条件だった。早稲田に行きたく、また保証人(N氏:父の友人で同大元理事・校友会幹事)との関係もあり、 いったん茨木に帰って、同大学受験を放棄することになるのだが、家族(保護者)との間に、ひと悶着もあった。》

3月16日<19歳・大学浪人中>文京区<下宿>より兄ほか<茨木>あて速達に
 「…今、近くの小石川〒局へ行って、貯金を下ろせるかどうかを聞いたところ、身分証明書その他保健証、 米穀通帳等本人であることが分かるものが必要とのことです(どれかを思ってもらってもいいのですが)。 …18日正午に正式発表ですが、それを確認した後、その日の第一せっつ(京都着19・16)または第一よど(同20・58)で帰茨し、 貯金をそちらで下ろして、20日のうちにこちらに帰ろうと思います(手続は19日〜23日)。」


〔米穀通帳(1942・6導入〜1981・4廃止):これは1971当時のもの〕

<p61>…3月24日(土)夜:まる一週間というもの、このノートは、ふれられたことも開けられたことも、更に一字すら書かれたこともなかった。 だが、私はその間、何もしなかったのではない。何かをしていた。ただ、それがあまりにも異常なために、私自身、自分を失っていたのだ。
《上記、東京外語大の受験や同志社大の放棄など、帰阪してからの保護者との悶着(齟齬)などを指す…》

<p63>…3月29日(木)朝:大変な毎日、それでも私は生きている。
 以下の各項は、この29日にまとめて記したもの
3月20日:(帰阪中)およそ12時間以上Sと話をする。ユカイ、いい友。
3月21日:(夜行で帰京中)早朝、S町に着く。Mチャンとは午後2時間半ばかり話す。私にはホホずりしかできない。
3月22日:入学手続を完了。やっと安心。
3月23日:写真を撮り、Y先生宅を訪問。Nさん(“詩”の主人公)の話をする。別に大したことではなかった。 その私のルス中、下宿に彼女からデンワがあったという。私のことを聞いたというから、 当然私が応答してもよかったということは−彼女は(先の兄弟との“仲を裂いた”という噂などに)何とも思っていないという証拠である。
3月26日:下宿探しを始めたが、4つまわって全部だめ。雨の中で、泥んこになり、悪戦苦闘。
3月29日:午後(早稲田の2年先輩、兄の友人)M子ちゃんに会う。好印象であった。法学や文学について、少しく意見をかわした。

<p65>…3月31日:引越しは午前中、80円タクシーでやったが、案外簡単に済ませることができた(タクシー代440円)。
 その後、前の下宿で友だちになったN君と小石川の東大植物園へ行った。彼の家は林業と農業が主で、彼は教育大卒業後(今回はスベル)、 田舎に帰って農業問題に取り組むか教育(辺地の)に従事するという夢を持っている。私はそういう人間をえらいと思う。 だれでもいやがることをすすんでやろうというのだから、敬服の至りである。
 ・・・その後、彼と新宿御苑に行ったが、時間がなく、更に神宮外苑まで歩いて、硬式テニスを少し見て帰った。 その夜、その下宿に最後の荷物を取りに帰って、こちら(中野区鷺宮)に来た。

<p65>…4月1日(金):エイプリル・フールは全く所在なく過ぎた。しかし、実に沢山の買い物をした。 洗面器・お盆・ゲタ・クズカゴ等、案外馬鹿にならないものである。自炊はしないつもりで、その道具は何も買っていない。 パンだけは食べ、大学へ行って定食なども食べている。

<p67>…4月8日(日):昨日、早稲田大学に入学。実に感慨無量だ。式は正味55分で終了−好感。総長の式辞もざっくばらんで、気にいる。 M子ちゃんが来てくれる。ウレシイ。

4月9日:学部入学式…家族あての手紙(速達)
1962(昭和37)年4月13日<19歳・大学1年>中野区鷺宮<下宿>より
 「…9日、学部入学式があり、その後各クラスに別れて(露文学専修は58名、内女子は3分の1ぐらいだそうです。 とに角、4年間皆一緒に学ぶことができるのですから、マスプロ教育とはいっても、文学部系はめぐまれています。 しかし、露語の時間は2クラスに別れます−語学は小人数の方がいいですから)、主任や他の先生方の話を聞き、後で記念撮影がありました。 先生方の話によれば、早大露文科が出来たのは大正9年で、第1回の卒業生が二人(主任が一人)教授をしています。 全国で唯一の露文科なのですから、誇りとともに、責任も重大です。女学生をゲキレイして、男の方は何もいわれませんでした。
 その日、入学式の始まる前、パート・タイマーとして、1時間200yen働きました。最初のアルバイト(?)「アサヒイブニングニュース」の購読勧誘をしている先輩を冷やかして、 手伝ってやろうかとやり始めたのです。新入生に向って(ボクも実は新入生なんですが。それがちっとも新入生らしくなくて、分らないんです)、 「むずかしい試験を見事に突破したんでしょ、それぐらいの実力があるなら、すぐに読めますよ」なんておだてて買わせたものです。 その先輩、「お前うまいなあ」といっていましたが、小心もののボクが、まるで別人のようにふるまうのですから、ちょっとコワイ気がします。 今日もちょっと手伝いましたが、一人も勧誘することができませんでした(もっとも雨が降ったセイもありますが)、 このアルバイト1日1,OOOyen以上になるそうで、来春こそは、もっと場なれて、やってみようと思います。 《以下略》」

 《このアルバイト、翌年もやっている。/2・13〜2ヶ月間休暇「アサヒイブニングニュース購読勧誘」13日・日大12件/14日・日大6件 /16日・慶大日吉10件/19日・横市大4件など》

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大学在学中のノオト(9冊:「足良 哲」「都真美」は当時のペンネーム)
  (I)「ノオト 最初の十日間 (足良 哲)」(1962・3・1-9・14)
  (II)「芸術至上主義 (橋本健午)」(1962・9・21-1963・3・4(原題:露語)
  (III)「芸術至上主義 (橋本健午)」(1963・3・1-1964・3・-(原題:露語)
  (IV)「IV (・・・)」(1964・8・24-1965・9・14)
  (V)「主人公の言葉 (都真美)」(1965・4・14-7・22)
  (VI)「狂想曲 第六番 (都真美)」(1965・8・14-9・4)
  (VII)「第七のノオト (都真美)」(1965・9・4-11・4)
  (VIII)「きのうの続き (橋本健午)」(1965・11・4-1966・4・2)
  (I X)「道化 (都真美)」(1966・4・5-9・21)


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