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「ミニ自分史」(55)「77年7月、勤めを辞めた感想など」

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 《私が辞めるキッカケの一つは、S出版社のM氏から、仕事を回すから編集プロダクションを作ってくれといわれたからだが、 直前にB出版社のH氏から横槍が入り、なぜか私に関係ない次元で話は頓挫した。会社は作ったものの、数か月で休眠状態となった。 法人登記をお願いした弁護士は、費用は出世払いといってくれたが、いまだに払っていない》

「1977年7月20日、早朝」

 土用。めずらしく涼しく、気持のよい朝である。
 G社とも、今日でお別れである。何がしかの、感慨はある。もう少し、働きようがあったのではないか、との反省もないわけではない。
 しかし、さしたる未練はない。去るのが惜しい、もったいないという気もない。
 人生は、自ら切り拓いて行かねばならないものだし、また選択でもあるのだ。
 他人の思惑で動かされたのでは、決断の意味はないし、また責任のとりようもない。
 社内の多くの人が、あいさつすると、折角親しくなれたのに残念だとか、もう少し辛抱してくれたらとか、 良識派はどんどん辞めていくねとか、それぞれ口にした。ありがたいことだと、感謝している。
 しかし、彼らは私と同じ基盤に立っているので、羨望や何かの気持でこそあれ、それ以上の何ができるものでもない。
 社の上層部、つまり経営者側に、もう少し経営能力・熱意、あるいは危機感があれば、今までに、社全体に、 何らかのよい方向づけがなされていたと思うが、いかんせん、右の要素が欠落、いや始めから皆無の人たちが、 その椅子を与えられただけに過ぎないので、望んでも無理なのである。
 そういうことは、昨年の始めころ、編集から総務に移って間もなく感じていたことで、常識的にみて、 全く異常な会社であるのは、当時より、だんだん、その傾向が強くなっている。

 これは大変不幸なことであるが、私たち下の者が、経営者に向かって言えることではないし、また聞く耳持たぬ人たちだから、 それも無駄なのである。
 しかし、もう少しまともな、謙虚な気持でいるならば、さらに、待遇が世間並みというか、 常識の線ならば(同年の広告部長と、私との年俸の差が何と百万もある?!)、私としても、新しくできた会社の故に、 総務としてもっと働きやすいような環境作りをする意志はあったが、いかんせん、それは無駄なのである。
 本当の、仕事というものを、皆目判っていない人が、それぞれの椅子に座って、高給をもらっているだけで、 この会社をどうしようとか、独立させようとか、口では言っていても、そんな能力もなければ、努力もしていないのである。
 それにだまされてはいけない。彼ら、K社系(一部の社員も含めて)、M銀行出向の経理部長らは、会社がどっちに転んだところで、 自分たちの身は、安全なのである。
 彼らとて、多くは肩書だけつけてもらって、体よく追い出されたわけだが(だから彼らに多くを望んでも仕方がない)、 またK社が日本で、出版社として初めて新聞を出すという、言葉に見事、だまくらかされて、集まった人たちに、 二流がいないのである。一流は勿論、二流がいないということは、三流か四流だということである。
 これも事実である。いろいろなシガラミで入れてもらった人たち(私もその一人にちがいない)が、組合運動にも走れなければ、 何も発言できず、辞めることもできないのは、もうどこにも戻れないからである。
 いや、それ以上に、彼らは、以前に比べて、日の当たるところへ、やっと出てきた喜びの方が強く (給料も以前より、いいのだから)、少々の不満は、どこかへ飛んでいってしまうのだろう。
 私が、今度辞めるということで、意外に多くの人が、どこかいい処ないかねとか、一緒に連れて行ってくれないかとか、 真顔でいうのは、社内の雰囲気を知らない人から見れば、異様に思うかもしれないが、ごく自然の気持なのである。
 また、あろうことか私は、編集局長べったりの広告会社社長から、「行き先が決まっていないようなら、うちに来ないか」とも言われた。
 長続きしなかったのは、ある意味では、私の敗北であるかもしれない。私の人生ということから考えれば、35歳になった現在、 何かを決断しなければという将来への展望が大事なので、今日、明日という目先のことだけならば、現状維持ということになる。
 いずれにしても、あの時、どうすればよかったということは、先になってみなければ判らないことで、またそれが、 良きにつけ悪しきにつけ、自ら選択し、決断したのだから、悔いは残らない。
 ただ前進あるのみである。
 今日、G紙は、第516号目である。短いような、長いようなつき合いであった。何がしかの知識と、実務の勉強と、 幾人かの友人ができたことを、感謝している。
 G社の、より一層の発展を願うものである。

 前途はきびしいかもしれない。いろんな障害にぶつかるかもしれない。しかし、それはどんな仕事をしていても、ぶつかるものではないのか。
 自分でやるか、雇われているかのちがいで、安全だったり、そうでなかったりなどということはないだろう。
 要は心がけ次第である。誠意を持ってあたれば、自ずから相手に通ずるものである。
 どこにでも、常識はずれや、キチガイはいるものである。恐れるに足らない。キチガイにはキチガイなりの良さがあるのだ。
 ただ、私は、犠牲の二の舞を演じるだけのお人よしではない。対決すべきときは、男として、勝負する、それだけである。
 己にやましいところが、なければ、己に忠実に、前進あるのみである。
 他人は、私のそういうところを、買ってくれたのだから、ありのままで行くより仕方がない。私に逆立ちをしろといっても、 できないものは、できない。また、他人の折角の好意だからといって、逆立ちをしてまで、何かをやろうという気はない。
 私は、ありのままで勝負するだけである。また、私の唯一の取り柄は、それでしかないのだ。
 いずれにしろ、私にとって、こんな人生の大転換の時に、身も心も平静なのは、われながら、驚くほどである。〈以上、原稿用紙6枚半〉

同年「8月1日(月)」

 「事故のてん末」ではないが、真相というものは、いくつもあって、いかようにも解釈され、誤解され、そしていつの間にか、 悪印象だけが残される。
 私は、とやかく言うのが嫌いなので、余計に色々と取沙汰されるのだろうが、他人の口に戸は立たぬし、 自ら正しく生きていくよりないであろう。
 しかし、他人は信じられないものである。今更というわけでもないが、〈20字×12行〉

状況を簡単に説明すると…

(2007・07・09橋本健午)
 設立されたばかりの会社に1年7か月ほど勤め、編集→総務→経理と異動する。編集部ではさしたることもできなかったが、 創刊2週間ほどの11月14日付に、梶山季之の「筐底記」(遊虻庵山人)に関する記事を書く(もちろん"独占スクープ"であった?!)。  その数日後、なんと顧問としての弁護士さんの紹介をさせられた。
 その直後に総務部に配置転換となる。同部には当時、部長とアルバイトの女性しかいなかったためもある。 ここでの仕事は多岐にわたったが、要するに社員等のあらゆる面倒を見ることが主だった。つまり何でも屋、雑用係である。 半年ほどした翌年4月、途中採用の試験問題を作る(後掲)。当然、試験監督もおおせつかる。
 秋には、2度目の異動で経理部に、現部長の代理ができるようにと"心得え"して移される。 しかし、やることは総務のつづきが多く、昭和51年10月に社内配置換えの図面作成と指揮? をして社長賞をもらう(賞金額は5千円)。
 社長賞の"ご褒美"かどうか知らないが、その月末には京橋消防署管内 自衛消防隊「屋内消火栓操法競技会」なる、 管内25組の会社・マンション代表が参加するものに無理やり選ばれ、築地本願寺境内で各4人一組の一番員として"出場"?!  へっぴり腰のわが姿を想像するだけで、情けなかった。
 この間、大阪の父が死に、義父も亡くなっていた。梶山季之の3回忌(5月)は広島で行われ、テレビインタビューに答えていた。
 そういえば、"モデル"を務めたことも、二度三度。紙面にあるのは「健康特集」…「サラリーマンに悩み多い 腰痛の治し方」(1977・3・15付)で、 ネクタイを締めたまま、腰に手を当てて反り返ったり(横向き)、前傾して両手を左右交互に振り回したり、机の間での"集団"によるラジオ体操(後ろ向き)の3点。 他に、マスクをして、退社する男女数人と、もう一つは、新製品の紹介らしく、ある製品(ゴルフ場での望遠鏡?)を手に持って覗いているところ。 これなど、本人でなければ、だれがモデルか分からないところがミソ?!

 それはともかく、辞めた理由は冒頭に記したとおりだが、こんな日記もあった。

「(1977年)3月5日(金)」

 「彼は、自分の命令したことに、素直に従ってやっておれば、それで満足なのである。
 しかし、ちょっとでも聞き返したり、確認したりするのが気に入らず、また他の仕事をしていても、 それは"仕事"ではないと思っているのだから、始末に終えない。
 私は、他の人たちのように、ケイバもやらず、私用の長電話もせず、部長のように、いつも菓子かなんかも口にせず、 マンガも読まず、まあ仕事をしているつもりであるが、それを正当に評価することができないのだから、どうにもならない。」

 しかし、文中にあるように、「行き先が決まっていないようなら、うちに来ないか」と言われたのは意外であった。 もっとも、行く気などさらさらなかったが、"人は見ている"ものだと思うと、まんざら悪い気がしなかったのも事実である。

〔試験問題〕A…書き取り/B…読み(それぞれ25問つくる。取消線は問題から外された?)
 A)つぎの語に正しい読みをつけなさい。
 1)膠着、2)行平なべ、3)石榴ぐち、4)臥所、5)御用達、6)畏怖、7)矍鑠、8)怨嗟のこえ、9)衒学てき、 10)ばり雑言、11)杵柄、12)白髪ぞめ、13)検非違使、14)合歓のき、15)経帷子、16)鴛鴦のちぎり17)書肆、18)白粉、19)遊冶郎→嗜虐、20)略奪けっこん21)枉法収賄、22)精進あげ、 23)紺屋のしろばかま→逡巡、24)憔悴、25)精悍

 B)つぎのカタカナの部分を正確な漢字に書き直しなさい。
 1)ジョウザイを集める、2)オジョクを受ける、3)ホリュウの質、4)トサツ場、5)自殺ホウジョ罪、 6)ラガン視力をはかる、7)チュウヨウを得る、8)ヨウボウ魁偉、9)天孫コウリン、10)シンシな態度、 11)バレイを重ねる、12)カジ祈祷を受ける、13)恨みコツズイ、14)ケンカ腰、15)彼はカナヅチだ、 16)チャワン酒、17)セイコウ雨読、18)ケイショウを鳴らす、19)ジョウゼツ家、20)自然のセツリ、 21)キュウチョウ懐に入る、22)会社をキョウカツ、23)音楽にタンデキ、24)ユトウ読み→別件タイホ、25)永久ソシャク権

 さて、実際にどうだったか、もう記憶にない。もっとも、取消線(削除あるいは修正)について想像するに、 上司から見て、(1)難しすぎる、(2)仕事にあまり関係がない、(3)作成者(私)の"私情"が入っている、(4)自分の好みではない、 などの理由によるのではないか。
 悲しいことに、今では正しく書けない漢字ばかりだが、当時の私に知識があったのかどうか。 とくにA-21「枉法収賄」(オウホウ=法を曲げる)なんて、このころにそんな収賄事件でもあったのだろうか。


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