著作などに戻る

中国旅行(大連・上海/5泊6日) 1991年 橋本健午
〔計画〕
 だれ言うともなしに、三人で旅行しようということになった。
 三人とは、小学校時代の友人K君、M君と私で、それぞれ浜松、名古屋、東京に住んでいる。途中のブランクはかなりあるが、 ここ二、三年、九月ごろに会っていた。

 私は漠然と、生まれ故郷の大連(遼寧省)を訪ねてみたいと思っていたところ、二人も口をそろえて中国と言い、 即座に決まった。彼らの"中国"への思いはどこにあるのか確かめなかったが、その時点で今回の旅はうまく行くだろうとの直感はあった。
 私が昭和17(1942)年、K君は18年、M君は19年と戦前の生まれであり、M君は天津で誕生している。 残るK君は日本生まれだが、名字は中国人を連想する。この"三人組"はいずれも中国と縁があったというべきか。

 計画は着々と進んだかというと、そうではなかった。ビジネスでもない、純粋に個人的な旅行。いつまでにとか、 必ず行かなければ…というものでもない。
 仕事はバラバラ、忙しいといえば聞こえはいいが、ものぐさが揃っている。だれかがやってくれるだろうと、 人を当てにする年齢でもある。ときどき連絡しては、人ごとのように、「ほんとに、行くんだろうね?」などと、 相手の出方を伺っている始末。

 8月20日(火)夜、K君より電話があり、いきなり10月6日〜11日(6日間)の中国ツアー(大連・青島・上海)はどうかという。 仕事の関係など、一瞬どうしようかとも思ったが、またとないチャンス。計画を進めてもらうように頼む。

 8月30日(金)再びK君より、10月9日発、大連・上海に変更とのこと、少しは都合がよい。その間、M君から、 近々アメリカ出張もあり、スケジュールその他かなり厳しい状況との連絡があったが、彼は三人で行くことに意義があると自問自答。
 私もその後、生まれて初めて人間ドックに入り、再検査をという不安な状況にあった。

〔いよいよ中国へ〕
 中国のビザがなかなか下りず、パスポートを含め出発の当日、受け取ることになる。

*第1日・10月9日(水) 東京から大連へ

 JR新宿駅より、朝7時07分発の成田エクスプレス5号に乗る。家を出たのは5時すぎ。 駅員に、本来は指定券がないと乗れないと注意される。いやな予感がしたが、東京駅で二人と合流して、 チケット類を受け取り、やっと一安心。
 K君は前夜、神田のビジネスホテルに泊まり、M君は夜行バスで朝6時に東京駅に着き、しっかり朝ご飯を食べ、 生ビールも飲んだと、早くも自慢していた。

 約一時間で、成田へ。私は羽田から外国へ飛び立ったことはあるが、成田は初めてである。K君は慣れた感じでもあり、 今回の手続一切をしてくれたので「団長」とたてまつり、ついでM君を「副主任」とし、私は無役を決め込む。

 搭乗手続きはスムーズといいたいが、聞きしに勝る国際空港。どの航空会社のカウンターもごった返している。 全日空(ANA)を探すのに一苦労。しかし、コンピュータで、禁煙席を押さえるのにそれほど時間もかからなかった。

 団長のウェストポーチに感心した副主任は、少し大きめのものを買って得意げである。まだ、時間があるので、 腹拵えと"壮行会"をかねて生ビールの店を探す。どの店も満員に近く、壮行会ばやりである。考えることはみな同じだ。

 大連への直行便はかなり混んでいる。団長は窓がわ、私はその隣。翼の上だが、外は見えなくもない。 副主任は通路をはさんで隣の席。
 予定より少し遅れてのフライト。機内サービスのコニャックを舐めながら、久し振りに会った団長と話す。 気分はさほど高揚していないが、それでも"命の洗濯"つまり50歳を間近に控えてリフレッシュの旅、そして"生まれ故郷を訪ねる"のだと思うと、 なんだか胸に迫るものがある。

 12時前後から、昼食が配られる。冷たいサラダ、温かいビーフシチューなど、うまくトレイに乗せているが、 味はもう一つというところ。副主任はビールを飲んだり、白と赤のワインを啜ったりしていたが、 いつのまにか隣席の上海生まれ、日本語の上手な陳さんに取材をしている。

 彼は三十代半ば。日本の商社勤めで、今回は大連、北京、上海と回るそうだ。上海からみれば大連は"外国"とのこと。 言葉も違うらしい。
 彼のアドバイス―上海で訪ねるところは豫園〈よえん〉か玉佛禪寺、美味しいものは小籠包子〈シャオロンパオズ〉。 女性への土産はカシミヤのセーター(8千円ぐらい)、シルク100%のスカーフ、パンティ―だが、はたして買えますかどうか。

 到着準備をしていると、上海―成田の予約は72時間前に確認しないと、取り消されるおそれありとのアナウンス。 下手をすると予定通り帰れないぞと、早くも不安に。

 1時すぎ無事、大連空港に着陸。なんとなく、国際都市とのイメージがあったが、他に飛行機は一機もなく、殺風景。 空港ではレンガを積む若い職人たちが働いており、これからゆっくりと整備される感じ。いまだ発展途上というべきか。
 若い係官による入国手続はじつに不愛想で、いやな感じがしたが、日本でも同じだと帰国したときに分かった。 多くの客の"首実検"をするのだからムリもないか。

 ガイドは中國國際旅行社(CITS)大連分室の李さん、若い女性である。
 すぐ迎えの乗用車(トヨタ)に乗り込むが、時間が早いのでホテルヘ行く道すがら市内見物に。 大連の観光はふつう一日で終わるという。滞在は二泊三日。どうしましょうかといわれても、多くの日本企業が進出している経済解放区を見たいとも思わない。

 こんな時、団長は黙っている方だ。私は生まれ故郷だから、旧居にいきたいとは思っていても、紙切れに昔の住所(大連市初音町71)を書いてきただけで、心当たりはない。
 副主任が、その昔彼の祖父が所長をしていた水産実験所をと希望するが、運転手にも場所が分からない。 次に図書館をというと、子供向けの図書館があるので、そこを見学することに。

 まず斯大林〈スターリン〉広場に立ちよる。とにかく広い。散歩する人、ベンチに座っている人など、みな小さく見える。 遠くにある市役所、裁判所などをパノラマで撮っていると、若い兵士と、やはり若い男が手をつないで歩いてきた。 男同士の恋愛だって、自由だゾ!

 1956年頃の中ソ友好時代を象徴するバカでかい塔の前で、記念写真をどうぞといわれたが、三人ともソッポを向いて、 シャッターを切らない。ガイド嬢には気の毒だが、われわれの旅は中ソ関係や政治経済を探るでもない、無目的の気ままな旅である。

 右に左にひっきりなしに二連バスが多くの客を乗せて走っている斯大林路。その間を縫うように人々が横断し、 自転車が悠然と走っている。かなりの数である。

 バス停近くの路上でお婆さんが売っているアイスキャンデーを、運転手の分まで買ってもらったが、 あまりに安い(1本25角、1元の4分の1)ので、ついにお金を払い損ねた。

 次に案内してもらった大連市少年児童図書館は、小学生らしい男女がきており、貸し出しを受けたり、日本やアメリカなどの外国文学を立ち読みしていた。 ある教室から、女の先生について日本語の勉強をしている子供たちの大きな声が聞こえてきた。

 中山〈チューザン〉広場をまわって大連賓館(旧・やまとホテル)の前を通りホテルにチェックイン。 香港資本の入ったこのホテル(富麗華〈フラマ〉大酒店)はまだ新しく、22階建ての豪華な建物である。 われわれの部屋は10階、まず団長に敬意を表して一人で使用してもらい、副主任と私が相部屋になった。 室内はゆったりとしていて、旅の疲れもとれそうだ。

 手を洗おうとしたが、バスルームの電気がつかない。故障しているのではないか。早くも、やっぱり中国は…、 という気持ちになりかけたが、いや、節電だよ。まだ外は明るいんだし、などと、今度はさすが中国だよ、と勝手に論評しあう。
 ところが、団長の部屋に行くと、どの電気もついている。おかしい、やっぱり故障だ。フロントに修すように頼んでおこう、 と英語の得意な副主任が掛け合うことになった。

 街に出る前に1万円を元(=ゲン。約25円)に換金する。現金(398.35元)とトラベラース・チェック(約403元)では、 換算レートが違い、私はちょっと損した感じである。
 なお、元には人民元と兌換元があり、前者は小額が多く庶民的、ホテルなどでは使えない。

 ガイド嬢と歩いて、再び市内へ出る。路上のあちこちで野菜や果物(名物はリンゴ)をハカリ売りしている。 アイスクリームや飲み物の屋台も多く出ており、そのそばで緑色のスプライトの大きな空ビンをハサミで細工して、 モビールを作っている小母さんもいた。

    

 至る所で住宅が壊され、高層ビルに建替えられているが、すべてレンガ造りである。地震がないせいか、 日本で見るような鉄骨の足場はなく、また回りは竹を編んだ柵で覆われている。中国は昔から竹の多い国だが、 近くに竹やぶ・竹林が見当たらないのが不思議。

 中山広場へ出る。中山〈チューザン〉とは国父・孫文の号。中国のどの都市にもこの名を冠した広場、道路などがある。 この広場はカールスルーエ(ドイツの都市)を模したと高校時代の地理で習ったが、特徴は中心から放射状に8本の道路が東西南北に出ていることだ。

 旧日本時代の「やまとホテル」がそのまま残された大連賓館に入る。今も宿泊ができるが、日本の商社などが事務所として使っている。 清水という日本料理店もある。
 外観、天井、壁など昔のままのたたずまいをカメラに収める。五歳未満で引き揚げた私には、当時の記憶はない。 ただ、母たちの話していた昔の大連、それをいま45年ぶりに、我が家でいちばん若い私が訪ねて写真におさめ、 報告しようというのだ。

 ただひとつ昔と違うのは、ソ連の脅威にさらされた1970年代のはじめに、対原爆用の地下トンネルが幾つも掘られたことで、 このホテルからも入ることができる。このような大規模な地下施設は北京・上海など大都市でも掘られており、いまは多く、 商店街になっている(週刊新潮・グラビア「初公開中国・大連市の"対原爆"地下街」S52.7.7号参照)。

 陽はだいぶ傾いているが、まだ4時(日本時間5時)。噴水を挟んだ広場の反対側には中国銀行の旧いビルなどがある。 広場には日向ぼっこの老人たち、平日でも若い人や家族連れが多いのは、休日が必ずしも日曜だけとは限らないからだ。 早朝には太極拳や気功法の稽古をする人も多い。地方からの観光客など、人の出入りはひっきりなしという。

 広い歩道の片隅に小さな小屋のような店がある。一つはパン類や菓子、飲み物もビールなどを売っており、 副主任は5元でブドウ酒を求める。その隣のさらに小さな、日本でいえば宝くじの売店のような四角の簡易建物は雑誌売場。 私は芸能誌とアニメ雑誌を求めた。合わせて3元そこそこ。この国では、書籍と雑誌が別々に売られている。

 またホテルに戻るが、隣接する広くて大きな新友誼商店に案内された。ウイスキーや漢方薬、絹製品、フィルムやカセット、 日用品から装飾品などかなり高価なものも売っている。売り子は日本語ができ、しつこく勧める。 ガイド嬢も何か買わないかという。一応、土産を買って帰るつもりの三人組も、何がよいのか迷うだけで、結局何も求めなかった。

 夕食は5時半ということで、迎えの車に乗る。この国では運転手はエリート。免許をとるのはとても難しいそうだ。 道路は広く車も少ない。その代わり自転車は多い。片側(2車線)6,7メートルはある車道を二台、三台と並んで走っている。 後ろからクラクションを鳴らしても、いっこうに動じない。子供までが横断歩道でもないところを平気で横切る。 避けようともしなければ、振り向きもしない。
 見ていてヒヤヒヤするが、車はそれほどスピードを出さないからか、一度も事故らしきものを見なかった。 車に乗ったことがないから、怖さを知らないのだという。

 タ暮れになっても、まだ明るいせいか、ライトをつけて走る車はまったくない。日本のようなケバケバしい街灯もないが、 運転手は目がいいのか、みな平気のようである。
 また、中山広場をぐるっと回って通り過ぎ、人が路上に溢れている繁華な通りに出て、 反対側には露店ともいえる食堂が並んでいる一角の中華料理店(華明閣)の2階に案内された。

 中国での第一夜。どんな料理が出てくるのかと、胸弾む。手前の大きなテーブルにはすでに十人以上の中国人が食事をしている。 奥のだれも座っていない大きな丸いテーブルが目に入る、これは豪勢なと思ったのは、早合点。 われわれ三人組には部屋の中央には違いないが、窓際にポツンと置かれた、小さなテーブルが用意されていた。

 ビールと料理は注文してあるので、ごゆっくりどうぞとガイド嬢。運転手と階下で食事をして待っていますとのこと。 大連製のビールで乾杯して、次々に出される料理に箸をつける。前菜はきのこ類を二、三種和えたおしたし風、ピータン、 肉や青菜、小海老と銀杏などを炒めたもの、スープにご飯と、八種類も出てきた。 旨い、旨いとビールで流し込みながら、紹興酒も一本(5元)飲み干す。

 途中で様子を見にきたガイド嬢に、謝礼として東京で買ってきた12枚一組の浮世絵のコースターと百元(約2500円)を、 運転手には団長が用意した腕時計(約1400円)を進呈した。店の奥に土産物店があり、日本語のできる女性が副主任にしきりに何か買えといっているらしいが、 ガイド嬢は高いから止めろと合図していた。

 一時間半ほどで、そこを出て、夜の町を散歩しようとしたが、そそくさと車に乗せられてホテルヘ送り返えされた。
 電気の修理をしてくれたかとフロントの綺麗なお嬢さんに尋ねたが、なかなか英語が通じないと、副主任はこぼす。 部屋に戻ると、ちゃんとつく。直っているじゃないかと、すぐに駆けつけたオペレーター(女性)に、結構ですと日本語で。 客は勝手なものだ。

 バスを使って汗を流したあと、東京へ電話して今日の仕事はお仕舞い、また飲み出す。飛行機の中から飲み続けで、 賢明な団長はお茶に鞍替えしている。

 ここは中国には違いないが、走っている車はほとんど日本製。部屋の中の電気製品も同じで、例えばテレビ・冷蔵庫は東芝、 プッシュホンはNEC、トイレ・バスはTOTO、エレベーターが三菱であった。日本のビールも飲めるし、お茶もある。 NHKの衛星放送も綺麗に見られる。まったく日本のホテルにいるのと変わらない。

*第2日・10月10日(木)大連

 朝6時(日本時間7時)ごろに目が覚める。よく寝たと思うが、ノドが痛い。風邪を引いたようだ。
 十階の大きな窓から港の一部が霞んで見える。真下には口の字型をした大きな六階建ての集合住宅があり、 朝の支度をしているのか煙突から煙が出ている。ここでも次に訪ねた上海でも住宅の多くはレンガ造りの六階建て、 次に三階建ても目についた。
 7時ごろには通勤客を乗せたバスがクラクションを鳴らして走り、自転車も行き来し始めた。 近くの工場の隅には三々五々労働者が集まり、トラックが来て彼らを拾っていく。

 三人そろって朝食に。案内されたレストランは一階にあり、ガラス戸越しに正面玄関や斯大林路が見渡せる。 通勤途中の男女の姿や、道路を隔てた向かいの小学校の校庭での体操風景など、現実の中国を目の当たりに見ながらの食事である。
 ガラス一枚隔てただけで、別世界。一般の中国人には無縁と思われるところの一つが、こういうホテルであろう。 彼らはもう見慣れているのか、好奇心も起こらないのか、ホテルの駐車用スペースは歩行自由だが、 通勤途上の人々は中を覗く気配もない。

 ビュッフェ形式で、各自が好きなパン類、豆乳、ハム、ソーセージ、青菜を炒めたもの、卵、トマトジュース、 フルーツポンチ(リンゴ・スイカ・ハミ)などを持ってきては、舌鼓をうつ。 カップが空になるとコーヒーを何度もついでくれる。

 お腹を満たして気分よく話していると、ウェイトレスが来て、いま皆の食べたのは指定されたアメリカンブレックファースト (ABF=美國早餐)ではなかったが、それでもよかっただろうかと日本語で聞く。こちらのほうが安いのだという。 みな満足していたので文句もいわず、明日の、より豪華な朝食に期待したものだった。

 外に出てみる。良い天気だ。暑くもなく寒くもなく、秋らしい清々しい朝である。9時に迎え。 ガイド嬢は昨日と同じ紫色のワンピース、化粧もあまりしていない。
 街を歩く若い女性はスカート、スラックス、ジーパンなどが多く、数も少なく色彩は地味だが、日本とあまり変わらない。 人民服は中年以上の男女に多く、軍服姿の若い男や白衣を羽織った女性も目につく。子供の服は色とりどり。

 靴はヒールの高いのを履いている女性もいるが、一般にパンプスである。素足の人は少なく、ストッキングを履いているが、 スカートに隠れる程度に短く膝の下までのものが多い。ホテルで働く、比較的長身で綺麗な女性はもっと長いのを履いている。 ガイド嬢も同じだったが、はたしてパンティストッキングかどうかはさすがに聞きそびれた。
 男は単調で、たいがい黒っぽい靴下に黒の革靴である。

 いよいよ、大連海港へ。昭和22年2月、私は両親や姉兄とここから貨客船信濃丸に乗って舞鶴に引き揚げたのだった。 その後、日本で見たり読んだりしたものに、昔のままの大連が残っているとあったが、どんな状況か自分の目で確かめたかった。

 埠頭の反対側にあるビルの屋上に出る。このエレベーターは上海製、つまり国産である。一望のもとに港が見渡せる。 大きな貨物船が何隻も停泊している。右側遠くに見えるのはドックだろうか。左側にも造船所があるようだ。 今でも構内を汽車が走っており、蒸気機関車が白い煙を吐いていた。客船の乗場も元のまま、どこへ行くのか大勢の人の船に乗り込む姿が遠く小さく見える。

 「カモメの姿が見えないねえ」と団長がいうと、副主任は「ひところの名古屋港もそうで、水が汚くて、魚がいないから、 鳥もいないのだ」と極めて論理的にいう。
 旅行中、スズメを何度か見たほかは、中国人が好むというニワトリも、上海から蘇州への行き帰り、 農家の庭先で遊んでいるのを見かけただけだ。ここに限らず、鳥の姿がないのは不思議な気がした。 犬・猫も田舎以外ではほとんど見かけなかったが、都市では犬は飼ってはいけないのだという。理由は聞かなかった。
 日本ではマンションに限らず、いけないといわれても堂々と飼う。人に迷惑をかけても自我を通す現実、利己主義、 これが自由社会のよさだというかもしれないが…。

 生まれ故郷を訪れるという動機の中には、もう二度と訪れることのない、今年87歳になる母に、 大連の姿をカメラにおさめて報告しようという気持ちがあった。多分こういうところから眺めて、 どう思っていたかなどと想像しながら、何枚も写真をとった。
 あちこちに林立するホテルなどの建物以外にあまり高層ビルはない。港を背にした街の眺めは、雄大でのんびりしている。 それこそ戦前は住み心地が良かったのだろうと思う。

 「大連港は世界150か国と貿易をしています。中国には港がたくさんあるが、ネズミがいないのはここだけです」 とガイド嬢は誇らしげにいうので、「へえ、チュウ国というのにねえ」と、混ぜっかえすと苦笑いをしていた。

 われわれ三人組は、夜遅くホテルに着いて翌朝早く次の目的地にという"ツアー旅行"ではないので、 いつでも時間はたっぷりある。大連港をのんびり見ているうちに、すでに二組の団体さんが、賑やかに記念写真をとって、 そそくさと去っていった。

 ところで、ガイドにしては大連のことを知らなすぎる…。実は両親は韓国人、彼女自身は中国人という意識だそうだが、 「生れ育ったのは隣の吉林省、大学を出て先生をしていたが、こちらへ来てガイドを始めたのは、この8月から」という。 道理で不案内なのだ。しかし、朝鮮語も話せるので、ガイドとしては対象が広くなる。韓国の旅行者もかなり来るそうだ。

 生家を尋ね当てるのは無理だと分かったが、建物がそのまま残っている二、三か所の旧・日本人街に案内してもらい、 こんな家に住んでいたのだろうか、記憶に残る防空壕はどの辺に、と昔に思いをはせ、何度もシャッターを押した。

 老虎灘〈ロウコタン〉公園。海水浴場として有名なところ。入り口から、勇敢な少年が悪いトラと戦ったという伝説の名所となっている場所まで、 車でもかなりの距離がある。
 途中には広い通路をはさんでテント張りの店がならんでいる。個人が使用料(税金)を払って、 観光客らを相手に衣服や日用雑貨を売っている。

 一部工事中の公園は、オフシーズンなので人出はそれほどでもないが、若いカップル、家族づれ、小グループ、 不倫関係?と思しき男女、日本とちっとも変わらない光景だ。

 コインを入れて動く子供向けの乗り物や射的、イルカのショウ、土産物屋、記念写真屋、立ち食いの店など、 どこでもよく見かける光景。軍服などの制服を貸す記念写真屋もある。
 別の写真屋では、料金のことで客と言い争っている。甲高く、しかも早口で捲し立てる、相当の剣幕だ。 双方の仲聞は黙っているし、どちらも手を出さないのが印象釣だった。

 小高い丘の上から三方に海が見える。低く枝を張った松の木が生えているが、かなり陽射しが強く、汗ばむ。 若い女性のアイスキャンデー屋が通りかかる客に声をかけている。
 市民の憩いの場、一日のんびりと過ごすことができる。みなカメラを提げており、お互いにポーズをとるのに余念がない。

 ここもそうだが、人の多く集まるところでも、市内でも紙屑などのごみをほとんど見かけなかった。過剰包装などのない国。 当たり前といえばそれまでだが、ゴミ問題が政治課題の日本の現実を考えれば驚嘆に値する。 屑籠はたしか「果皮函」と書いてあった。

 次に目指すは星海公園。車で移動するが、三人組が勝手気ままなら、ガイド嬢も運転手と談笑している。 途中、昼近くになると、工場のある地域では空の弁当箱を持った女性たちが一方向へぞろぞろ歩いている。 中にはやかんを持っているものもいる。
 他でもお目にかかったが、弁当箱はアルミ製、日本でいうドカベンのように大きく画一的だ。男女別もない。 これに白いご飯が一杯つまっている。公園のモギリ嬢も、これを片手に対応する。色気に欠けること甚だしい。

 星海公園は、昔の日本人に懐かしい「星が浦」。海水浴のできる有名な風致地区である。 先にみた老虎灘公園と同様に水遊びをしている大人たちや、実際に泳いでいる人もいた。こぢんまりとした感じの落ち着いた公園で、 人も少ない。
 ここの伝説は、イカの安住の地だったが、乱暴なイルカに荒らされていたところ、あるとき空から大きな星が落ちてきて以来、 静かな海になったというもの。

 遠浅で砂浜はほとんどなく、小石を洗う波も穏やか。手にとった小石の幾つかをポケットに、 母へのよい土産ができたと一人ほくそ笑む。星が浦という言葉が時々母の口から漏れていたのを思い出して。

 海辺と反対の公園では若い女性が二人、ラジカセの音楽に合わせてダンスを踊っている。 今こちらではダンスが流行っているそうだ。そういえば、中華料理店も8時半ごろに終了して、 9時からダンスホールに模様替えするところが多いようだ。カラオケも盛んである。

 三人組はしかし、観光地めぐりより、現代中国を知ろうというのに貪欲だ。
 人口11億とも13億ともいう中国では、かなり前から"一人っ子政策"(提倡一対夫妻 一个孩子)をとっている。 昨日も街を歩きながら、衛生関係のスローガンを見つけてガイドに質問した。この政策に沿ったものに、 "遅く結婚して、遅く子供を生もう"(晩婚晩育)というのがあった。

 社会主義は計画経済の世の中だから、何ごとも"計画的"にやらなければならないのだろう。 つまり、個人の自由、勝手、気ままは許されないということになる。なんでも自由の日本と比べて、どちらが幸せかは、 別に議論するとして。

 ガイド嬢はいま30歳、25で結婚して、27で男の子を生んでいる。国の政策を忠実に守っているという自負が感じられた。 もう一人欲しくないかと聞いたが、要らないというより、生活できないとのこと。共働きは当然の国だが、 2歳の子供は託児所に預けている。彼女の仕事は時間が不規則、技術者の夫のほうは帰宅時間が早いので、迎えにいってもらう。

 月給は二人で6百元、生活費は子供のものを入れて5百元かかるという。夫は子供に甘く、なんでも買ってあげる。 将来のことを考えると、いいことではないという彼女に、息子は時々「お母さんは要らない」という、などと話していた。
 今の若い人は親と別居したがっているが、なかなかそうはいかない、とも。

 石畳を指して、これは昔のままだという。老虎灘公園でも、赤土の上に通路として石畳があったが、小石を並べた模様入りで、 注意して見ないと気がつかない。

 市内観光では、外国の旅行者はこの二つの公園のどちらかしか行かないそうだ。星海公園は久し振り、 とガイド嬢は満更でもなさそうだった。

 昼食は彼女の勤める旅行社(CITS)の2階に案内される。3人用にテーブルが用意され、すぐビールも出てくる。 セット料金に入っているのだろう。まずは乾杯! いくつか料理が出たところで、副主任担当の写真撮影。 似たようなものが出るが、店によって少しずつメニューが違う。ソーセージが甘かったり、キュウリも炒めたり。 空腹の上に多少の疲労もあり、味が薄くあまり冷えていないビールだが、心地好くなる。

 日本の中華料理では次々に取り皿を変えるが、こちらでは要求するとき以外は、ほとんど変えることはない。 またお箸は例外なく長く、先が尖っていない。木もあれば骨を使ったのもある。箸が長いのは、 大勢で円卓を囲んでも遠くのものがとりやすいからだろう。

 言葉が通じないからか、"金持ち"日本人が軽蔑されているからか、あるいは社会主義国では主従関係がなく、 サービス(奉仕)する必要がないからか、どの店でもウェイトレスは愛想がない。 仲間同志で、私語するのは日本の若者と変わりはないが。

 衛生状態については、いまひとつの感がある。お絞りは出すところとそうでない店があり、手洗いは総じて汚く、 蛇口の壊れていることも多い。少し前の日本でも同じような状況下にあったが、今の若い人には想像もできないだろう。
 今回の旅行で、持ってきてよかったのは濡れティッシュ。目薬は上海で役にたち、次にパジャマ。 日本茶はホテルに用意されていた。

 食後、1階の國旅商所で絵葉書を買う。ここは土産物店になっており、掛け軸、端溪の硯、メノウ細工、漢方薬などを扱っている。 ガイド嬢が他より安いですよといい、前日のこともあるので、副主任は愛妻にメノウの首飾りを求めていた。

 車は山道を上って行くが、道がどこへ通じているのか皆目分からない。徒歩の人もいる。暫くして、 北九州市との姉妹都市を記念した北大橋を渡る。

 次に案内されたのは、入口に「文明単位」と書かれた看板を掲げた刺繍工場「大連工藝綉品厰」。
 4階建ての工場だが、エレベーターがないとガイド嬢は申訳なさそうにいう。 女性労働者が90%というこの工場では大小さまざまな刺繍をミシンや手縫いでやっている。 ミシンばかりの部屋は凄まじい音で、聴力障害が起きないかと心配した。
 お後は展示即売の部屋に案内され、お茶の接待を受けて、私はシルクや木綿のハンカチを求める。 街中の土産物店よりは格安という。ここでも団長はパス。副主任も同様。

 工場の向かいに小さな校庭の第74中学校があった。大連市の人口は約130万人、小学校は1500、中学は400ぐらいあるという。 義務教育は高校までの12年、勉強嫌いはどうするのだろう。大学は狭き門で、浪人もいるという。さすがに、予備校はないそうだ。
 途中で見た小学校では全校生徒が、車の通らない道路でラジオ体操をしていた。奇異に感じたが、校庭が狭いというより、 広い土地を存分に使っていると見たほうが自然か。

 続いて貝殻工場「大連貝彫厰」へ。
 ここにも「文明単位」の看板が。注意してみると、かなりの会社などの玄関に、この文字や「優秀単位」などの看板がある。 「単位」は会社のことで、一種の表彰制度か。他の模範となるような、そこで働くものの誇りとなるようなシルシだろう。

 やはり女性が多いが、ある部屋では鼈甲を一枚一枚4,5センチ角に削るもの、鋼をハンダ付けするもの、 十数人が一組になってランプシェードを作っていた。研磨機の音、削られ舞う貝の粉塵、職業病になるとしたら、 刺繍工場より重いものだろう。

 隣接の土産物店では、年老いた店員が上手な日本語で、今月は客が少ないし、11月になると全く来なくて、生活ができない。 4本セットの筆を二つ(3500円、4000円)で5000円にすると泣きを入れる。買い得な気もするが、 それほど"筆まめ"ではないので断る。

 別の部屋では、豪華な貝殻細工を前に日本人の中年グループが大きな声で掛け合っている。男の店員も流暢に日本語をあやつる。 二十数万円で決着がついたようだ。それでも、足元を見られているのでは。そんな声を後ろに私は、母たちへのささやかな土産にと、 白檀の扇子(30元:約750円)を二つ下さいと小さな声で……。

 旧満鉄本社へも案内してもらった。満鉄に関係していた私の亡父も、ここに出入りしていたのだろうか。 現在も鉄道関係に使用され、中には入れなかった。通りにあるマンホールの蓋はMとレールの形を表すTを合わせたマーク入りのもの。 南満州鉄道の略だろう。

 ホテルヘ戻って、上海―成田の帰国便の予約確認の件で、上海への連絡をガイド嬢に頼んだが、電話がなかなか通じない。 CITSの支店まで団長が行っている間に、副主任とホテルのすぐ隣にある「大連ガーメントマーケット」を覗く。 体育館のような建物は奥行が深く、細かく間仕切りした店舗が3百軒ほどあり、礼服からジーパンやセーター、 皮のジャンパーや下着類、装身具や靴などを、吊したりガラスケースの上に並べたりと、それぞれ工夫を凝らしている。 すべての店を見て歩いたが、何も買わなかった。

 マーケットの中を一巡するのに時間がかかり、疲れたものの部屋に戻って、名古屋の母や東京の自宅に絵ハガキを書く。 航空便は一枚1.6元。
 上海への電話は相手が出ないのか、結局通じない。そのあたりの仕組みが分からず、皆なんとなく不安になる。

 夕食に海鮮料理を希望すると、「群英楼」という店の個室に案内される。大きな店で、賑わっているが、 夫と子供がお祖母ちゃんの所へ行っているガイド嬢の分も追加して4人で乾杯。料金は一人100元、 運転手の分も含め50O元は彼女の家の1か月の生活費に相当する。大散財と見るか、"国際親善"と見るかは議論の分かれるところ。

 "海鮮"とくれば新鮮な海の幸がどっさりのイメージだが、こちらの知識不足なのか、やはり中華料理である。 わたりガニをしゃぶり、独特のたれで刺身をつつく。何という魚だろう? 団長は敬遠して私に寄こす。 肉やなまこの料理も出たが、たいがい油で炒めてある。ビールや紹興酒で喉を潤す。いくらでもお腹に入るから不思議だ。

 どの店でもスープが出て、それぞれの味があり旨い。時にぬるいのにはがっかりすることもあったが。 ご飯は白飯が出たり、チャーハンだったり、饅頭のような、パンのようなものも必ず出る。
 この店ではサソリの唐揚げ? が出たのには驚いた。4センチほどの大きさ、姿かたちはそのままである。 副主任やガイド嬢は気持ち悪いと箸を出さない。団長はいくつも摘んでいる。私も郷に入っては…と食べてみる。 少し香ばしい。旨くはないが、漢方薬と思えばどうということはない。日本で沢ガニを食べるのと同じである。

    

 話が弾んで、時間ばかり過ぎる。早く帰りたがっている運転手を先に帰し、腹ごなしにホテルまで歩くことに。 「ラーメンが食べたい」と副主任がいうと、すかさず「ダメです」とガイド嬢。現地の人は食べ慣れているから大丈夫だが、 旅行者には勧められないとのこと。下痢でもされたら、一大事なのだろう。ホテルまで無事に送り届けるのが彼女の仕事。 あとはご勝手に、とは言わなかったが、ホッとした顔でバイバイ!

 ホテル2階のラウンジでピアノとバイオリンの生演奏を聞いたあと、部屋に戻ってみると、また電気がつかない。 通りがかった従業員に文句をいうと、入り口のキイプレートの差し込み方が悪いと実演して見せる。 なるほど、いちいちスイッチをいじらなくても、キイの出し入れだけで部屋全体の電気の操作ができるのだ。 どちらが遅れているのか!

 静かな夜である。ウイスキーなぞ飲みながら、『少年だったころ…』の思い出に耽ける。 今回の旅が、この三人組以外では成り立たない理由がここにある。

*第3日・10月11日(金)大連から上海へ

 朝の目覚めは悪くないが、風邪は治っていない。いよいよ薬を求めるしかないようだ。8時に1階のレストランに降りて行く。 ABF(アメリカンブレックファースト)はどんなに素晴らしいだろうと期待して…。コーヒーが出る。 膝にナプキンを掛けてくれる。サービスがいいぞと思っていたが、出てくるのはトースト2枚、目玉焼きにハム、 フレッシュジュースだけである。

 周りの人はめいめい好きなものを、ビュッフェに取りに行く。目が輝き、楽しそうである。昨日は自由にできたわれわれは、 いまは席を立つことも許されない。なにが高いといって"サービス"ほど高いものはないと、結論づけるしかなかった。

 9時にガイド嬢がやってきて、再び上海に電話する。こんな電話連絡は初めて、いい勉強になりますというが、 困った表情がありあり。荷物をまとめているうちに、やっと通じて、予約確認は明日でも大丈夫とのこと。 チェックアウト・精算にまた手間がかかった。さすがにコンビュータを使っているが、小人数のわりに飲み食い、 電話と忙しい三人組。一度支払いをしたが、昨夜のウイスキー代が洩れていたと呼び止められる。

 念を押してから、ロビー正面に天駆ける群馬の大きな彫刻、中二階には兵馬俑のミニチュアを並べたこの高級ホテルを後にした。

 今日も穏やかな秋空。上海行の国内便(中國東方航空)は16時15分発(18時着)の予定だから、時間はたっぷりある。 しかし、ガイド嬢は気疲れというか、ウンザリしている感じ。たった三人なのに、興味の持ち方・考えることが違う。 勝手なことを言い、注文を出す。指図どおりに動く、団体客の方がはるかに扱いやすいというのもうなずける。

 本屋を覗きたいと、朝から大連でいちばん大きな「新華書店」に行く。繁華街の角に立つ5階建ての大きなビル。 入り口で来年のカレンダーを売っているのや、編み物のムックのようなものを除けば、あとは大量の書籍だけ。 雑誌は扱っていない。各階それぞれ文学、医学、教科書などと専門コーナーに分かれ、本が壁際の棚に並んでいる。 店員はショーケースを挟んで客の応対をする。ケースの中と店員の後ろの棚にある本は自由に手に取れないが、 みな熱心に見ている。新刊案内は反対側の壁に張り出され、新聞でも広告される点は日本と変わらない。 人物伝のコーナーにはフセイン大統領のものが何冊もあった。

 一方、海部総理とブッシュ大統領に出会ったのは、街角の雑誌スタンドである。やはりガラス戸越しに並べられて、 直接手には取れない。スタンドの数も雑誌の点数も少ないようだ。そのせいでもないが、両首脳とも色褪せて見えた。
 このように、書籍と雑誌が別々に販売されているのは欧米流で、日本の書店のように雑誌・書籍ばかりか文具なども一緒に売るというのは、 少し遅れている?

 喉の痛みのほか、痰も絡み始めたので、風邪薬(5.5元)を買う。先の書店でもそうだが、買う前に金額を書いた伝票をもらい、 レジで支払いをしてから、伝票と商品を交換するシステムである。
 一般に店で働いているのは若い男女が多い。屈託なく、仲間同志でおしゃべりをしている。 ホテルの両替所にいた二人の男はツッパリ風で、額にソリを入れたら日本でも十分通用する。交通整理の警察官もみな二十歳すぎに見えたが、 平均27,8歳という。

 定年は最近55歳から60歳になったそうだが、まだ元気な人たちは外に出て、街頭掃除などのボランティア活動をしている。 家が狭いからと、公園で日向ぼっこをしたり、木陰で将棋やカード遊びをする老人たちもいる。 孫の相手をする姿が目につかないのは、一人っ子政策のうえに託児所に預けているからだろう。平均寿命は70歳ぐらいとか。

 まだ昼前だが、陽射しが強く暑くなってきた。セーターやカーディガンを脱ぐ。相談もしないから、 着るものに限らず持ってきたものは三人三様である。例えばお金、団長はトラベラーズ・チェックにカード、 副主任は現金のみ、私は現金とカード。
 もう一つ、夜バスを使うのはみな同じだが、着ているもの全部を洗濯するのは副主任、ハンカチと靴下だけの私、 団長はなにも洗わない。これが奥さんの日頃の教育かというと、そうでもない。多分二人とも家では亭主関白、と私は睨んでいる。 私についてはヒミツ!

 自由市場へ。間口10m以上、奥行が50mはあろうかと思われる大きな市場である。濃い緑の天井は高く、その下で野菜、 果物、海産物は中央の通りに、米などの穀物、魚、鳥や牛肉は左右の外側の列にと、二、三百軒もの店が間仕切りもなくずらりと並んでいる。 紅紫色をした大粒のナツメが目にとまる。とっさに子供の頃の思い出が蘇り、食べてみたかったが、下痢でもしたらと諦めたのが今でも残念である。

    

 売り子はおばさんが多いが、どの店も活気がある。自分で作ったり、採ったりした物を売って、税金を収めれば、 あとは自分の収入になる。同じ物を売る店が仲良く? 隣り合わせ、一つでも多く売る、自由競争である。 社会主義社会って何なんだ? ここではガイド嬢と離れて自由行動だったので、斜め向かいの、小型の中国民航機が置いてある遊園地に行く。 入り口付近で女性が一人、自家製らしいパンを売っている。

 このように路上でタバコ、印鑑、靴などを売っている光景は、至る所で見た。夜、街灯の下での自転車修理屋もいた。 歩行者天国もあり、屋台、小屋掛けは豪華な部類で、ダンボール箱の上で数枚の白いブラジャーを売る女性もいた。
 闇商売に近いのだろうが、当局は見て見ぬ振りをしている。逞しいというか、したたかな国である。 需要と供給のバランスがとれているかぎり、なくなることはないだろう。

 大連で最後の昼食も中華料理(怡紅廳)である。さすがに食べ疲れ、飲み疲れが重なって、ビールも一本だけ、 出されるものにもあまり箸が動かない。副主任の念願とするラーメンは上海に持ち越しである。 (結局、一度も口にできなかった)

 地下トンネル(今は商店街になっている)を見学して、いよいよハイライト、大連駅に向かう。 東京の上野駅を模したというが、規模ははるかに大きい、これも昔のままだ。

 広い駅前通りは人通りも多く、タクシー、二連バスや路面電車がひっきりなしに走り、輻輳するという言葉がピッタリである。
 地方からの観光客もかなりいる。旅館やホテルの従業員が店の名を書いたプラカードを持って、 客引きをしているのは熱海駅などでよく見かける風景である。

 列車の本数は少なく、運賃は安いが切符がなかなか手に入らないという。待合室の行列に割り込んだ男に対し、 女性の駅員は手をポケットに突っ込んだまま、荷物をどかすまで早口で捲し立てていた。 権威なのか男女平等なのかはチト分からないが、立派なものだ。
 次にトイレを覗いた。大便をするところは囲いが半分しかなく、こちらを見ながら沈思黙考?である。 慣れれば平気なのだろうが、こればかりはためす勇気がなかった。

 切符がないとホームに出られないという。まさか、特急あじあ号(昭和9年運転開始、大連―新京間)が走っているとは思わないが、 なんとなく残念だった。
 2階の待台室は広く天井が高い。昔の建物は洋の東西を問わず、権力者の勢威を示して無闇に大きいものが多いが、 そういうものに接してホッとする時がある。時空を超えた安らぎを覚えるのは私だけだろうか。

 外に出ると、広場の向こうに、ビル群が見える。左側には遊覧に誘う広告などの看板がいくつか立っている。 駅に車で乗り付ける人、重そうに荷物をもって出て行く中年の夫婦、物売りの若者など、飽かず、のんびりと人の動きを見ている。 優しい陽の光。時計が止まったような別世界。これまで経験したことのないようなひとときである。……
 「さあ、行きましょう。飛行機の時聞がありますから」と無情に促すガイド嬢。無残にも、しばしの平安が破られる。

 大連空港に着いたのは2時前だが、彼女は明らかに疲れ、イラついている。別れた途端、二、三日寝込むのではないかと心配するが、 搭乗手続までは責任がある。
 国内便の待合室は"ツバを吐くな"の注意書のほかガランとしたもの。出発ロビーも壁に吊された掛軸の展示を除けば、 至って簡素。音楽もなく、静かなものである。

 出発時刻が過ぎても何の動きもない。ノートに、こう記した。「4時3分 16:15発の国内便の出札がまだ始まらない。 中国人を中心に、百人以上が椅子に座って待っている。出口付近に立ってガラス越しに外を見ている、せっかちな人もいる。 アナウンスは一回だけ短く中国語であったが、何のことか分からない。誰も何とも言わないのは、遅れることがよくあるからか」

 「4時12分 ロビーのドアが開き、客が殺到。4時25分 後尾入口より機内へ、21B席。団長の隣。またも席は翼の上である。 4時29分 フライト開始、浮上、一路上海へ。空はどんよりと曇っている。中国人のほかに西欧人が3名ほど。 日本人はわれわれを含め10人ぐらいか。ベルトを締めろとサインが出ても、平気で立って外を見ている現地の人たち。 やはり、珍しいのだろうか。5時53分、上海到着」<参考までに 大連―上海 運賃(外国人382元)中國北方航空公司>

〔上海 3泊4日〕

 中国大陸は雄大だとは思っていたが、それを実感したのは上海上空から見た、田畑を縦横にほぼ真っ直ぐに長々と走る水路である。 夕闇にぼんやり見えたとき、道路にしては月の光を反射するのは変だと思ったが、計画的に造られた水路と分かったとき、 思わずうなってしまった。

 暗闇の中を乱暴な運転の二連バスで運ばれ、若い男性ガイドの朱さんの出迎えを受ける。
 「帰国便の予約を確認しました」と第一声。これまた上手に日本語を話す。

 かなり古いワゴン車に揺られて、空港から市内まで20分ぐらいだろうか。大連より少し暖かい。大連がアカシアなら、 ここの街路樹はプラタナスである。人口は1300万人(大連は十分の一)、北京をしのぐ国際都市で、広い道路に沿って、 柔らかなオレンジ色の街灯がともり、自転車も安心して走れる。その壁には広告の看板が隙間なく連なっていた。

 レストランヘ直行する間に、スケジュールの打ち合わせ。カイド君は、われわれの滞在が長いので、 観光以外にビジネスでもあるのでは、と不審がる。「何もない。純粋の観光」と、副主任。 「ふつう、3泊もする人はいません。上海は狭く、そんなに見るところはありませんよ」と、26歳の彼はまだ信じない。
 「では、明日蘇州へ行きたい。寒山寺などのお寺を見たい」と、団長は初めて自分の希望を口にする。 さすが団長だけあって、事前の調査は怠りない。実は私も同じガイドブックを持っていたのだが、ほとんど目を通す暇がなかった。 もっとも、大連で旅行の目的は達したも同然だから、あとは彼らに従うことに決めている。

 6時半ごろに着いた「紫竹廳」は大きな建物。入口に土産物店があり、一隅で左手に太い筆をもった若い男が、 掛軸用の絵と文字を書いている。何枚も同じものを書いているのか、手慣れたものだ。感心しながら、その奥のレストランに。

 手洗いを聞くと、掛軸屋のお兄さんの前を通って外に出るという。外見が立派なわりには、こういう設備が前近代的で、 いささかアンバランスを感じる。またも濡れティッシュが大活躍。

 ここの中華料理はやや薄味である。野菜の種類が多いようだが、上海ビールに、本場の紹興酒を味わいながら、 明日は蘇州、明後日は半日クルージング、名物の上海ガニもぜひ食べなければと、計画を練るのに忙しい。

 明日は8時半にスタートですからと急かされて、市の中心にある上海新錦江大酒店ヘチェックイン。 有名な、ニクソン元大統領や田中元首相も泊まったという錦江大酒店の隣に立つ43階建ての新しいタワーホテルで、 "五つ星"だとのこと。23階で二手に別れるが、こんどは副主任が"一等個室"に。

 ドアを閉めれば、日本にいるのと変わらないのはここでも同じ。いや、一つ違うことがあった。 東京の我が家には衛星放送の受信設備がない!
 かくて、コクのある日本製ビールなど飲みながら、上海の第一夜は更けて行く。

*第4日・10月12日(土)上海・蘇州

 高層ホテルの自慢は42階にある円形の展望レストラン。総ガラス張りで、一時間半かけて一回転する、 この藍天旋轉餐廳(The Blue Heaven Revolving Restaurant)からの夜景はさぞかし見事なのだろうが、 われわれは三日間、朝食を食べただけ。

 すらりとした中国美人にテーブルに案内されたあと、コーヒー以外はセルフサービス。 内側の回転しないフロアのカウンターにクロワッサンやパイナップル入りのパイ、生野菜にソーセージが数種、ハムエッグ、 フレッシュジュース、フルーツなどのほか、お粥もあった。メニューはあまり変わらないのだろうが、種類が豊富。 毎日少しずつ品を変えて食べたので、飽きはしなかった。

 ロビーにはかなりの客がたむろしている、まだ8時半だ。中年女性を中心に日本人も多い。 ガイド君はにこやかな顔をして、蘇州に行けますという。よく聞くと、上海市から蘇州、つまり隣の江蘇省へ行くのは面倒なのだ。 運転手の身分証明と"越境"するための書類が要ること、他省の車には厳しい取締りに運転手が嫌がるのだとも。広い国だなあ!

 蘇州行はオプショナル(別建て)なので、一人2百元を運転手に払ってくれという。 ガイドは東方國際旅遊公司の国家公務員であり、年配の運転手は別の上海旅遊公司の国家公務員で、 二人は今回初めてのコンビを組んでいる。
 このワゴン車で三日間を過ごすのだが、ゆったり座れるという以外に取り柄はない。

 上海はさすが大都市だけあって、車も人も自転車も多い。環状道路はいつも渋滞している。地下鉄建設の計画もあるそうだ。 一日の流入人口は2百万人とのこと。

 広い道路を半分近く占領して走る自転車は、施錠はできるがライト付は一台も見なかった。 それでも新品は3百元(一月分の生活費)もするというのだから驚く。必需品なのだからもう少し大量に、 また安くできないのか。この辺りは計画経済の弊害か。なかなか手に入らないから、盗まれることも多く、 エレベーターがない高層住宅に住む市民は、自衛のために上の階の自宅まで担ぎ上げるのだそうだ。

 運転手の勤める会社に寄って彼用のお茶をポットに詰め、いよいよ蘇州行のスタート。片道90キロ以上、 道路が混んでいるから3時間はかかるという。郊外に出ると、左右に農家や畑が続き、ニワトリや犬の姿も見かける。
 畑の野菜の名前をガイドは知らない。毎日食べているだろうに、どうしてかとさらに聞くと、学校で習わなかったという。 他にも、国が必要と考えない課目、教えたくないものは除外されるのだろうか。長い道中では若いガイド君にいろいろ質問をした。 大連の彼女もそうだが、とくに隠し立てしようとすることはなかった。

 共産党政府の情報操作により、国内の動きを外国人から知らされることが多い。法律はないのと同じ。 若者は無気力になっている。指導者が替われば、方針も変わるからだ、彼自身も以前ほど政治に関心がなくなったという。 なお、指導者では毛沢東首席より、公平無私だった周恩来首相(いずれも故人)の方が尊敬されているそうだ。

 国策としての一人っ子政策はかなり徹底しているようで、会社では男性の避妊が奨励されている。 田舎では労働力というか、二人目の子を産んでも届けられないから、その子は存在しない("黒子"という)のである。 広大な国だから、人口調査も的確にはできないだろうと思うが、こういうカウントされない人々も多いのだろう。
 日本では、結婚したがらない症候群に、子供を作りたくない症候群がはびこっている。単純な比較は出来ないが、 考えさせられる話である。

 労働について―始業は8時、終業は5時。昼休みは11時半から1時半まで、昼寝の時間がある。 月給のほかに毎月ボーナスが出る。同じ仕事でも、会社により月給に差がある。大連でも上海でも、平均的な月収は3百元。 どの職業でも国家公務員だが、"会社"だから社長がいる。社長はさすがに共産覚員でないとなれないようだ。 "残業"という概念がなく、サボッても、社長に気にいられれば、給料は貰える。会社に行かず、闇商売に精を出すものもいる。 仕事を替わる、とくに若者にとらばーゆ(転職)志向が強い。……

 大連に比べ、上海の女性の服装は色彩が豊かだと、珍しく副主任がお世辞めいて言うと、 "広州の食い倒れ、上海の着倒れ"という言葉があると教えてくれた。たしかに、女性の着ているものは色とりどりである。 子供や赤ちゃんも着飾っている。
 女性についてガイド君が漏らすには、"北は男が強く、南は女が強い"のだそうな。 南の上海では家具など高価なものを買う時など、最後の決定権は女性にあるという。
 共に働いているのだから、女性が強いというのもうなずけるが、何も中国に限ったことではないだろう。 人妻の不倫も、珍しくないというのだから。
 では、ここで国際的な共通問題、「夫婦喧嘩をして、どちらが家を出ていくか」は、もうお分かりのことと思う。

 ガイド君がいうには、6時ごろに一家揃ってのタ食を大事にしている。じっくり時間をかけて楽しむ。 メニューは6品か7品、毎日母親が工夫するが、高級なものを除けば、レストランで食べるのとあまり変わらない。 休日には、父と兄と三人で酒を飲みながら、遅くまで話をする。朝食はたいがい、通勤の途中ですます。 そういう店が多いのは、始業が早いのと、ラッシュに巻き込まれたくない人のためだ。

 田畑を一直線にのびる蘇州への道路は広く、一度舗装された上に、さらにコンクリートを重ねている。 これが上り下りの至る所で行われており、いわゆる"人海戦術"だ、通行止めをして大掛りな機械による日本の工事を見慣れている私は面食らったが、 どんな車が通っても平気でゆっくりと作業をしている。効率は悪いかもしれないが、大事故が起こらないことだけは確かだ。

 幹線道路はこれ一本のようで、通る車もさまざま。長距離バス、乗用車、大型や中型のトラックが多いが、 耕運機にリヤカーをつないだようなもの、サイドカー、バイクに自転車、当然歩く人もいる。 渾然一体となって、工事中のところを行き来するのだ。

    

 この状態が行程の半分以上は続く。小さな橋の上では積み荷が重すぎて登れない耕運機が通せんぼ。 やむをえず後ろの車から降りた人が後押しをする。また、道路そばで石灰をトラックに積む作業をしていて、 これが終わるまで上下線ともしばし不通に。

 何日も雨が降っていないのか、道路ぎわの草や木は一様に砂埃で白くなっている。蒸し暑いが、窓も開けられない。 凸凹道も随所にある。ワゴン車の中で、上下左右に揺さぶられ、ウトウトしても、すぐにガクンと来るので眠ることもできなかった。

 しかし、遠くに見渡す田園風景はのどかで、印象的だ。民家は二階建て、上下六戸か八戸の小ぢんまりした集合住宅が点在している。 反対側には、道路にほぼ平行して大きな運河の流れが延々と続き、砂や石、穀物などを積んだ平船が無数に上ったり下ったりしているのが木の間隠れに見える。

 途中の大きな町を過ぎるころから、副主任が「お腹が空いた。ラーメンが食いたい」という。 ところどころにドライブインらしきものや、小さな食堂が見え「拉面」と書いてあるが、もとより車は止まってくれない。 路上では若い女性が、ドライバー相手に川で採れた草の根を売っている。まさか、ナゾ掛けでは?

 蘇州に入ったところで、目的のレストランヘの道を尋ねていると、車の前を、むき出しのソバ玉を無造作に手に持った若い女性が横切っていく。 それを見て副主任のノドがゴクリとなったような気がした。

 やっと昼食にありついたのは「獅山酒家」という店。5人で円卓に、ビールも形式的に3人で一本飲んだだけ。 なにを注文してよいか分からず、ガイドに任せる。お勧め品は川ウナギのぶつ切り。ニンニクなどと甘く煮込んだもので、 子供の健康にもよく、精力剤だとのこと。柔らかく旨かったが、意外にも副主任は食べない。 脂っこいチャーハンに酢をかけて食べていると、ガイドもまねをし、美味しいですねという。全部で75元ほどの支払い。

〔蘇州観光〕

 さていよいよ、団長お目当ての寒山寺。小さな寺だが、人気がある。「月落チ烏蹄キテ霜天ニ満ツ」で始まる唐の詩人張継の詩「楓橋夜泊」で有名になったこの寺には、 中国人の観光客もバスを連ねてきている。外国人もさまざま、仏像の前で、少女や老婆が何度もひざまずき熱心に拝んでいる。 NHKの"除夜の鐘"にも登場した鐘は、一つき3角。ただし外国人は5角という。これを差別と考えてはいけない、 外貨獲得には"二重価格"も必要なのだろう。

    

 ひそかに、現代中国美人とはどういうのだろうと観察をしているのだが、どうしても日本で見慣れた女性と比べてしまう。 いまどき街を歩いている女性はチャイナ服など着ていない。寒山寺の門の外で写真を撮っていた若い女性は、白いワンピース、 すらりとした清楚な感じが印象的だったが、2歳ほどの女の子の母親だった。その夫の服装はこざっぱりしているだけ、 こういう少しアンバランスなカップルをよく目にした。

 もう一つ、団長はガイドを促して留園という名園に寄る。中国四大名園とは「北京の頤和園、承徳の避暑山荘に、 蘇州の留園と拙政園」(『地球の歩き方6中国』ダイヤモンドビッグ社)だそうだが、なるほど、園内の自然の池を巡りながら、 さまざまな特徴のある建物に至る。上海生まれのガイド君は今日初めて入ったと正直に告白した。

 中国ではホテルのボーイでもチッブを受け取らないのだが、この庭園の手洗いは入口に老婆がいて、 清潔でもないのに料金(5分、分は角の下位)を出せという。"小"の方だといったが、通してくれない。 見ていると、女性にも同じで粗末な紙一枚を渡していた。

 帰路はまた、ガタガタの道路を戻る。きれいな蘇州駅を過ぎしばらく行くと、道路をはさんで右に運河、 左に杉木立ちに囲まれた単線の鉄道が延びる。数百年は続いているであろう水上交通と、近代の鉄道、そして現代の自動車道、 走りながら歴史の勉強をしているような不思議な光景であった。
 先年、日本の皇太子が英国留学で著した論文は、たしか「イギリス中世の水上交通」ではなかったかと、急に思い出す。

 仕事を終えた若い女性たち、学校帰りの児童、労働者などの自転車の群れ、薄暗く埃だらけの中を家路を急いでいる。 ラッシュ時で、車も多くなる。
 大型トラックが反対車線を走って中型トラックと接触、フェンダーミラーをもぎ取る。怒った中型運転手が飛びだし、 猛烈な勢いで大型を追っかける。追いつかないと思うと、小石を投げつけた。ところが、その石は運悪く、 自転車に乗っていた人の頭に当たり…、

 だんだん陽が傾いてくる。運転手は二度も道を間違えるし、なかなかライトを点けないので、乗っていても疲れてくる。

 上海市の街の光が近づき、わずかにできている高速道路を飛ばして、7時ごろ無事にレストラン「金剛山酒家」に到着。 若い人の多い、にぎやかな店だ。料理は用意されているが、お目当ては上海ガニ。1パイ40元の特別注文。 小振りの川ガニだが、クセがなく甘みがあってさすがに旨い。翌日知ったが、これは2年生、まだ小さい1年生も食用にするが、 海ガニはさらに大きく、運動して身が落ちないようにハサミやアシが紐で縛られている。

 運転手を帰してガイド君と飲む。彼はまだ独身。自宅は郊外なので、われわれと同じホテルに泊まっているという。 団長と副主任は3階のカラオケ"桃の花Wに彼を誘う。元気なものだ。私は埃まみれの頭髪を洗っているうちに酔いもまわり、 少し顔を出しただけで先に休む。

*第5日・10月13日(日)上海

 "大連風邪"の治った私に代わって、副主任が"上海風邪"を引いたらしく元気がない。お腹の具合が悪いと、 トマトジュース以外は何も口にしない。饒舌な人間が急に静かになると、こちらもかえって落ち着かなくなる。

 上から眺める上海の街は、大連とはまた違う。高層ビルはやはりホテルが多いのだろうか。 建物の外を上下するエレベーターも見える。レンガ造りの一般住宅もぎっしり並んでいる。 中にポツンと回教寺院かと思われるモスクもある。「日本ではラブホテルだね」と、副主任は力なく言った。

 日曜日、市内は久し振りの一家だんらん、家族連れで賑わっている。平日は両親は勤め、子供は学校とみな離れているからだ。 キリスト教会から礼拝の終わった信者が出てきたが、彼らを当てにする物乞いもいる。
 三人組には初めての市内観光となるのだが、買い物もしたいし、午後は黄浦江クルーズを楽しむというので、 ワゴン車は孫中山先生の旧居の前を通り、遠くに豫園は入口を見るだけで素通り。

 玉佛禪寺。黄色の壁に囲まれた市内唯一の寺。内外ともに訪れる人は多い。 ビルマから運ばれた一つの石で造られた玉仏座像を祀って約110年と、比較的新しい。この座像を拝むには、 入口で草履に履き替え、静々と進み出る。ライトに照らされたお釈迦様はとても柔和な表情をしており、 唇は紅をさしたように赤く、女性的で思わず見惚れてしまう。
 撮影禁止で、僧が一人鋭い目付きでこちらを睨んでいるのはいささか無粋であった。

    

 最近、信仰の自由が許されたが、布教はしてはならないという。教えを守るために、付属の宗教学校が設けられ数十人の若者が学んでいる。 ここでも、願いごとが叶えられるようにと熱心に拝む女性がいる。毎日のようにやって来る人もいるという。

 (1965年11月に始まった文化大革命は、江青女史〈毛沢東夫人〉など"四人組"に指導された紅衛兵が中国全土を荒らし回り、 封建的、資本主義的なものを破壊しつくした。翌66年8月には、北京で文化大革命勝利祝賀の紅衛兵100万人集会が開かれ、 この年、日本でも『毛沢東語録』がベストセラーになった)

 この玉佛禪寺も、破四舊(舊思想、舊風俗、舊習慣、舊礼教あるいは舊迷信)の旗印の下に、その影響から逃れることはできなかった。 しかし、頭の良い機知に富んだ僧がいて、このお釈迦様の座造の前に大きな毛首席の写真を置いて隠してしまった。 乱暴狼籍の限りを尽くす紅衛兵も、さすがにこの"神様"の前では手も足もでない。こうして、お釈迦様は無傷のまま難を逃れたという。

 当時、「ネコを殺す」という表現はタブーだったという。「毛」と「猫」の発音が似ているからだ。 一口に四千年というが、歴史と伝統をもつ中国の貴重な文物が、一瞬のうちに破壊され、あるいは海外に流出したのは、 よそごとながら残念である。

 さて、現実に戻ろう。明日は、飛行機に乗って帰国するだけ。のんびりする時間はない。

 買い物にはロシア風の大建造物である上海展覧中心〈センター〉(55年完成、旧"中ソ友好ビル")に案内される。 各種の工芸品や、装身具、シルク製品など、豊富にとり揃えている。
 これまでほとんど何も買わなかった団長も奥さんにシルクのスカーフなどを求め、副主任はなぜかメノウのネックレス(の値段)にこだわり、 ここでは緑のを買っていた。

 私も妻にはシルクの白ブラウス、娘には注文どおり真紅のチャイナドレスを求める。ドレスのほうが当然高いので、 妻にはメノウのネックレスを追加。いちばんうるさい五歳の息子には相応しいものがなく悩む。とりあえず玉石の杯一対。 大人になったら、一緒に酒を飲もうというメッセージをつけて…と。あとで、中国製の世界地図も買ったが、 持ち帰った中国紙幣(100元でも小型紙幣で、"こども銀行"を思い起こさせる)や小さな袋に入った機内食のいろいろが、 彼をいちばん喜ばせていた。

 上海、いや中国での最後の観光、長江(揚子江)の支流の川下り(黄浦江クルーズ)をする前に腹拵え (食事のことばかりで恐縮デス)。SHANGRI-LAでの中華料理も、副主任はビールを啜るだけで、まったく箸をつけず、 団長もすぐ腹一杯になったとリタイア。

 私は仕方なく、小さな皿に次々と出てくるものを少しずつ摘む。せめて写真に撮ろうとすると、 隣のテーブルのアメリカ人が頼みもしないのに、三人を並べて記念写真をと。馴れたものだ。しかし、だいぶ疲れているのか、 みな口数も少ない。外も曇り始めた。

 大きな遊覧船は豪華とは言いがたいが、白の制服を着た商船学校の男女生徒、一般の観光客が殺到して、 船内はごった返している。私がちょっとしたスキに迷子になる。ガイド君が青い顔をして探しているのを呼び止め、 特等A室に(特等にもDまである)。

 ここは展望室で、広いスペースにゆったりと椅子が並べられている。ドイツ人が30人ほど、アメリカ人も数人、 日本人は女ばかり9人のグループ、新婚さんとそのどちらかの両親、それにわれわれ三人組、あとは中国人である。 通訳はいずれも熱心にお客と話をしていたが、例外はわがガイド君、ときどき説明するだけで、前半の2時間は寝てばかりいた。

 岸壁を離れるころ、小粒の雨が降ってきた。ほとんど船内にいるので、影響はない。この川は揚子江の支流に当たるというが、 川幅は広くタンカーや貨物船が停泊していたり、ゆっくりと下っている。手こぎに近い小さな船も堂々と走っている。 波は穏やかだが、水は黒っぽく濁っている。

 船はのんびり、下って行く。遠くの左右の岸には造船所がみえ、それがいつまでも続く。 河口の呉淞江で三狭水〈サンシャオシュイ〉現象が見られるとのことだが、あいにくそこまでは行かなかった。 三狭水現象とは、黄浦江の黒っぽい水と、泥をたっぷり含んだ揚子江のコーヒー色の濁流、 東シナ海の青みがかった海水がぶっかり合うのをいうそうだ。

 帰りの船内では手品などのマジックショウをやっていた。雨はやんだが、曇り空で目が疲れる。 いちばん元気な団長は外に出たり、船内を巡ったりしているが、副主任は休養とばかり眠ることに専心していた。

 むっくり起きたガイド君は、私が昨日プレゼントした浮世絵のコースターについて、 「素晴らしいですね、どういうところに飾ったらいいでしょうか」と、素直に喜んでいたのは嬉しかった。 彼は、日本に行きたいとは思わない、排他的だからと言っていたからだ。

    

 上海市役所、税関などビル群のある側の岸壁は、夜になると若いカップルが目白押しで"上海の湾岸戦争"というのだそうだ。 今日も多くの若者が出入りしていた。

 下船後、港の向かいにある上海市食品雑貨公司でお茶など買うのに時間がかかり、外はだいぶ暗くなっている。 運転手は、車のボディを自転車でキズつけられたと、その相手と十分ぐらい口喧嘩をしたのと、待ちくたびれたので機嫌が悪い。 旧日本租界、旧フランス・イギリス租界などを通り抜け、ここは有名なガーデン・ブリッジと説明するまもなくフルスピードで通過。 ガイド君も間に入って気を揉んでいる。

 毎回、中華料理でも、店が違えば出されるものにそれぞれ特徴がある。「揚子飯店」では川魚だろうか。 尻尾から約10センチのところで切り落とされた魚の身は厚く、縦に切れ目が入っており、甘く煮てあるので食べやすかったが、 始めはギョッとしたものである。
 やっと副主任も体調が回復したのに、やはりあまり手が出ず、待望の小籠包子にむしゃぶりついていたが、 その名のとおりの小さな饅頭に満足しただろうか。

 三人組も疲れがピークに達していたが、"残業"しても何の得にもならない運転手に急かされるように、早々と切り上げる。
 ホテル1階の外文書店で、地図や日本の小説を求める。日本では500円もするのが、ここではたったの5元である。 どういうシステムになっているのだろうか。
 そろそろ、日本に帰ってからの、仕事のことが気になり出す。副主任は帰国の翌日に、東京への出張があるとのこと。 ご苦労さん!

*第6日・10/14(月)上海から成田へ

 来たときは軽かったスーツケースも、みやげや洗濯ものではち切れそうである。なんでも詰め込んで、整理が旨くいかない。 しかし、天気も副主任の気分も回復し、朝がゆも美味しく感ずる。
 大枚の支払いをし、チェックアウトも無事済んで、一路空港へ。

 虹橋(上海)空港へ入る間際には、故毛沢東首席など政府要人が滞在した西郊賓館がある。あると言ったが、 入口から建物まで歩いて十分もかかるという、広大な敷地である。外からは何も見えない。
 さらに進むと、一か月の家賃が3千USドルという超高級マンション(龍柏飯店?)があり、 金持ちの中国人も住んでいるそうだ。またまた、社会主義国の仕組みというものが分からなくなる。
 都市生活者より、農家の人に金持ちが多く、ひところ大金持ちのことを"万元戸"(1万元は約25万円)と言っていたが、 今では"十万元戸"もいるそうだ。

 上海空港では、実際に帰国できるのかどうか、また不安になった。時間にすれば30分ぐらいなのだろうが、 狭い搭乗手続きのカウンターでのチェックが、さっぱり要領を得ない。受付係が奥に入ったまま出てこず、 ヤキモキさせられたり。空港使用料は60元(約1500円)、これは成田の2000円と遜色がない。

 免税店では、チョコレート、スコッチ、ブランデーや香水などの欧米品、日本製のカメラもあったが、青い石で造った動物、 お茶、ブローチやネックレス、皮革製品などの国産品に、お客が群がっていた。

 多少は覚悟していたものの、フライトは約30分の遅れ。11時25分のところを12時ごろに飛び立つ。 中國國際航空公司の成田直行便(CA929便)は、15時20分到着の予定である。

 飛行機の中(ビジネスクラス)では、分不相応な"待遇"を受ける。いや、すべて料金のうちに入っているのだから、 遠慮する必要はないのだが、リクライニングの広い椅子、前後のゆったりとしたスペース、スリッパのサービスに戸惑ったりして。

 それだけではない、機内食は中華料理の総仕上げともいうべきもので、ワインやビールを飲みながら、前菜、パンにサラダ、 あひるの肉(ダック)にご飯少々、なにやら正体不明のぺーストなどがこれでもかと次々に出てくる。
 およそ1時間というもの、座席を倒したままの姿勢、テーブルを動かすわけにいかないので、 「これでは完全にブロイラーだね」と団長と苦笑い。最後に果物。リンゴ、ブドウなどが出て、やっと終了。

 しばらくすると、外を見ていた団長が名古屋上空を通過と告げたころから雲行きが怪しくなり、 成田に着くころは横殴りの雨が窓ガラスを激しく打ちつけていた。

 それでも、飛行機は20分の遅れだけで、無事に着陸。えらいもんだなあ!
 機内からいちばん先に降ろされて、さすがビジネスクラスと感心したものの、スーツケースに階級差別はなく、 われわれのが出てきたのはほとんどお終いのほうだった。

 コンピュータの整備されていない中国にも戸惑ったが、そのコンピュータに振り回されたのが、 成田エクスプレスの指定席の券売機。機械に馴れた若者には遊び感覚で扱えるかもしれないが、年配者には少し不親切な代物。 そのうえ、故障したのだから、泣きっ面にハチだった。短い編成ですぐ満席になるのも恨めしい。 一時間後の切符を三枚手にいれ、待ち時間を利用してサンドイッチにピザを平らげ、缶ビールで"解団式"をする。

 留守宅に電話を入れると、成田エクスプレスは動いているかという。後で知ったのだが、東京は連日雨が降り、 いつもは晴れる体育の日も散々だったという。

 中国旅行中の天気はほとんど晴れて、われわれは恵まれていたが、帰国した日の朝刊に、大きな見出しで 「台風一過も"嘆きの洪水" 秋祭り、運動会、行楽…また流され もうウンザリだ 雨の休日 連続9日 JR散々1806本運休 成田エクスプレス復旧の見通し立たず」とあった。
 私たち"三人組"はよほど運がよかったと見える。

 このほか、幾つか中国に関する東京新聞の記事が目についた。参考までにあげておく。
 「朱副首相 中国航空の劣悪サービスに"断"まず正確ダイヤ 『年内改善を』とゲキ」…同副首相は全国民航服務工作会議の席上で、 「航空便の時間変更、取り消し、遅れが頻繁にあり、内外の利用者は不満をいだいている」と述べ、 「今年末までにサービスと運行状況を改善し、中国の改革開放が進んでいることを世界に伝えなくてはならない」と指示したという。(10/12付)

 「上海市は、…道路整備の遅れが目立ち、市街地の交通渋滞はひどい。 …同市は市内を一周する環状道路第一号、「内環状線」を計画中だ。…今年中に着工、1995年完成を目指している。 道路幅は40メートルの6車線だが、このうちの2車線は自転車専用道という中国ならではの特徴もある。 …環状線の完成は上海の今後の発展を占う大きな工事だけに、政策論争に巻き込まれて、中断することなどなく、 無事に完成してほしいと願っている市民は多い。<上海>」(10/12付)

 「中国経済の根幹をなす国営大・中型企業の活性化を討議した党中央工作会議(9/23-27)での江沢民総書記の演説が21日、 国営通信新華社通信から発表された。それによると『国営企業の活性化は短期的にできるものではない』との認識を示し、 『すべての工作を経済建設に服従させるが、政治的にも正確な方向を歩まねばならない』と指導者の政治思想工作も強化する方針を明らかにした。」(10/22付)

 「占い、迷信本はまかりならぬ―最近、中国では文化市場の整理整とんの名目で、迷信、占いに関する書物の発行や発売が禁止になっている。 中国でも迷信や占いは隠れたブーム。…新聞にも若い人の占いブームに関し『何かにすがりたい気持ちの表れ。共産主義への信念の危機ではないか』という世相評論もあった。 …『ポルノはもちろんだめ、若者に人気のあった詩人の本も好ましくない。占いもだめ。本屋に行っても楽しみがない』とある学生は嘆いた。<北京>」(10/19付夕刊)

 「上海に近い江蘇省の某市の調査によると、同市を通過する、ある道路のドライブイン(路辺店)で働く女性393人の内、 40%を越える163人が売春をしており、その3分の1以上が性病にかかっている―上海の総合月刊誌『社会』最近号に、 こんなショッキングな実態が紹介された。<上海>」(10/26付夕刊)

 また通信販売の広告では「中国四千年の美を極めたご愛蔵軸 中国掛軸」として、"中国蘇州寒山寺の「楓橋夜泊」 「寒山拾得之図」"が各19,800円とのこと。(10/26付夕刊)

 さて、これで生地訪問のほかに、いまの中国、社会主義の国を垣間見る、6日間の中国旅行は終わった。 予断を持たず、ありのままを見、断定をしない、という私の日中"比較3原則"による、とりとめのないレポートもこれで終わることにする。

[付記]

 私が子供のころ大連で覚えたのは、中国語で"チェンメーユー"(お金がない)、ロシア語で"スパコイヌイ・ノーチィ"(お休みなさい)に"オーチン・ハラシショー"(たいへん良い)。 日常的な中国語、ロシア語は母のほうがよく知っていた。そして、慶応義塾の応援歌「若き血」の一節である。

 いま名古屋の有料老人ホームにいる母に、ワイドで撮った旧やまとホテルや大連駅などの写真をいちばんに見せに行った。 喜ぶかと思いきや、引き揚げの辛さを思い出したのか、さらっと見ただけで、すぐにアルバムを閉じてしまった。
 しばらくして、(私が)やせずに帰って来てよかったと言った。

(了)1991.11.04

{追記}

 元・団長より(91.11.15来信)
 「とかく、旅行というものはどこへいったかよりも誰といったかが、その印象の大きな部分を占めるものであり、 そういった意味で気のおけない仲間うちでの旅行が無条件に楽しいものになるのはいうまでもないところかも知れません」

 元・副主任より(91/11/16来信)
 「この12/5〜12/15の間、米国出張です。その前も後もなかなか大変な日々が続きます。 つらい時、困った時、ふとあのリフレッシュ旅行を思い出します。再び三人でのんびりした時を過ごせる日を心待ちにしております」

 * 二人から送られてきた写真を見て、思い出すことが幾つもあり、また、推敲をかねて、部分的だが、かなりの修正を行った。橋本健午(1991.12.07)

 《その後、母は96年9月9日、92歳を目前にして逝った。》 2006年4月25日 橋本健午

〈さらに追記〉

〈当時の自宅〉大連(中国)で、4歳半ばまで住んでいた家(玄関付近)…1980年秋(両親の知人の友人による)撮影、女性は現地の方たち

 その後いつだったか、兄を通じて当時私たちが住んでいた家の玄関部分の写真が送られてきた。 1980年秋の撮影だという。わが家の印象について私は若いころ、母からの聞き書きを記している。(2009・06・16橋本健午)

   坂の途中にあった家
 家は坂道の途中にあって、石段がついていた。だいぶ大きな家で、十畳・八畳・六畳など、全部で三十一枚半の畳があって、 他に大きな台所やボイラー室、お風呂、便所に倉庫などがあった。十畳の部屋には書物がいっぱい置いてあった。
 しかし、これらは私の遊び道具にはならなかった。家の回りを囲む塀には鉄線があって、夜になると電気が入れられた。 庭には森のような、木がうっそうと茂ったところがあり、その反対側には芝生ばかりで、大きなヒマワリが咲いていたり、ぶらんこもあった。 私はぶらんこに乗せてもらうのが好きだった。
 家では犬は飼っていなかったが、いつもひどく大きな雑犬が、三匹も四匹も玄関の前で遊んでいたり、寝転んでいたりしていて、 一体どちらが“主人”なのか分からないときがあった。私はそんな犬たちが怖くて仕方がなかった。
 おもちゃとしては木馬や大きな化け物のようなコマ、輪まわし、アコーディオンなどもあった。蓄音機もあったが、 レコードの中にはチャイコフスキーの『くるみ割り人形』があった。しかし、私自身の物はなかった。 戦争の真っ最中で、そういうものの手に入りにくいときだったし、みんなの共同でというのが主義だったから、私はお古でも満足していた。
 遊び友だちや近所の大人については、いたのかいないのか不思議に覚えていない。(以下略;未完「忘れないための自叙伝」より)


ご感想等はこのアドレスへ・・・ kenha@wj8.so-net.ne.jp