”書くこと”−〔大宅壮一東京マスコミ塾〕応募小論文

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 大宅壮一東京マスコミ塾は、東京日本橋・東洋経済ビル内、経済クラブ・セミナー室で毎週(火・木)午後6時30分より9時30分、 2科目の授業が行われた。
 私が受講した第1期は、昭和42年1月24日より4月18日までの3か月間、定員50名のところ60名の老若男女が参加した (入学金5000円、受講料15000円、小論文・面接)。
 マスコミで大々的に取り上げられ、テレビ公開放送もあった(2回放映)。 前年3月、大学を出たばかりの私は、同年11月中旬、梶山季之の助手になり、その助言・指導等により受験した。
 これらはその当時の、まだ生削りだが、あまり遠慮のない筆致のものである。


昭和41年12月、〔大宅壮一東京マスコミ塾〕に応募のために書いた小論文

(提出したのは、また別のもの)

報道の真実性―受け手側の問題― 橋本健午(1966.12.6)

 マスコミの真実性は、自ずから報道されたという事実の中にあるように見える。 しかし、人間は一般に暗示に弱く、言語とか映像とかの象徴操作(シンボルコントロール)にかかると、 たやすくそれに乗せられてしまう存在だ。そこに、報道の真実性の穽し穴がある。
 報道された内容の真実性とは、即ち、正しいのかどうか、歪められていないかどうか、事実なのか、噂に過ぎないのか、 伝達者(機関)が思想的人格的にどうなのか、そういう諸々の要素を、受け取り手がいかに考慮するかにかかっている。 真実は、送り手によって違ってくるのだ。 人間が自己の主観によって伝達する以上、神様でない限り、どちらかに偏するのは当然のことである。

 次に、我が国のマスコミ界には、NHKという電波映像による味も素っ気もないマスメディアと、 "不偏不党・厳正中立"を旨とする、いくつもの全国的な大新聞がある。 これらはいかにも、わが国民の潔癖性を象徴しているのだろう。いずれにも偏せず、中道を行くという訳だ。 事実、それらによって伝達されるものは、偏っていないように見え、そのまヽ信じてもいヽように見える。 しかし、始めに述べた穽し穴というのは、この見えるという印象の中に隠れているのだ。 NHKにしろ大新聞にしろ、報道されたものにはさして疑義はないだろう。 しかし、報道されなかった部分、つまり、ある事実に関して、何故A記事が出てB記事が没になったか、 その取捨選択は、どのような考えの下でなされたかということが問題で、受け手はそれを見極めることが肝要なのだ。
 というのは、具体的ではないにしろ、政府の愚民政策、飴をしゃぶらせておいて、反動的、軍国主義的、 昔は良かった式思想(「明治百年」等々)を、深く静かに浸透させる"政策"の、お先棒をかつぎ、 巧妙かつ着実に行っているのは、このマスコミ界だからだ。
 それは無意識のうちに、大衆に抵抗なく訴える威力を持っている。砂地に静かに水が染み込むように、気がついた時はもう遅い。
 少し話はそれるが、NHKのTVドラマは、電子計算機によって作られるという。 つまり、当たり障りのない、誰にでも向いている、健全な、清浄野菜のような番組ができる。 視聴者は、当然気に入るし熱心に観る。あなたも直接参加しているのですとでも言われヽば、 人は踊らされているのだとは決して思わない。今のホームドラマは、みなこの調子である。 些細なことに、一家総出で深刻がり、そして決まって円満解決だ。トゲがなく危険がないだけ、より危険なのだ。 また、ドラマに限らず、今やクイズばやりでもある。人々の眼を、こういう白痴的なものに向けさせておいて、 その裏で何が企まれているのか……。
 せめて、それをクイズにした番組にでも、お眼にかかりたいものである。

 処で、新聞にしてもテレビにしても、署名記事、署名番組が余りにも少ない。 何故か。それだけ自信がないのか、実名入りだと差し障りがあるのか。いや、恐らくそうではあるまい。 彼らは先ず、大NHKなり、大新聞という称号に自ら敬意を表したいのだ。 そしてその名誉ある称号を、築き上げた信用を、些末なことで落としたくないのだ。それだけではない。 社の信用に関わるという理由で、報道の自由、言論の自由を制限し、真実が歪められて伝わるということになる。 つまり、正しい報道よりも、お家安泰の方が先なのだ。この間、読者・視聴者には何の断りもない。
 それでは、受け手側は一体どうすればいヽのか。一方的な押し付けを、唯受け入れるのではなく、 常にその真意を糺すこと、そのためには、大NHKとか大新聞とかいう、象徴操作に、 易々と引っかからないだけの判断力をもつことが要求される。
 だが、現代人は余りにも無気力であり、日和見的であり、かつ鶏小屋の鶏たちのように、受容的なのだ。 更に今の教育は、考える能力を引き出すことを怠り、批判的摂取のできない人間を造り出す。 没個性的で、彼らの発想法といえば、例えば「自民党はキライだ」と言えば「お前はアカだ」と決めつける。
彼らは、自民党でもアカでもない場合もあるということには思いが至らないのだ。
 このような大衆を相手に、マスコミが胡座をかいている限り、穽し穴はますます大きくなって行く。 しかし、それを警告しようにも、危険性をはらむマスコミに頼らなければならないとは、何とも不幸なことである。

"新婚の旅路悲し十三日の大安吉日"

 一月ほど前、松山沖で全日空機が墜ちた。これは、その翌日の、ある大新聞の見出しである。 その他、"五十人全員死亡"とか"機長の判断ミス?"などの、小見出しはいくつもあった。
 読者は何と言っても、この大見出しに圧倒されたようである。 「お可哀そうに」とか「むごいことだ」とか、また「幸福の絶頂に、二人そろって天国に旅立つなんて、最高じゃない」 と考えた人もいたヾろう。
 私は、少し腑に落ちないものを感じた。確かに、新婚さんたちは可哀そうなのだが、他の乗客、 一緒に乗っていて運命を共にした人々も、同じように同情されていヽのではないか。特に新婚さんだけが哀れなのではない。 しかし、この見出しは、新婚であるが故に余計可哀そうだ、という意味に受けとれる。 そういう印象を与えるのは、活字の持つ威力だろう。魔術といってもいヽ。
 もっとも、読者は可哀そうだと一度は思っても、自分でなくてよかったと、素朴に考えるに違いない。 一般大衆の新聞に対するときの、態度・心構えが、そうなのかもしれない。 大事件にしろ、政治問題にしろ、直接自分と係わりのないことならば、どっちだっていヽと考えているのだろう。
 そのくせ大衆は、常に何かある事柄なり人物なりについて、イメージを抱いているという。 そして、そのイメージのいくつかの条件が満たされると、事実に多少のウソがまじっていても、彼らは決して文句を言わない。 真実として受けとるのだ。
 だが、大衆がそうだからといって、新聞や週刊誌などが報道解説をする際に、真実を歪めたり誇張したり、 デタラメを書いていヽということにはならない。編集者の側にしてみれば、商売である以上、売れなければならない。 売るためには、読者の要求するものに応えなければならないと、大義名分が立つとしてもである。
 今や、政府でも自衛隊でも、イメージ作りに懸命で、前述の大衆心理を応用している時代だ。 そして、マスコミは最も巧妙に「らしい事実」を作り上げ、読者に迎合しているというわけだ。
 そこに問題がある。

 日本人は、一般に活字に弱いといわれる。さらに、マスコミは異常に発達していて、大衆は居ながらにして、 世の中の出来事や動きを何でも知ることができる。いや、嫌でも応でも知らされる。
 大衆は、そういう状態に馴らされてしまって、いざというとき事実かどうか、信用できるのか否かの判断ができなくなる。 それは非常に危険なことである。
 芸能人などのゴシップ記事ならば、大衆ののぞき見趣味をくすぐる程度で済む。 だが、政治的に利用されたとしたら、かつての"大本営発表"に見られるごとく、そこには大衆の利益に反した、 故意に歪められたものしかなく、大衆は全くツンボ桟敷におかれてしまう他ない。
 権威づけられた政府! 信頼のおける報道機関! どこにも疑いをはさむ余地はない。
 人の口にのぼる噂には、それ相当の重きしかおかないが、活字化されたものとなると信用してしまう。 中味がどうなのかということより、見た眼に真実らしく映るからだ。
 だから、大衆は活字に頼る。頼るだけならまだいヽが、眼の前にドカッとおかれると、 「新婚さんは可哀そうだネ」ということになる。また「機長のミスか?」とあれば、誰でも「パイロットが悪いのだ」と考える。 彼の遺族のことなど考えも及ばない。(日本の空の事情は、機長一人の責任で片付くほど、単純ではないのだ!)

 また、週刊誌は、大抵のそれが「らしい記事」の大行進である。特に個人のプライバシーに、多くの誌面を費やしている。 読者大衆が「要求する」からだろう。だが、言論の自由だといっても、自ずから限度がある。 何事も、節度が必要である。興味本位に、ありもしないことを書き並べて、それで泣かされる人がいるということに思いが至らないのか。 われも人、彼も人と考えれば、悪どいことはできないはずである。
 新聞にしろ、雑誌にしろ、社会の公器である。しかも、大衆をリードする立場にあり、その責任は重大なのだ。 大衆は、全く信頼し切っているからだ。
 信頼されることはいヽ。しかし、それをいヽことに、大衆の上に胡座をかいていてはならない。 信じ切っている人々を、裏切ることは自殺的行為である。

*昭和41年11月13日、全日空YS−11、松山沖に墜落。国産機初の事故


〔提出分〕 活字に弱い日本人

橋本健午

                          謹     告
                                       映画女優  岩下志麻
                   右の者と、私は一切、関係ありません。謹んで、
                 ここに広告いたします。
                                              本人  橋本健午
 たとえば、右のような広告を、大新聞に掲載したとする。これを読んだ人は、たいてい、有名な女優の名に注目し、 次に、その新聞が大新聞であることに安心する。だが私は、岩下志麻という女優を、まだ見たこともないし、ファンでもない。
 しかし、読者大衆は「おや、この男はどんな人間だろう」「どういう関係なのだろう」あるいは 「篠田監督との仲は、どうなんだろう」と、恐らく、様々な想像をめぐらすだろう。 そうなれば、私の計略は、まんまと成功したわけだ。

 ところで、私は自分の計略が成功したことを、喜べないのである。 大新聞に載った広告と、読者との関係、いや読者は新聞記事を、どのように受け取っているかということが気になるからだ。

 日本人は、一般に、活字に弱いといわれる。前出の広告は、その弱点につけ込んで、大衆操作を目論んでいる。 いわば、活字の魔術による操作だ。
 しかし、何とか新聞は、信用できる、正しい報道をするなどヽ、正面気って言える人は、恐らくいないだろう。 にもかかわらず、何とか新聞は、たとえテレビ欄しか見ない人がいるにしても、発行部数は何百万を越える。 その意味するところは、いつのまにか権威づけられ、まるで社会通念であるかのように、 読者大衆が受け入れているということだろう。
 そこまでは、まだいヽ。恐ろしいのは、信頼されている新聞が、読者とはそんなものであると見なして、報道にしろ、 解説にしろ、広告にしろ、真実を曲げて活字にした時である。

 大衆は常に、何かある事柄なり人物なりについて、イメージを抱いているという。 そして、そのイメージのいくつかの条件が満たされると、事実に多少のウソがまじっていても、彼らは決して文句を言わない。 真実として受けとる。
 政府でも自衛隊でも、イメージ作りに懸命だが、それも、この大衆心理の応用だ。 そして、現代のマスコミは最も巧妙に「らしい事実」を作り上げ、読者の要求に応えているというのだ。

 大衆が、そういう状態に馴れてしまって、事実かどうか、信用できるのか否かの判断ができなくなると、 非常に危険だと言わねばなるまい。
 前述の、他愛のないゴシップ記事なら、別に大したことはない。せいぜい読者ののぞき見趣味をくすぐるだけである。 だが、政治的に利用されたとしたら、かつての"大本営発表"に見られるごとく、そこには大衆の利益に反した、 故意に歪められたものしかなく、大衆は全くツンボ桟敷の住人と化してしまう。
 権威づけられた政府! 信頼のおける報道機関! どこにも疑いをはさむ余地はない。

 日本人が、活字に弱いという例は、他にもある。人の口にのぼる噂が、例え真実であっても、人々は大して重きをおかない。 ところが、いったん活字化され、印刷されたものになると、何となく信用してしまう。
 たとえば、名刺の肩書などは、その顕著な例だ。

 人品卑しからぬ人から、大学教授だとか、一流会社々長だとかの名刺を渡されると、それがデタラメであっても、 容易に騙されている。大学教授とは、多分こんなのだろうという先入主(イメージ)があって、その人物が、 イメージに合致すると錯覚するからであろう。 そういう弱みにつけ込んだ結婚詐欺が多々あるのは、特に女性が、そういうものに弱いからである。

 こういう例もある。地方の、助手一人しかいない、ある年配のペンキ屋が、私にくれた名刺だ。 それは、なんと東京日本橋に本店のある会社だった。 そんなものを見せたって、誰も本当にはしてくれないだろうが、ペンキ屋は、自らのイメージに満足している、といえる。

 活字の持つ威力は大したものだが、なぜ日本人は、こんなにも活字に弱いのだろうか。
 ひとつ考えられるのは、日本人は、常に、他人に、とりわけ権威に寄りかヽっていて、自分というものに、 自信がないということだ。つまり、自分の言葉を持っていない。 そして、自分の眼で自分を見るのではなく、他人の眼から見ている。 だから、周りの状況に左右されやすく、簡単な操作に引っかヽってしまうのだろう。
 日本人は、それだけまだ大人になっていないのだ。


〈卒塾論文〉 大宅壮一論

マスコミ塾 第1期 35番 橋本健午

 先日の、テレビ・ゼミナールの席で、私は目の前におられる大宅壮一氏の手が、ひどく気になった。
 その夜、少し遅れて行ったため、私はわずかに残っている最前列のイスに座らされる。
 余り心臓の強くない方だが、度胸をすえて、開始を待っていた。

 やがて、講師の先生方が席に着かれた。中央には、勿論、大宅氏が席を占めた。
 塾頭であり、マスコミ界の"天皇"であるにもかかわらず、氏は他の講師の方に比べて、いく分、控えめに見える。 うつむきがちである。
 ライトは、容赦なく熱気とまぶしい光線を投げかけている。その中で、ゼミナールは始まった。

 ゼミナールのことはとも角として、私は、正面に坐っておられる大宅氏から目をそらすことができなかった。
 氏は、疲れている、それも精神的なものだと、直感した。
 テーブルの下の、膝の上に置かれている手は、力弱く、相変らずの毒舌とは裏腹に、 どっと老込んだという事実を物語っているように思われた。

 今もなお、第一線で、しかもその年齢を感じさせないご活躍ぶりだが、物いわぬ筈の手が、明らかに、老いを刻んでいる。
 昨年、一人息子の歩氏を失ったことによって、張りがぬけたという印象はぬぐい去れない。

 亡くなった歩氏は、生まれつきの詩人。内省的、繊細な感覚の持ち主、芸術を愛好する懐疑的な人間で、 大宅氏とは対称的であった。
 だが、大宅氏にとって、一人息子の死がもたらしたものは、ただ単に、父親としての悲しみだけではないという気がする。

 死は、生の対立概念ではなく、その延長線上にあるものだが、それが、歩氏の頭の中に、 常にこびりついていて離れなかったのに対し、大宅氏の場合は、たヾ生きることが、すべてであった。
 氏は、少年のころから、家業を切り盛りしていた。長じても、優れたアイディアを出し、それを自ら実行に移す人だった。 行動的で、バイタリティが旺盛であった。
 つまり、生活人である。

 生活することが先決ではあったが、それにアイディアがついてきた。 マスコミの世界で活躍してこられたのも、その才能が駆使されたからであろう。
 これを見ても、氏がただの生活人ではないことが分かる。

 大宅氏は、マスコミの世界の"天皇"といわれているが、これは、実在の天皇が、側近によって神格化されたごとく、 氏の場合も、マスコミが氏を"天皇"と呼び、大衆にそう思わせることによって、 うまくマスコミに利用されている面が感じられるのだ。
 氏は、生まれつき"野次馬"であった。野次馬は決して主流にはなれない筈なのに、主流にさせられている。

 半世紀も、その世界に生きてこられて、始めの何十年かは、野次馬らしく、縦横無尽に飛び回ることができたであろう。
 いわば、ウサギがいたから、追っかけまわすことができた。
 ところが、今や、ウサギもいないのに、足跡がないかと探しまわす、そんな感じがするのだ。 そこに何か、すっきりしないものがあるようだ。

 氏は、人が好い、他人のことを放っておけない性分だといわれる。 生まれつきか、それとも様々な経験によってきたるものか、今は問わない。
 権威や権力に反抗して、大衆の側に立ち、大衆の代弁者として、大衆と共に考えるのも、 プロレタリアとしての自覚が身についているというよりも、人の好さから来るものであろう。

 だから、政治を批判するとき、社会を問題にするとき、卑俗な比喩を用いて、諷刺し、警句を発する。
 氏のアフォリズムは、一口カツの強みがある。ナイフもフォークもいらず、箸でちょいとつまんで、口に放り込め、 しかも味はちっとも変わらない。それだけ、庶民的なのである。

 大宅壮一とは、どんな問題についても喋ることができる、デパート的評論家としてのイメージが、世間にはある。 好き嫌いは、個人の好みだが、誰でも知っている。その意味では、たしかに、庶民の中の天皇である。

 だが、はたして氏自身が、"天皇"という称号に満足しているであろうか。恐らくは不承不承であろう。 いや、時には何もかも、かなぐり捨てたいと思っておられるかもしれない。
 生活人であっても、懐疑的でない筈がない。詩人としての資質がないわけではない。 ただ問題は、それらを前面に押し出せたかどうかなのだ。また、その機会があったかどうか。

 テレビなどに見える大宅氏は、早口で、歯に衣着せぬ毒舌を吐き、言いたいことを、何でもずけずけと言っている、 何と図々しい男だろうという印象を、一般には抱かせる。
 しかし、実際に、図々しいのだろうか。
 何も発言しないときの氏の態度は、控えめであり、むしろ、小心者のそれである。 氏の本来の姿、それは、毒舌を吐くときではなく、この何も言わないときにあるのではないだろうか。

 "実像"は、小心者なのだ。弱い人間なのだ。毒舌家は、氏の"虚像"。マスコミという、だだっ広い舞台で、 好むと好まざるとにかかわらず、いつのまにか、主役にさせられている姿なのであろう。
 気の弱い自分を励ますには、まず他人の目を、そらさせなければならない。
 いわば、シルクハットから、ハトや万国旗を取り出す手品師の手口が必要なのだ。 彼は、細工をごまかすために、必ず、もう一方の空いた手の方に、客の関心を向けさせる。

 大宅氏の場合は、新造語、流行語という手である。そのとき、氏は細工を施すためではなく、 自らの小休止を作り出しているのではないだろうか。ふっと"実像"が顔を出す瞬間である。
 弱い人間であるというのは、前述の、人の好さという面を含んでいる。無理をしてでも、他人のために動く。 不本意ながら、やってしまう。
 ただ、氏の場合、やってやれないこともないから引受けるのであり、それが昂じて、 氏なら何でもやってくれるという論理が、一般化してしまったのではないだろうか。

 そうなると、"実像"を引っさげては対処できなくなり、"虚像"が出ずっぱりになる。
 気がついたときには、ひとりでに"コマ"がまわっているのだ。まわり出したら、止めるわけにはいかない。 倒れないためには、立ち止まることが許されない。立ち止まって、本当のオレは、こうなんだと叫ぶには遅すぎるし、 その勇気もない。そんなことをすれば、自らが崩壊して行くのではないかと不安になって、 自分を振り返ってみるのが恐くなっている。

 "虚像"が"巨象"になってしまって、遮二無二、前進するより方法がない状態である。
 ひとり静かに思索に耽けるには、この"巨象"、柄に似合わず、脚が速い。何ものかに、追い立てられている感じだ。 今度は、自分が、ウサギになりかねない。

 ところで、なぜ大宅氏の手が、落胆だけでなしに、その老いを如実に物語っていたのか。
 歩氏は、氏とは全く反対の人格を有しており、氏のもっとも厳しい批判者であった。 その意味において、氏の分身であり、氏の内部の声の代弁者であった。
 二代目は、純粋でありすぎるのかもしれないが、それは、初代の長所も短所も、とりわけ後者をよく知っているからだろう。
 父と子といえども、対等の競争者である。父親は、息子の存在・批判を無視することはできない。

 だからこそ、氏は、その批判を、内部の声を、肝に銘じながら、いつか"コマ"を、止めたまま、 倒れないようにしなければと、常々思っておられたのではないか。
 だが、内部の声が先に消滅してしまった今となっては、頼りにするものがなく、あせるばかりで、 コマの回転がますます早くなり、このままでは、芯がすり切れてしまう恐れがありはしないか。

 よく見ると、大宅氏の手の上に現れた、マスコミの毒素がたまったようなシミがいくつも見える。
 内部の声は、かつて言った。『……オヤジは、結局、マスコミの奴隷なのだ』と。

 一方では"天皇"といわれ、一方では"奴隷"といわれる。私には、その隙間に、大宅壮一氏の本当の姿があるような気がする。

(昭和42年4月4日提出)


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