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「ミニ自分史」(88)「母の書き残したもの」

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 母トワの書き残したものは、(1)手紙類、(2)日記類、(3)手記の3種に分けられる(名古屋時代)。

 ずい分時間がかかったが、やっと母に関わる手紙類の“分類”が終わった。  まず、母が受取ったものに対する返事や出した手紙類は、とうぜん残っていないが、書いたものの出さなかった“手紙”はかなり残っている。 それは便箋であったり、ノートの上であったり、ともかく白地の紙があれば、ボールペンのほか万年筆でも書いていたようだ。

(1)手紙類

1、私および家族あて(付:私と家族から母あての場合)

  封書はがき現金書留書簡郵便健午より封書/葉書SよりYより
昭和48年197329140043-/--/--/- 
昭和49年19743040034-/--/--/- 
昭和50年197535171053-/--/--/- 
昭和51年19761082020-/--/--/- 
昭和52年19771613020-/--/--/- 
昭和53年19782045029-/--/--/- 
昭和54年19792144029-/--/--/- 
昭和55年19802095034-/--/11/-1/1
昭和56年198120540291/13/-2/-6/1
昭和57年1982271068512/11/11/-4/2
昭和58年1983431215612/21/-1/14/3
昭和59年19841590428-/82/-3/15/9
昭和60年19858900171/22/-1/44/6
昭和61年198651301197/6-/2-/47/12
昭和62年1987224012712/81/11/114/11
昭和63年19889700164/6-/1-/-4/7
平成元年1989210034/2-/3+1-/-4/6
平成2年1990     4/61/1-/15/8
平成3年1991     -/9-/2-/--/11
平成4年1992     -/7-/--/1-/8
平成5年1993     2/--/--/-2/-
平成6年1994     1/--/11/-1/-
   332 131 31 19 51340/5811/1310/1361+84=145

 昭和48年から平成元年までの17年間に、母から私たちあてに来た手紙類は、ざっと計算すると封書332、はがき131、現金書留31、書簡郵便19、計513通である。
 それに対する母あては(年数が合わないが)封書61、はがき84の計145通であった。もちろん、失われたものは双方に若干あると思われる。
 昭和48年は、2月に私たちの結婚した年であり、同50年には1月に長女が生れ、そのあとわが師梶山季之の急死(5月11日、香港)と“事件”が起こっている。 一段落したその秋、私は新会社「日刊現代」に勤めたが2年も続かなかった。以来、雑誌を中心に取材原稿を書いたり、校正の仕事をしたりと、 40歳の57年10月に出版団体に勤めるまで、フリーの身であった。この間、本名で2冊、筆名で1冊の本を上梓している。 とはいえ、生活が不安定ではないかと心配して母から何回も“差し入れ”があった。その後は、私の方から、モノや現金を送るという時代を迎えている。
 この間、86年9月には長男が生れており、89年にはハガキを出している。なお、1988年と90〜92年の誕生日(11月3日)には前日、私以下4名連記の祝電を打っている。

 通信は電話でも行われており、母から度々かかってきた。一方、私は78歳の母が(娘=私の姉が病気で入院し)一人住まいになった昭和58年1月後半から、 毎朝7時45分に電話を入れ、母が元気でいることを確認してから出勤するのを日課としていた。 地方出張の際、朝食を中断しても欠かさず行った。その時間になると、不思議に思い出すのだ。どこからかけても10円ですんだのは有り難かった。 後で聞くと、母はその時間には電話の前に座って待っていたという。
 それが途絶えたのは、母が過労から緊急入院した昭和62年1月20日で、その年4月末に退院、有料老人ホームに入った同年5月に、再び私は朝の電話を開始した。
 また、母を訪問するのは、それ以前から時々行っていたが、この昭和58年7月に兄2人と協議し以後、母の面倒は私が見ることになった。 “条件”は母が今までどおりの住まいで自由に暮らす、というものである。
 ちなみに、東京⇔名古屋(新幹線にタクシーやバス利用)は95年11月現在で138回(うち昭和58(1983)年7月〜同61(1986)年12月、32回)、 91歳で亡くなった翌96年9月まで(95・12〜96・08)は10回となっている。往復の運賃と施設と病院への手土産は、毎回かなりの出費となったが、 止めるわけにはいかない問題であった。

 なお、このほか、母との通信はア「家族との書簡集(昭和33年〜昭和40年)」と、イ「父の手紙・母の手紙」にもある。 住まいは私だけでなく、父母も変わっている。
 ア…家族あてのうち、母には
 1、中学三年〜浪人生活(S33・01〜S36・04茨木→静岡県湖西町など14通、残り1通は父あて)
 2、上京、早稲田受験・合格(S37・03・01〜S37・04・08東京→茨木のうち11通は“保護者”長兄夫婦へ、同所・母あては3通)
 3、早稲田入学、田無学生寮に(S37・04・13〜S38・03・05東京→茨木へ32通、うち母あては5通、父母連名は3通)
 4、S38年6月、盲腸の手術その後(S38・08・01〜S41・02・07東京→茨木ほかへ32通、うち母あては2通だが、ほとんど長兄+皆々様)
 5、大学卒業、社会人(?)に(S41・04・02〜S41・09・02東京→茨木)、この項は変則で、はじめの2通は長兄+皆々様あて。 その後は新通し番号1〜31は受信のみ(身内以外2通、他に3通)、うち母からは12通(封書5:はがき7)
 6、投函しなかった手紙(S41・09・03<未投函>エアメール用箋9枚
 ・・・・・昭和41年11月、作家梶山季之氏の助手となる。(S41・11・21〜S44・03・11東京→茨木、全10通。うち母あて7、父あて1、両親あて2)

 イ…父母からのもの。96年3月と4月にそれぞれまとめたもの。
 前者は昭和48年1月〜昭和51年4月、父の死の直前まで54通あり、後者は昭和61年1月〜平成元年6月までの16通である。 昭和48年1月といえば、末っ子の私が間もなく結婚するという時期であった。
 なお、母からの分16通は、上記の各年に算入されるべきものである。

2、他の方から母あて…

 各地での有縁の方、ほとんどは女性だが、大連時代の隣に住んでいた男性(父と子)、引揚げてからの神宮寺時代、ついで新所原(静岡県)時代の方々、 さらに茨木時代(大阪府)、そして最後の名古屋時代(主として御前場町)で親しんだ方もかなり多い。 さまざまな形でお世話になった方々だが、私の存じ上げている方が何人もおられる。
 もちろん、故郷(新潟県十日町市)の親戚や幼馴染とは、長くかつ多くのやりとりしている。

 なお、母はこれらの方々に返事を出すだけでなく、多くの手紙を書き送っていることは、来信により推測できるが、 ノートや便箋に途中まで書き出しているものも、いくつかある。
 下書きとも思えないから、実際には出されなかったのであろうが、とにかく、ヒマさえあれば、ペンを走らせていたようだ。
 テレビはニュース以外ほとんど見なかったようだし、新聞は取ったり取らなかったり、また雑誌な時々女性向けの週刊誌などを買って読んでいたようである。

(2)日記類

 主として、コクヨの大学ノートCampusを、また同ルーズリーフFillerを使用している。

1、1974年(1冊)

昭和49年1月1日〜昭和49年12月31日 (KOKUYO TOUCH NOTE BOOK 100枚)

2、1981年(3冊)

昭和56年1月1日〜昭和56年4月30日   (ルーズリーフ(青)40枚?)
昭和56年5月1日〜昭和56年8月25日   (ルーズリーフ(青)40枚?)
昭和56年8月25日〜昭和57年1月20日  (ルーズリーフ(青)40枚?)
《一つの紙袋に入っている。「週刊住宅情報」と印刷されているから、私が持っていった袋であろう。1冊目に〔平針原〕とある。名古屋市天白区の地名》

3、1982年(3冊目の冒頭に「昭和57年、紀元2642年」とある)

昭和57年1月1日〜昭和57年5月27日   (大学ノート(橙)40枚)
昭和57年5月27日〜昭和57年9月26日  (大学ノート(橙)40枚)
昭和57年9月28日〜昭和57年11月12日  (大学ノート(橙)40枚)
      (*12月14日分…「ノートまちがえる」とあり、12月31日までの記述も)

4、1983年(6冊)

昭和58年1月1日〜昭和58年3月25日   (大学ノート(青)40枚)
昭和58年3月25日〜昭和58年5月13日  (大学ノート(青)30枚)
昭和58年5月15日〜昭和58年7月5日   (大学ノート(橙)30枚)
昭和58年5月15日〜昭和58年7月5日   (大学ノート(橙)30枚)
昭和58年9月12日〜昭和58年11月15日  (大学ノート(橙)30枚)
昭和58年11月15日〜昭和58年12月31日 (大学ノート(橙)40枚)

5、1984年(4冊)

昭和59年1月1日〜昭和59年4月15日   (大学ノート(橙)40枚)
昭和59年4月14日〜昭和59年7月31日   (大学ノート(橙)40枚)
昭和59年8月1日〜昭和59年11月4日    (大学ノート(青)50枚)
昭和59年11月3日〜昭和60年1月19日   (大学ノート(青)40枚)

6、1985年(3冊)
昭和60年1月15日〜昭和60年5月30日   (大学ノート(青)50枚)
昭和60年6月2日〜昭和60年9月17日    (大学ノート(橙)40枚)
*空白あり(理由不明)
昭和60年10月31日〜昭和60年12月31日  (大学ノート(橙)40枚)

、1986年(4冊)

昭和61年1月1日〜昭和61年4月21日   (大学ノート(橙)40枚)
昭和61年6月19日〜昭和61年7月8日   (大学ノート(橙)50枚)
昭和61年7月8日〜昭和61年10月21日   (大学ノート(青)50枚)
昭和61年10月22日〜昭和62年1月19日  (大学ノート(橙)50枚)
*1月20日に入院(4月末まで。翌月、施設に入居)

8、1988年(2冊)…あいちの里(406号室)

昭和63年10月16日〜昭和63年12月2日   (大学ノート(橙)30枚)…あいちの里
昭和63年12月3日〜昭和63年12月18日・・・ (大学ノート(橙)30枚)

9、1989年(7冊)…メデケアド寿(202号室)

平成1年3月31日〜平成1年5月14日    (大学ノート(橙)50枚)
平成1年5月15日〜平成1年6月17日    (大学ノート(橙)30枚)
平成1年6月18日〜平成1年7月31日    (大学ノート(橙)30枚)
平成1年8月1日〜平成1年8月30日     (大学ノート(橙)30枚)
平成1年9月3日〜平成1年9月15日     (大学ノート(橙)30枚)
*空白あり(理由不明)
平成1年9月28日〜平成1年11月16日    (大学ノート(橙)30枚)
平成1年11月17日〜平成1年12月31日   (大学ノート(橙)30枚)

10、1990年(2冊)…メデケアド寿(202号室)

平成2年1月1日〜平成2年5月20日    (大学ノート(橙)30枚)
平成2年5月1日・・・ 平成2年10月1日   (大学ノート(橙)30枚)
*ほとんど書き込みなし(もう気力もなくなっていたか)

(3)手記

 これは整理するのが、かなり難しい。コクヨ原稿箋を使って、全部で15冊もある。
 昭和60年11月、私が自費で出した母の自叙伝『わが半生の道 第一部』(100部印刷)に該当するのは、 同原稿箋(20字×10行・50枚、価格60円)で、2冊半(122枚)である。
 この続きはかなり長く、12冊目まで確認されるが、晩年まで整然と語られているわけではなく、脱線というか、さまざまな記述が見られる。 使用した原稿箋も20行は4,6〜8,11,12で、他は10行のものである。
 また、「人間の道」と題し、「昭和二十年八月十五日大東亜戦争もおはつた。子は戦争に生れ、終戦とともに全国民の心もくらしもかはつた。…」 で始まる原稿箋(20×10・50枚) 2冊がある。
 さらに、同原稿箋(タテ書き10×20・50枚)を使い、「昭和三十三年十月二日に、…」と書き出している“手記”は、 とびとびで内容が戦前に戻るなど前後するが、日記風ともいえる。なお、この“昭和三十三年”は“四十三年”の勘違いである。 したがって、日付は昭和43年10月2日…〜…昭和46年5月9日といえよう。
 その表紙に、次のようにある。
二人はいつまでも元気に心正しく子を大切
にくらしてほしい正しきはごかいもまねく
が自分の心にそむかぬ事はきれいである
ごかいする人の心はその人の心であり人の
心ではないのである
人の心をわが心の尺度で計ることは出来ない
人の心の尺度を計る事 自分の心である
事をよくしってほしい

 ところで、母の自叙伝『わが半生の道 第一部』の「あとがきにかえて」で、私は次のように記した。

 これは私の母が十五、六年前に書き記したものの一部である。母は今年八十一歳を迎えたが、当時の六十四、五も今から思えばずい分若いといえる。 どのような思いで、原稿を書いていたのか聞いたことはないが、全部で六百枚近くある。これは、その十分の一ぐらいであろうか。(中略)
 私が母からこの原稿を預ったのは、もう十数年前になる。東京・杉並区内にいた時、母が上京して二ヵ月ほど滞在した。 帰ったあとに残された白い、昔の単純な小型トランクを開けてみると、古い手紙類と一緒に入っていた。 だから、預ったといっても、はっきりこれが原稿だ、私の人生記録だというような話はなかつた。読んでみたのも、数年前のことである。
 これ以降の原稿には、大連時代のその後、昭和十五、十七年の出産、敗戦と混乱、そして二十二年の引揚げ後の苦労、 小浜(福井県、夫の故郷)―新所原(静岡県)―茨木(大阪府)―名古屋と、変転きわまりない生活が記されている。(後略)      昭和六十年十一月 調布・国領にて

 文中「どのような思いで、原稿を書いていたのか聞いたことはない」と記した私だが、母の遺稿類を読んでいると、次のような文言が出てきた。
 それは、昭和46年「5月末…外に出る用もなく、部屋の中で静かに、健午と約束をしたので、自分の歩いた道を少しずつ書きつづって残す事にした」とあり、 このことを私はまったく忘れていたのだった。
 そして、白いトランクを持って上京して来たのは、その年の9月である。
 母の記述、私の記憶に誤りがなければ、相当の速さと集中力で書いたものといえる。 いや、それ以前から筆を染めていた、というのが真相ではないだろうか。

 ちなみに、このころは名古屋時代―(1)私の兄(母の長男)の家族と、(2)ついで長兄(母からすれば先妻の息子)の死後、 茨木から引っ越してきた姉(先妻の娘)との同居、(3)さらに娘の死で一人暮らし―のうち、(1)に該当する。


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