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"史実"と"真実" ―『父は祖国を売ったか―もう一つの日韓関係―』刊行から十八年経った今…

 本書が出されて間もなく、ある人に「あなたのお父さんのことですか」と聞かれ、一瞬戸惑ったことがある。 まだ読んでいないので、そう思ったのだろうが、もちろん私の父のことではない。
〔旧制福井師範を出た私の父は大正七年、中国大陸に新天地を求め、満鉄関係の学 校教師などをしていたアララギ派系の歌人だったが、朝鮮半島には縁がなかった。〕

今に引きずる"韓国併合"、植民地支配の余波

 副題にあるように、本書は日本と韓国の歴史にまつわるノンフィションで、 "父"とは明治四三(一九一〇)年の「韓国併合」(日韓併合)の際に、「合邦」を熱望していたものの裏切られた挙げ句、 "売国奴"とののしられた韓国の志士・李容九(り・ようきゅう 一八六八〜一九一二)であり、 その父の無念を思い、汚名を雪ごうとの一生を歩んだその遺児・大東国男(おおひがし・くにお 一九〇九〜八六)の物語である。

 日本の、歴史の授業では日韓併合(植民地化)について教えられても、どのようないきさつがあったのか、 また両国関係者にどのような葛藤があったのかまでは詳らかにされていない。 それは"自虐史観"に程遠く、短く都合よく書かれており、また韓国でもハルビン駅頭で伊藤博文を射殺したとされる安重根は"英雄"となったが、 "売国奴"李容九や彼が率いた「一進会」はほとんど無視されてきたといってよい。

 戦後日本で"権威ある教科書"となったのは、山辺健太郎著『日韓併合小史』(岩波新書・一九六六)で、 多くの版を重ねるほど広く受け入れられた。官製資料に依拠したといわれる山辺は、 「韓国併合」を正当化する根拠となった「合邦請願書」(李容九の名で出されたが、実際に書いたのは日本人)をタテに、 百万の会員を擁する親日団体「一進会」について"幽霊団体説"を唱えた(韓国では"売国団体説")。

 そのため、以後の類書のほとんどがその説を引用していると、 李容九研究の第一人者である西尾陽太郎九州大学名誉教授はその著 『李容九小伝―裏切られた日韓合邦運動―』(葦書房・一九七八)で述べている。

 その後も例えば、拙著『父は…』が刊行された八二年の六月末、高校社会科の教科書などで検定が強化され、 「侵略」を「進出」と書き換えさせられたと新聞各紙が報じたことから、翌月下旬、中国が「侵略の事実を歪曲している」と抗議し、 続いて八月はじめ韓国も「教科書是正を強く求める」と抗議するなど国際的な問題を引き起こしている。

 また八六年七月、当時の藤尾文部大臣の"戦後教育見直し発言"で、戦後四十年間の教育がゆがめられている、 東京裁判が客観性を持っているかどうか、勝ったやつが負けたやつを裁判する権利があるのかといい、 周辺諸国に対する侮辱的な発言をしたことに対し、韓国の有力新聞が「日本文相の妄言発言」と非難し、 中国政府も同様に非難したため、ときの中曽根首相が遺憾の意を表明する一幕もあった。

 このように日本の政治家等が物議をかもす発言を繰り返すのは、 最近の「国旗国歌法案」をめぐる際の賛否両論に見られるように、 日本人がいつまで経っても過去の亡霊にしがみつき、反省していないことの証左といえよう。

危機存亡の状況だった李朝末期

 五百年も続いた李朝(李氏朝鮮)が危機存亡の事態にあった十九世紀末から二十世紀にかけて、 大陸侵攻をもくろむ日本はロシアとの交戦を機に朝鮮半島に食指を動かし、日本海海戦で勝利を収めると、 首都ソウル(当時、京城)に韓国統監府をおいた(初代統監は伊藤博文、彼は併合論者ではなかった)。

 やがて、日本との"対等合邦"をしなければ、国を救えないと考える韓国側の志士、 宋秉o(のち日本名・野田平次郎)や李容九を利用し、 桂太郎首相ら日本政府は合邦請願書を"韓国は日本との併合を望んでいる"と都合よく解釈し、 桂首相と李完用韓国首相との間に「日韓併合条約」を結んだ。 その第一条に「韓国皇帝陛下は、韓国全部に関する一切の統治権を完全かつ永久に日本国 皇帝陛下に譲与す」とあり、 日本政府はすぐさま韓国を「朝鮮」と改め、寺内正毅を初代統監とする朝鮮総督府をおくのだった。

 李容九や義兵組織である一進会だけでなく、内田良平(黒龍会主幹)・杉山茂丸(玄洋社出身、頭山満の弟分) ・武田範之(曹洞宗の僧侶、能筆家)ら日本人の民間志士、いわゆる浪人の親韓国的な活躍(合邦賛成派)もあった。 しかし、けっきょく彼らも日本人たらざるをえず、純粋に国を思い国民の行く末を案じた"善意の人"李容九は、 いつのまにかカヤの外におかれていた。

 やがて、李容九は失意のうちに胸の病に冒され、入退院を繰り返しながら、 かつての盟友武田範之に手紙を書く、「杉山・内田・武田の皆さんが騙されたのか、宋・李の二人が騙されたのか」と。 いったい、だれが"祖国"を売ったのだろうか。

 そして療養先の神戸・須磨で四十五年の生涯を閉じる李容九だが(生没年は偶然にも明治の御世と同じ)、 李完用が伯爵、宋秉oは子爵(のち伯爵)などを授けられ、皇族を筆頭に七十六名の朝鮮貴族が誕生するが、 李容九だけは「栄爵を得んがため国を売ったものといわれても何の弁解もできない」と固辞するのだった。

 この間、日本は九歳の李王垠殿下を日本に留学させるなど懐柔策を試みるが、 一九四五年の敗戦まで三十六年間にわたり、韓国を植民地として支配し、 日本化をすすめた事実は永久に消えることはない。

 韓国人にもたらしたさまざまな影響、その悲劇、なかでも彼らが命をかけても守ろうとした先祖の系譜をなきものにしたり、 創氏改名(韓国名を捨てさせ、日本名に改めさせる)や日本語を強制したことなどは、 わが師・梶山季之(一九三〇〜一九七五)の『族譜』等に描かれ(映画化もされ)ている。

〔しかし、そこが複雑なところである。一九七三年三月一日、 韓国で梶山の友人である韓雲史さんの脚本によるテレビドラマ『族譜』が韓国で放映されると、大問題となった。 三月一日はその昔、反日独立運動が全国的に起こった日で、韓国の独立記念日である。
 よりによってその日に日本人原作の作品を放映するとは何ごとかと、抗議を受けた韓さんは、 「私は泰然と答えた。われわれが忘れていたことを、日本人がこういうこともあったよと知らせてくれた作品だ。 内容で気に入らないことがあればいってみろと。誰からも反発がなかった。日本人作家が取り上げたことは殊勝なことだ。 結果的にも日本の軍国主義に味方していない。かえって人道的だ。それを認めなければ時代の前進はない」 などと諭したと、「『族譜』と私」と題する一文を『梶葉―梶山季之文学碑建立記念誌―』第一巻(一九九一・八月刊)に寄せている。〕

無頼の徒か悲劇の主人公か、定めにくい人物像

 本論に戻ろう。父の"遺志"を汲んだ大東国男は、「日韓会談促進会」活動など、 戦後の日韓国交正常化に精一杯の力を尽くすが、複雑な立場の彼は政治家や政商たち、 またコリアンロビーに「あんた出ちゃまずいよ」とのけ者にされ、日韓交渉は紆余曲折の末、合意に達し、 "手柄"は彼らのものになる。名誉を望んだ行動ではなかったが、親子二代にわたる悲劇に見舞われる……。 歴史は繰り返すのか、それとも一民間人は無力なのか。

 大東国男(本名 李碩奎)さんに初めてお目にかかったのは一九七八(昭和五三)年春、 東京四ッ谷にあった料理屋の主人Yさんの事務所である。 当時三十五歳の私は何度目かの浪人中で、フリーの編集者やライターをしていた。

〔評論家大宅壮一の番外弟子を自称するその主人は、同じ大宅門下の梶山を高く買って おり、ついでに梶山の助手だった私を大宅先生の"孫弟子"と決めつけ、いろいろな 人を紹介してくれた。〕

 小柄な大東さんは、まもなく七十歳を迎える、日本育ちで日本語しか知らない韓国人であると語った。 幼少のころから何人もの養父母に育てられ、何とか大学まで出してもらったが、定職らしい定職に就かず、 戦前は右翼や壮士と交じって、特高ににらまれ投獄されることもしばしば、またいくどか朝鮮にも渡っている。

 その間、父について次のように語っている(一九四二年・京城)。 「私は、常々自分には父はいない。李容九は父に非ずして偉大なる先覚先人であり、 又、教えの導師であると思っている」。 自らについては「私の人生は極端な虚無的な性癖と宇宙絶対神に対する没我的信仰との両極の相克であった。 前者は酒となり奇行となり哀愁に満ち、後者は禊祓の行となり読書人となり侠気豪傑なる性格となって表われる」と分析している。

 そんな複雑な? 男であったが、日本人のうら若い国語教師佐藤八林さんと結婚したのは終戦の年一月で、 三十五歳になっていた。日本に戻ってからも"無頼の徒"として福岡で、また東京で生活を送るが、 先に述べた日韓友好のための活動も空しく、挫折と過労で倒れる。どこまでも父と似たコースをたどる……。

 だが、時事通信社の長谷川才次社長から声をかけられ、病床にありながら満足な資料も持たずに、 『李容九の生涯―善隣友好の初一念を貫く―』(時事通信社、一九六〇)を半年で書き上げたのは、 やはり執念というべきものであろう。

 これを二年後、日韓国交正常化に向けて力を注いでいた佐藤栄作(元通産相、当時)は千五百部買い上げて、 各党の政治家や財界人、マスコミ各社に配るなど、うまく"利用"するのだったが、 李容九について日本の識者にどれほどの知識があったか。

 例えば、長谷川社長のポケットマネーで開かれた出版記念パーティで披露された吉川英治の書簡は物語る。 「この一書によって私は初めて李容九なるものを知った。はずかしいことであると思ふが、 おそらく日本人の大多数が私程度の概念しかなかったか、あるひは全然李容九の名すらも知らなかったのではなからうか。 日韓の長い歴史の谷にほとんど"善隣の花"が見事に咲いたためしがない。 啾々たる悲史か垣のせめぎばかりである。幼年から私たちが歌ってつい戦前までも見てきた一つの日韓も、 この書が語る裏面史と李容九の生涯によれば、まことに慙愧にたえないものであった(以下略)」。

 一方で、学習院院長(元京城帝大教授)安倍能成から「(李容九氏は)日本内地では見られない人物だとも聞いておりました」と、 また評論家の坂西志保からは「…李容九は、一世紀早く生まれすぎた。彼が信頼をよせた日本の指導者たちが、 今日私たちがもっている平和共存の片りんでももっていたら、現在の韓国の悲劇は避けられたであろう。 合邦が成立していたら、第二次大戦は避けられたかもしれない」との感想が時事通信社に寄せられている。

 大東さんはほとんど"日本人"だったが、父李容九のことや日本の政治家たちの話に及ぶと、 口角泡を飛ばすだけでなく、身振り手振りも激しく"激情の人"となるのだった。

 この李容九・大東親子は知る人ぞ知るで、在日南北朝鮮の作家や日本の出版社から、 取材の申込みや伝記を書かせてほしい、出版したいという申入れがいくつもあった。 だが、発表するタイミングが難しく、また父と同じように都合よく利用されるのではないかという懸念もあり、 大東さんはいずれにも色よい返事をしていなかった。 表に出れば出たで、日本人を含めて誰か彼かの文句や嫌味が耳に入り、 抗議の手紙も来ることが目に見えていたからだ。

 しかし、『李容九の生涯』だけではまだ不十分だった。父の名誉回復は悲願であり、 やり遂げなければならないと思う大東さんだが、お会いしたころはすでに気力だけで、 自ら"悲憤慷慨病"と名づけた、持病の貧血症で体力を弱らせていた。

 大東さんの住まいと近いこともあって、私はなんどもお宅にうかがい、八林夫人を交えて、 コツコツと集めた資料を拝見したり、話をうかがったりしていた。 それら書籍や雑誌の至る所に小さな三角形の色付クリップをはさんで目印とし、また傍線が引いてあり、 欄外に二重丸や「大事」というコメントも書かれていた。

 大東さんと酒(いつも「金寶」だった)を呑みながらの話は、ときに深刻、ときに八方破れで、 それなりに面白かったが、やがて夫妻は自分たちの思いを私に託そうという方向に傾いていたのだった。

 しかし、いかんせん私は、日韓問題の専門家でもない。生まれは大陸(中国・大連)だが、 朝鮮半島には足を踏み入れたこともなかった。まして、李容九は初めて耳にする人物である。 しいて関連づければ、ソウル生まれの梶山の助手として約八年そのそばにいて、 書庫の膨大な朝鮮関係の資料と親しくしていた? 程度である。

〔その三年前の五月、香港で亡くなった梶山の遺体を迎えにいったいきさつを報告した「ドキ ュメント 梶山季之の死」は『別冊新評』(七五年六月)に掲載され、のち『梶葉』第一巻 に抄録されたが、この最初に活字になったものが、師の"死の記録"とは何とも悲しいこと だった。なお、遠い記憶として、小学生のころ(昭和二十年代後半)、クラスに二人の日本 名の"朝鮮人"がいて、なぜ日本人の友だちが彼らをからかい、また囃し立てるのかを理解 できなかったことがある。〕

"主人公"を殺してしまった"祝電事件"

 そんな私だが、この大きく、かつ複雑なテーマに挑んだ理由は、聞き知った以上は、 黙っているわけにはいかない、他に適任者がいなければ、自分でやるしかないという気持ちになっていたからだ。 だれかがやらなければ、国を想う人々の事蹟と、歴史の"真実"が埋もれてしまう。 それでは、後世の人々に誤った史実を伝えることになる。 たとえ拙い筆でも書き残しておけば、関心のある人や後の研究者の参考になるのではと思ったからである。

 出会いは運命であると感じた私は、本書『父は…』のカバーに次のように記した。
 「大東氏から、その父李容九の話を聞いているうちに、/私はある因縁めいたものを感じたのだった。 /一つは、李容九も梶山季之もともに四十五歳で死んだこと。/もう一つは、李容九が"売国奴"の汚名を着せられ、 失意のうちに病死した。/梶山季之も志なかばにして、やはり病にたおれたが、 /それは毀誉褒貶、評価の定まらない人生だった……。/私はこの一書をどうしてもまとめなければならないと思った。 /そう思って四年が過ぎた。」

 お宅にはよく通った。話すうちに興奮し出し、憤り、悲嘆に暮れる大東さんのありのままを三十巻以上もの録音テープに収めた。 しかし、原稿を書き出すまでの道のりは決して平坦ではなかった。重複したり、どこへ飛ぶか分からない話の展開、 私にとって知識が皆無に近い日韓の歴史の中で、李容九はどのように翻弄されたのか、 またそれが大東さん自身の戦前戦後の波乱に富んだ? 人生とどうつながるのかに悩まされることもしばしばであった。

 自ら理解できないことを書くわけにはいかない。話は面白く酒もうまくて、いつも長っ尻となり、 出前の天丼やうな重に舌鼓を打ちながらも、はたして私に書けるだろうかということにたびたび悩まされていた。

〔飾り気のない夫人は古くからの菜食主義者で、口にするのは玄米食はじめ、季節の野菜 などきわめて質素な食事だそうだが、大東さんはそんなことには頓着しない人だった。 もう一つ付け加えれば、ソウル生まれの夫人の名前、八林「やすぎ」は、鶏林八道(旧 朝鮮のこと)に由来するもので、それだけでも大東さんとの結婚は運命的であり、大東 さんの人生に無くてはならない人だった。〕

 私は歴史だけでなく、韓国の地理や風物を知らないこと、(一九四五年を境にした) 京城とソウルのちがいなど、分からないことばかりであったし、語りなれた? 大東さんの話に理解や納得できないことをしつこく聞いてけんか腰になったり、 「もう書かなくていい」というところまでいったこともある。

 最大の危機に陥ったのは、お宅にうかがい始めて一年が過ぎた五月初旬に起きた"祝電事件"である。 前年、私の誕生日にいただいたハリー・べラフォンテの歌(カセットテープ)のお返しのつもりで大東さんの誕生日に打ったのだが、 なんと届けられたのは"弔電"だったというではないか。 間違いに恐縮した電報局から電報配達課長が菓子折をもって詫びにきたが、もう手後れだった。 温厚な夫人も"不吉な予感"を感じ取ったらしく、「この話は、いちど白紙に戻したほうがよい」ということになり、 私はすぐに預かっていた資料をお返しに行ったものである。

 それから二月ほど、"出入り禁止"となっていたものの、もう私はあきらめなかった。 話の裏づけを取るということが最大の難問だったが、幸い梶山蔵書の中のダブったもの (とくに朝鮮関係はダブりが多かった)が別に残されていたため、 さっそくダンボール箱二箱分ほど借り出して、話のつながりや事実関係、時代や場所、 登場人物の特定だけでなく、新たなエピソードもふんだんに拾うことができたのだった。

"何かが起こる"予感がした八二年の正月

 少しずつ原稿を書きつづけ、八一年十月はじめに脱稿したときは六三〇枚にもなっていた。 それまで本橋 游(筆名)で書いて活字になったものはあったが、 このような難しいテーマのノンフィクションは、はじめてである。

 当然、出版のあてもなかった。日韓両国で無視、いや抹殺されている"売国奴"李容九にふれることはほとんどタブー視されている。 そのような内容のものをあえて出版しようという人はまずいないだろうと思い、 原稿を自宅の天袋に入れて文字どおり"棚上げ"にしておいた。

 この間、雑文を書いたり、支払いが不安定な雑誌の編集の仕事をしていた。 さらに、講談社のI氏に呼ばれて月刊「現代」の記者となり、取材やコラム欄を担当していたが、 月に十日ほど行くだけの、相変わらず浪人的生活が続いていた。

 ところが、八二年に入ってすぐ"今年は何かが起るぞ"という予感を感じた私は、 思い立って三年連用日記をつけはじめた。すると一月十日過ぎに学生時代の友人、 明日香出版社の石野誠一社長から、日本経済評論社の栗原哲也社長に紹介したいという電話が入った。 ムラとか農業、"土"に関するものをシリーズで出したい、その企画の相談に乗ってほしいという話である。 これも私の人生には、あまり縁の無い世界であったが、興味を感じた私は二日後の夕方、 石野さんの事務所に出向いていった。

 まだ規模の小さかった同社の一室で、ビールと出前の餃子やラーメンを食べながら、 栗原さんの抱負をうかがい、私なりに意見を述べた。ひととおり話にケリがついたところで、 同氏から「ところで、何か書いているのでしょう」という質問が飛び出した。 予定外のことであったが、私は棚上げしている原稿のことを話した。 「いちど読ませてください」といわれたものの、二つ返事ができず、 あとで石野さんに「本当に持っていっていいのですかね」と聞いたぐらいだった。

 原稿を持参すると、栗原さんはパラパラと何度もその束をめくり、やがて手を止めると、 「出す方向で読みたいから、預からしてくれませんか」という。願ってもない話の展開となった。 さっそく大東さんにも報告したが、正月早々に予感がしたのはこのことだったのか、とも思った。

 しかし、その後なかなか良い返事をもらえなかった。栗原さんは歯に衣着せぬ人で、 「(私の)正直すぎる性格がそのまま出ているところが、かえって弱点になっている」といったり、 出版するかどうかまだ思案中ともいう。しばらくすると唐突に、「原稿が長すぎるので、削ってほしい」といってきた。

 また、その時だったか後だったか、彼は「クラが建つとは思わないでくれよ」と念を押した。 もちろん、私とて出版界の事情が分からないわけではなかった。 彼は自社が大ホームランも、連続長打とも無縁? の常民を視点に置いた、 地道な出版社であることをいいたかったのではないか。

〔栗原さんはのちに『私記 日本経済評論社彷徨の十五年』(一九八六年)の「新しい著 者の登場」の項にこう記している。 「昭和五十七年二月の寒い晩、ぶ厚い原稿を持参し た橋本氏は実直な好青年だった。 その原稿はすぐにも本になったのだが、その原稿が提 起する問題から、新しい研究者 と結び合うようになった。滝沢誠氏に始まり、市井三郎、 衛藤瀋吉、韓相一の各氏 である。少しずつ出版意欲を取り戻したわれわれの前に新しい 顔ぶれがふえてきた」。 "実直な好青年"とあるのは栗原さんの筆が滑ったのであろう。彼は当時から老けて 見えたが、私より一つ年上に過ぎなかった。また、私の日記によると原稿を届けたの は、一月十八日である。〕

 原稿を削る作業をはじめた。出版してもらえるうれしいさの半面、その作業には心が重かった。 六三〇枚を四〇〇枚にというのである。もともと、あまり人に知られていない、 しかも日韓両国にとって"定まっている歴史(史実)"を覆してほしくないテーマである。 それを読み物としてより読みやすいように、苦心して探し出したエピソードのほとんどを削らざるを得なかったからである。

 二月二十七日の日記に「書き出しの部分、なかなか注目を集める話題に乏しいのが難」とある。 三月七日「午前二時ごろまでケズリ作業、だいぶケズッたと思ったが、あと一〇〇枚以上もある」。 三月二十二日「"李容九"なかなか進まず一苦労、しかしこれを突破しなければ、どうにもならない、 本日も酒を抜いた」。 四月五日「朝十一時半、栗原氏に原稿を渡す(四〇〇枚と目次・参考文献)、一週間の猶予をくれとのこと」。

 その十日後に栗原さんから電話があり、「八月十五日に出す」という。 やっとたどりついた五合目というところであろうか。 一週間後の二十二日、再び電話があり、「一か月ぐらいでゲラを出す」という。 決まれば、早いものである。二回目の著者校正を返すと、さらに予定が繰り上がり、 六月下旬の私の四十歳の誕生日に合わせたように見本ができ、その夜、 見本を携えた栗原さんと大東さんの家を訪ねたのだった。

 初対面以来、すでに四年が経っていた。そして月末には麗々しくも書店に並べられた、四六判上製本、 二八〇頁、定価一四〇〇円、初版三五〇〇部、印税八%。いずれにしても、"クラ"は望むべくもなかったが……。

〔この年、もう一つ予期せぬことが起った。これもまた、八月末の知人からの「サラリー マンになりませんか」という電話で始まり、十月から社団法人日本雑誌協会に勤めるこ とになったのである。九五年末に辞職するまで、十三年三月という勤続年数は梶山家→ 梶山事務所→季節社{『噂』発行所を含む}の八年半をしのぐ。〕

人はさまざまな読み方をする

 出版されると、大東さん夫妻はわが事のように喜んでくれたが、初校ゲラの段階で夫人から 「(表現の)素直なところがよいわね」と評されていた。栗原さんの「正直すぎる」という言といい、 良くも悪くも私らしさを指摘されたので、返す言葉もなかった。

 私の筆法は、主に活字資料に依拠して、左右どちらに偏することなく、 私なりの想像力とその当時の人の心理や社会状況を描写するところにあり、 それが読む人によって好悪が分かれた。

 出版社に寄せられた読者カードによれば、表現が物足りないと感じられたり、 「歯切れが悪く、愛国者か売国奴か父子とも不明」と酷評されたり、 中には"(橋本が)他人の親のことを書くのはサギだ"というのもあった。 反対に、「歴史の"タブー"に挑戦した勇気を感じた!」とか 「日韓併合の史実にふれ、改めて歴史を問い直す必要を感じた。教科書問題等に対する中国や韓国の抗議があったから、なおさら痛感する」、 「私は皇国史観による歴史を習ったので、本当のことが知りたかった」という読み方もあり、 そして「淡々とした筆致がかえって感動的な効果を」とか「肩肘はらない書き方に好感」というのもあった。

 専門家や研究者からも、おハガキをいただいた。
 第一人者である福岡在住の西尾九大名誉教授
 「前略 昨日御高著落手いたし早速拝見しました 大東氏にはかねてより氏の御生涯を御発表なさる様におすヽめしていましたが 此度貴下によりそれが達成され 御本人も定めしご満足の事と存じます 小生よりも厚く御礼申上げます 今後共御研究下され、新事実などありましたらご教示下さい 先ず 御礼まで 草々」。

 同教授は昨年、米寿を迎えられて、なおお元気であるという。
 ちなみに、先述の"幽霊団体説"に打ちひしがれていた大東さんは、同教授の講演録を読んで元気を取り戻し、 次のように書き記している。

 「(『日韓併合小史』が刊行された年の五月)福岡での西尾教授の講演内容は、 山辺氏の用いた資料はそのほとんどが政府官庁関係のものか、または日韓合邦反対者側の資料であること、 さらに戦後の右翼批判の風潮の中で、事実の検討もなしに坊主憎けりゃ袈裟までも式に扱われるのは穏当ではない、 と指摘されるのです」。

 これは西尾教授が『李容九小伝』を著したとき、同教授に請われて寄せた一文である。 大東さんはこの年のことを、地獄と天国を見た年とも書いている。

 やはり福岡の木村栄文さん(RKB毎日ディレクター)
 「残暑御見舞申し上げます。御高著拝読、よい勉強致しました。 ただひとつ李容九そのものの描写がやや足りず、大東氏の背負う業の深さが弱くなったようにも思えました。 合邦を併合にすり替えられるあたりの説明がもっと……というのが小生の勝手な読後感です。敬白」。
 六十台半ばの同氏は、今も現役で活躍中、日韓両国のメディアの"掛け橋"的存在となっている。

 東京関係では、滝沢誠さん(朝鮮問題研究家)が次のように感想を寄せた。
 「冠省 夕刻電車の中で読み始め、巻おくあたわずということで読了しました。 大東氏の語り口がそのまま伝わってくるような気がしました。 あれでは大東氏の動向に反対する人々にとっては鼻持ちならぬものでしょうね(後略)」。
 これこそ、大東さん夫妻を悩ませる大方の読み方といえるのではないだろうか。

書評……「毎日新聞」に「汚名と闘う生涯/日韓友好運動に奔走しながら」と取り上げられたのは七月十二日だった。 「週刊読売」八月一日号(七月十九日発売)には顔写真つきで筆者紹介され、 現代・実業の日本・高校教育展望・アサヒ芸能・第三文明などの雑誌にも取り上げられた。

 仕事を一緒にしていた「現代」編集部の人たちは自ら購入したり、機会を見つけて宣伝したり、 「週刊読売」のコピーを壁に張ってくれた人もいた。 また、星山佳須也さん(現・三五館社長)から、この種の問題に理解ある在日の方々の名簿が届けられもした。

 もちろん、私の浅い理解力や研究不足はいなめず、初歩的な誤記や不十分な記述などもあり、 黒田勝弘さん(共同通信社ソウル支局員、当時。現在サンケイ新聞ソウル支局長)や 兼川晋さん(当時、テレビ西日本ディレクター。本号に「百済と倭―主として王仁の渡来について」を執筆)から、 「出だしがわかりにくい」とか「序章が読みづらい」などと、私自身いちばん悩んだ点を指摘された。

 李容九についての論文をもつ評論家の青地晨さんから出版社経由で、 「いちどお会いしたい」というお手紙をいただいたが、実現しなかった。 「広島朝鮮史セミナー」を主催する原田環さんから、なかなか手に入らない資料について問合せがあったかと思うと、 在日の方々からの手紙や"抗議"もあった。"第三国人""内鮮"など言葉遣いが軽率だという好意あふれるご注意や、 人物と肩書の齟齬など、かなり専門的な指摘もあり、地理上の単純ミスも何人かから指摘された。 しかし、初版は売切れ(すなわち絶版)となったため、せっかくの修正や訂正ができなかったのは心残りである。

〔原田さん主催のセミナー第七期テーマ「広島の人と朝鮮」(1)(八一年五月開催)では、 広島と朝鮮における梶山に関する講演(二名)とその原作映画『李朝残影』『族譜』が 上映されている。〕

危うく政治に巻込まれる…

 ちょっと違った反応もあった。八月はじめ、朝鮮日報の東京特派員より、 教科書問題等に関する取材の申入れがあったと日本経済評論社から連絡をうけたが 、私は政治関係にはノーコメントなので、断ってもらった。

 また、残念なことも起った。その年十一月に発行された『マスコミ市民』(第一七四号)に掲載された 「何が"問題"なのか―教科書問題のゆくえ―」に、『父は…』からの無断引用があるのではないかと編集部を通しての質問を出したが、 その筆者から明確な回答(弁明)が得られなかったことである。 編集部を通そうとした意図は、当事者同士が直接"対決"することを避けたかったからである。

 私には、この問題に限らず、日韓関係に常に内包している"避け難い壁(行き違い)"を越えるだけのエネルギーを持ち合わせていないことと、 先方を訴える気持ちがなかったからである。 ただ、他人の著作物、ほとんど私しか知りえない資料(大東さん所有)を用いた私の文章に対して"出所の明示"をしないのは、 文筆を業とするものとしては礼を失するのではないかと思ったのは事実である。

 一方で、うれしかったことは八五年七月十五日、東大四年生の林雄介君という未知の若者から、 手紙をもらったことだ。卒論のテーマに李朝末の親日団体『一進会』をとりあげている、 義兵闘争をしたが、売国団体ともいわれる『一進会』の、その性格分析に必要な同会の機関誌『国民新報』が見つからず、 国内では大東氏しか所蔵していないのではと思う。 ついては、大東氏に紹介の労をとってくれないかという申し出である。

 一ヵ月後に大東さんのお宅に案内したが、これぞ素人の私が無謀にも執筆に挑んだ成果の一つである。 彼はその後大学院に進み、韓国にも留学し、いまや韓国歴史を専門とする少壮学者として活躍中と聞く。

〔話は少しずれるが、この年三月、栗原さんの依頼で編集した南康雄著『サイゴン・一九 七五・春』が同社から出た。八五年はベトナム戦争終結後十年の節目の年で、多くのベ トナムものが出版されたが、この若者たちの交わした手紙と日記による、前年秋から七 五年四月までの半年間のドキュメントは、爆撃下のサイゴン市民の様子をあますところ なく描き、平穏ななかにも"偽装結婚"してまで海外への脱出を図る、戦乱に巻き込ま れた庶民の悲しみをも伝えている。私にとって、この編集作業は「李容九」に続いてア ジア問題を考える糧となった。〕

大東さんが他界したあと…

 体力はますます衰え、病で臥せることの多かった大東さんは、八六年六月十五日、 入院先の病院で七十七年の生涯を閉じた。私がお見舞いにうかがったのは二週間前の五月三十一日(土)である。
 日記によると「四時過ぎ、東京衛生病院(荻窪)に大東さんを見舞う。 四月九日以来入院とのこと。五月七日の誕生日に電話をしたところ、応答なく、 どうしたのかと気になっていたが、林君(東大卒生)に電話して、本日留守宅、 お嬢さんに連絡して事情が分かる。ご本人は時々目を開けるが、物を言えず、 意思表示は足の先をかすかに動かすことで、この日は久しぶりに足の先が動いたのは、 私が顔を出してくれたからだと夫人はいう。妻の手作りの色紙人形を持参したところ大変喜ばれる」。

 また亡くなったのは"父の日"だった。死因は肺結核、父李容九と同じであった。
 「大東氏が午後五時に永眠とのこと。先月末にお見舞いに行っておいてよかったと思う。 夫人の献身的な看病、それは四十年以上にわたる結婚生活についてもいえるのではないか。 大東氏はついに原稿を書き残せなかった」。
 翌日、「大東さんの通夜へ(夜七時)、初めて神式の儀式に出会う。 頭山立國氏(頭山満の孫)ほか五十人近くの人が参列していた。 夫人自身は、もう命の限界だったと述懐していた」。

 そのころ、RKB毎日の木村栄文さんが、やはり李容九と大東さんを題材に映像化を試みていた。 その作品について評論家の岡本博は、次のように紹介する。
 「木村栄文作『ふりむけばアリラン峠』は、日韓関係の過去、明治以後に騒論された"合邦論"の悲運を今日、 その生き証人の最後七年間の取材を通して見せる。 この問題がいまも生きていたとは!  という驚きといい知れぬ感銘がある。 当の大東国男、韓国名李碩奎、ほとんど寝たままの人だが『ぼくは七十、七か八だが、五十年、ハラは煮えくり返っている』という彼、 その妻佐藤八林さんを主に"国賊"と呼ばれる人物が体験した数十年の経緯を四人の両国人の証言を通して紹介する、 約二時間の労作である。完成までに三人が死んでいるのだ」 (「時事的映像論 八七年度芸術作品賞参加番組を見る」『TBS調査情報』八八年三月号所収)。

 私自身も感じていたことだが、木村さんは大東さんを主人公とするよりも、 むしろ献身的な八林夫人を描きたかったのではなかったか。 それほど、夫人の存在は欠かせなかった。あるシーンが今でも目に浮かぶ。 まだ開業前の、他に客がだれもいない銭湯の大きな湯船に、やせ衰えた大東さんを介護する夫人の姿である。 その銭湯の主人も、この夫人がいたからこそ、開業前に入浴するという特例を設けてくれたのでないか。

 同作品は八八年五月、第十四回放送文化基金奨励賞に選ばれた。 同年六月二十二日午後、吉祥寺のホテルで八林夫人主催による同ビデオの鑑賞会が行われ、 私は司会進行役を仰せつかった。その依頼の手紙で夫人は次のように書いている。 「いろんな立場の方々に見ていただければと存じますので、『ミテヤロー…』と思われる方が居られましたら、 お誘い下さいませ」(傍点橋本)。

 当日は、木村さんはじめテレビ関係者や大東さんゆかりの人など五十名ほどが参加した。 木村さんから「(あなたが)功労者だ」と声をかけられ、少しでも私の書いたものが役に立ったと思えば、 それにすぐる喜びはなかった。

見直されるか? 梶山季之の"真実"

 私の中で、たびたび結びつく李容九と梶山季之……。没後二〇年以上を経た梶山は、 忘れられた存在となりつつあったが(とくに若い人には知られていない)、 その後のいくつか私も関与したものについてふれておきたい。

 九七年七月半ば、日本経済評論社の「二〇世紀の群像」シリーズ企画第一号として拙著『梶山季之』が出版された。 栗原さんから、梶山について書いてくれないかという注文があったので、長年書き溜めておいたものをもとに、 大幅に書き加えて提出したのだった。自分の目で見た梶山像だが、やはり多くの人の(活字資料による)証言をもとに構成したのは、 贔屓の引き倒しとならないためであった。

 読者から、「外部の人間からは、とても新鮮な梶山季之像が見えてきます」、 「梶山季之の本当の姿が分かる興味尽きない本」とか「私も世俗的な見方しかしておらず、そのような印象しかなかったが、 幅の広いジャンルをものにできる作家であったと初めて知りました」といわれ、 私の筆力でも少しは意図通りに書けたかと胸をなで下ろしたものである。

 中には「(梶山の)作品について触れていないのがよい」という評もあった。 またある東大名誉教授からは「その才能と人柄の優しさに惹かれて(梶山の)ファンである小生にとっては嬉しい本でした。 さすがに日本語も練れているし、著者の終始謙虚な態度も立派だと思いました」と誉められただけでなく、 二か所のワープロミスも指摘された。

 私より少し若い友人は、「近ごろでは見られなくなった花のある作家の実像に接し、その人間臭、 時代が生んだ卓越した才能に感動しました。橋本さんご自身、よき人に巡り会え、 よき青春期を過ごされたことと思います」と、行間まで読んでくれていた。

 書評は『週刊文春』七月三十一日号にいち早く「"人柄だけでも後世に残る"作家だった」(評者・高橋呉郎氏) と掲載されたのをはじめ、週刊・月刊誌十数誌に紹介されたのは、せめてもの供養であったと思う。 広島高師OBの小石原昭氏は『週刊読書人』九月五日号に「一人娘への遺書が顕す真面目(しんめんもく) /僕らは本当に惜しい男を亡くした」と題して紹介して下さった。
 そして『夕刊フジ』九月十七日号書評欄に「流行作家として走り続け もみくちゃにされた/梶山季之/困ったときの梶頼み」と、 写真つきのインタビュー記事も掲載された。 友人の一人は「淡々とした語り口で、師弟の間が話され記事になり、 夕刊フジにはないすがすがしい清涼剤になっている」と手紙をくれた。 とはいえ、売れ行きははかばかしくなかった。

 翌九八年二月、梶山美那江夫人による季節社発行『積乱雲 梶山季之その軌跡と周辺』が上梓され、 翌月には出版記念パーティが開かれた。 私も編集スタッフの一人として、死の前年(七四年)の記録「梶山季之ハワイ・インタビュー」と 「民族の血とは何か―韓国作家との鼎談」のまとめなど数本を担当した。 また、「梶山作品とユダヤ問題」と、「〔移民史レポート〕日府外交書簡に見るハワイ移民問題の経緯」(無署名)の二本を執筆した。

 そして、九九年九月十七日放映のテレビ朝日系ドキュメンタリー番組「驚きももの木二〇世紀」は、 「流行作家梶山季之 無念の死」を放映した。 先の『積乱雲…』と美那江夫人を中心にしたドキュメントであるが、 これを見て改めて梶山の生き方やライフワークへの執念を知り、「すごい人だったんだね」とか 「ずっと偏見を持っていたが、見直した」という声を耳にした。 私もインタビューを受け、昭和三十九年春、『李朝残影』が直木賞候補になったものの落されたときの"裏話"を披露した。

 その不明朗な選考方法(前記『梶山季之』二四三ページ参照)に、梶山は悔しいというだけでなく、 怒り心頭に発するものがあったであろう。 "純文学"を志していた梶山の、その後の変身? "読者へのサービス精神"をだれが笑うことができるか。

 梶山への評価が定まらなかった裏にあるもの(心情)が、李容九を利用しただけでなく、 最後には裏切った日本人の根底に流れている"国民性"でなければよいのだが……。

そして、二十一世紀は…

 時はどんどん流れてゆく。国内国際問題にかぎらず解決されたものもあれば、 そのまま遠い過去として忘れられてゆくものもある。

 数年前のある夜とつぜん、私は若いNHKのディレクターから電話をもらった。 戦後五〇年の企画として、日本の爵位を得た韓国人のその後を追いたいといい、 協力願えないかという申し出であった。爵位=栄達、名誉と信じていたらしいが、私は即座に答えた。 爵位など、いまではなんの価値もないだけでなく、それは日韓双方にとって不幸な歴史の"汚点" であり、 不名誉なことだったのではないかと。

 もし私の本を読んでの依頼だとすれば、この若者の発想(NHKも)は、相当なアナクロニズムといえるが、 長年にわたる日本の歴史教育の貧困さからきた弊害ともいえるのではないだろうか。

 繰り返しになるが、それはサッカーW杯やオリンピック予選の観戦で日本の若者たちが日の丸を振り、 君が代を歌うのを、為政者が国旗国歌は日本人に浸透している(から、法制化せよ)という論理と隔たりがない。 彼らは上辺だけの、その時の雰囲気にただ呑み込まれていただけではなかったか。

 ところで、日本人の韓国観はどうか。最近の「外交に関する世論調査」によると、 韓国を親しみやすい国と感じた日本人は四八・三%で、そうは感じないという人(四六・九%)を十一年ぶりで上回ったという。 その理由について、調査を行った総理府は「サッカーの二〇〇二年W杯共同開催や、韓国が日本の大衆文化を開放したこと」の結果と見ている。 また昨年の日本人の海外渡航先を見ると、三十四年間首位を保っていたハワイを抜いて、韓国に二百万人以上も行ったという(前年比一一・八%増)。 だから、日本人は韓国を愛し、理解していると考えるのは早計であろう。

 一方で、次のような現実があることを忘れてはならない。歴史教科書における相手国に関する記述が、 「韓国のそれは全体の三分の二が日本の侵略について割かれているのに対し、 日本のそれが韓国についてふれた部分は数ページ」ということを、韓国のペンパルとの文通で知った女子高生(十八歳)は、 「日本政府は謝るべきだし、私たちも教科書に書かれていない歴史を知るべきだ」との意見を述べている(東京新聞二〇〇〇・一・二六「わかもの倶楽部」、傍点橋本)。

 克服すべき問題は、ひとり李容九だけではない。多くの"史実"がいまだに尾を引きずって、 "真実"が隠されている。そのことさえ知らされていない日本人は"幸福"すぎるのではないだろうか。

おわりに

 九六年六月、大東さんの十年祭(五年祭に続く、神道での死者の供養を行う忌日)について、 夫人より"ひとりで行う"と電話でうかがった私は、次のような色紙を書いてお送りした。 これは、その時の夫人の「もうすぐよ、もうすぐ(真の日韓関係が)開けるのよ」という願望の言葉と、 「大東国男」を折り込んだものである。
         大いなる人の事蹟を
         東に西に訴え
         国々の将来を憂えた
         男ありき
         いま蘇る
         真の日韓関係             一九九六年六月十五日  橋本健午

 本稿執筆に際し、改めて夫人に話をうかがった。
 「死ぬ一か月ほど前の彼(大東さん)は、仏様のようないい人になっていたんです。 …悔やまれるのは、彼がお酒を飲むとき、私はいつもいやな顔をしていて、 その苦悩をもっと深く理解してあげられなかったことです。 それでも彼は自分のことばかり悪く言って、私のことは何も言わないのよ。 あなたの本でも、いい子になりすぎているわ。…いまも健康でおられるのは彼のおかげです。 昭和四十九年のお正月、足腰が弱くなっていた彼の勧めで浪越先生の指圧道を習い、 いまもそれに通っているからです」。
 まもなく傘寿を迎える夫人であるが、話しながら時おり童女のように顔を赤らめる場面もしばしばあった。 大東さんとは別の意味で、一所懸命の人である。

 二〇〇一年には十五年祭を行うという夫人は、多くの人に李容九およびその遺児大東国男の事蹟を知ってもらいたいと、 自分のやらなければならない最後の仕事として、亡き夫の残した一書 『李容九の生涯―善隣友好の初一念を貫く―』(時事新書、一九六〇)の復刻本の出版を期している。
 今度こそ、自分ひとりの力でやりたい、もうだれにも邪魔されないで、仕事を全うしたいと祈っている日々であるという。
                                        (二〇〇〇・二・四記す)

【追記】
 本稿の掲載誌『梶葉』(かじのは)は、梶山の十七回忌の際、広島市に文学碑「花は語らず」が建立されたのを機に、 梶山夫人により設立された「梶山季之基金」により、梶山の"ライフワーク"であった朝鮮・原爆・移民を三本柱とした 文学活動の発表の場として、これまで毎年一巻ずつ、七冊刊行されてきた。 昨年暮、その最終号に執筆依頼があり、本稿を認めた次第である。

【追記2】
 この原稿をコピーして栗原社長に送ると、次のような手紙が届いた。
「"何かが起こる"と予感した年に、本当に何かが起こったんですね。お原稿を読む限り、運命を変えた年になったようです。 その後の歩みは、うっすらと私の知るまんま。/健さんは、結局波乱万丈をベールにして、結局平穏無事な日常を送っているのかもしれません。 少し羨ましい!/全篇、涙ぐみながら読み終えました。/2000年2月7日」


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