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試論・"有害図書"と出版倫理活動―ないがしろにされてきた当事者・子供たち―

1999・01
橋本健午(ノンフィクションライター)


 いま、鳴りをひそめている"有害図書"規制の声が、またいつ噴出するか分からない。 先の衆議院に上程された「児童売春・児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護に関する法律案」 (児童買春・児童ポルノ禁止法案)の処罰の範囲は、出版そのものへの適用の可能性もうかがえる。 今春には参議院への民主党案の提出も取りざたされている。

 しかし、現実問題として恐いのは、これらの動きに便乗した"規制"である。
 青少年健全育成条例(図書規制等)が最初に制定されたのは昭和25(1950)年5月、岡山県の 「図書による青少年の保護育成に関する条例」である。 ちなみに、同年6月には伊藤整訳『チャタレー夫人の恋人』が、ワイセツ文書として警視庁に押収されている。

 その後、このような規制、取締りが繰り返されるが、現行の"有害な興行・映画・出版物など"を対象とした条例は、 翌26年10月に和歌山県で、27年に香川、30年に北海道・神奈川で制定されるなど、現在では長野県を除く都道府県にある。
 映画といえば、25年から28年にかけて大映のニューフェース若尾綾子に代表される"性典もの"が大ヒットし、 青少年に有害と槍玉に上がった。

スケープゴートにされる出版物

 ある刑法学者は、非行は数年の潜伏期を経て表面化するが、その原因は少年非行のピーク時のメディアと結びつけられると指摘している。 第1次ピークは"性典もの"映画、第2次は、東京オリンピックの年(1964)で、普及著しいテレビ(番組)が俎上に上った。
 そして、非行の第3次ピークといわれた58(1983)年に、読者の体験記を掲載していたティーン向けの"少女誌"が問題となり、 一時は販売規制を求める中央立法化まで論議された。

 平成2(1990)年夏、和歌山県から始まったコミック本、とりわけ"少年少女向け"の規制強化の波は全国に広がった。 当時、連続幼女誘拐殺人事件の容疑者Mは、コミックに影響されて事件を起こしたとされ、 大量のビデオとロリコンもののコミック本を何冊も並べた彼の部屋がテレビに映し出されていた。

 そして、東京都議会における警視総監の発言(「今年(平成2年)だけで73件の少年非行がコミックの影響を受けている」)や、 大阪府(青少年問題協議会専門委員会)で、ある学者は、職権で調書を読んだ61件の事件はみなコミックに影響されたものだ、 手口までそっくりだと断言している。

 もっとも、心理学者など専門家は、コミックと非行の因果関係は証明されていないとしている。
 しかし、規制派・取り締り側は、そのときどきの目立つもの、気に入らないものを、 モグラ叩きのように潰していこうというわけである。

 ここで参考までに、カラオケ業界の"身の処し方"を上げておこう。
 カラオケ店が生まれたのは昭和62年、なぜか日本初の青少年条例を制定した岡山県である。 平成元年ごろ、カラオケ店で少年非行がたびたび起こったため、各県警の指導でカラオケボックスの防犯協会ができた。
 平成3年には"カラオケボックス市場の健全な発展と青少年の健全育成、音楽文化の向上と発展を目的"として、 全国35都道府県の同業者が大同団結している。その後、県条例との兼ね合いで、バラバラだった自主規制基準も、 平成5年に全国統一自主規制基準とし、当時全国の約5千の事業者に講習会などで通達したという(以上、関係者の談)。

 このように、警察を味方につけると、たとえ天下りという"弊害"はあっても、業界が安泰であることは容易に想像がつく。 (ついでにいえば、警察官だってカラオケ好きが多くいるはずだ。)

青少年育成という"大人のおもちゃ"

 ところで、住民運動には母親を中心としたさまざまな組織があるが、前述の"コミック本問題"のときは、 新興宗教をバックにした「子供を守る親の会」という組織が熱心に動いた。 その宗教団体(本部は東大阪市、「親の会」の本部も同じ)は日本の北から南まで支部を持ち、それらが相まって動いていた。 その結果、各地の「親の会」が行った国会や各省庁、地方議会への陳情先とか、請願の紹介議員はほとんどが自民党だった。

 規制に熱心な自治体やお母さん方は、とにかく買ってきたんだとコミック本をふりかざす。 政治家も、そのページを見て、こりゃヒドイ、何とか取り締らなければ、と選挙民に"公約"する。 しかし、指定状況を見ると、それぞれの自治体が独自に有害だと判断を下したものとはいいがたい。 また、抗議のハガキはあまりにも統一が取れており(誤字まで同じ)、気味の悪いものであった。

 警察庁や各県警の動きも顕著であった。都内のたいがいの警察署には「母の会」の事務局があるようで、 おばあちゃんが主体のその「会」が、かなり"活躍"したこともテレビでレポートされていた。

 条例の趣旨は地方自治、つまり条例はその県内だけしか適用されないものだが、警察はA件で指定されても、 隣のB件で自由に買えるのはおかしいという。これを条例のバラツキといい、 バラツキがあるのはおかしいというのは警察だけでなく、学者にもいた。

 とにかく警察的発想からすると、一網打尽にしたいということであろうが、条例を均一化すれば中央立法と変わらなくなる。 書店だけでなく取次、版元まで影響を受け、発行すらできなくなるという、事実上の出版規制になるおそれがある。

 青少年の健全育成を望むという点では、立場はちがっても国民だれしも同じ思いであろうが、住民運動が主体的かどうか。 警察主導的な要素、宗教団体の組織的な動き、他県がやったからウチも指定しなければというような点を考えれば、 はなはだ疑問である。

時代相と"古典的メディア"出版物

 なぜ、出版は睨まれるのか。一つには、紙に印刷という古典的メディアであり、二つ目には、政治献金がほとんどなく、 週刊誌は政治家本人やそれにまつわる"スキャンダル"を書き立てる、からであろう。 また、出版界出身の政治家が極めて少ないのも事実である。

"古典的メディア"は、安価で、だれの目にも触れやすい。ゲームやパソコン画面はボタンやキーを押せば、 たちどころに画面は消えてしまう。何を見ていたのか、他人には分からない。 というより、年配者、例えばアクセスが容易でない母親たちには敬遠される。したがって、規制の"目"はどうしても、 パラパラとページをめくるだけで問題か所を指摘できる雑誌に向かうのではないか。

 一方、電波系メディア(=情報発信、あるいは情報提供の手段)は、テレビ、ビデオ、テレビゲーム、Eメール、 パソコン通信、インターネットなど多種多様である。ビジュアルで、動きのあるものほど、人を惹きつける。 また、"エッチ、ワイセツ的"なものが、新しい機器の発達を促すのも事実。自ら発信するケイタイ電話の普及も見逃せない。

 最近の総務庁の調査によると、インターネットでポルノ画像を見た高校生は男子46・2%(女子8・2%)、 大学生は男子51・1%(女子4・0%)で、"子どもは見てはいけない"と思う高校生の父親は60・3%で、母親は66・4%である。 なお、"発信者に自主規制"を求める保護者は、71・3%である(98・9・19発表、「青少年とパソコンなどに関する調査研究報告書」)。
 男女とも、それなりに興味があり、アクセスしていることが分かる。

 出版物に話を戻すと、このごろ東京都で"不健全図書"(他県でいう「有害図書」)として指定されるのは、 グラフ誌が2,3誌程度で、コミック誌は姿を消しているという。理由として、不況で出版点数が減少していること、 また、都は「成年向け雑誌」マークをつけたものを"業界の自主規制雑誌"として指定しないためだが、 現実には"過激だからといって売れなくなった、あきられてきたのではないか"という分析もある。 それが、より真実に近いのではないだろうか。
 しかし、安心してはおれない。全国で売られ、青少年の目にも触れるといわれれば、どうなるか。 最近発表された別のデータに触れておこう。

 98年版の『犯罪白書』によると、少年法改正論議が活発なところから、「少年非行の動向と非行少年の処遇」が特集されている。 そして、少年刑法犯の検挙人員は、(前述の)三つのピークのあと、"84年以降は減少傾向にあったが、 95年以降再び増加に転じ、97年は前年比9・8%増の約21万5,600人となった。 強盗が前年に比べ6割近く急増し、1,701人"で、検挙されたのは14歳〜17歳が顕著であるという(98・10・13法務省発表)。
 またぞろ、因果関係を求め、スケープゴートにされるのは……。

当事者(青少年)不在の論議は不毛

 取り締りや規制の強化は、建て前として"青少年の健全育成のため"であるが、いつも当事者である彼ら青少年の声、 発言が聞こえてこない。親を含め大人たちは、"次代を担う"(この言葉のなんとウサンくさいことか) 子どものことを慮ってといいたいのだろうが、当事者である子どもたちが"どう考えているのか"という大事な点が、 いつも話の中から抜け落ちている。

 毎年初春、東京代々木の国立青少年センターで開かれる青少年育成国民会議(「青少年と社会環境に関する中央大会」) での討議も、まったく同じである。全国から育成者が集まる年1回の会合で、出版、テレビ、ビデオとメディア別に、 それぞれ業界との話し合いをするが、ここでも青少年の声は聞こえてこない。参加すらしていない。

 かつて(昭和62年)、出版側が「青少年の悩みや心の痛みを、大人や行政の立場からではなく、 彼らの立場から見直してはどうか」と提言したのに対し、育成者側から「自分たちの努力や行政を無視するものだ」 との反論があったぐらいだ。

 もっとも、他でも同様だが、シンポジウムを開こうとしても、どの学校のどの生徒に頼むのか、 学校の責任はと考えると難しいらしく、なかなか生の声が反映されない状況が続いている。

 ところで、平成6(1994)年4月に批准し、同5月22日にわが国で発効した「子どもの権利条約」が、正しく理解され、 有効に働いているかというと、未だしの感が深い。子どもを抜きにして青少年問題を論じるのは、もはや無意味である。
 とくに第12条「意見表明権」の趣旨は"大人は黙っておれ!"ということであろう。 一個の人格あるものとして、彼らに自覚と責任を持たせることが先決ではないか。

 一つ報告すると、先の国民会議(事務局)では、平成8年と10年に全国の18歳未満の若者に呼びかけ、 ハガキによる意見を求め(約900通と約300通)、それを元に中高生による座談会を行っている。 それらによると、まだまだ大人が口を挟む、干渉する機会は家庭でも学校でも多いようである。

 なお、「子どもの権利条約」は、青少年健全育成条例との兼ね合いが問題だとする見方もある。

マスメディアが作り出す"虚像"と"実像"

 "キレる"とか"フツーの子"、"エンコー(援助交際)"などと、一部の中高生の現象を、 安易にネーミング(命名)するメディア側にも大いに問題がある。無責任である。  群れたがるグループも多いが、皆がそうではないだろう。冷めた子どもたちもいる。 "一部の行動で、全体を見ないで"と訴える女子高校生の新聞投書もある。

 悩む青春時代だが、自らの意見を持つ彼らである。先のハガキや座談会では総じて、おとなしく、ひ弱な印象を受けるが、 親をはじめと大人の勝手さ、無責任さに憤る声は多い。"反面教師"にされている大人たちよ、子どもを侮ってはいけない。

 "布川周期説"という言葉がある。出版倫理協議会(雑協・書協・取協・日書連で構成)の創設者で初代議長だった布川角左衛門(故人)氏が、 数年おきに出版が槍玉に上がる"現象"を評したものである。出版界の自粛・自浄作用を期待しながら、 一方で出版・言論の自由を守ろうとした同氏の尽力は計り知れない。

 出版に対する"規制"と出版倫理協議会を中心とした倫理活動の成果は? 子どもを取り巻く大人たち、住民、育成者、 警察関係、とりわけそれを報道するマスメディアの対応は適切だったのかどうか。
 そのような観点から、戦後の"日本人と倫理"を検証してみようと考える。これは、その序論である。

《『出版ニュース』1999年1月上中旬号)


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