橋本健午『忘れないための自叙伝』より(2002年7月 祝・還暦同窓会)
この先生の自慢話は、夜間大学に通っていて、その通学時の夜道の困難さや、夜中の勉強中、眠気覚ましに足の太ももをハリでつつくんだというのであった。
皆も眠くなったらやってみろということであったが、私たちは眠くなったら寝るだけで、わざわざ彼の真似をして苦しもうなどとは考えもしなかった。
しかし、その話はいつ聞かされても面白かった。
私たちは学校でもたいして勉強せず、平々凡々と時間を浪費していた。体操と弁当の時間と、休みがいちばん好きだった。
一般にこのころは女子のほうが発育が良くて、彼女らにまさる男子は二三人ぐらいしかいない。しかし、彼女らは必ずしも頭のほうの発育もよいというわけではなく、
これは男子のほうが優勢だった。
<学級新聞> 5年(1953年)当時について
私たちクラスのボスは、何をやるにも選ばれるのだった。頭は利発だし、気が利いているし、知識は豊富、という具合に何をやるにしても、
まず我々が責任者だった。5年の頃からか、学級新聞を作るようになった。私は記者であり論説委員であり編集長であり学芸部長であり印刷局長であり販売部長であって、
他の二三の友と勝手なものを、それも重大な使命を担っていると深く信じて作っていた。
それであるから、ワラ半紙うらおもて2ページの"新聞"は、世界ニュースから日本のニュース、学校から学級のニュースまでも、
ご丁寧に報道するのだから、そのサービス精神たるや異常なものであった。そのうえ、右翼もなければ左翼もなく、
我らの読者は完全に支持してくれて、文句など少しも聞かれなかった。だから、それだけやり甲斐があった。
また、協力してくれることには、学芸部長にうれしい悲鳴を上げさせるほど、文芸欄のにぎわいは相当なものであった。
創刊号の「世界ニュース」は"6月2日、ロンドンのウエストミンスター寺院でエリザベス女王のたいかん式挙行"を予告。
もう一つは"朝鮮で国連軍と中共軍の間でほりょ交換が行われました"と平和的な人道問題を報道、政治に無関心な読者を啓蒙。
しかし、「日本ニュース」は"29日、天皇誕生日、みんなでおいわいをしましょう"とはなはだ無邪気に日の丸バンザイを唱えたことだった。
私はまだ"天皇"というものが、いかなるものかをはっきり認識していなかった。そのため、"皇太子はもうすぐイギリスにお着きになります"と次に書いてしまった。
「学校ニュース」のところには、遠足の予定と"職員室にどろぼうがはいった"という三面記事も載せた。
しかし、大部分が文芸欄で、詩や俳句が多く、漫画もときどき載せた。私は文字のほうは人並みだったが、絵となるとまるっきりだめなので、
そのほうはもっぱらKS君の仕事だった。
投稿者はだいたい決まっていた。男ではSK君、女子ではIさん、TKさん、TMさん、Nさん。
Iさんの俳句"つばめさん わたしのうちへ 来てくれよ"同"あめふりて あそびにいけず かなしさや" その他の詩などを得意になって載せた。
観賞はもっぱら読者に任せ、私たちの仕事は啓蒙することが目的で、それに自発的に書くことによって、作る喜びと能力の開眼と、
創作意欲を持たせることができれば、期待していた成果は充分と自認していた。出来の善し悪しは第二義的な問題だった。
断っておくが、私たちのこの新聞は日刊でもないし、週刊でもない。また月刊でもなく不定期刊であった。
それは一般の営利新聞とちがって、そういう売らんかなの姿勢に反発を感じ、しかも新聞に独自性を持たせるために日夜苦心し、
時には原紙のむだづかいを気にしたり、あるいは新聞用紙を気兼ねして使わなければならず、そういう経営上の問題も決して小さくはなかったために、
乱造は紙価を減ずるとともに、出来ない相談であった。
そして、新聞というものは、あくまで真実を正確に報道せねばならず、まかりまちがえば大混乱を引き起こすこと必至であるから、
私たちの努力も並大抵ではなかった。そのため、報道はいきおい、"クラス対抗ソフトボールは17対16で勝った"という他愛ないものになるのだった。
第二号のトップには"皇太子でんかは英国におつきになりました。だいかんげいをうけていられます"また"アメリカがほかの国を助けるお金の高が決まりました"と"米大統領が同盟国援助あるいは後進国援助の予算を要求し、
議会の承認をえた"という難しい言葉を使うより、あくまで読者の年齢層を考えての親切な報道もした。
「国内ニュース」欄では"メーデー500万人参加、日本中平和に行われた"と伝え、あくまで平和を念願し、戦争はもっぱら友達同志のけんかにとどめた。
この新聞は告知板の役目も果たしたし、学校にもいろいろ協力した。私は包括主義で、何でも皆の利益になるものは報道することにした。
しかし、報道すべきかどうかで迷うということはなかった。私たちは報道することを使命と思って、全力を尽くしていたのだ。
あの苦心して出来上がったときの感激というものは忘れられるものではない。
文芸欄には、ある女性の俳句がある。それは"つつじさん いつもきれいで きれいだな"という感情直叙のもので、
少しおかしなものであるが、これは私が急かして書かせたために、推敲する余裕を与えなかったものだ。
だから、彼女本来の才能を殺してしまっている。私はこんなことになるなら、もっと注意すべきだった。
他に最も頭のよいTさんの詩もある。"太平洋の 水平線の後には 世界で最も力の強い あのアメリカ大陸が 横たわっているのだ"
これはまるで男の子のような彼女の夢を満たせるものだったのだろう。
第三号になると、世界ニュースもなく、ただバードウイークの報道だけだ(「世の中のできごと」)。 「学校の出来事」欄には、創立80周年を報道。Sさんの俳句はすばらしい。"ばらのはな かびんにさされ くびさがる" まさに季語が入っているというものだ。
第四号のよびかけは、我ながら感心する。ただし、文章はちょっと分からない。"岡崎小学校を立派にするために、
みんな力を合わせ、よくしよう。"第二ページには全面に、S君の遠足のときの作文がある。彼には自分で原紙を切らせた。
私はときどき、こういうことをした。つまり、自筆のほうがはるかに親しみやすいし個性がでる。
そのうえ、なにしろ編集委員が少ないものだから、いきおい、こういう自作自演を無報酬でやらせた。
第五号には、一年生からの願いがある。"学校へ入学してから一か月半になります。もう少しは学校の生活には慣れてきましたが、
まだまだ知らないことが山ほどありますから、親切に教えてください。僕たち私たちも一生懸命で勉強します。
"これを取材したのは女の子である。
次に当時いたが、もうどの人かすっかり忘れてしまったMさんの詩2編。
「雨降り」 足がピシャンといった かさの間から水が落ちた 足のつまさきにジャブンといった げたが重たくなった
/「水くみのおかあさん」水くみに行ったおかあさんはぼうしをかぶっていた おかあさんはぼうしをおとした おかあさんはしわをよせた
第六号には、新居の小学校の『しら波通信』と交換した記事がトップである。そして、下欄には私が今度は投稿者になって、一遍の詩をものした。
「水」 井戸の水をくみに行った あまりからいので いいあんばいだと思ったが 雨水ばかりで おどろいた
なお、第六号でとぎれているが、この号にかぎって4ぺージの特別号だ。私は主に作文のほうが得意だったので、
たくさん書いたが、詩や俳句などはそんなに書いていない。作文では自分の思っていることや言いたいことを自由に言い表せるが、
詩や俳句では字数が少ないことや、また技巧に流れて感情をそれ以下に置くということは、表現を機械的なものにし、
自由奔放なところや自然さを失うというのが私の考えであったために、詩や俳句はやらなかった。
作文は入学以来たびたび書いたが、それでも案外粗野なところがあったのは、自称インテリには似合わないことだった。
<学級新聞> 6年(1954年)当時について
学級新聞の編集委員も細分されて、何班かに分かれて、分担するようになった。私は第四班で、あいかわらずやった。
今度は一年前に比べて、かなりの進歩があり、論説欄をでかでかと作って大論陣(?)を張ったものだ。
"だんだんつゆの季節がまいります。みなさん衛生や食物に注意して下さい。そして、毎日勉強したり、
宿題をわすれないようにしよう。また僕たちは6年生で、自由と共に責任のある僕たちです。仲よく友達と遊んだり、
毎日の生活を省みて、いろいろの物を研究しましょう。そして、理科や算数、国語・社会をおちついてやろう。"
首尾一貫しないのが特徴だが、要点を外さずに、簡潔なのは紙面の都合で必要なことだった。第2ページの詩の欄には、Nさんの傑作を載せた。
「雨」 音もなく しとしととふる 五月の雨が はやくやめ 外へ出て あそびたい
第二号には、ついに科学欄も設けられて、水力発電が図解入りで載せられた。
≪これは浪人時代、19歳と1ヵ月半の1961年8月中旬に記録したものであり、自己中心的な記録であることをお断りしておく 橋本健午≫