”書くこと” 「学生とスポーツ」 2008.10.07 橋本健午
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昭和55(1980)年、ひょんなことから「日米大学野球」に関する本を出すことになった。
題して、『熱球のポジション 日米大学野球の青春譜』(情報センター出版局1980・12)。
この年、第9回大会はアメリカで行われたが、私は同行していない。
私自身、野球といえば軟式はおろか硬式もやったことがない。せいぜい、小学校の体育の時間や中学・高校で昼休みのソフトボールぐらいである。
左利きの私は小学校では一塁を守った。もちろん、打撃の神様といわれた川上哲治(巨人)の真似である。
また、左利きは器用といわれるが、中学では左右打ちを披露した。もちろん、スイッチヒッターのミッキー・マントル(ヤンキース)にあやかったもので、
狭い運動場の端から、校舎にぶつけた"ホームラン"もある、それなりの"野球"少年であった。
それが昂じて、大学1年では体育にソフトボールを選択したが、外野を守らされ、打順も下位なので不服だった。
"主将"に、どうしてかと抗議すると、「打撃にムラがあるから」と、きわめて冷静にいわれた。
その後は、本書の紹介に「学生のころ少年野球のアンパイヤを"ほんの少しやった"」だけで、
この時ファールボールを足に受けたのが、唯一"硬式"にふれた経験といえようか。
おまけに、「お前、野球が分るのか」と言われもした私だから、本書ではII、IVを中心に、監督や選手たちに取材して、
それらをもとに日ごろから感じていたことなどを記した。つまり(先の筆者紹介の続き)「子供のしつけや教育問題に関心を持ち、本企画に参加」した次第である。
ここでは、「II 学生とスポーツ」をご紹介することにしよう(肩書・年齢等は原文のまま)。
野茂やイチローはじめ大リーグで活躍する日本人は多いが、この8月の北京五輪では「金メダル以外はいらない」と豪語した星野ジャパンはプロだけの代表にもかかわらず、
見事に惨敗というていたらく。
にもかかわらず、プロを目指して、まずは甲子園へ、大学野球へと日夜励む親子は相変わらず多いことであろう。
このテーマは古くて新しい問題であると、改めて思う次第である。
《本書の執筆者等は「監修=石井連蔵 著者=上田偉史・橋本健午」となっている。なんら異存はないが、原稿のほとんどは私が書いた。
しかし、順序を"橋本・上田"としなかったのは"石井・上田"が早稲田大学野球部の"監督・選手"の間柄で、間に割り込むのは失礼だと思ったからである。
なお文中、言葉遣いや補足的に若干の修正をしたが、文意はそのままである。2008・09・09 橋本健午》
目次
日米大学野球に寄せて 朝日新聞東京本社運動部長 田中康彦
I「日米大学野球」とともに 石井 連蔵 (以上、ともに本文省略)
II 学生とスポーツ
III 青春の群像 (代表20名と代表OB(6名)の紹介…省略)
IV 日米学生野球ここが違う (省略)
V「日米大学野球」に関する全資料 (省略)
II 学生とスポーツ
"甲予園"のつぎは大学で野球を
学生が、学業のかたわらスポーツやクラブ活動をするのは、ごく自然の姿であろう。中にはアルバイトに精を出すものもいるが、
いずれも4年間の大学生活を学生らしく全うする目的をもっている。
ところが、こと野球というスポーツは"特殊"なのである。今年(1980年)の『日米』(『第9回日米大学野球世界選手権大会』)代表に接して、
改めて考えさせられた……。
学生野球は高校野球をぬきにしては考えられないが、年々、弊害があるといわれながら、高校野球とその甲子園熱は高まるばかりである。
たとえば、今夏の大会を見ると――決勝戦で横浜高校に敗れた早稲田実業高校のピッチャー荒木大輔(1年生)は、
少年野球の出身者という。連続無失点記録にあと1回と迫った、その"活躍"もなるほどとうなずける。
54人の部員のうち17人が少年野球の経験者という早実は勝つのも当たり前であろう。東京の秋季大会でも優勝、
来春の甲子園出場を確定させた。
また、創立3年目で甲子園出場を果たした茨城県の江戸川学園取手高校は、学校の名を売り出すためには、
甲子園へ出場するのが早道と、東京、静岡を中心に中学の有力選手を集めて寮生活。
今や国体と同じように、その県出身者不在という、甲予園狂騒曲の一例となった。
一方、西東京代表に都立高校では初めての国立高校の出場が話題を呼んで、これまたマスコミが大騒ぎをした。
毎年30人近い東大合格者を出す都立高が、甲子園へ行くなんて奇跡だというような見方が大勢を占めたが、
国立高ナインは"学業とスポーツは両立する"という当たり前のことを証明したにすぎない。
以上の三例は、たまたま甲子園へ出場したから話題となったが、似たようなケースは全国いたるところで見られるであろう。
わが国では野球は"国技"といわれるほどの盛んなスポーツ。早いものは小学校に上がる前からボールに親しみ、学校の野球部は、
小、中、高校それぞれにあり、各地で市大会、県大会が行なわれている。
その最たるものが、春の「全国選抜高校野球大会」と、夏の「全国高校野球選手権大会」の、いわゆる"甲子園"である。
さらに大学野球があり、社会人野球(ノンプロ球団は約300)があり、それを職業とするプロ野球(セ・パ12球団)がある。
このように少年から4,50歳までと愛好者も多い野球が、必ずしもスポーツ本来の姿でない気がする。
そこで年齢的にも段階的にもその"中間"に位置する学生野球について、『日米』代表選手、大学野球関係者を中心に、
学生とスポーツ、その功罪とあるべき姿についてさぐってみた。
まず大学野球からみて、"甲子園"はどういう位置を占めているだろうか。今回の『日米』代表メンバーで、
甲子園経験者は野口裕美(立大2年、米子東)、松本吉啓(明大4年、桜美林)、松井智幸(明大3年、作新学院)、
平田勝男(明大3年、長崎海星)、大石大二郎(亜大4年、静岡商)、粟山和行(明大3年、箕島)、西田真二(法大2年、PL学園)、
武藤一邦(法大4年、秋田商)、原 辰徳(東海大4年、東海大付相模)の9人。
このうち優勝経験者は松本、粟山、西田の3人である。彼らにとっての甲子園経験は、さまざまな形で影響を及ばしている。
いい思い出として残っているものもあれば、出場したことがブレーキになったものもいる。
逆に残りの、甲子園出場を果たせなかった11人の中には、もう一歩というところで涙をのんだものは、
渋谷卓也(同大4年、瀧川)、西 弘顕(明大3年、高知商)、大久保盛義(明大3年、川越工業)、堀添弘和(明大4年、我孫子)、
豊田和泰(明大4年、日大三)らである。また、無名校でまったく縁がなかったものもいる。
藤川正博(帝京大4年、君津商)、高久 孝(駒大4年、黒磯)、加治 太(中大3年、熊谷商)、森岡真一(明大3年、桜井)、
長村裕之(駒大4年、鳴門工業)、高木 豊(中大4年、多々良学園)らである。
しかし、どの選手もどの高校も甲子園を"目標"としてきた点で、例外はない。
彼らの、わずか20年そこそこの人生において、この甲子園への憧れはかなりのウエイトを占めており、
高校生活を左右されもした。そして"甲子園(経験)組"もそうでないものも、もっと野球をやりたくて大学へ進んできたのだ。
甲子園に出場経験のないものは、「彼らに負けられない」(西・堀添ら)とがんばったし、今ではむしろ「出なくてよかった」(大久保ら)と気持ちが変化している。
大学まで来たら卒業しなければ……
彼らを受け入れる大学側は"甲子園"をどう見ているのか。法政大学のように甲子園経験者が、
キラ星のごとくいるところ(今年は20人近く入学した)もそれなりに悩みはあるが、2,3人しかいない立教大学では、
あまり関係ないと山本泰郎監督(38歳)はいう。「歴代の名選手に甲子園出身者は少ない。名前が先行するだけダメになることが多いのではないか。
むしろ、一歩手前で涙をのんだもののほうが教え甲斐がある。甲子園なんて、どうということはない」。
駒沢大学の監督に就任して今年(昭和55年)で10年になる太田誠監督(44歳・駒大助教授)も、
「変なプライドと依頼心がある甲子園組は採りたくない。甲子園組は、1から10まで教えられ、型にはまっているから伸びない。
ちょっと注意すると、冷遇されたと思ってやめてしまうので懲りて」しまった。やはり、「一歩手前のほうがたたき甲斐がある」という。
「甲子園に出たとか出ないとか、まったく念頭に置かなかった」というのは、石山建一(38歳・現プリンスホテル助監督)元早稲田大学監督だ。
石山氏は、うちの息子をなぜレギュラーにしてくれないのかと不満をもらす親に、よく言って聞かせた。
高校野球のカベと大学のカベは10段階ぐらいちがう。高校では一所懸命やれば、そのカベをつき破ることもできて、
レギュラーになれるが、大学はレベルがちがう。甲予園に出たからといって、そのカベをつき破らなければ、
レギュラーにはなれないんだ、と。
同じ甲子園に出たといっても、エースやクリーンアップの場合もあれば、たまたまピッチャーがよかったからとか、
バックがよかったから出られたということだってある。甲子園に出たと出ないで大きな差があると思うのは錯覚。
力に差があるわけではない。大学に入れば、みんな同じ一年生なのである。
しかし、同じ条件でスタートしても、その後の軌跡はさまざまで、今日までの記録はIII章の各人の項にゆずるが、
学生である彼らは野球とどう取り組んできたかが問題なのだ。
《III章は省略するが、先にあげた代表20名のほか、そのOB(6名)は掲載順に次のとおりである。
(4)山口高志:関大/投手30歳/第1回/阪急、(8)矢野暢生:早大/投手28歳/第2,3回/日本生命→家業(燃料商)、
(12)堀場秀孝:慶大/捕手24歳/第5〜7回/プリンスホテル、(18)東門 明:早大/内野手*歳/第1回/走塁中、後頭部にボールを受け、大会中に死亡、
(24)松沼雅之:東洋大/投手24歳/第6,7回/西武、(24)岡田彰布:早大/三塁手23歳/第7,8回/阪神》
『日米』に選抜された20人の技量や才能はそれぞれちがう。しかし、ここまでやって来たのだから、
「目標はプロ」(原、高木ら)と断言するものもいれば、「できればプロヘ」(藤川、豊田)、
「力がないのでノンプロヘ」(松本、堀添ら)と弱気なもの、「プロへは行かない」(野口、大久保ら)というものもいる。
いろいろ抱負をもつのは自由だが、彼らにとっていちばんの問題は、学業とのかね合いである。
どの選手も、シーズン中は授業に出られないことが多く、とくに上級生、レギュラーは練習に打ち込まなければならない。
下級生でもレギュラーは「語学の授業は出なくてはならない」し(野口ら)、必修課目の授業も出るので、練習とのかね合いがむずかしい。
練習で疲れたり、何回か欠席すると、ついつい授業に出るのが億劫になってしまう。
前期は「(学校には)履修届けを出しに行っただけ」(平田)だったり、たいがい「出席日数が少ない」(西田)のが現状だ。
野球にばかり打ち込んでいると、「両立するわけがない」(原)ので、単位がほとんどとれない学生もいる。
ところが、中には、3年間で卒業単位をほぼとって、最後の1年は「野球に専念する」(森岡ら)要領のいいものもいる。
大学や学部によって、多少の違いはあるだろうが、このままで行くと、半分ぐらいの選手は卒業がおぼつかないようだ。
しかし、それでいいのだろうか。
野球に賭けるなら、なぜプロを目指さないか
この春のシーズン、東京六大学史上56年目にして初めて早大に連勝した東京大学野球部の三島良績部長(59歳、工学部教授、工学博士)はいう。
「大学へ進学しようとするとき、野球で身を立てるのか、それとも野球は心身を鍛えるもので、将来は大学で学んだものをベースに社会人となるのか、
決めるべきです」という。野球だけをやりたいのなら、大学へ行かずに、直接プロヘ進んで、専門のコーチについてみっちり仕込んでもらったらいいというのだ。
「あたら4年間大学でやったために、高校時代の実力が落ちたという選手はいくらでもいる」というのは、慶応義塾大学野球部の元部長・島崎隆夫氏(63歳、経済学部教授、経済学博士)だ。
島崎氏は、在任中の昭和38年から49年までの22シーズンに4度の優勝を経験しているが、「考えなくてはならないのは、大学へ入ってまで野球をやる意味ですね。
プロのスカウトに4年後は分からないですよ、といわれた高校の有名選手を、預かっていいかどうか迷いますね」
もしうまく伸びなくて、親から、うちの息子をどうしてくれるとねじ込まれたら、たとえ本人に問題があっても、大学はお手あげである。
学生が何を目的に大学に来るのか、大学関係者は首をかしげることが多くなった。
「もちろん、野球をやるためです」と何のためらいもなく答えられると、二の句がつけないというのだ。
高校3年のとき、プロからドラフトで指名されたり、誘われても「大学でもっと実力をつけて」(原、武藤ら)、
プロヘ行くのが目的なのだ。大なり小なり、あと4年やればとか、高校の"押しつけられた野球"ではなく、
自主的な"大人の野球"を体験してから、世に出たいという。
あるいは、本当はプロで自分の力を試したいのだが、ノンプロぐらいの力しかないというナメた言い方をするものが多い。
プロがダメならノンプロがあるさと、歌の文句のように安易に考えているが、これはとんでもない話である。
学生はノンプロでも強い企業でやりたいという。しかし、日本石油や東芝のような一流のチームでは、
レギュラーになるのも大変なのである。運よく入社しても使いものにならたかったら、ユニホームを脱いで他の仕事をさせられる。
なれない仕事だから、ひどいのはお茶くみ同然のことしかできないものもいるという。
そうなると、みじめなもので、早く田舎に帰ったほうがいいということになる。いまさら"オレは神宮のスターだ"といっても、
誰も相手にしてくれない。まともに卒業したもの(学卒)でもこの調子である。もし卒業していなかった場合はどうなるか。
野球を続けている間はいいかもしれないが、やめたらどこへ行っても「中退」扱いである。
せっかく、親に負担をかけて4年間も大学に在籍したのに、卒業しなければ何にもならないどころか、
本当の"野球バカ"扱いされる。
選手たちは口をそろえて、「活躍することが親孝行だ」、「『日米』に選ばれて親が喜んでくれた。少しは恩返しができた」という。
しかし、本当の親孝行は「卒業すること」だという石山氏は、たった一枚の紙きれ(卒業証書)かもしれないが、野球ができなくなったとき、
一般の会杜に就職するにしても中退じゃ半人前だ。とにかく卒業することが、今やれるたった一つの親孝行だと徹底して言ってきた。
「親にも申し訳ないので、卒業できないものは試合に出さなかった。プロヘ行くものでもきちんと卒業させた」という。
一方、慶大では留年した場合、1年間は登録を抹消することになっている。福島敦彦監督(39歳)はいう。
「野球をやる前に、学生であることを忘れてはならない」のだ。
しかし、毎日朝から日が暮れるまで練習する大学や、全員そろっての"日本式野球"は、授業だからといっても、
なかなか抜け出すことができない。とくに「キャッチャーなので、抜けられない」(渋谷)選手や、
ポジションを他人にとられたくないものはなおさらだ。
これでは、野球をやるために、(親のスネをかじって)大学に籍を置いているにすぎない。
「そのくせ、練習にも熱がこもらないのはどうしてか」と嘆くのは早大の宮崎康之監督(50歳)だ。
今は野球オンリーという時代ではない
大学へ行くのは野球だけでなく、「社会で通用する人間をつくるためだ。自分でやろうという気にならなければいけない」というのは元早大監督の石井藤吉郎氏(56歳)。
石井氏は『日米』第1回の総監督をつとめ、また今年の『世界アマ』でも、オールジャパンの監督をつとめた、アマチュア野球界のベテラン監督。
現在、早大体育局講師として、学生に野球の指導をしている。
また青山学院大学野球部監督20年目を迎えた近藤正雄氏(59歳)も、野球から何かをつかむように、学校へ行って勉強からも何かつかんで来い。
学校も行かずに朝から晩まで野球だけでは、バカになってしまうとハッパをかける。「野球ばかりやっているとオレみたいなツマラン男になってしまうから勉強しろというと、
学生はなぜか納得した顔をする」といって苦笑した。
しかし、監督としての悩みもある。チームを強くしろといわれるし、学生は授業に出さなくてはならない。
あしたは大事な試合だから、きょうだけは学校へ行かないでくれと頼んでいるのに、そんなときに限って大学へ行くものがいるが、
文句もいえない。
中央大学の宮井勝茂監督(54歳)も就任20年目、全日本大学選手権では中大を3度も日本一の座につかせ、
『日米』にも監督・コーチとして3度出場している。同氏もいう。「どんな好きなことでも、朝から晩までやっていればアキてしまう。
学校へ行くときは勉強を、野球をやるときは一所懸命に、また遊ぶときは思い切り遊ぶ、という切りかえが肝心だ」。
一般の学生とも友だちになって、違った世界の話を聞いて視野を広げることも必要である。
今は野球オンリーという時代ではない。野球だけの会社には行かせたくないという近藤氏は、野球をやめたら、何も残らないというのでは可哀想だから、
1年しないと卒業単位がとれない学生を企業が欲しいといってきたとき、大学の試験だけは受けさせてくれと頼んで、
採用してもらったこともある。授業もあまり出ていない、野球の技術もたいしたことはないという中途半端な学生が多いと嘆くのはどの大学の監督も同じだ。
明治大学監督で、この6月、全日本学生野球連盟監督会の初代会長に就任した島岡吉郎氏(69歳)もいう。
「レギュラーで活躍している学生の場合は就職の世話もいいが、そうでなくて、単位もとっていない学生の場合はむずかしいよ」と。
「ノンプロ側も、卒業できないようなものをとるのがおかしい」と思うのは、法政大学監督3年目の鴨田勝雄氏(41歳)ばかりではあるまい。
鴨田氏は母校新居浜商高の監督を14年近くつとめたが、監督業に専念するために通信教育で教職(会計)の資格をとった努力家だけに説得力がある。
企業も"野球"を利用する。野球部が強くなれば、それだけイメージアップするから、いい選手を欲しがる。
しかし、使いものになるのは、野球をやっている間だけというのが現実である。そうならないために、学生側も"自衛"しなければならないのだ。
三年間で卒業に必要な単位をとるものもいるというのに、両立しないというのはウソである。
中学、高校時代から、それなりにやっておれば大学でできないということはない。結局、学校へ行かないから、単位がとれないのだ。
勉強のできる学生が意外と留年し、尻をたたいて、なんとか押し上げた学生が案外4年で卒業している。
1年たっても成績の悪い学生は、大学の正門前に下宿させて、学校にならすことから始めたというのは太田氏だ。
駒大助教授の肩書を持つ氏は選手だけでなく"学生"をも相手にしているのである。
卒業の問題は入学制度と関連がある。入学はやさしく、卒業がむずかしいアメリカの大学事情や学生気質はあとのIV章でふれる《本稿では省略》。
日本はアメリカの逆で、入るのがむずかしいために、入学試験を突破することが最大の"目的"となってしまっている。
入ってしまえば、あとは楽に出られるところから、ついつい"手抜き"をしてしまうのだ。これは野球学生だけではないが……。
卒業をむずかしくすれば、つまり決められた単位を取得しなければ卒業できない。従って大卒の資格はないし、
そういうものは企業も採用しないことにすればいいのだ。いかに野球に秀いでていても、学生の本分を全うしなければ、
世の中が相手にしてくれないとなれば、だれでも必死に勉強するだろう。たとえば、サッカーやラグビーにすぐれているとか、
あるいは「剣道五段で全日本に優勝したからといっても、体育の教師になって、師範として主に剣道を教えるというのが関の山だ」(島崎氏)し、
これが当たり前なのである。
野球は本人も親も狂わせる
ところが日本では、野球だけは特殊なスポーツで、"資格"もいらず年齢制限もない"職業"となっている。
だから、学生は学業すなわち"卒業"がおろそかになる。しかも他の"職業"に比べて経済的にも社会的にも恵まれているから、
本人も父兄もあわよくばとなるわけだ。
しかし"国技"といわれるように、国民に与える影響も無視するわけにもいかない。繁栄することはいいことだが、
その職業について、どの程度の自覚があるかが問題である。好きだからとか、素質にめぐまれているから、というだけでは、
何年もしないうちにカベにぶち当たってしまうだろう。肉体的にも精神的にも、「かなりきびしいものを自分に課さないと、
職業人として成功しない」(島崎氏)だろう。
また、高い契約金にも問題がある。ある父兄の話。今年、ドラフト外で巨人に入団した高校生が近所にいるが、
契約金を一度に何百万円ももらった。はたして18,9歳の少年が、今からこんな大金をもらって、将来うまくやっていけるのかどうか、
ひとごとながら不安になったという。
「金銭感覚がなく、ちやほやされて遊んでしまった」(武藤)というように、若者は何年かたってやっと自覚するのが普通で、
堕落していってもだれも助けてはくれない。
そして、本人以上に親が甘いのだ。横道にそらせないために自分の子を、頭がよければ学習塾に、センスがあればピアノかバレエ、
体格がいいので野球をというのが、大方の親のエゴイズムだ。それが親の愛情だと錯覚しているところに問題がある。
親はどこかに子どもを押し込んで、月々何千円かの"投資(月謝) "をしていれば、何年かたてば、必ず成果が現われる、
と確信(実は錯覚)している。だから才能がある息子に、親としては、これだけ一所懸命にバックアップしているのに芽を出さないのは、
指導者が悪い、先生がいけないのだと一方的に決めつけることになる。
わが子が野球が好きだというだけで、それを続ければ、王貞治のような、山本浩二のような、掛布雅之のような有名選手になれると思っている。
いや、そうしたいからこそ、父親も母親も懸命にたる。
よってたかって"ダメ人間"をつくってしまう
世の中はどうしても目立つものを甘やかす風潮がある。地方などで町一番の秀才が東大を目指していたとする。
彼にはわがままなところがあるが、それを注意すると、すぐ暴力をふるう。だから、そっとしておいたほうが勉強ができるなどと、
教師も家庭もハレモノにさわるように大事に扱う。無事、東大に合格すると、まわりはもっと彼を甘やかす。
すると本人にはそれが、当たり前のことと思ってしまって、反省する機会もない。
やがて社会に出てみると、自分の思うようにいかないことが多いから、ノイローゼになったり、世の中のほうがおかしいと思うような人間となり、
人生の落伍者になる場合がある。
それと同じことが、野球についてもいえる。このピッチャーは下手に注意すると、すぐつむじを曲げる。
好きなようにさせておけば、好投するから少々の欠点には目をつぶっておこうとなる。
しかし、学校の成績がいいというのは、入試のための技術に優れているだけかもしれないのだ。
ピッチャーも本当に野球が分かっているのではなく、「勝つための技術を知っている」(三島氏)だけということが多いのだ。
このように、いい大学へ入れるために、他のシツケを怠る場合が多いように、町のエースが甲子圏へ行ったからと甘やかす風潮が日本にはある。
しかし、彼はノックアウトされたら、それで立ち直れないかもしれない。あるいは、なんでも他人のせいにする欠陥人間になってしまう。
まわりのものは期待もあり、活躍してほしいと望むだろうが、そのまえに、一人前の人間としての自覚をもたせることを忘れている。
ちやほやして、少々のことには目をつぶれ、では中途半端な人間を作ってしまう。
さて、野球を職業とするなら、じっくり時間をかけて基礎からやる必要がある。中学、高校と何年間もやってきたといっても、
それは勝つ技術を身につけただけのことが多いのだ。だから、ある程度までは行く。しかし、つまずいたり、挫折したときが悲劇である。
そういうときの訓練(我慢することなど)がなされていないからだ。また自分の欠点を知っていてやるならいいが、
そうでないと一度のつまずきで、満点から一挙に零点になった気持ちになってしまいがちだ。
たかが野球というけれど、なにごともその道をきわめることは並大低の努力では不可能だ。
親は将来自分の息子に職業としてやらせるのか、スポーツの一つとしてやらせるのか、よく話し合う必要がある。
いずれにしても日ごろから節制していないと伸び悩み、大成しない。高校や大学ではある程度、器用さだけでやってゆけるからだ。
甲子園に出た生徒の親が、うちの子を全面的にお任せしますと子供を連れてやってくる。
しかし、「冗談じゃないですよ」というのは太田氏だ。高校3年の夏のシーズンが終わるとたいがい、あとは遊ぶ一方で、
酒は覚えるし体がなまってしまっている。私が預かる以上は、酒もタバコも飲ませてくれるな、というと、親はそれはちゃんと管理しますというが、
帰省すれば、さあ飲めや食えやで、また体がなまって帰ってくる。「高校でチヤホヤされたのにロクなのはいませんよ」(太田氏)。
高校3年のシーズンが終わってからも、大学へ入るつもりなら、勉強しなければならないし、そのための節制もしなければならない。
そして、親が自分の子どもをしつけなければダメなのだが、甘やかす一方である。責任をもって、親が一所懸命やるのが当たり前なのに、
それを他人におしつけて、「監督が悪い、先生が悪いじゃ、お話にならない」(三島氏)。
しかし、今の親はそんなことに傾ける耳をもち合わせていない。かつての高校生の親は、自分たちの息子がユニホームを着る(レギュラーになる)と聞いて、
そろって学校へ行き、こういったものだ。「うちの息子がユニホームをもらっていいのでしょうか」と。
自分の息子を過大評価もせず、謙虚というか、そういう配慮があった。監督や学校側は、「いろんな面から検討し、みんなで決めたのです。
何年も見てきたから大丈夫です」といったものだ。今はちがう、親が押しかけてきて、こういうのだ。
「あの子がユニホームを着るのに、どうしてウチの息子はだめなのか」と。親がどんなに熱を入れても、本人がどんなに望んでも、
上手下手はあるものだ。名門の部員の多い学校では、練習量や熱心さだけではレギュラーになれるものではない。
しかし、高校でも大学でも、レギュラーになることだけを目的としているのではなく、教育の一環として考えていることを忘れているのだ。
たとえ補欠でも、一所懸命になってやるということが、将来その本人にとってプラスになることを忘れてしまっている。
それでもついつい"東大か甲子園か"になる
一口に野球をするといっても、グローブやボール、バットそれにユニホームなどをそろえるには相当のお金がいる。
それはすべて親の負担であり、それだけ熱が入るのもムリはない。日曜ごとに行なわれるリトルリーグの試合には、
お父さん、お母さん、応援に来てやってくださいといわれるまでもなく、やれ、ニギリメシだ、サンドイッチだ、ジュースだと、
わが子可愛さのあまり家族ぐるみの応援となる。勝てば、わがごとのようにうれしいし、子どもが活躍すれば、近所でも鼻が高い。
本人以上にエスカレートし、のめり込む。ますます、その子中心の生活となり、中学、高校と続けば、
子どもはそれが当たり前……野球をやるということはこんなものと思い込んでしまう。
中学時代、「見にくるのは、いつもウチの親父だけで、イヤだった」(平田)と思うのはまだ正常だ。
入学式や入社式にも母親がついてくるという世の中、それより幼い、中学高校時代では、親の占める役割は大きい。
自分の果たせなかった夢を子どもに託すというのは、あまり勉強好きでない子を大学にやらせるようなもので、
子供に迷惑な場合だってある。"やりたいならやってもいいが、絶対やめるな"といわれて続けてきた学生も多いだろう。
「うちの子をどうして……」というのには、甲子園熱と親の期待過剰が重なり合っている。
本書のIII章でとりあげた代表20人の、父親の職業はさまざまだが、たいがい若いころにスポーツ、とりわけ野球を経験している人が多い。
それだけスポーツに理解があるわけだが、中には野球部の父兄会を作る人もいれば、野球部の監督になるほどの熱心な人もいる。
一般的にはどの高校の野球部も財政的に豊かでない。これが親のつけ目だ。はじめは純粋な気持ちで援助しだす。
つまり金を出す。わが子のためならというわけだ。学校側はありがたいと思っても、それだけ立場が弱くなる。
そのうち父兄は金を出すだけでなく、口を出し始める。「うちの子を」から始まって、勝てないのは監督、指導者が悪い、
替えろということにもなる。"投資"した分を、子供の卒業までに回収しようとする気持ちも分からないではないが、
これは商取引ではない。教育の一環としての野球が、いつの間にか甲子園のための野球、父兄のための野球になりはて、
10年ぐらい前から「高校野球のきびしさがうすれ」(鴨田氏)てきた。
高校野球の監督経験もある福島氏はいう。「県予選でも選手を選ぶのはむずかしい。父兄会を作ってもレギュラーになれなかった選手の親のツゲ口とかに神経がとがる。
親は監督がグランドでできない注意とか、何かあったら優しい言葉をかけてやるという心遣いがほしい」。
晴れの『日米』の代表になった学生たちは、「野球をやっていてよかった」かもしれないが、父兄にしてみれば、
ここまでやらせてきた(投資)甲斐があったと思うのもムリはない。
とりあえず大学へきた学生たち
しかし、学生たちが口をそろえていうのは、甲子園に出るという目標があったからこそ、やってこれたということだ。
何をやるにも目標を持つのはいいことだが、中学から高校へ進学するときに、少しでも甲子園への近道である名門へと殺到する。
そのために、下宿(武藤)や寮生活(松本、平田)をするものもおれば、毎朝6時起きし、電車通学(松井)するものもいた。
これは、何も野球をする学生に限らず、一流大学へ入れるために、名門高校、そのために名門中学へ入れるという風潮があるのだから、
いきおい"東大か甲子園か"になるものだ。
親とすればどちらのコースでもいい。尻をたたけば、馬車ウマのように息子はゴールめざして走る。
それで親は満足できるだろうが、つらいのは、ウマならぬ息子のほうだ。東大めざして、何年も浪人してやっと入ったら、
そのあとどうしていいか分からず、ふぬけになってしまう学生が多いように、甲子園へ出て勝ち進み、優勝でもしたら、
こちらも目的達成と、ふぬけになってしまう。
いずれも、"目標"が「東大へ入ること」であり、「甲子園へ出ること」だったからで、その目標に到達すれば、
あとはどうしていいか分からないのは当たり前だ。東大に限らないが、大学へ行くのは、さらに学問を身につけるというのが本来の目的であるのに、
いつの間にか、それが忘れられている。
野球でもそうだ。スポーツの一つでしかないのだが、あまりにも目先の目的、たとえば、"甲子園"にとらわれる。
つまり目の前にニンジンをぶらさげられたウマのように、そのニンジンを食べてしまえば、ウマは何のために走っていたのか分からなくなるはずだが、
わが国にはプロ野球もあれば、ノンプロもあるし、それより楽な大学野球もある。つまり親のスネをかじりながら、
野球のできるものがあるから、とりあえずそこに行くというわけだ。
だから、かつては社会人野球よりも強かったといわれる学生野球の力が低下しているのは当然であろう。
「指導者にも問題があるだろうが、素材にも問題」(島崎氏)があるはずだ。本当に自信なり、勇気があるなら、
そして野球を続けたいなら、三島氏のいうように、高校からすぐにプロなりノンプロヘ行くべきではないか。
たとえば、今年の『世界アマ』に選ばれた日本チーム20名のうち、高校出は6名と少ないが、過去8年間のプロ野球新人王(48年〜55年)をみると、
セ6名のうち2名、パ8名のうち4名と大卒とほぼ互角なのである。
プロ野球に行きたいという強い願望がありながら、大学を出てからでも遅くないというのは、
一種のいいのがれであることが分かるだろう。
前ページの表を見ていただきたい。第(1)表は、昭51年と53年に夏の甲子園のあと韓国に派遣された高校野球選抜チーム代表のその後である。
大学へ行くべきか、プロヘ進むべきか、とお考えの方に一つの参考になるだろう。《第(1)表、第(2)表とも省略》
また、第(2)表の新人王だけを見ても分かるように、とくにピッチャーは、18歳(高卒)でも22歳(大卒)と対等にやっていけることを示している。
しかし、甲子園名門校である必要もない。
『日米』代表にインタビューして感じたことは、彼らは大学3年生、4年生というよりも、高校6年生、7年生と見たほうがわかりやすかったのは、
高校時代と同じ考えをしているからである。よくいえば、純真で、真面目で、親のいうことをよく聞く学生である。
悪くいえば、年をとっただけで、少しも進歩していない。
これは彼らに責任があるというより、野球部そのものの体質にあるのではないだろうか。
高校は押しつけの野球、大学は大人の野球と彼らはいうが、明大の精神野球に象徴されるように、
練習そのものが高校時代の延長のような雰囲気である。またそれに、ついていかないと、レギュラーにもなれないし、
野球そのものが面白くなくなる。かといってセレクションを通って入学(入部)しているから、やめるわけにもいかない。
《セレクション…たとえば明大野球部のHPに「公募制スポーツ特別入学試験」とある》
練習にも自主性がない今の学生
しかし、高校時代と同じように、「監督が満足するような練習では選手は不幸である。短時間でも味のあるものにする、
好きな野球を少しでも楽しくやることが必要なのではないか」(石井藤吉郎氏)。
なにも大学野球は、プロヘの養成機関ではないのである。
大学の監督はいろいろ考えている。技術よりも、雰囲気づくりとか動機づけが必要で、自主的な練習をさせる。
石井氏はまた、「監督がグランドの隅から隅まで目を走らせるようじゃダメ」という。うまくなるかどうかではなく、
野球とは何かという精神的なものを教えるというのは、近藤氏だ。「勝負に対する執念を養う。男として野球を通じて覚えたことを、
いつか思い出してもらいたい」からだ。社会人として野球しかできない人間になっては困ると思うのは、どの監督も同じである。
基本的なことはサジェスションしてやらなくてはならないが、「自己啓発のための指導をした。1から10まで教えていたのでは、
自分で考えてやることがなくなる」(石山氏)からだ。
同志杜大学監督2年目の小柄な漆崎亘氏(44歳)は、現役時代、大きな人についていくために、練習を人の倍もやった。
今のようにバッティングマシーンもないから、自分で工夫したという。すでに1年からレギュラーになり、
キャプテンをつとめたあと、日本生命に進み、8年間プレーをした。その秘訣は、「人にも負けないための"執念"を燃やす」しかなかった。
これは一種の"生活の知恵"であった。氏は「体に恵まれていなかったからよかった」。そういうことを今の学生に話すのだが、
なかなか分らないのだという。子どものときから親に"本能"を束縛されているというのか、「無茶なことをやるのがいなくなった。
というより余力がない。学生だから、この程度でいいとあきらめている」(福島氏)。
今の学生は、意外と淡白であるという。あきらめが早い。プロがだめなら、ノンプロがあるさ。ノンプロがだめなら……何でもいい、
野球を続けられれば……もはや彼らに目標なんかありはしないではないか。
アメリカの学生が、試合になると目の色を変えるというのは、大学まできた以上は大リーグをめざしているからだ。
ドラフトに指名されたからといって、契約金が日本のように、何千万円という話はない。せいぜい数百万円である。
もしドラフトで指名されなければ、きっぱりやめて、大学で得た知識、資格を生かした職業につくという。
野球はアメリカから起こったものだが、本国ではバスケットボールやアメリカンフットボールのほうが人気がある。
今年の春、明大チームをアメリカに連れていったとき、島岡氏はこんな話を聞いた。
ミシガン大のあるピッチャーは、将来はフットボールヘ行くという。「金持ちの息子で、野球は在学中だけというんだな。
親も野球じゃ喜ばんらしいよ」。
"勉強も野球(スポーツ)も"なのである。これが本来の学生の姿だ。将来プロヘ進んでも、ケガや故障で野球ができなくなるかもしれない。
そういう不安はいつもある。だから、授業に出て、きちんと資格をとって卒業する。
そのうえで野球を、(大リーグで)やりたいと考えているのだ。
野球にケガや故障はつきもの、これは日本人とても同じである。しかし、代表たちに聞いてみると、
「恐ろしいから考えない」(渋谷)ものもあれば、「田舎に帰る」(堀添)というように、そのときになってから考えるという人が圧倒的だ。
帰るところがある人はまだいいが、たいがいは「ぼくから、野球をとったら何にも残らない」という。
愛着があるというより、他に拠り所がないのである。
「野球だけがすべてじゃない」(野口)と思っても、いざ始めてみると、「学校の先生になる夢」(森岡)もあきらめ、
他のスポーツもできず、今や「野球一筋」(高木)になってしまうのだ。
原点にかえるには、いい指導者を
野球に限らず、スポーツは、まず好きだからやるというのが原点であり、「本人の意志でやるのが、近代スポーツのいちばん大事なこと」(島崎氏)である。
そもそも学生がスポーツを愛好するのは健康を増進し、精神を鍛えるのが目的ではなかったか。
野球の場合も、結果として、職業になるのであって、はじめから職業をめざすものではないだろう。
そのくせ、野球の基本であるキャッチボールもできないのだ。昔は、相手の胸をめがけて投げろといったが、
今は、顔に向けて投げよに変わった。しかし「合格点をとれるのはいない」(漆崎氏)という。
高校時代、基本に忠実にやっておれば大学で急激にうまくなると、関係者は口をそろえていうが、それがいちばんおざなりになっているのだ。
たとえば、柔道ではまず"受け身"から始めるように、そのスポーツの持つ魅力、あるいは怖さを知らないでやっているものが多い。
またトスバッティングもできない。これも基本の一つだが、エンドランのうまいのはトスバッティングが上手な証拠。
リトルリーグ出身者は、小手先だけというのが多い。一見うまそうに見えるが、それは中学高校のレベルでの話。
変なくせがついていて決して大成しないという。
野球はチームプレーが大事なスポーツでもある。送球でもただ投けるだけでなく、どんなプレーをしたら仲間が助かるかを考えてやるべきだ。
"思いやりの精神"を忘れているから、失敗したり負けたりするとすぐ他人のせいにしてしまう。
問題は、野球をやる学生・生徒ばかり責められないことだ。中学高校の場合、町内の野球好きの人が監督を買って出るという"奉仕"があるように、
学校の先生がきちんと練習につき合ってくれることが少ない。授業や担任をもっている先生とすれば、
いくら好きでもなかなか徹底してはやれないだろう。あるいは、熱心にやろうとすればするほど、"父兄会"に押しきられて、
いや気がさすこともあるだろう。
野球が教育の一環なのか、学校経営の一部なのかで、考え方ががらりとちがうのは、冒頭にあげた江戸川学園の例を見れば明らかである。
だから、基本を身につける時期に、試合経験をつんだほうがいいと、対外試合を年に80、90回もこなす高校もある。
選手は、勝つことだけのテクニックを身につけているが、大学へ来て伸び悩む。段階を踏んで、訓練をしていないからである。
"甲子園出場"というあまりにも目先のことにとらわれる結果、頭打ちになるのである。
立大の山本氏は、そういう高校野球の現状を憂慮して、いい選手を育てるには、いい指導者を育てるしかない。
それには大学野球を体験したものが最適だ、1年に2人でも3人でもいいからと、野球部員に教師の資格をとらせている。
そして母校へ帰って授業をしながら、野球部の指導もする。先生も生徒も"勉強も野球も"両立させ、やがて教え子が大学にやってくる。
立大ではすでに何人かの野球部出身の教師を卒業させているが、まさに10年計画。各大学が同じようにやれば、
よりよい学生野球になるのではないか、と。
繰り返していうが、大学は社会で役立つ人間、その人から"野球"をとっても立派に自立して行ける人間をつくるところであって、
プロ野球選手の養成などを目的としてはいない。
きのうのスターもきょうは人生の敗残者
学生野球の原点は、今や東大野球部にしかない、といっても過言ではない。秋のシーズンでは、負けはしたものの、
また早大と互角の戦いをした東大。それだけ早大が弱くなったというのは簡単だが、三島氏はこんな指導をしているのだ。
東大へ入学して、これから勉強しようと思っても、キミたちの体力では4年間学問を続けるのはムリだろう。
まず体力をつけるために野球をやったらどうだ。キミたちは頭が悪くないはずだから、人が3年かかってやったことも1年ぐらいでやれるはずだ、と。
高校時代に野球を経験したものもいるが、初めてのものでも4年間、野球に打ち込んでいる。
若いときに、あるものごとを一所懸命やったということが将来、その人にとって何をするにもプラスになるはずだと三島氏はいう。
東京六大学で一度も優勝経験がない東大だが、それは"結果"であって"目的"ではないから、苦にしてはいない。
ちなみに、今年秋(昭和55年)のリーグまでの東大の通算成績は175勝904敗で、早大は805勝434敗でトップである。
ここで戦後の記録を少し見てみよう。昭和49年春のシーズンに3番サードの遠藤昭夫が、東大生としては戦後2度目の首位打者(0.375)となり、
ベストナインに選ばれた。その秋には、東大は完全優勝した法大の江川卓を打ち込んで貴重な1勝をあけている。
ベストナインというのはプレーヤーとして最高の栄誉であり、東大からは、前年(昭和48年)春にも相川陽史(サード)が選ばれている。
ほかに、50年秋に伊藤仁(セカンド)、52年秋は中沢文哉(外野手)が選出されている。数が少なくても決してヒケをとらないもので、
単に"野球だけ""勉強だけ"という区分が無意味なことを示している。
ピッチャーを見ると、湘南高出身の西山明彦のように、4年生(52年)の2シーズンで5勝10敗という"好成績"をあげたものもいる。
一方、栄光学園から進んだ速水隆は3年生(53年)春0勝7敗、秋O勝5敗、4年春O勝5敗、秋0勝8敗と一つの勝ち星もあげられなかったが、
彼は少しもくさらずに投げぬいた。
東大野球部からプロヘ行く人もいる(新治伸治・大洋、井手峻・中日)。何もはじめから、勉強か野球かと決めてしまうことはない。
むしろ、勉強も野球もと欲ばるべきである。いくら好きでも年がら年中やっていればアキがくる。
たまには、教科書を開き、学校へ行けば、野球の楽しさが倍加するはずである。
国立高という都立有数の進学校が甲子園へ出たことは、野球をする高校生、教育関係者、父兄らに多大なヒントを与えたはずだ。
一つ、勉強と野球は両立する。一つ、予算やグランド等の条件に恵まれなくても野球はできる。
一つ、父兄が口をはさまなくても、高校生は自主的にやれる。一つ、練習時間の長い短いは関係ない。
一つ、野球だけがすべてではない、などなど。騒ぐのがおかしいのであって、彼らは野球が好きだから、
ごく自然にやってきただけのことである。どんな条件であれ、高校野球のレベルは、甲子園に出ようが出まいが大差ないということであろう。
いまの学生にとって"不幸"なことは、世の中の繁栄とともに、彼らの考え方生き方が変わってしまったことだ。
球場勤め21年という、青柳道和神宮球場長(43歳・中大OB)は、裏方としてそのあたりをつぶさに見てきた。
昔は東京六大学でも東都 (東都大学連盟)でもユニホームを着ていなくても、どこの選手か分かった。
カラーがあったし、個性もあった。力強さもあった。秋山 登(明大)、木村 保(早大)、杉浦 忠(立大)のように、
ピッチャーは連投するのが当り前、いまの学生とは気迫がちがうのだった。
一般学生にしても、以前は早慶戦前夜など、酒を飲んでも近所の住民に苦情をいわれるようなことはなかったし、
急性アルコール中毒になるようなこともなかった。「時代の流れで致し方ないにしても、学生そのものが甘えているんですねえ」。
昔は、プロ野球がなかったから、六大学のスターは野球界のスターであった。しかし、それはあくまで学生スポーツ、
アマチュア精神でやっていただけで、それで生活するというものではなかった。勝った負けたで、喜んだり悲しんだりしたものの、
そこには、スポーツを楽しむという純粋さ、言いかえれば"スポーツの原点"があった。
何についても言えることだが、後に悔いを残さないことだ。いちばん心配なのは、
スポーツをやって有名になった人がよく社会的に脱落者となってしまうことだ、というのは島崎氏。
いつまでも"スター意識"があって、それにすがりついている。野球を離れたらタダの人なのに、それが分らないのだ。
代表たちに、急に野球ができなくなったらどうするか、と質問すると、たいがい、そんなことは考えていないというように、
彼らの"ノープラン"こそ恐ろしいではないか。野球以外のことで生計をたてていける資格をもち、だれにでも愛される人柄でなくてはいけない。
非常に恵まれた人でも野球で食べていけるのは35,6歳まで。そのときまでに、人生のプランを立てておかないと、
人生の敗残者になってしまう。
そうならないために、学生も父兄も学校関係者も、野球が学生スポーツの一つとして、より健全なものになるにはどうしたらよいか、
もう一度考えてみる必要があるのではないだろうか。
"甲子園"のつぎは大学で野球をやろう、というのがいけないのではない、人生は長い、問題は、その長い人生の中で、
たかだか十数年しかできない野球ばかりにこだわることが、幸せなのかどうかということである。
あえて、"甲子園のあと、どうするつもりなのか"と問いたいのである、
*関連して、いくつかの資料を取っておいた。
ちなみに、この昭和55年の「12球団の1位指名選手」をみてみよう。
まず、各球団の希望選手では、原 辰徳(内野手、東海大22歳)は4チームから(→巨人)、
竹本由紀夫(投手、新日鉄室蘭24歳)/石毛宏典(内野手、プリンスホテル24歳)はともに2チームからあった(→ヤクルト/→西武)。
他は、広島←川口和久(投手、デュプロ21歳)/近鉄(現・**)←石本貴昭(投手、滝川高18歳)
/ロッテ(現・千葉ロッテ)←愛甲 猛(投手、横浜高18歳) /日本ハム←高山郁夫(投手、秋田商18歳)
/大洋(現・横浜)←広瀬新太郎(投手、峰山高18歳) /阪神←中田良弘(投手、日産自動車20歳)
/阪急(現・**)←川村一明(投手、松商学園高18歳)/中日←中尾孝義(捕手、プリンスホテル24歳)
/南海(現・ソフトバンク)←山内和宏(投手、リッカー22歳)の9人で、全体では投手9、捕手1、内野手2であった。
上記、日米野球の代表選手では、原 辰徳だけが1位指名だったが、2位指名では近鉄(大石大二郎・内野手22歳)、
ロッテ(武藤一邦・外野手22歳)、阪急(現・**) (長村裕之・捕手22歳)の3名、3位指名に大洋(現・横浜)(高木 豊・内野手22歳)ただ一人であった。