私は40歳のとき、ある社団法人に入り、13年3か月で退職した。
辞めたのは頭か体のどちらかがおかしくなると思ったからだが、「気力がなくなった」という、だれにも迷惑にならないような理由を口にしていた。
私を、常に目の上のたんこぶと思い込んでいた上司に、10月初旬辞めることを告げると「君はここでは務まらないからな」と、
納得したのか安堵したのか、そういった。
また、辞めた後しばらくして、後輩は私に「(自分に二番目の肩書がついたのは)橋本さんのおかげです」と、嬉しそうに元気な声で言った。
皆それぞれの人生ではある。
このような私に対し、年末でもあったからだろう、関係した会員社や関連団体の方あるいは友人・知人から、さまざまに声をかけてもらった。
ありがたいことである。
ただし、下記のそれぞれは、ついでに“送別”のほか無関係の行事を含む。
「祝う会・送別会 忘年会その他」 (+…自弁/*…昼食/○…主催/< >…頂き物)
95・10・20(金) 大KON会 {委員長ほか18名} 巣鴨(ちゃんこ)
10・23(月) T氏 {他の事務局員} 新宿(焼き鳥)+
10・26(木) K氏{B社次長} 銀座(ビヤホール)
同 K氏{N社社長} 神保町(焼き鳥)+
10・27(金) 知人(2人) 青山(上海蟹)
10・28(土) H氏{大学教授} 松戸(小料理屋)
11・01(水) T氏 {T社局長} 新橋(小料理屋)
11・10(金) T氏 {K社部長} 大塚(秋田料理)
11・13(月) K氏{広告会社・社長} 紀尾井町(うなぎ)
11・14(火) S氏{G社・部長} 淡路町(ふぐ)
11・17(金) Y氏{S社OB} 御茶ノ水(玉子料理)
11・27(月) K社{編集総務部7名} 神田(ちゃんこ料理〉
11・28送付 Y氏{T社副社長} <セカンドバッグ>
11・29(水) T氏{広告関係団体・事務局長} 山の上ホテル(定食)*
11・30(木) 広告委員会・忘年会(委員長ほか25名) 御茶の水(会席)
12・04(月) 表記委員会・忘年会(委員長ほか6名) 御茶の水(会席)
12・06(水) 編集倫理委員会・忘年会(OB、委員長ほか37名) 飯田橋(中華)
12・20(金) N氏 {K社局長} 音羽(牡蠣フライ)
同 著作権委員会・忘年会(委員長ほか18名) 神保町(寿司)
12・11(月) Y氏・H氏{ともに出版社社長} 恵比寿(和食)
12・12(火) O氏・K氏{ともに出版関係者} 出版クラブ(ステーキ〉*
12・14(金) 雑公協専門委員会・忘年会(委員長ほか19名) 神楽坂(うなぎ)
12・15(金) 出版コード研究委員会・忘年会 五反田(パーティ)
12・18(月) 東京都・諮問図書関係(定期会合+忘年会) 竹芝〈パーティ〉
12・19(火) 事務局懇談会(取協・雑広協と) 神保町(寿司) ○
12・20(水) 倫理専門委員会・忘年会(OB3名と) 小川町(会席)
同 共通雑誌コード運営委員会・忘年会 江戸川橋(会席)
12・22(金) M氏{雑広協事務局次長} 山の上ホテル(中華) *
同 国会記者クラブ・忘年会 新宿(ふぐ)
12・26(火) 事務局忘年会(OB男女2名と) 渋谷(中華)
12・28(木) 挨拶に訪問 O会長(元理事長) <文鎮>
同 S社編集総務部{部長・副部長} 竹橋(北海道料理)
そして、年を越し、最後に、
1996・2・2(金) 雑公協専門委員会・新年会があり、私は参加された新旧委員30数名に対し、お礼にそれぞれ「名入れ色紙」をお贈りした。
これは思いのほか好評であったが、人によっては既婚か独身かどうかなど仔細が分からず、かといって周りの人に聞くわけにもいかず、
人知れず“悩んだ”ものである。また、会場はよく使うお座敷だったので、ついでに馴染みの仲居さんにも進呈してしまった。
その前、10名や20名での宴会をする“上客”の部類だったのか、別の店からは「やむなく閉店する」旨の挨拶に、
私を名指してウイスキーを持ってきたことがある。もちろん、私個人の問題ではないから事務局に提出したが。
この店では、時にご飯が硬いなどと、つい余計なことを言ったものである。
余談だが、上記12月6日の会合は参加者が当初予定より多くなったとして、急きょ会場を変更したとの通知も出された。
そして、先の後輩が私を昼飯に誘って「ぼくは洗脳されていました」と、わざわざ頭を下げたのは、この送別会の2,3日後であったか。
ついでにいえば、立場上、各種会合に顔を出すのが必然の、わが上司は事務局忘年会の他は、まったく顔を出さなかった。
また、それを誰も疑問視することはなかったようだ。(2009・04・20)