”書くこと”−多磨霊園 (73.5.13)

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「中央の“四”の通路を真っ直ぐ1キロ半行った所にありますよ、だいぶ奥ですがね」
 管理事務所の初老の男は、手に白い菊の花を持って、吉川英治の墓の位置を尋ねた文学少女風の向井玉枝に、親切に教えてくれた。
 春になると、桜並木で有名な多磨墓地は、今がちょうど見頃であった。 暖かい陽射しを浴びた日曜日の午後、家族連れや墓参りの老人たちがのんびりと歩いており、制限速度内ではあるが車を乗り回す若者たちで賑わっている。
 中央線のM駅で私鉄に乗り換えて、三つ目で降りる。この私鉄は一時間に三本しか来ない、のんびりした電車である。 真っ直ぐに伸びた線路は、両側を畑や民家に囲まれて、電車はその上をのどかに走っていた。
 玉枝は、この墓地へくるのは、今日が初めてであった。

 女の玉枝から見ても、可愛らしいと思う叔母が、そこに眠っているのである。 身内でいちばん好きだった叔母が、彼女に残していってくれたものは、最愛の夫宗吉だった。 自分の幸せに比べて、若くして死んでしまった叔母の不幸が、彼女にはとても悲しく、その運命が恨めしかった。
 半年前、近所の叔母の家に間借りしていた宗吉を紹介されて、最近結婚したばかりの彼女は、慣れない家事に没頭しながら、 夫の気持ちの分からない一部分を除けば、幸せってこんなものかなあという心境にあった。
 夫は五つ年上の二十八歳で、神田の小さな出版社に勤めていた。編集から雑用まで何でもやらされるんだよと、毎晩のように遅く帰ってくる。
 平凡な家庭に育って、銀行にしか勤めたことのない彼女は、出版社の仕事がどんなものかも分からず、夫がそこでどんな働きをしているのかも知らない。 ただ、何となく大人っぽくて、頼れそうで、それでいてどこかカゲリのあるところに惹かれて結婚したのだった。
 ときおり顔をそむけたくなるような酒臭い息を吐きながら、♪遅くなってゴメンね、と節をつけて靴を脱ぐ夫が、 電話一本かけないで心配させて恨めしくもあり、またほっと安心すると、甘えたくもなるのだった。
 友達に聞いても、ウチも同じよ、優しいのは婚約時代だけだったわ、という諦めとも、オノロケともとれる答えしか帰ってこない。

 どこも人がゴミゴミしていてかなわんよ、という夫にせがんで、ここへきたのは、本当に吉川英治の墓を見たいわけではなかった。
 日曜にはきまって昼前からビールを飲む宗吉は、少しだけと言いながら、彼女が出かける用意をしている間に二本も飲んできた。 いつもと違って、なぜかピッチは早いようにも見えたが、玉枝はさして気にはしなかった。
 管理事務所を右手にみて、正面には大きな築山があり、それを中心にだだっ広い墓地は北に伸びている。 通路といっても幅が十メートル以上もある砂利道で、それが何本も平行しており、両側には大小さざままの墓石がある。 名高い軍人のバカでかい墓が並んでいたり、紋所の入った立派な石の門をつけたものもあった。
 桜のトンネルは、墓地のやや西側を通り抜けるバス通りよりにあって、いずれも樹齢何十年といった老木だが、今を盛りと花開いていた。 死者を葬る場所にふさわしく、毎年静かに咲き、静かに散って、淡い初雪のようにしばし路上を埋め尽くしていた。

 玉枝の叔母は一昨年の秋、人に頼まれ数えの三十七で、ある老実業家の後妻になった。せっかく掴んだ幸せも、束の間だった。 たまたま箱根へゴルフに行く夫について行って、帰りの高速道路で事故に遭い、夫とともに即死してしまったのだった。
 かなり寒い日だった。事故現場は見るに耐えないものだったが、玉枝は呆然としている人々の中で、てきぱきと働いた。 意外にしっかりものだと後から言われたが、自分でもそんな強さが、どこにあるのか気がつかなかった。
 悲しみは一週間後に襲ってきた。大好きな叔母がもうこの世にいないという現実を否定することができない。 可愛がってくれた少女時代の思い出、そして愛する人を熱心に勧めてくれた叔母の姿、その一つ一つが、涙なしには思い出されなかった。 葬儀などは先方の身内の人たちがやったので、墓地も知らなかったのだ。
 新婚早々、そんな事件にあって、沈んでいる彼女を、夫は毎夜のように愛してくれたが、悲しみと痛みとが交錯して、歓びを感ずるどころではなかった。
 夫が会社へ行っている昼間、一人でぽつんと部屋にいると、叔母が結婚記念にとくれた“おさなともだち”と題のついた木目込み人形の女の子の目が、 何かを訴えるように玉枝に迫ってくるように思われて、気持ちが悪かった。夫に頼んで、棚の上にあげてもらい、なるべく目が合わないようにした。
 叔母の思い出を話すと、俺も悲しいよと夫は辛そうに語り、そんな夜はきまって執拗な愛撫を受けるのだった。

 吉川英治の墓は、いちばん奥のブロックのわりあい閑散としたところにある。 墓石というよりは、時代物作家らしく、文机をかたどった石の上に、三十センチぐらいの高さの六角形の石柱があり、 その正面につつましく“吉川英治”と書かれている。
 訪れる人が多いのか、まだあたりには線香の匂いが漂い、花も新しいのが供えられていた。 良く磨かれた文机の上には、まわりに植えられた小さな松の枝が、くっきりとその姿を落としている。 時たま春の風に揺れ動く松の影は、文机の上を掃き清めているかのようである。
 現代ものよりは時代小説の好きな玉枝は、簡素なその墓が気にいったが、早く叔母の墓にお参りしたい気持ちのほうが強かった。 叔母の好きだった白菊の花を捧げて、せめてもの手向けとしたかったのだ。白菊のように清楚なまま死んでいった、そんな叔母が好きだった。 叔母のように生きたい、というのが小さい頃からの彼女の願いでもあった。
 叔母はどんなところに眠っているのだろうと、好奇心のようなものが沸いてきたが、不謹慎だと彼女はすぐ、自分の気持ちを打ち消した。

 真新しい墓は、直ぐ見つかった。あまり広くはないが、まわりに大きな木があるせいか、少し暗い印象を受けた。 何となく失望のようなものを感じ、叔母らしくないと思った。
 それは、普通の形の墓石ではなく、一枚の厚い石板を垂直に立たせたものだった。
 夫の宗吉が、これだよと指さして、おや、と言った。その墓石の裏側を見た瞬間、玉枝はわが目を疑った。 叔母とその夫の名前の間にもう一人、女性の名前が彫ってあるのだ。それは、紛れもなく、前妻の名だった。
「こんなことって、あるのかしら」
 彼女は思わず、夫の顔を見た。
「俺にも分からない。前の奥さんは病死とかで、死に別れているので、後からきた二人が並んでいてもおかしくないのかな」
「でも叔母さんはかわいそうだわ。短かったけれど、たった一人の人に全てを捧げたのに、あの世に行って、前の奥さんと三人になるなんて……」
 彼女には理解できない、いや、あってはならないことであった。

 宗吉は先ほどから黙っている。玉枝は自分の気持ちを分かってもらいたくて、夫の顔を見ると、
「そうかな。叔母さんもあの世ではきっと旨くやっていると思うよ」
と、意外なことを口にした。
「どうして、そんなことが分かるの」
「なに、この世でやれたことが、来世で出来ないことはないと思うからさ」
 彼女は夫の自信あり気な言い方が気になった。叔母のことを何か知っているのだろうか。
「何か証拠でもあるの?」
「いや別に。でも、寝たきりのお父さんを抱えていて、生活のために二階に学生たちを下宿させておれば、誰かの同情を買ったり、 情が移ることもあるだろうし……」
 墓地の鬱蒼とした樹々の中にいると、春のまだ浅い陽射しが、急に弱くなったように思われた。 玉枝は近所の噂で、叔母が二階の学生たちに親切すぎるのではないかということは耳にしていた。 それが、やや意味あり気に語られてはいたが、単なる口やかましいオバさま族の世間話程度のことであって、叔母に限って、間違いはないと思っている。

 宗吉は隣家の墓の入り口に腰掛けて、思い出したように、煙草に火をつけていた。
「まさか、あなたは……」
「俺が、どうかしたかい?」
 玉枝は何を聞こうとしたのか、自分でも分からなかった。ただ、“同情を買ったり、情が移る”と言った夫の言葉の意味を解しかねていた。 面倒見の良い叔母のことだから、頼まれたらいやとは言えず、父親の亡くなった後は、何かと学生たちの世話を焼いていたことだろう。 だから、みんな何年もいるんじゃないの……。そう思うと、夫の態度が分からないのだった。
「あなたって、死んだ叔母のことを、そんなに悪く言う資格はないわ」
「悪くなんて言っちゃいないよ。叔母さんには、ずいぶん迷惑を掛けたし、いろいろと面倒を見てもらったし、 感謝しているっていえば、いちばん感謝しているほうだよ」
「ほんとかしら?」
「それに、君みたいな素敵な姪御さんも紹介してくれたし……」
「そんな言い方は止して!」
 いつも表情を変えずに、冗談とも本気ともつかないことを言う宗吉は、玉枝を退屈させなかったが、叔母のこととなると、 何か引っ掛かるものがあることに、彼女はようやく気がついた。
 あの世でも、叔母はうまくやっている、とはどういう意味なのだろう。夫と先妻にかしずいて、二人の身の回りの世話をしているのだろうか。 玉枝は、持ってきた菊の花を供える元気も失って、早くその場を離れたかった。誰にでも献身的な叔母の姿が哀れで、なぜか腹立たしかった。
 女の幸せって、愛する人のそばにいて、そのひとの身の回りのことを喜んですることにあるのよと、臆面もなく言っていた叔母、 早くあなたたちも一緒になりなさいね、宗吉さんは素晴らしい人よと褒めてはいたが、なぜか目をそらしていた叔母。 今にして見れば、叔母にも変に思われることがあったような気がする。
 しかし、それでも玉枝は、叔母だけは、うそ偽りのない、人を裏切れない人だと信じていた。

 五時過ぎ、帰りの電車に乗るころには、今にも雨が降りそうで、屋根しかないホームは、風が冷たかった。 玉枝はさっきから黙りこくっていた。なぜかしら夫が遠く感じられ、肌をさす春風が、よけい身にしみた。 明日夫が会社に行った後、早速母に預けてある叔母の遺品を開けてみようと思った。
 家に帰ってからの宗吉は、いつものように酒を飲みながら、テレビの洋画劇場を見ていた。 そして、風呂を浴びると、早々とベッドに入り、早くおいでよと、玉枝を誘うのだった。 気まずくなると、決まってそんなことでごまかそうとするので、彼女はいやなのだが、一度覚えた味に、抗することができなかった。

 のろのろと、実家を出たまま、アパートに帰る勇気もなく、玉枝は近くの公園のベンチにへたり込んでいた。 喉がカラカラだった。叫び出したいような気分だった。
 実家で見た叔母の日記は、『百年後の皆様へ』と封がしてあったが、構わず開けてみた。
 最後のページは、一昨年結婚する前日の日付になっている。
 それは、こんな文句で始まっていた。

  長年続けた日記をつける習慣も、これで終りになるかもしれない。いよいよ私も、あのお年寄りの後妻になる。愛情なんか少しも湧かない。 ただ年老いたものが、より早く死ぬということと、後々楽に暮らしてゆけるものを残してくれることに、期待するだけだ。
  後は、十年も寝たきりの老父の面倒を見てオールドミスになった孝行娘という、立派な評判に傷をつけないことだ。 表向きはたしかにそのとおりだが、父が死んでしまった以上、いつまでもここにいるわけにもいかない。 私が下宿屋をやめられなかったのは、生計のためばかりではなかった。 男に捨てられなかったら、こんな悪い女にもならなかったと思うのだけれど……、復讐だけが人生だ、なんて人に言えやしないし。
  自動制御装置もやっと利くようになったねと、皮肉屋の宗ちゃんが言っていたのは、“しばしのお別れ”をした三月前のことだ。 後妻の話をしたら、老いぼれは早く死んでしまうから、俺は暫く我慢するよと言っていた、可愛い私の宗ちゃん。 宗ちゃんを身近においておきたいという願いが、どんなにたやすくかなえられたか、私は自分のひらめきにうっとりしたものである。 その瞬間に、私は後妻になる決心がついたのだった。
  何も知らない玉ちゃんこそ、いい迷惑だろうけど、悪魔に魅入られたように、冷静にことを運んだのには、我ながら感心したものである。 宗ちゃんは、大した役者だと、私に改めて惚れ直したくらいである。
  でも考えて見れば、私のささやかな楽しみを横取りしたのは、二階で初なT大生を誘惑して抱きすくめているのを宗ちゃんに見られてしまったからだ。 日曜日でないので安心していた私も迂闊だったが、その後三日も経たないうちに気の小さいT大生は、どこかへ引っ越してしまったっけ。 美少年だったけれど、私の言いなりになった私大生のA君など、おとなしい学生に秘密を守らせていた私は、半年やそこらで、決まって熱が覚めてしまったのは、 何が物足りなかったのだろうか。
  そこへくると、大学出たての宗ちゃんだけは、違っていた。私のほうが夢中になり、日曜日でも構わず人目を憚らず会うスリルを思い出すと、 今でも何とも言えないほど、血が騒ぎ、体が疼いてくる……。
  ああ、また電話が鳴った。あのおじいちゃんだったら、興醒めだなあ。
                                    <了>


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