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総括・戦後出版倫理の変遷について―"悪書・有害図書"と出版界―

2003・07


 古典的メディアである出版物は、戦後も絶え間なく、"少年非行"と関連づけられ指弾されてきた。 その流れを検証したのが、昨秋刊行の拙著『有害図書と青少年問題―大人のオモチャだった"青少年"―』(明石書店)である。

 行政や警察、育成者たちの対応、またそれを報ずる新聞などメディアの姿勢、そして当の出版界の対応などを見るとき、 いつの時代も、青少年に"次代を担わせたくない"大人の論理がまかり通ってきたといえる。

 すなわち、"青少年"と"有害図書"を論ずるのは、大人たちの的外れで身勝手な"臭いものにフタ"意識であり、 青少年を人質(オモチャ)にした、大人にとって都合のよい環境整備でしかなかった。

 しかし、少年非行と出版物の関連はほとんどないことが証明された。 因果関係は一部の学者の頭の中にしかなかったという"告白"がそれである(拙著の461ページ参照)。
 ところが、新聞などがお先棒を担いであおった結果、住民運動に勢いがつき、条例強化となり、 中央立法化問題をくりかえすのだった。

 根底には、意識的かどうかはともかく、日本人全体に"排除の論理"が働いていたといえる。 メディアに順位をつければ、多分、1にテレビ、2に新聞、少し差があって3に書籍、 さらに下がって4に雑誌・コミックというのが優劣の順であろう。

 ただで時間つぶしになるテレビ、景品がうれしい新聞にくらべ、読んだり考えたりするのが面倒な出版物は、 わざわざ購入しなければならない、からである。
 尺度は、文化でも何でもないが、日本人は、本音と建前の使い分けが上手な民族である。 いざという時、このような"心理"が力を発揮するのである。

 では、出版界はどうか。やはり、いつの時代も"アウトサイダー排除の論理"が主流のため、問題の本質から目をそらし、 的確な対策がなされてこなかった歴史ともいえる。
 なかには、出版・言論の自由を標榜しながら、一部の出版物を差別化することによって、 浄化を推進しているかのような錯覚を起こさせる動きも見られた。

 これらはこの国の、あるいは国民の自信のなさの証左でもある。"犠牲"になるのは、いつも青少年であり、 それが大人になるとまた、若者に対して、同じことを繰り返えすという、なんでも"先送り"する国民性は、 反省することを知らない。

 しかし、政治家から見れば、住民(選挙民)の陳情のなかでは、"青少年問題"はいちばん受け入れやすく、 かつ票になるのだった。だから、一部の出版物は、大人(出版人を含む)にとって、「有害なものは有害だ」と、 格好のスケープゴートにし易かったのである。

 一方、選挙権を持たない青少年は"カヤの外"で、発言の機会はほとんど与えられず、勝手に論じられてきたため、 白けるばかりである。
 もっとも、青少年を何かと構いたがる大人たちがいる一方、無関心派も多く、また当の青少年は「放っておいてくれ」といい、 それぞれがバラバラのまま"均衡"を保っているというのも日本の現実である。

 いま出版界にとって必要なのは、出版物の果たす役割について、国民に対し啓蒙活動を行うことである。 それには、まず"差別意識"を払拭することが先決である。

【『日本出版学会報』第110号所収、日本出版学会2003年度春季研究発表会(5・18)】


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