出版倫理・青少年問題・目次へ

「出版倫理」書き出しの部分について

2007・08・14橋本健午


《今年、65歳の"老人"(ろうにん。大学浪人から数えて5度目の…)となった私は、8月はじめ、 身辺整理をしなければと思い立ち、まず手をつけたのが新聞切り抜きの整理であった。 しかし、これは1977年から30年分もあり、なかなか進まない。一方、2000年3月初旬にスタートした電子メールも送受信あわせて1万件あまりとなり、 これも重たすぎると整理を始めたが、とっくに忘れていたモノがいくつも出てくる。削除すべきモノがほとんどだが、 なかには"反省"や"回顧"あるいは"再録"する意義のあるものもある。その一つが本件である。2007・08・13橋本健午》

 ここに掲げるのは、2002年11月に明石書店より上梓された『有害図書と青少年問題―大人のオモチャだった"青少年"―』の初校ともいうべきものの書き出し部分である。 全体ではA4判76枚(40字×36行、約73,000字)あった。
 もっとも、この問題は出版業界団体に勤めていたころから長年にわたりウォッチしているテーマで、 最初の原稿は「試論・"有害図書"と出版倫理活動―ないがしろにされてきた当事者・子どもたち―」(「出版ニュース」1999・01上中旬号)であり、 ついで「出版倫理・攻防の半世紀」(「新文化」1999・09〜2001・03連載)であった。
 以下に、はじめの3ページ分を掲出する。

(仮題)出版倫理・攻防の半世紀
―"有害図書"問題と、利用され続けた"青少年"―
2000・2・11橋本健午

(1) 中央立法化の危険性はないか、の検証を

橋 本 健 午(1999/8/26)

 青少年が心身ともに健全に育つ、それは誰しも望むところであろう。しかし、いつの時代も非行など、子どもたちがさまざまな話題を提供するのは大人社会と遜色がない。 問題なのは、取締り当局がその時どきの少年非行の"原因"を何に求めてきたかである。
 カストリ雑誌にはじまり書籍・少女誌・コミック本など出版物は時にワイセツ文書、あるいは悪書、不良文化財、有害図書とレッテルを貼られてきた。
 本稿はその流れを検証し、長野県を除く各自治体で制定された青少年条例と、その背景に問題はなかったのかどうか、 またこれまで幾度か出ては消えていた図書規制の中央立法(特別立法)化の危険性が、今後もないのかどうかを探ろうとするものである。

倫理綱領による自主規制を
 出版物と青少年問題に関連して、二十二年にはGHQ(連合国軍最高司令部)によるエログロ雑誌に対する警告、 二十五年の岡山県をはじめとして各県で条例が制定され、三十年には大人向け出版物と俗悪な児童雑誌を排斥しようと全国的な悪書追放運動が起り、 中央立法化(「青少年保護育成法案」)が検討されていた。三十二年には児童雑誌が再び取り上げられ、三十四年には不良週刊誌不買運動が起った。
 この間、"法律規制よりは自粛を"と、出版界では二十二年の「出版綱領」(消滅)、三十二年の「出版倫理綱領」をはじめ、 三十七年の「出版取次倫理綱領」、三十八年の「雑誌編集倫理綱領」と「出版販売倫理綱領」などを制定し、今もその精神にのっとり、 出版活動がなされているはずである。
 三十年代後半に倫理綱領が相次いで制定され、三十八年十二月に「出版倫理協議会」が結成された背景には東京都の条例制定(三十九年八月公布、十月施行)問題があった。 以後も少女誌問題(五十九年、立法化も論議)や有害コミック問題(平成二年)など、さまざまな"青少年と図書問題"が起っている。

スケープゴートにされやすい出版物、新聞報道には注意を
 少年非行は有害図書などの"有害環境"のせいで、増加したり凶悪化するなどといわれ、少年非行の第一次ピーク時には"性典映画"(二十六年前後)が、 第二次は東京オリンピックの年(三十九年)でテレビ番組がヤリ玉に上げられ、第三次(五十八年)は少女誌が問題となった。 平成二年のコミック本問題のときには、テレビは連続幼女誘拐殺人事件容疑者が所有する大量のビデオとロリコンものコミックを映していた。
 これらは取締り当局のとる常套手段だが、いずれも時の流行りものがスケープゴートにされると、社会学者や刑法学者は指摘している。 また、少年非行が"急増"とか"凶悪化"と発表されるが、これも少年犯罪を捜査・摘発の重点に置くかどうかの結果であって、 例えばある学者は、第二次ピークの後の四十年代前半に「非行は急減している」ように見えるのは、警察が七〇年安保に備え、 かつ対暴力団頂上作戦を強いられていたからだという(注1)。近くはオウム事件がらみで、上九一色村の警備に狩り出されて、 "ワイセツ"には手が回らなかったと述懐した警視庁の係官もいる。
 つまり、ピーク(検挙数字)は、作られたものなのである。それを後押しするのは主として新聞で、 そして"有害なものは有害だ"という論理で勢いづくのが規制推進派の住民運動という図式が、いつも浮かび上がる。
 ひとつ新聞の"無責任ぶり"を上げよう。「警視庁の『完全自殺マニュアル』通報/背景に青少年の自殺急増/『有害図書は形骸化』 /『捜査現場無視』募るいら立ち/都『業界努力は有効』/『活字本』で問われる都の姿勢」との記事(注2、下線橋本)。
 一般の読者は、自殺を勧めるような本は有害に決まっている、不健全(有害)図書に指定しない東京都はおかしい、 と素直に思って記事を読み進むだろうが、この記事(の後半)は、あまり条例問題に詳しくない記者が書いたか、 でなければ、取締り側に立った記事の作り方といえる。つまり、東京都と警視庁が対立する(独自性を保つ)ことこそ"健全"な証拠であるからだ。 ところが、指定数の多寡(昨年、図書の指定が都の66件に対し岡山県は約900件、ビデオは一昨年のトップ福井県の7479件に対し、都は34件)にふれて、 件数の少ない都はその姿勢を問われている。しかし、ビデオでいえば、きちんと"購入・鑑賞"して審査する都に対し、 福井県はおそらくビデ倫からの成人指定通知リストをそのまま有害指定とする、きわめて安直、無責任な方法によるという"解説"が欠落していることだ。 むしろ、問われるのは新聞の姿勢ではないだろうか。 終戦直後と今の青少年と大人の現実
 "非行に走る"青少年についてはどうか。二十二年ごろの闇の女(売春婦)をみると、「全国で一万八〇〇〇人と推定され、 その五八%は無職、残り四二%の職業はダンサーを筆頭に、看護婦・タイピスト・洋裁師・女工・進駐軍関係の労務者・農業の順である」(注3)。 そして「二十二年五月に検挙された女性五二二五名のうち(動機が)生活に窮して四六・九%、好奇心からは二四・二%である。 年齢別では、病院に送られたもの三〇八四名のうち、十四歳三名、十五歳三名、十六歳二六名、十七歳一〇七名、十八歳一三八名で、 総数の六割以上が十九歳から二十三歳」であった(注4)。
 動機が"好奇心から"と、十四歳がいるというところは今のエンコー(援助交際)の状況と変わりがない。その近ごろの若者だが、 こんなデータもある。「高3の40%近く性体験/都立高生調査/避妊率は10年で最低」によると、初体験の動機で最も多かったのは「愛していた」 (男46%・女69%)からだが、「遊び・好奇心」「ただ何となく」「酒を飲んだ上」「無理やり」というケースも多かった(注5)。
 しかし、問題は子どもたちだけではない。「『親の責任』自覚が重要/青少年育成で審議会答申」によると、 首相の諮問機関「青少年問題審議会」は、大人自身が規範意識を確立し親としての責務を自覚するなど、 社会全体の意識改革が青少年問題解決には重要と強調した答申を出した(注6)。
 いまや、子どもよりも大人に、道徳教育やシツケのいろはが必要なのではないか。 またも中央立法化のウワサが…
 出版物がどの時代でも指弾されたのは、それだけの理由があったことも事実である。言論・出版の自由があるとはいえ、 たとえば表紙に「成年向け雑誌」と印刷すれば何をやってもよいということにはならない。いま世の中全体がバーチャル化しつつあり、 インターネットによる情報はますます見えにくくなっている。勢い古典的メディア=出版物はターゲットとして狙われやすい。 またぞろ、中央立法化の動きがあるというウワサも聞く。自ら襟を正さねば、行政や世論、他のメディアはいつまでも"味方"ではないのである。 改めて節度と品位が求められるところである。
 このような観点から、今日までの出版倫理をめぐる攻防の半世紀をたどり、ありうべき出版の姿を模索するヒントが得られればと願う次第である。
(注1)大村英昭著『非行の社会学』(新版)世界思想社1989、(注2)東京新聞(99・7・26特報面)、(注3)『朝日年鑑』(昭和22年版)、 (注4)『朝日年鑑』(昭和23年版)、(注5)東京新聞(99・7・22)、(注6)東京新聞(99・7・23)

(2)今では想像もできない言論統制の下で

 戦後のさまざまな状況を知るには、戦前のマスコミ(マスメディア)が置かれた状況や先人の苦悩と忍耐を忘れてはならない。 そして、子どもたちの現実も……。
 言論機関は、すでに明治時代より新聞や一般の雑誌が新聞紙法(明治四十二年公布)に、書籍等は出版法(明治二十六年公布)により数々の制約を受けていた。
 政府の意向に沿わない「新聞雑誌その他の出版物の掲載については制限又は禁止を為すことを得」(国家総動員法第二〇条、昭和十三年)て以来、 新聞や雑誌の創刊は原則として認められなくなった。また、記事内容の検閲や発売禁止はもちろん、用紙統制(削減、割り当て)という"兵糧攻め"の果てに、 両業界は解散と統合を強いられる(注1)。
 十八年はじめ三三九五社あった出版社も、一年後には一一九九社(前年比三五・三%)に、なかでも書籍関係は二二四一社から二〇九社(同九・三%)に激減し、 また十九年中に廃刊された雑誌は二三二六誌にのぼった(注2)。

見る影もなくなった出版活動
 少しさかのぼると、出版界では十五年に官制団体「日本出版文化協会」が作られ、さらに印刷業から取次や小売業もそれぞれ組織化され、 そのワク内でしか活動できなくなっていた。十八年二月、政府は議会で国民の戦意高揚と検閲方針、言論指導方針を説明し、 同年「日本出版文化協会」は「日本出版会」へと再編成された。
 元岩波書店編集部長の布川角左衛門は、のちにその状況を克明に記している。(…以下略)


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