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「梶山季之◆"故郷"朝鮮への熱き思い」

 朝鮮に材をとった「李朝残影」や「族譜」の作者梶山季之(一九三〇〜一九七五)は、朝鮮総督府土木技師の父勇一と、 母ノブヨの次男として京城に生まれた。一九三六年、京城公立南大門尋常小学校二年に入学し、 四二年には京城公立中学校に入学する。すでに太平洋戦争のさなかで、 学徒動員により四四年十二月から仁川陸軍造兵廠で九九式歩兵銃の製造に携わるが、肋膜炎を患ってしまった。 翌四五年五月には小康状態となり、自宅療養を許されたが、動員を解除されないまま終戦を迎え、同年十一月両親の故郷、 広島県地御前村に帰る。

 一九四八年、広島高等師範学校(現・広島大学)文科第一部国文科に入学。五二年三月、 中国新聞社の入社試験で両肺の空洞が発見され、卒業後の就職もままならず広島で鬱々とした日々を送るが、 同年九月、東京で高校教師となっていた坂田稔と短編集『買っちくんねぇ』を自費出版する。 すでに「族譜」等の原型となる創作をするなど、幼少のころからの創作意欲だけは旺盛だった。

 胸の病で若死にを覚悟していた梶山は、「珠玉の一編を書くまでは死ねない」と一九五三年、二十三歳で上京し、 第十五次「新思潮」同人となるなど文学修行を続け、ルポライター(トップ屋)となり、 やがて『黒の試走車』で流行作家の道を歩みはじめる。後年、性と政財界にまつわる作品を書きつづけ"ポルノ作家"などといわれたが、 それは表現の自由をめぐる権力との闘いのためであった。晩年には生まれた朝鮮、母の故郷ハワイ、 原爆を落とされた広島を題材とした"民族の血"をめぐる環太平洋小説『積乱雲』を書きはじめるが、旅先の香港で病に倒れ、 志半ばで四十五年の生涯を終える。
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 京城では、どんな家庭環境で育ったのか。 二歳上の兄久司は、「京城郊外の山を切り開いた造成地に三八年ごろ新築して移った家は、日本家屋でオンドルがあった。 当初は二、三軒だったが、終戦のころには百軒ぐらいになり、まわりに朝鮮人の集落もあった。 私たちは小中学校とも日本人の学校で学んだが、クラスに一人か二人、裕福な朝鮮人の子弟が混じっていた。 彼らに対して差別的な感情はなく、よく一緒に遊んだ。"支配者"側の役人だった父だが、 とくに朝鮮人だからと見下したりしないという影響もあった。母より少し若い女中さんは読み書きができ、務めは長く続いた。 四三年ごろになると、こんな非常時に贅沢はいけないといわれ、彼女は他家に移ったが、 お使いの時などに寄り道しては母に愚痴をこぼしたりしていた。敗戦と同時に、立場が逆転した朝鮮人から、塀を壊されたり、 夜中に襲われた家もあったが、わが家にはそんなことはなかった。一言でいえば"平和に暮らしていた"時代だった」と述懐する。

 そんな少年時代を送った梶山は多分、「終戦の日、つまり一九四五年八月十五日の記憶を甦らせると、 今でも僕は内心忸怩たらざるを得ない。なぜなら、学友たちの誰もが動員先の工場で呆然自失したり、 わけもなく溢れてくる泪の意味に戸惑ったりしている時分、動員を怠けて漢江でボート遊びに耽り、 そのあげく映画館の暗闇の中で敗戦も知らず鼻糞をホジくっていた不埒な学生が、僕だったからである」 というような"少年"だったのだろう(『性欲のある風景』の冒頭部分。初出『小説現代』(1968年10月号)、 短編集『京城昭和十一年』(桃源社1969年)所収。これは小説で、主人公の"僕"は必ずしも梶山自身ではないが、 その分身と考えられる部分が多い。この短編集には「李朝残影」、「族譜」も収録されている)。
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 共著を出した坂田稔は、梶山とは南大門小学校の同級で、引き揚げ後に広島高師で再会した。坂田は論ずる。
 「梶山は、今は異国の朝鮮で生まれた。彼にはふるさとがない。『肉の香に涙もよおしぬ雨細く、破れたる恋か、 ノスタルジアか』というのは、彼が学生のころ作った短歌で、彼自身が最も好きだといっていた『族譜』や『李朝残影』も、 そのノスタルジアが作らせたものだろう」。
 また、「彼は戦時下に育った。当時のすべての少年が、熱烈な愛国者になった中で、 彼は不思議なくらいそれからハグれていた」ともいう(「梶山季之論」『現代文学』(1977年6月号)、 『梶葉』〈梶山季之文学碑建立記念誌1991年・広島〉所収)。

 梶山自身も複雑な心境を小説に託す。「中学時代、頭の悪い硬派の連中が、何かと云えば憂国の志士を気取って、 同級生のアラを探し出し鉄拳制裁を加え、快哉を叫ぶ野蛮な風潮を僕は不愉快に思っていたひとりだ」 (『性欲のある風景』にある"僕"の告白)。

 そして、「進学にしても、就職にしても、彼等はハッキリ日本人と差別待遇された。僕が、同じ日本人だと教えられた彼等に、 意識的な同情を覚えさせられたのは、中学生になってからだった。たしか、『青少年学徒ニ賜ワリタル勅語』奉戴の記念式典の日であった」。 "僕たち"がもっていたのは三八式歩兵銃で、"彼等"のは先にタンポのついた木銃ばかりだった、からである。

 しかしと、"僕"は続ける。「同情とは本来、水の低きに流れるごとく、相手より優位に立たねばほどこせないものである。 だから、譬えば朝鮮人の女中が生活に狎れて生意気な口を利いたり、父の処へ遊びに来る朝鮮人の客が威張った口調で父と対等に口を利いたりする場合には、 僕は内心愧じつつも、必ずといってよいくらい反感を抱いたのである」(同)。

 兄久司によると、「女中」さんの件も客の件も実話のようだが、儒教精神の強い国で目上は目下にぞんざいな言葉遣いをする。 しかし、大概の客は父の前ではタバコも吸わず、膝も崩さなかったという。
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 『李朝残影』では、画家の野口が、滅び行く朝鮮宮廷の舞踊を、その踊り手である妓生をモデルに描いた 「李朝残影」と名づけたその作品の(憲兵隊からの)題名変更を拒否する姿が描かれ、 『族譜』では先祖の系譜「族譜」を守ろうと創氏改名に抵抗する親日家の大地主の苦悩と悲劇の最期までを、 日本政府の理不尽さに憤り、一方でその地主に同情する若き日本人画家の谷の目から描いている。

 それらを、植民地における被支配者に寄せる梶山本人の苦悩と、"支配者"側としての贖罪の気持ちの表れというのは簡単だが、 京城中学時代の友人成田豊は、梶山の資質と文学について、次のようにいう。
 「その精神は、中学時代からすでに形成されていた。時代なのか、環境・植民地・京城という風土なのか、 我々の少年時代は、"卑怯・未練"を最も憎み、"正義・正々堂々"を最高のモラルとしていた。 とくに梶山にはそれが強く……弱いものには徹底して優しかった」(徳間文庫『色魔』完結篇・解説1982年)。

 もう一人、『玄海灘は知っている』などの作家韓雲史は「温かい人」と述懐する。
 「私と梶山さんと初めて会ったのは、何でも一九六三年か四年であった。東亜日報社から電話が来た。 終戦後一番乗りでやってきた日本の作家がいるから会ってくれということだった」 「李承晩の執権十五年間、私達はひたすらに、日帝三十六年間の虐政を非難して止まなかった。 従って作品に出て来る日本人は、凡そ高等刑事か、憲兵か、総督府の残忍な官吏達であった。 所が私は、人間らしき人間、傍らにいる同朋よりももっと近しき日本人もいたという事を書いていた」。
 「日本との関係は消化されるべき時期であったらしい。梶山さんは一流の洋式ホテルを避けて、 秘苑前の伝統的韓国式旅館に泊まっていた。私は彼と対座するや否や、物静かな語調であったが、きつく尋ねた。 『日本は三十六年間、韓国を統治した。謝るべき事がある。日本人を代表してあなたが謝ってくれないか』。 彼はあぐらをかいていたが、いきなり正座して、両手をついた。『誠に申訳ないことをしました。どうぞかんべんして下さい』。
 私は彼の手をぎゅっと握った。『ようこそいらした。韓国人はあなたを歓迎するでしょう』。 そして私達の友情は始まった。『李朝残影』を読んで私はびっくりした。 『族譜』を読んで、この人に何をやってやればいいのかと感心した」 「朝鮮と朝鮮人を最もよく理解してくれた温かさを感じた機会は随分とあった。沈壽官の後裔を語る時には彼の目は潤んでいた」 (『積乱雲とともに 梶山季之追悼文集』〈季節社1981年〉所収。韓氏はのちに「族譜」映画化のときに脚本を担当している)。

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 梶山は、決して政治的な人間ではなかったが、たとえば二度目の訪韓をしたころ、東京で日韓交渉が進展し、 漁業・法的地位・請求権の合意事項について仮調印が行われたことについて、「日本人は日本が韓国でなにをしたか、 ということを忘れている。むかし韓国で暮らしていた日本人ですら、忘れている。それが日韓会談を長引かせた原因だ」 「今後が問題だ。日本のこすっからい商人たちが、ふたたび韓国を経済的に侵略しないかと不安である。 日韓会談に反対していた韓国の人々が恐れていたのは、三十六年間の日本統治時代の恨みもさることながら、国交回復後の、 日本の政治的、経済的な侵略であった」といい、今後は新しい産業を起こすなど、隣国に人道的な支援をすべきだと結んでいる (「忘れてはならぬこと―日韓会談の仮調印に思う―」『神戸新聞』1965年4月7日付)。
 何ごとに対しても、日本人に必要なものは、この梶山のような複眼思考であろう。

{参考文献}
梶山季之『李朝残影』講談社文庫(一九七八年)
梶山季之『性欲のある風景』河出文庫(一九八五年)
梶山美那江編『積乱雲 梶山季之 その軌跡と周辺』季節社(一九九八年)
橋本健午『梶山季之』日本経済評論社(一九九七年)

(舘野晢編『韓国・朝鮮と向きあった36人の日本人―西郷隆盛、福沢諭吉から現代まで―』明石書店、2002年)所収


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