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「わが師 梶山季之の遺したもの」

橋本健午(ノンフィクション作家・電子版「梶山季之資料館」管理人)「週刊読書人」(第2703号)2007・09・07

 梶山季之三十三回忌の催しは五月、六月と広島および東京で行われた。しかし、梶山夫人が一安心したのもつかの間、七月末、 伊豆にある書斎(今東光氏命名「二十七日庵」)の最後の片付けと売却の契約が重なった。
 しかもその日、関東地方を襲った雷雨のため、新幹線や直通特急にも遅れや運休が出た。現地に着いても、まだ風雨は止まない。
 梶山が蒐集した書籍の一部とその人間像を表わす遺品は、三十三回忌が縁で広島大学文書館への寄贈が決まったものの、その搬出も雨で難渋する。
 私も三年前から片付けの手伝いに、今回も仲間三人と加わっていたが、この悪天候をみて、「(山荘の処分を)梶サンが怒っているんだ」と、 だれいうともなく口にした。
 二日目はやっと晴れ、作業もはかどるが、四十年前に買った土地、梶山の愛した山荘の売却手続きをする夫人の胸中は複雑で、 多くの書類にサインする筆はたびたび止まった。
 大学を出た六六年の秋、私は梶山の助手となった。マンションの自宅とは別の階にある書庫が、私の主な職場である。 梶山は都市センターホテルにも仕事場を持っていた。
 伊豆の山荘にはよくお供した。運転はできても、方向音痴の私は夫人の指示を受けながら、伊豆スカイラインなどを通る。
 急カーブでの慣れないハンドルさばきは、助手席で寝ていた梶山を起こし、「モンテカルロラリーの(取材で同乗した)クルマより怖いよ」といわれたのは、 六七年の春ごろだった。
 そのころから、梶山の仕事は目に見えて増え、われわれも忙しくなる。また資料も増えるにしたがい、書庫を広い部屋に借り替え、 その整理係や電話番、お手伝いさんなど若い男女が何人も出入りした。
 私は時に、三億円事件(六八年)などの取材に加わったり、ぜひ小説にと"ネタ"を売り込む男女の対応に何度も出向いた。
 梶山は、世間では超多忙な流行作家、モーレツ人間などと評されていたが、およそ八年半、そばで見た印象は「静かな」人だった。
 よくいわれるサービス精神も発揮していたが、「気配り」の人であり、また「分け隔てのない」人だった。 われわれ若い者に対しても優しかったが、それぞれの特徴は鋭く見抜いていた。
 七〇年、梶山のマネジメントを業とする季節社(社長・梶山夫人)が設立され、われわれは社員となる。
 やがて市ヶ谷に三階建てのビルを建てる。ライフワーク(「積乱雲」)を書くため長年買い集めた大量の資料を収容する書庫が必要となったためだ。
 一方、七一年七月、伊藤整氏(作家・評論家)との約束を果たすため月刊「噂」を創刊するが、赤字の増加、オイルショックの影響もあり、 三二号で休刊となった。
 「人は死しても、作品は残る」と思う私は、没後三十年も経てば、梶山を知らず、先入観もない若い世代が梶山を"発見"するであろうと信じていた。 この夏デビュー作『黒の試走車』が岩波現代文庫に収録されるなど、さまざまな動きとなって現われている。
 わずか四五年の生涯、作家生活も一四、五年だったが、梶山が遺した有形無形のものは、人々の心に、作品のなかに生き続けるであろう。
 蔵書のうち雑誌類は死の直後に大宅壮一文庫へ、朝鮮・移民関係の書籍はハワイ大学図書館に寄贈されている。 今回の広島大学文書館でも、末永く残るであろうことを願って止まない。

 参考(1)拙著『梶山季之』(日本経済評論社、九七年)、(2)梶山季之資料室編「梶山季之と月刊『噂』」(松籟社、本年五月一一日)、 (3)拙稿「作家とその時代研究の一助になれば/「梶山季之と月刊『噂』」を上梓」(文化通信、本年六月四日号)


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