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1.「梶山事務所と季節社」  付、橋本健午に関する記述1〜3

 私が先生の助手に"採用"されたのは、大学を出た昭和41年の秋である。
 アルバイトをしていたS出版社の入社試験(四次の役員面接までいった)に落ちてしばらくしたころで、 先生は「試験に落ちたやつだから、将来は見込みがあるだろう」と紹介者にいわれたそうだ。 "面接"以前のことだから、私としてはずい分とまどう話ではあった。

 紹介者は、やはり大学を出てからずっと先生の取材を手伝っていたルポライターのAさん。「宝石」や「週刊現代」そして「週刊ポスト」の仕事もしていた、心優しき人だった。気の毒なことに48年夏、過労からか取材先の大阪で倒れ、いまは故郷の四国で療養しているはずである。

 私が初めてうかがった当時の梶山家は、青山のマンションの8階に自宅、 7階に書庫があり簡単な事務机が置いてあった(のちに3階の大きな部屋に移る)。

 その"事務所"の前任者は、やはりルポライターをしていたHさんで、先生と同じ広島出身の、 朴訥な人であった。ちょうど私と入れかわるように、外の仕事をするようになった。

 この2人を含めた10名近い"梶山グループ"の先輩は、いずれも私より十歳前後年上で、 トップ屋時代の先生と一緒に仕事をしていた人たちである。

 私以後は一般公募の、必然的に若い人たちが出入りする。 梶山の事務所(電話番、資料の整理などが主な仕事)の人間として、 あるいは44年11月設立の季節社(社長は美那江夫人、主として唯一の"タレント"梶山季之のマネジメント業)の社員ということになり、 先輩たちとは世代だけでなく、関わり方もちがうのだった。

 季節社は、先生が税金対策等のメリットがあるからと、夫人に「作れ、作れ」といって設立したものだった。 私たち常時2、3人いた事務所のものも、"社員"になった。 先生はなんでも、人より先にするのが好きなようだった。

 このころ作家で会社組織を持っている人は少なかった。 まして出版権設定登録(いまでも慣習として、出版社がその権利を保有しているように見えるが、 本来は文化庁に登録されるべきもの)のことなどには不慣れで、弁護士事務所、 会計事務所などとも相談することが多く、かえって煩雑になり、各出版社を混乱させたが、 それはいまでも続いているらしい。

 45年9月には、市谷に"命の次に大事"な約1万点の蔵書のために、 書庫のスペースを大きくとった3階建ての季節社ビルを建て、一家ともども移転。 やがて、月刊誌『噂』を発行するにあたり、その編集部にも、数人の人が出入りするようになった。

 季節社のほうは、文学志望の青年やお手伝いさんをやりたいという若い女性など、何人も出入りしたが、 資料の整理や電話番、来客の応対などというのは、一見華やかに見える『噂』編集部とちがって地味。 また、季節社本来の仕事のほかに、『噂』の経理、広告、発送業務など、これまた裏方としての仕事も増えた。
 これでは、せっかく有名人の家に出入りしているのに、と思っている若い人の、己を満足させるものはなく、 応募する人は多くても長続きするものは少なかった。

 しかし、忙しい先生も家にいるときは、しょっちゅう若い人と一緒に食事をしたり、酒を飲んだりされた。 わけへだてのない人だった。そんなときでも観察はちゃんとしていて、よく性格などを見抜いていた。 あとで、的確な表現を用いて人物評をしていたが、毎日彼らと接している私でもびっくりすることがよくあった。 こんなことが案外息抜きの一つになっていたのかもしれない。

 昭和50年は、1月早々から、夫人の入院騒ぎなどで、落ち着かないスタートを切った。 しかし、『積乱雲』の構想がまとまりかけていた先生は、3月から4月にかけて、ハワイに取材旅行に出かけ、 無事帰国。

 やがて、ご夫妻そろって、控え目で、よく気がつくK君と、Oさんの"職場結婚第一号"を祝うはずであったが……。 先生はすでにいなかった。
 季節社は残っているが、社員はみんな去っていった。 しかし、いまでもそのほとんどが、梶山家と交流があるという。 先生の、あのやさしさが、みんなの心に残っている証拠だろう。

 先生は、最後までいた私のことを、何も確かめずに逝ってしまったが、見込み違いに終わらぬよう、 これからもがんばらねばと思う。

(『積乱雲とともに―梶山季之追悼文集―』〈季節社、昭和56年〉所収、掲載時の肩書:フリーライター・元季節社)

《注:原文では、Aさんら4人を本名で紹介した。この追悼文集に"執筆"の機会がなかったためである。》


橋本健午に関する記述1

 はじめは、私の全集を出したい……と云う御話であった。 私は、頭から辞退申し上げた。(中略)しかし、再度のお奨めがあって、自選集ならば――と妥協した。 だが、助手の橋本君から、181冊の本を積み上げられた時には、全く驚いた。
 作家生活11年間に、これだけの本が出ていたのである。 1年間に16冊強というスピードで、私の単行本が生産されていたのである。
出す方も出す方だが、書く方も書く方だと、つまらないことを感心した。

(梶山季之「自選作品集を出すにあたって」『巷説 梶山季之 裏から見た梶山読本』より―集英社「梶山季之自選作品集<全16巻>刊行記念」小冊子・昭和47年8月25日発行)

橋本健午に関する記述1−2

 …去年(1970・昭和45)、私の所得は、印税を含めて約七千万円であった。
 この金額を見ると、世間の人は、さぞポルノ小説で稼ぎまくった……と思うだろう。
 秘書の橋本君に聞くと、去年、私が書いた原稿は一万四百枚だと云う。
 しかし、税金をとられ、私の手許に残ったのは、千七百万円で、その上、過去三ヵ年に遡っての調査を受け、 千二百万円の追徴金をとられたから、実質に残った収入は、たった五百万円にすぎない。
 一万枚書いて、五百万円の純利益!
 この中から大宅文庫に二百五十万円寄附したから、私の家族は、残りの二百五十万円で生活していることになる。…」

《これは梶山自身が「オール讀物」1971年12月号に寄せたエッセイ「わが家の事件簿(「無情の夢」)」の一節である。 "秘書"とも言われていたとは、昨年5月刊行の「梶山季之と月刊『噂』」編集のため、梶山家にある資料にあたるまで知らなかった。2008・01・15橋本健午》

橋本健午に関する記述2

 梶山さんには、…亡くなられるまで、あまり数多くお目にかかってはおりませんが、 それでも暖かいおもいやりのあるお人柄は、はっきり心に残っております。
 また美那江夫人や、秘書の橋本さんには、出版事務の打合せ上、よくお会いいたし、 お話をうかがいましたが、その中にも、梶山さんの自由闊達な雰囲気が感じられて、楽しく思ったものです。

(昭和47年11月より「梶山季之傑作集成・全30巻」や古書を巡る人々の生態を描いた連作短編集『せどり男爵数奇譚』(七四・〇七…特装版限定五部・三方金革装函入、限定版五〇部・天金革装函入、普及版) を刊行した桃源社の矢貴昇司社長「スケールの大きな包容力」『積乱雲とともに 梶山季之追悼文集』季節社・昭和56年5月11日発行)

橋本健午に関する記述3

 そのころの梶山さんは月に何枚ぐらい書いていたのだろう("彫辰"連載は昭和45年10月〜48年10月156回)。 もちろん彫辰ばかりにかかわっているわけにはいかないのだ。 私は、当時、梶山さんの秘書をしていた橋本さんと、しめ切り日には何回も電話で連絡しあった。 橋本さんにいわせると、梶山さんは『同じ家で編集者に待たれていると気が焦って書けない』ということだった。 だから電話で出来上る時間を確認して、新聞社でいう"子供サン"に飛んでいってもらった。当時はファックスなどはない時代だった。
 私は『いま彫辰にとりかかりました』という橋本さんからの電話が、どんなに嬉しかったことか!  この知らせがあると、そのあと約3時間で16枚の原稿は出来上った。

(「彫辰捕物帖」の担当だった読売新聞社出版局「週刊読売」の編集者池田敦子氏〈徳間文庫『彫辰捕物帖 二』1989年5月15日初刷〉解説)

《注:記述2、3にあるように、「助手」を「秘書」と解釈されることが多かったが、 梶山自身は、取材もする"同志"との考えで最後まで「助手」と呼んでいた…2003・05・14橋本健午》


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