← その4へ
日光で一夜を共にして以来、親しさも肉体的となり、賢二以上に杉代は、肉体を通して賢二を思うようになっていた。
男は元来、肉体を通してしか異性を見ないものである。いくら愛していても、相手の肉体に失望すると、他に特別の打算か何かがなければ、案外熱は冷めやすいのでないか。
それに比べ、女性は感情的であるうえに、肉体的に満足すれば、天下を取ったような心境に到るのであろう。
杉代とはいえ、仕事の方はきちんと怠らずにやっていた。むしろ快調といえた。
しかし、賢二が驚いたことに、杉代が鵠沼の家を出て、都内にマンションを借りると言い出したのだ。
二人で過ごす時間を、より多く持つためというが、彼は喜んでいいのかどうか、とっさに判断しかねた。彼はまだ二十一歳である。
女を扱い馴れているわけではない。若さは、女の肉体をもっと貪りたいという気持は強いが、それ以上に、世間に対しておどおどしているものである。
ホテルので逢瀬は、人目もあるし、何か落ち着かず、いっそのことこじんまりしたマンションを借りた方が、賢明ではあった。
唯そこで、一人住む杉代の生活がどんなものか、賢二には想像できない。
鵠沼の大きな屋敷で、のんびり暮らしていた、彼女の部屋の佇まいを覚えているだけに、独りで一戸を構えるのが、不思議に思えるのだった。
梅雨入りのころ、蒸し暑い夜が訪れつつあった。
言い出してから二週間も経たないうちに、彼女はどうやって見つけたのか、競技場そばの小奇麗な四階建てのマンションに引っ越していた。
叔父あての移転通知で、賢二はそれを知ったのだ。
杉代の部屋は四階のいちばん端にあり、窓を開け放つと、眼の前に、芝生の緑が映える競技場がずうっと拡がっている。
近くには、古くからの屋敷もあり、その四階建ては、いささか場違いの感もあるが、それほど調和を損ねているわけでもない。
彼女が引っ越してから、最初の日曜日に、賢二はその部屋を訪ねた。初夏の太陽はまぶしく、レースのカーテンを通して部屋に射し込んでいた。
電話はまだついていなかった。
きっと今日来ると、私は確信していたのよと、頭のスカーフを取る暇もなく、杉代は賢二に飛びついて来た。
忙しかったのか、部屋は余り片付いておらず、見慣れた調度品も、まだ雑然と置いてある。
半分ぐらいしか持って来なかったと、杉代はそれでもかなりある荷物を指して言うのだった。
鵠沼で見たよりも、活き活きしていると、賢二は彼女の変化に目を見張った。何か、新しいものを、彼女の中に発見したように思った。
しかし、それが何であるかを見抜くほど、彼は大人ではなく、眼の前の荷物の整理を手伝うのが、精一杯であった。
一方、杉代は新婚気取りで、楽しげである。確かに新しい生活の始まりであった。
これまで通りの仕事をするにも近くて都合がよいし、自分独りの城だと思うと、何の気兼ねもいらなかった。
また、寂しくなるね、とぽつんともらした母親には悪いと思うが、理解のある母親は、何の反対もしなかった。
夕方までに何とか片付き、ほっと一息入れると、二人は抱擁しあうのだった。
まだ、その部屋になじまないせいか、ホテルよりは落ち着かないことに、賢二は戸惑った。それとも、まだ外が明るかったからかも知れない。
珍しく早く別れたが、次は三日以内に来てくれと催促された。
賢二は、杉代が、ずっと自分の方ばかり向いていてくれた、今までと違った女に思えて、それがどうしてなのか、帰りの電車の中で考えていた。
また、何でも一人で決めて、さっさと実行にうつす動機となったものが、何であるのか、それも気にかかった。
唯はっきりしていることは、彼女が何事にも積極的になったことが、賢二にとって、当然というよりは、圧迫であるように思われることだった。
例えば、授業のない水曜日は必ず訪ねて来ることとか、土曜の夜は一緒に過ごそうなどという提案を、「ねえ、いいでしょ」と言われると、
彼には反対する理由もないのだが……。
それらが、“肉体関係”によるものなのか、そして、火がつくと燃え尽きるまで続くものなのか、彼には理解できないことだった。
うきうきして楽しいというより、次に何が起こるのだろうかと、彼は不安を抱き始めた。
彼女に望んでいたのか、こんなものではなかった筈だがと、彼は不思議でならなかった。
ある日、二人は郊外へ出ようと、新宿から電車に乗った。昼近くで陽は高く、杉代はブラインドの下りている方が、風が入らないからと、そちら側に坐った。
女は暑さよりも、髪の乱れが気になるものである。賢二は寝不足で、まともに眼を開けておれず、うつらうつらしていた。
彼女は、手にした詩集を読んでいた。
乗ってから、二十分程して彼は眼を覚ました。すると、眼の前に、少し離れて、二歳半ぐらいの可愛い女の子が、その母親と乗っていた。
彼女は、チューインガムを口に含んでいた。窓は背よりも高いので、彼女は賢二の方を向いている。彼は幼女の顔をじっと見た。
瞳がとても大きく、澄んでいて恐ろしいくらいである。彼女も賢二を不思議そうに見ていた。相変らず、ガムを噛んでいるが、彼から眼を離さない。
賢二は思わず幼女に微笑を送った。すると、彼女もそれに応えて笑った。
若い母親は、何も知らなかった。彼女の黄色いスーツは、よく似合っていたが、サングラスは気障だった。
彼は幼子と、この母親に対する、ささやかな秘密を持ったことを、内心喜んだ。隣にいる杉代も、その女の子に気がついて、やはりじっと見ている。
幼女の方も、同じように見詰めている。二人は何も喋らなかった。女の子は、賢二と杉代を代わる代わる見ていた。
車内が混んで来て、もう幼女を見通せなくなったとき、賢二は初めて口を利いた。
「彼女は、僕たち二人が、恋人同士だと知ったら、驚くだろうね」「どうして?」
「だって、彼女と僕との間に、黙契が出来てたんだもの。彼女は僕のことを、独り者と思いこんでいるよ、きっと」
「そんなことないでしょう、聞いてみたら……」
しばらくして、終点だった。女の子は、母親に抱かれて降りてゆく。二人は出口に向って、彼女らの少し後ろを歩いていた。
もう話をしていたし、並んで歩いてもいる。それを突然、母親の肩越しに後ろを振り向いた彼女は、まともに見てしまった。
その顔は、驚きと困惑の交じったように見え、賢二はそれを見て、幼女を裏切ってしまったことを後悔した。
杉代もそれを認めて、少し驚いている。いつ、どこに恋敵が現われるかと、心配しているようにも見えた。
だが、女の子は、依然として何も知らない、若い母親に抱かれて、もうどこかへ消えてしまった。
「女って、恐ろしいですね」と賢二が、いく分茶化して言うと、杉代は黙って肯いていた。
賢二は、自分の思っていることを口に出すのに、ストレートにできない性分であった。杉代の前では、特にそうだった。
賢二は、もう何度も杉代のマンションへ行った。
未だ若く、肉欲を満足させるだけで充分な青年にとって、気がおけなく自由で寛大でもある彼女は、確かに魅力的ではあったが、
それに溺れてしまう程、彼は純情でもなかった。いや、何も信じられぬ故に、のめり込むということができないのかも知れない。
何度目かの土曜の夜、杉代は賢二の裸の背中に言った。「ねえ、私以外の女の人を抱かないって約束してくれる?」 賢二は、あいまいに肯いた。
『一生……』と、彼女は続けたかった。しかし、それはとても無理な願いだと、自らよく知っていた。
でも、せめて……、せめてあと何年と、私は言いたいのだろうか。彼はまだ若い。それに引きかえ、私は大人気もないことを口走っている……。
でも、私は愛(いと)しい人を、若い女に奪われたくはない。若い彼は遊びたいだろうし、女の子には人気があるし、誘惑も多いことだろう。
でも、私は手放したくはない……。
かつて愛したことのある男性の再来、いやそれ以上なのだ。どうして、他人(ひと)に渡すことができよう。
それでも、彼が私から離れていったら? 私はどんなことをしてでも、引き止めるだろうか。
いや、そんなことをしたら、彼の人生はメチャメチャになってしまう。そんなことは、私も望まない。
でも、私の人生は? 彼のいなくなった後の、ぽっかりと空いてしまった空洞(あな)は? 一体誰が心配してくれるのだろう……。
私は死を選ぶのだろうか。自殺、それとも彼を道連れに? いやいや、そんなことは考えたくない。
女は、バスルームでシャワーを浴びている男の、未だぬくもりの残っているシーツの上に、ぽたぽたと大粒の涙を落していた。
学校へ行っても、休講が多かったりして、授業のある日は少ない。
賢二は、昼間アルバイトをしたりして過ごし、夕方友だちと行動を共にしない限り、杉代のマンションへ行った。
合カギは直ぐに貰っていた。どうして、そちらに足が向くのか、自分でもよく判らない。
日点し頃(ひともしごろ)になり、今日はもう帰っているんじゃないかと思うと、電車に乗っているのだった。電話は余りかけなかった。
そこは、確かに快楽の園であり、怠惰の園でもあった。叔父たちには、夜遅くまでアルバイトをしているのだといっておいた。
以前程、口やかましく言うことはなかったし、近ごろ様子がおかしいと、気がついてもいないようだった。
それは、ある意味では気が楽であったが、何だか頼りなく思う賢二でもあった。
彼は、杉代の前では、普通に振舞っていたが、やはり女一人住まいのマンションへ行くというのは、気の引けることであった。
生活の面倒を見てもらっているわけでもなく、誰はゞかることのない恋人同士なのだから、堂々としておればよいのだが、彼にはそれができない。
気が小さいといえば、それまでだが、やはり何か後ろめたさが残る。
つまり、溺れ切れず、常に醒めている処と、これでいゝのかという自責の念が、いつも頭にこびりついているのだった。
それでも、足が向くのは、快楽を貪るためだけでなく、叔父の家では味わえなかった、家庭的な、人間的な温かみと、安らぎが得られるからであった。
大分アルコールに強くなった賢二に、杉代が勧めるのは、大抵、分厚いステーキか肉料理。
自ら台所でジュウジュウ焼いたのを、さあ、召し上がれと運んでくる。彼女はそんな時、本当に新婚気分でいるのかも知れない。
一方、行くたびに、浴衣や下着類が新しく買い足されているのを見ると、賢二はもう抜け切れない泥沼にはまり込んだのではないかと、恐ろしくなる。
しかし、自分の若さには勝てなかった。すらっとしていて、とても華奢な感じで、ちょっとの重みでも、壊れてしまいそうな杉代……。
その肉体は、いつでも彼の手の届くところにあった。
そんな彼女が、いとおしかった。一緒にいると、自分より十いくつも年上であることも忘れて、まるで幼い可愛げな女の子に感じられるのだ。
生徒を何人も持つ、お花やお茶の先生というイメージからは、想像もできない、無邪気で、庇護者を必要とする、甘えん坊になってしまう。
激しい愛撫の後は、恋の味も知らないような女の子を眠りに誘うように、賢二は、彼女を優しく抱いて寝かせてやるのだった。
彼女は、賢二といると、弱々しかった。その腕の中で、安らかな寝息を立てている杉代は、彼を必要としていた。
その寝顔を見ながら、賢二は、こういう生活の、甘美な誘惑に溺れつつ、どうしても自分が彼女を護らなければという、交錯した感情の動きに、
身を任す以外に、なすすべを知らなかった。
だが、一方で、今はもういない、純子にも感じていたように、杉代は好きだが、ただそれだけだとも思い始めていた。
好きだから結婚しようとか、子供を作ろうなどというのは、およそ次元の違うことだと思っている。
彼は、何ものをも生み出さない、相変らずの沈滞の中にいた。
が、女にとっては、変化のないこと、永遠にと感じられるもの以上の歓びはない。
それは女にとって、生きていることの、すべてといってよかった。
しかし、そういう状態の、いつまでも続くことが、男にとって、大きな苦痛になることを、賢二は、不幸にして、まだ自覚してはいなかった。
賢二は、ビールが嫌いな方ではない。しかし、目の前の、宮田の美味しそうな飲みっぷりを見ていると、何か圧倒されるものを感じる。
全く、何の悩みもないと言いたげな、屈託のなさである。
「処で、この間の美人はどうした? ずっと気になっていたんだが、ほら親戚の人とかいう……。案外あの人と、よろしくやってるのじゃないか?」
「おい、止せよ。そんな言い方をするのは」「ご免ご免。ということは、図星なのか?」「うん、まあ」
「いゝねえ。お前は意外と、母性本能を刺激するからな、羨ましいよ。尤も、純子さんは、お前にもう少し男らしい処があったら、なんて言ってたけど」
「……………」
「黙ってちゃ判らんじゃないか。俺はこの通り、おっちょこちょいだから、失礼なことを言うかも知れんが、人一倍お前のことを心配してるんだぞ」
「そりゃ、よく判ってるよ。たゞ問題はそんなに簡単じゃないんだ」
「子供でも出来たのか? いやこれは言い過ぎた。君たちの関係は、どこまで行ってるのか聞かないと……」
「そりゃ、男と女だから……、自然の成行きとして」「やっぱり、子供か」
「そうじゃないよ。そう、せかせるなよ。まだビール飲むだろ?」と、店の人に追加注文を出す賢二。
ウェイトレスが、大ジョッキを二つ運んでくる間、二人の話は途切れ、賢二は、どこまで話そうかと、迷っていた。
「この店は、チケット制でない処が、家庭的でいいや」「君は、何にでも反応が早いんだね、全く」
「これが、俺の取柄でもあり、欠点でもあるのさ。処で、彼女何ていう名前だっけ?」
「杉代って、いうんだ」「ふうーん。それで、いくつ?」「まあ、そんなことは、どうでもいいじゃないか。年上であることに変わりはないんだから」
「よし、判った。お前が悩んでいるのは、その年齢の差のことか。それとも、まさか結婚しようというんじゃないだろうな」
「いや、まだそこまでは、はっきり考えていない。まだというより少なくとも俺は考えていない。実は、向うがどう思っているのか判らない処が、悩みなんだ……」
「お前を愛しているか、どうかという意味か」「いや、愛されすぎているのではないか、ということだ……」
「どうも、ご馳走さま。それで、まだ悩みがあるなんて、お前も贅沢なヤツだな」
「君には判らないかも知れんが、愛情って、こんなに束縛されるものなのかと感じるようになったんだよ。束縛以外の何者でもないって……」
「一体、それはどういうことだ?」
「ここに、動物を入れる檻があるとするよ。檻の中は快適で、食うことも、寝ることも自由。自分の好き勝手なこともできるんだよ。誰も文句を言わない。
中に入っている動物は、たいていそれに馴れてしまって、その方が安全だから、反抗もしない。処が中には、外の空気というか、そういう束縛から逃れたたくて、
暴れ出すやつもいるだろう……」
「つまり、お前は、その檻の中の、哀れな動物っていうことか?」
「いや、檻なんか、現実には何もないんだ。だったら逃げればいいって言うかもしれんが、そうは行かないんだよ」「……………」
「美味しい食事、快適な昼寝、至れり尽くせりのサービス。動物だって、そう簡単に裏切れるものではないだろう……」
「なるほどね、むずかしい話だな。相手は分別もあり、自活している人だろ? 少しは割り切ってるんじゃなかなあ。
つまり、お前が思っている程、相手は考えてないんじゃないか?」
「君は、他人(ひと)のことだと思って、勝手なことばかり言ってるが、少しは俺の身にもなってくれよ」
「俺の身にもなってくれよったって、お前はなかなか喋らないじゃないか。確かに、俺はお前みたいに、気の利いた恋愛の出来る男じゃないが、
もう少し委(くわ)しく話してくれないと……」
「それが、そう簡単に行かないから、弱ってるんだよ」
宮田は、親身になってくれる男である。しかし、今の賢二にとって、他人がどれだけ親身になってくれても、どんな解決策が見い出せるのか、見当もつかなかった。
宮田は言った。結婚を前提としないなら、適当に可愛がってもらったらいいではないか、と。飽きたら、おさらばすれば、とも極言した。
しかし、現実は、そんな生易しいものでないことは、賢二がいちばんよく知っている。今は何も起こってはいない。
誰も文句を言わないし、杉代は幸せそうである。だが、賢二が最も恐れるのは、こういう状態が、いつまで続くのかということである。
かといって、どういうやり方で打ち切ることが出来るのか、それを考えることすら、彼には恐いのだった。
暑さは、本格的になって来た。蒸し暑さは特にひどく、賢二は一日中イライラすることが、よくあった。
そんな時、クーラーを入れた杉代の部屋は、まるで別天地のように、しのぎやすかった。
大抵のことには我慢する筈の賢二も、この暑さには弱く、どうしても彼女の部屋に行く回数が多くなる。彼女は、大歓迎であった。
仕事を持っていて、外出が多くても、やはり女である。独りでいるよりは、愛しい人が身近にいてくれる方が、どれ程嬉しく、心強いことか。
賢二にした処で、未だひたり切る積りはないのだが、何かと世話を焼いてくれる女(ひと)といる方が、やはり楽しいに決まっている。
叔父の家で、人の顔色をうかがったり、退屈な仕事を手伝っているよりは……。
卒論のことを、そろそろと考え始めた彼は、じっくり本を読まなければと思い、去年のように、菅野の田舎へ、居候に行こうかと考えていた。
しかし、二年も続けてとなると、いかに図々しいとはいえ、気が引ける。また、その大自然が、余りにも幸せにしてくれるので、
とても本を読み切れる自信はない……、などと考えていると、「それじゃ、いっそうちに来ればいいじゃないの」と、杉代はいうのだった。
「昼間は静かだし、涼しいし、充分お勉強が出来るわ。お昼ごはんは、ちゃんと作っておいて上げるから、うちに来なさいよ」と、
さも名案が浮かんだように、賢二の意向も聞かずに、勝手に決めてしまった。
遠慮深いというよりは、引っ込み思案の賢二は、まだ躊躇していたが、七月も半ばを過ぎて、どうしようもなく暑くなった月曜日、
ふらりと杉代のマンションへ行くと、
「見てご覧! ダブルベッドを入れたのよ。貴方がずっと、ここでお勉強するでしょ。だから、思い切って買ったわ」と彼女は、賢二の顔を見るなり言うのだった。
賢二は、その瞬間、新橋のホテルでの一夜を思い出した。杉代との初めての夜で、興奮していたものの、ぎこちなく、あっけなく終わり、
大事なものを、失ったのか、それとも我が手中にしたのか、判らないような気持を味わったことを。
以来、もう何度も、杉代と交わっているが、ベッドは、それ程に肉欲的であった。
まして、昼間から、あからさまに見せられると、欲情より、抵抗を感ずる賢二である。一方、彼女は、年甲斐もなく、うきうきしていた。
女は、それまで抑えていたものが、いったん堰を切ると、あとは止め処(とめど)もなく流れ出してしまうものらしい。
そして、賢二は、杉代のいく分押し付けがましい意思によって、彼女との共同生活に入ることを悟った。
夏休み中だけでもと、彼女は言った。叔父夫婦には、友人の処へ避暑がてら、勉強をしに行くと言って、ごまかした。
賢二は、優雅な生活に入った。昼間は独りで、食事の用意はしてあるし、喉が渇けばビールも飲める。
シャワーも浴びられるし、昼寝だって自由である。夜ともなると、杉代が大急ぎで帰ってきて、脂っこいものばかりか、毎回工夫して作る山菜料理なども、
綺麗な小鉢に入って出てくる。
新しい生活に入って、杉代は一段と若返ったように見え、ベッドは、ようやく馴れた二人を乗せて、毎夜大きくきしむのだった。
賢二は、卒論に、ドストエフスキーをやろうと決めていた。かつての杉代たちと同じようだが、その影響を受けたわけではなく、
クリスチャンでもないから、そういう観点からの研究でもない。杉代の処に全集があったが、彼は敢えて、神田の古本屋から買って来た全集を持ち込んだ。
ロシアには、ドストエフスキーと並び称される作家にトルストイがいるが、賢二は、この幸福な貴族作家から、何が学び取れるのかと疑問に思っている。
なぜなら、幸福なトルストイは、それだけで完結しているからである。彼は、幸福が、いや幸福な、が嫌いなのである。
まだそれより、薄暗い、じめじめした、貧乏の方が好きである。何か救いが感じられ、人間的だからだ。
ドストエフスキーをやろうという動機には、向井純子の“遺言”のようなものも含まれている。
かつて、彼らがまだごく親しかった頃、幸福な純子と、不幸な賢二が、別々の面から研究してみようと、語り合ったことがあった。
尤も、今にしてみれば、それを、幸福な杉代に置き換えても、賢二には、さしたる違いがあるわけではなかった。
ただ、現実の彼と彼女とを結び付けているのは、ドストエフスキーではなかった。
今の学生の多くは、原書を読むなどということは、滅多にしない。賢二における、ドストエフスキーも、その例に漏れなかった。
しかし、日本語の全集は二十巻以上もあり、それを読むだけでも、大変な仕事であった。
冷房付きの部屋で、さぞかし大いに捗るだろうと思われるが、ビールあり、シャワーあり、昼寝ありの賢二には、
より一層の怠惰を勧めるようなものである。日曜日や、仕事のない日は、杉代の作る栄養豊かな料理を充分に食べされられる。
それは『貧しき人々』どころか、肉欲を刺激する以外の何者でもなかった。
野尻湖畔の、そのホテルは近くのキャンプ場の賑わいにくらべ、寂しい程ひっそりとしていた。賢二たちの他には、三組ぐらいしか客がいない。
ホテルから見える湖面は、大きな松の枝を通して、はるか下方に、きらきらと朝日に光って、静かな佇(たたず)まいである。
そこへ、一艘のボートが入って来ると、ガラスが割れたように、波が、小さく無数の光の粒のように散らばった。
「ボートに乗ろうか?」 賢二は言った。余りお喋りもせず、少し暇を持て余し始めた二人は、一も二もなく、船着場へ走って行った。
杉代は、そんな時、子供のように、無邪気にはしゃぐ。賢二は、そういう、自分と向き合っていない時の彼女を愛した。
そして、彼はいつの間にか、そういう状況を作り出そうと努力している自分に、あるやり切れなさを感じていた。
二人は、恐る恐る手近のボートに乗り込んだ。彼は泳げないくせに、ボートを漕ぐのが好きだった。
やはり泳げない杉代は、神妙な顔をしている。二人で乗るのは初めてであった。やや風はあるが、穏やかな湖面は、難なく漕ぐことができる。
「見事なオールさばきね」 杉代が感心したように言った。「まあね、でも普通でしょう」「大抵の人は、右か左かに偏るでしょう?」
「そうですか、気がついたことはないけど……」 賢二の答に、表情が乏しい。
「どうして、あなたはそんなに、ぶすっとしているの? 折角楽しく旅行しているのに」
「別に、ぶすっとなんかしてないですよ。ただ、ごく普通だと思っただけで……」
「この頃、少し変よ。何か気に入らないことがあったら、言って頂戴。私は、あなたが機嫌の悪い顔をしているのを見るのが、いちばん嫌なの」「……………」
最近、杉代は、この人は何を考えているのだろうかと、思うことがある。何を言っても、余り反対もしないかわり、積極的なこともしない。
それが、どうしてそうなったのか判らない……。私への愛が冷めたのだろうか。もう愛してはいないのだろうか? でも夜は、とても優しく愛撫してくれるのに……。
杉代は、黙々と漕いでいる賢二の顔を、じっと見詰めていると、知らず知らず涙がこみ上げてくるのだった。
それを知ってか、賢二は、もう戻ろうかと、舳先(へさき)を、もと来た方向へと転換させるのだった。
先に船着場に着いたボートから、若いアベックが、陸に上がろうとした拍子に、重心を失って、二人ともザブンと水の中へ、落ちてしまったが、 直ぐに這い上がってきた。それを見て、賢二は、あれがほんとの濡れ場ですねと、杉代を笑わせようとしたが、彼女の頬は、心なしか歪(ゆが)んでいるようだった。
いつの間にか、二人の間に、目に見えない亀裂でも入ったのだろうか。賢二は、内心常に落ちつきがなく、これでいいのだという自信が持てない。
だから自然、ポーズをとるようになる。特に、近ごろ杉代といるときがそうである。判っていながら、彼には、どうすることもできなかった。
また、現状に満足するという心が、いつの間にか失われてしまっていた。それは少年時代からで、今や少しひねくれて、客観的に見て、
かなり満足すべきものでも、もっとよりよいものがあるのではないかと思うのだった。
純子のことを、ないがしろにしたのは、今にして思えば、もっとすばらしい女性、もっと自分を理解してくれる女性が現れるのではないかという考えが、
心のどこかにあったのではないか(確かに、そこに杉代が現われたのであるが……)と、賢二は反省して、思うのだ。
しかし、理解、同情などというものは、その身になってみなければ、判るものではない。
赤の他人に、理解してもらおうというのも、苦痛である。善意の押し売りは、ご免である、と彼は考える。
引っ込み思案、消極的、裸になれないことの裏返しに、相手に対しては、思いやりがありすぎ、相手の気持を考えすぎて、勝手に先回りして、疲れてしまうのだ。
だが、相手は、自分のことを考えてくれて、嬉しいとまでは思っても、それ以上に、こちらが傷ついていることには、思いも及ばない。
人の幸福などというものは、いつも誰かの犠牲の上に成り立っているのである。
野尻湖から松本へ戻ると、二人はタクシーを拾って、白骨(しらほね)温泉へと向った。
途中、島々(しましま)まで電車があるが、その先は、車以外に乗り物はない。
梓川の上を、細い道路は、山の中を二時間ばかり、右に左に渡りながら、全く鄙(ひな)びた温泉場、白骨へたどり着く。
上高地の一方の登り口でもある、この温泉場は、旅館が五、六軒しかなく、むしろ湯治場と言った方がよい。
宿を取ったその旅館は、かつて中里介山が『大菩薩峠』を書いたといわれる処で、その一室は、介山(かいざん)荘と名づけられていた。
また露天風呂も有名で、晴れ上がった夜空に、月が煌々(こうこう)と照り、もう湯治客も寝静まった頃、二人は、誰憚ることなく飛び込んだ。
昼間、気まずい思いをした二人だが、ぼうっとかすむ、杉代の裸身は、月明かりと湯気の中で、若い賢二の欲望をかきたてるのに充分であった。
杉代は、女性として優れており、その細やかな感情と感覚に、賢二は惹かれた。しかし、彼は、その杉代をどうすることもできないのだった。
彼は、彼女を、余りにも知りすぎてしまった。かつて、知り始めた頃、彼は杉代に甘えたいと思っていたし、それが受け入れられてもいた。
だが、近ごろは、それが逆転してしまったのだ。わがままをいうのは自分ではなく、彼女であることに彼は戸惑いを感じ、持て余し始めていた。
賢二は、自分の世界というものを、どんなに小さいものでも、それを造らないではいられない性分であった。
その中には、どんな親しい人でも、立ち入ることを許せなかった。全く自分ひとりの世界でしか、彼は落ち着けないのだった。
いつもより、念入りな愛撫を要求して、満足を得たのか、杉代は、学校が始まる前に、九州へ連れてってと、賢二にせがんだ。
拒否する権利も持たない賢二だが、卒業まで、まだ一年半もあるじゃないのという言葉が、妙に耳にこびりついて、隣で軽いいびきをかきながら、
眠っている女の横顔に、言うに言われぬ、嫌なものを感じ始めていた。
眼がさえて眠れない賢二は、そっと布団を抜け出すと、部屋の隅の冷蔵庫から、よく冷えたビールを取り出してきた。
あとがき的一章として(宮田記す)
作者の意図が、どの辺にあったのか知る由もないが、『虚構としての時代』は、ここで終っている。
完成していないとすれば、これは、まさに虚構の青春そのものであるといえる。ここに、小さな新聞記事からの抜粋を掲げておく。
――九月×日、瀬戸内海汽船別府航路、別府発神戸行の豪華客船△△丸より、一人の学生が身投げした。自殺とみられる。
目撃者の話によると、朝日に照り映える、鏡のような水面は、一瞬ヒビが入ったように乱れたが、やがて一人の青年を呑み込んだことも忘れて、
元の静かな海に戻ったという。
身元は、所持品から、東京都××市××町××、W大生。川添賢二さん(21)と判明。
連れの女性は、ショックで倒れてしまい、船内で手当てを受け、安静中……。
それを知った時、夏休み気分の抜け切れない私たちにとっては、まさに寝耳に水であった。
未だに自殺の動機が分からない。また、自宅などどこを探しても、この原稿以外に、遺書らしいものも見当たらないのである。
事故死とも思ってみたが、あの用心深い男が、飛び降りる理由が分からない。人を驚かすにしては変だし、第一彼は泳げないはずだ。
一つだけ明らかなことは、彼が死んだ日は、大学で交際していた同級の故向井純子さんの誕生日に当たっていたことで、彼はそれを知っていたかどうか?
ただ純子さんの死を、一人だけ、自殺だと主張していた男である。案外、天国へ行って、純子さんと仲良く遊んでいるのだろうか。
二人にとって、それが運命だったのかもしれないという気もする。
最後に、私も一度、川添の入院していた病院で会ったことのある山野杉代さんの手紙を掲げておこう。賢二君の叔父さんに届いたものである。
――申し上げたいことは沢山ありますが、今は、賢二さんのご冥福をお祈りするばかりです。
私は、この年になって、やっと女の幸せを掴んだように思っておりましたが、それは若い賢二さんには、とても負担だったのでしょう。
申し訳ないことをしました。
繊細な賢二さんの“鏡”にヒビを入れたのは、この私だと思います。
私も責任をとって後を追います。写真は全部焼き捨てて下さい。長い間、ありがとうございました。
(終)
〔あとがき;これは、今から40数年前、20代前半の、まさに若書きの一作品です。
大阪から上京して、元気はつらつとした女子学生にもまれ、恥ずかしさと悔しさにまみれ、少しずつ東京にも学生生活にも馴れてきた時代の産物といえます。
本稿は“てにをは”の加減や文の削除など、若干の手直しを施しております。一方、漢字仮名交じりの表現は、現代といくらか違っています。
たとえば、「気持ち」(気持)、「**といった」(言った)、「ところで」(処で)など。私自身の当時の癖(こだわり)もありますが、そういう“時代”でもあったということです。
生活環境でいえば、パソコンはおろか携帯電話もない時代、やっとテレビなどの普及による新三種の神器あるいは3C(カー・クーラー・カラーテレビ)といわれたころでした。
さて、その後、別のノートから「創作用メモ1963・8・9」が出てきました。
“全15章300枚”の予定で、たとえば「第1章(20枚) 主人公のプロフィル、婦人の家庭教師、ある特定のガールフレンドのいること」
「第2章(10枚) 主人公の性格、考え方、友だち」などと記しておりました。
なお、最終第15章については、枚数も“?”、内容も「終焉、 自殺? 別れ? ひとりになる」とありますが、私は40数年後の今回“そして誰もいなくなった”という結論にしております(A・クリスティの推理小説の題名)。
先日、念のため図書館へ行って、F・サガンの『ブラームスはお好き』を手にとって見ました。
カバーの裏に「美貌の夫と安楽な生活を捨て、人生に何かを求めようとした聡明で美しいポール。
ディスプレー・デザイナーとして自立し、ロジェという恋人を持つ、三十九歳の彼女に、十五歳も年下の美しい金持ちの息子シモンが夢中になる。
彼女を真剣に恋したシモンは、結婚を申し込むが……。孤独から逃れようとして織りなす複雑な男女のもつれを描く、パリの香りに満ちた長編小説」とありました。
私が、この第十二章の後半で「僕たちは、まるでサガンの主人公のようですね」と書いたのは、そのころ出たばかりの文庫本(朝吹登水子訳)を読んでいたからだと思いますが、
まったく忘れておりました。まさに“忘却とは忘れ去ることなり。…”(1952年、NHKラジオドラマ『君の名は』冒頭のナレーション)といったところです。
ともあれ、私も人生の終盤を迎え、何かと身の回りのものを整理しておりますが、なかなか片付くものではありません。 また“忘却の彼方から”何が出てくるのかも分かりません。愉しみでもあり、恐ろしくもありの日々を送っております。 2009・12・13橋本健午〕
← その4へ