”書くこと”すきま風

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橋本健午 改稿1993/11/21 (1967/12/29)

    (1)
 いえ、ほんとに、私は、鼾と結婚したのではないのです。
 ずいぶん、悩みました。どうしたら、夫より早く眠ることができるだろうか、あの鼾を耳にせずに寝ることができるだろうかと。 でも結局、無駄なことでした。
 私のような平凡な会社員の家に生まれ、よく言って器量も普通、何の魅力もない女が、密のような甘い結婚生活を夢見ていたのが、いけなかったのです。 二十八にもなると、女はやはり焦ります。そんな時、天から降って湧いたようなお見合いの話に飛びついた私の気持も、察していただけると思います。
 そして、こんなことになってしまって。私は、悪い女なのです。でも、どうして、私だけが責められるのでしょうか?

 山谷耕平、取引先の営業課長で、一流私大卒という彼が、わが社から見れば、エリ−トに見えたのは当然です。 押し出しもよく、男性的で圧倒されそうでしたが、意外に神経が細かく、優しいのです。 そんな人から求愛されたのですから、私が有頂天になるのも当り前でしょう。
 私より十も年上でした。いずれは重役になると、わが社でも噂されていました。 そんな人が、これまで、どうして結婚しなかったのか、などとは考えもしませんでした。
 今から考えると、そういう単純な、ただ幸福を掴みたいと思う一心で、相手を美化し、真実を見つめることを怠っていたのです。
 お見合いをしてから、半年目に結婚した時、母がいちばん喜んでくれました。純白のドレスに身を包んで、私は本当に幸せでした。
『立派な男性に見初められ、みんなに祝福されて……。こんな嬉しいことないわ』 『泰子さんにも、田口さんにも、それから井上さんにも、もう引け目を感じなくてすむわ』
 式のあいだ中、私は、そんなことばかり考えていました。それほど、結婚というものに憧れていたのです。

 憧れていただけに、裏切られたとなると、まったく惨めなものでした。夫のことはみんな知っているつもりでした。 なんでも話してくれる人でしたから。それなのに……。酒癖が悪いとか、他に女がいたとかというのではないのです。
 新婚旅行に旅立ち、旅館で最初の夜を迎えたときは、疲れていたのと、初夜の恐れから、私は彼を拒みました。 それでも、夫は素直に、朝までぐっすり休もうと、優しく言ってくれて、ますます頼もしく感じたものです。
 私は、幸福感で胸が一杯で、なかなか眠れませんでした。夫はというと、持ってきたウィスキ−を二口、三口飲むと、すぐに寝入ってしまいました。 そして、高鼾をかき始めたのですが、よほど疲れているのだろうと、さして気にもとめませんでした。 父が時々、酔って帰ると鼾がうるさくてという母の言葉を思い出したからです。 そして、その日朝からの幸せをじっと噛み締めているうちに、私も眠っていました。
 海外よりはまず国内をという私の希望で、九州を巡る五日間の旅は、日中はなにを見ても珍しく楽しかったのですが、夜は苦痛でした。
 本を読んでそれなりの知識はあったし、母からも心得を教えられていたのですが、実際に男性を受け入れるということは、怖く、 違和感を感じましたが、夫は実に物分かりのいい人で、『もう四十に近いし、私は淡泊なほうでね。君が望むまで待っているよ』といってくれたのです。 何と、優しい人だろうと思ったものでした。なるべく、そっとしておいてほしかったのです。

 旅行から帰ってきて、新宿柏木の新居に落ち着いてから、始めて夫の鼾が気になりだしました。 新婚当初は、気疲れもあってかくのだろうと思っていたのですが、やがて、いつでもかくものだということを認めざるを得ませんでした。
 やり手で将来を約束されている夫は、人望も厚いらしく、そのせいか会社の後輩を連れてくることが多く、毎週のように、何人か来ていました。 たいてい若く、美男子といっていい人達で、いつも酒盛りをしたり、徹夜で麻雀をしていました。 そんな時、私はお握りなどの夜食を作れば、お先に失礼と床に入るのでした。そんな時の鼾はほとんど気にもなりませんでした。
 しかし、不断の夜は、狭いマンションの部屋を圧するほど、高鳴るときもあるのです。 それは、人間の口からもれるというより、騒音に近いものでした。私は、音に敏感なほうで、どんな小さな音でも気になり出すと頭が痛くなるのです。
 でも、はじめのうちは気になって眠れなくても、黙っていました。夫を勤めに送り出した後に、昼寝でもすればよかったからです。 また、月に3回程ある、大阪支社などへの出張で不在の時は、鼾から解放され、私はほっとするのでした。 しかし、家にいるとき、毎夜のように繰り返されると、幾ら辛抱強い私でも、我慢にも限度があります。
 ある日、思い切って言ったのです。すると、夫は『そんなに大きいか』といい、『うるさいか、済まないなあ』と謝るのですが、 いざ寝る段になると、元の木阿弥です。
 そればかりか、私が鼾を気にしているということを知ると、夫は徐々に横暴さを発揮し出しました。それも、ついぞ知らなかったことです。 いつかも、夫をなじると、酔っていたせいか『おまえはそんなことで、亭主に文句を言うのか』、 『我慢するのが、妻の努めじゃないか。おれは思いっきり鼾をかいた次の日は調子がいいんだ。仕事もはかどるんだ』と高飛車に出る始末。
 本当にノイロ−ゼになりそうでした。こうなったら、もう泥仕合です。 『おまえは、全然知らなかったのか、俺が大鼾かきだということを!』『どうして、それをもっと早く言ってくれなかったの』私がヒステリックに言うと、 『結婚もしないうちに、そんなことが言えるか』とこうです。
 ここまでくると、いくら頭の悪い私でも、今まで結婚しなかった理由、婚約時代にどうして親切で、優しく私の言うことを聞いてくれたのかが、分かりました。 そして、交際をしつこく勧めた、あの課長の愛想のよさと熱心さの中に、含みがあったことを悟りました。 課長は始めから私を馬鹿にして、何もかも知っていながら、大事な取引先だからと、夫を私に押しつけたのだと思わないわけにはいきません。 私は、仲人狂の課長の甘言に乗せられたのです。
 そう思うと、夫にも課長にも騙されたという悔しさばかりが募りました。 なんとかしなければと思うのですが、別居しようか、離婚して実家に帰ろうかと何度も思いましたが、あれだけ母が喜び、 『いい人だから、しっかりやるんだよ、変な気を起こすんじゃないよ。毎月出張があるからいいじゃないか』と言われたりすると、 どうにも決心がつかないのです。 また、母に相談しても、多分『女は一度嫁したら、どこまでも夫に従うもの』という古い決まり文句が返ってくるだけでしょう。
 我慢するにも程があると思うのです。でも私は、母の言葉どおりにやろうと努力しました。



     (2)
 それからというもの、薬や治療法を研究したり、渋る夫を医者まで連れていったりしましたが、いずれも一時的な効果しかなく、 しばらくすると、大きな鼾だけが闇を突くのでした。
 私が、その鼾を嫌うのは、音が喧しく眠れないからだけではありません。 夫は何度肩を揺り動かしてみても、直ぐに寝返りを打って、上を向いてしまうのです。 そのうえ、口を開いている夫の寝相が、夜目にもだらしなく、下顎がたるんでいるのを見ると、ぞっとするのです。
 口を大きく開かなければ、たいして鼾をかかないと医者は言いますが、病気ではないものの、うつむいたときでもかく夫は、 一体人間なのだろうかと思うことがあります。

 何度も、あなたの鼾と結婚したのではないと、夫に詰め寄るのですが、いっこうに埒が開きません。私の生活はめちゃめちゃでした。 楽しいはずの新婚時代も、夫の隠していた“持病”と、格闘するだけに、時間も神経も使ってしまい、全くなにを幸せと思っていたのでしょう。
『おれ自身、鼾をかくことが気になって仕方がなかったが、どうにも治しようがない。今夜はとてもかけそうもないという日にはかかないらしいが、 そういうときは翌日の仕事に差しつかえるのだ。不自然にとめるのはよくないらしい』などと勝手なことをいうのです。
 愛してくれているのなら、少しは私のことも考えて欲しいものです。本当に『仕事と私とどっちが大事なの』と言いたくもなります。
 夫は、ある程度話を聞くと、すぐ私を抱くのです。これは一種の口封じで、それも簡単に終わらせます。 私の体は、いつしか、女の歓びを知るようになりましたが、火を付けられただけで、おいてけぼりにされるばかりでした。
 そして、すぐに高鼾が始まるのです。それを聞くと、二重にも三重にも夫が憎くなるのでした。
 私は、時には寝物語を聞かせてほしいと思うし、また夫より早く眠ってしまおうとしても、昼寝をしているので、簡単には寝つかれないのです。
 別々の部屋に寝ても見ましたが、隣で聞くのと大して変わらないのです。
 癪にさわって、夫を揺り動かしたりするのですが、何を勘違いするのか、『もう勘弁してくれよ』というだけで、またグーグー寝てしまうのでした。
 あまりの身勝手さに、私は憎悪を感じ、いっそ、その鼾の最中に、夫を締め殺してしまおうかと思うことも、たびたびでした。
 私が、そんな恐ろしいことを考えているとも知らず、夫は『まだ子供はできないのか? 早く欲しいよ』と他愛なく言うのです。 私も子供が嫌いではないのですが、つい、『あなたみたいな、大鼾かきの子供なんか欲しくないわ。これ以上、うるさくなったら、私は気が狂ってしまう』と憎まれ口をきくのでした。

 そういう、私たちのとげとげしく味気ない生活に、ちょっとした変化がありました。
 夫が、自分の大学の後輩だという、高野次郎を連れてきたのです。きれいな、目の澄んだ、痩せぎすの青年でした。 私は今でも覚えています、初対面のことを。どこかはにかみながら、その澄んだ目で、何ごとも見通してしまうというような印象を。
 私の直感は、はずれてはいませんでした。それが、どれだけ恐ろしいことになるかも知らずに、私は、自分の勘が当ったことがうれしかったものです。
 その夜、夫と彼は、土曜の夜ともあって、明け方までお酒を飲んでいたようです。男同士、どんな話があるのか、私には判りません。 それよりも、私は、久し振りに夫の鼾を気にせずに、先に寝ることができたのです。
 その時、彼がきたことを、どれだけ感謝したことでしょう。

 夫は、高野さんを買っていました。若いに似ず、しっかりした物の見方をすると賞めていました。 私も、五つ年下の彼を、違った意味で、買っていたのです。
 たびたび、遊びに来ました。家が東京になくて、寂しいということでした。 私も、単調な生活に、彼が出現するに及んで、いくらか潤いを得た感じで、彼の来るのを楽しみにするようになっていました。
 高野が顔を出すようになると、いつしか他のメンバーが来なくなりました。
 夫は、彼が勝手に来ていても別に気にもせず、遅くまで私と話をしていても、何もとがめません。
 そんなことが何度か続くうちに、いつしか私は、どこか文学青年のような面影を残している彼に好意を持ち始めていたのです。
 会話もスマートで、私に話しかけるとき、じっと見つめるような眼差し、やがて私は、その眼差しから逃れることのできない自分を知りました。
 でも、だからといって、私が彼を好きになることは、別に悪いことでもないと思うのです。いや、人妻として許されなかったことでしょうか?

 結婚してから、ようやく三年が経ちました。本当に永い年月でした。新婚時代特有の、甘美な時間というものは、ほとんどなかったのです。
 夫の鼾には、生理的に馴れそうもありません。三年も経てば、何ごともなれると他人は言いますが、本当に努力しましたが、 私は夫を心から愛してはいないと認めざるを得ないのです。
 焦りとまわりの甘言によって、無理やり結婚させられたのです。でも、別れることはできなかったのです。 “立派な”夫がいる私が、何を言っても、世間は相手にしてくれないでしょう。それは、そうです。夫は、外に対しては受けがいいのです。 私に対してだけ“暴君”なのですから。
 ただ、その絶望的な生活の中で、心秘かに思う、高野のことが、唯一の慰めになっていました。
 彼は、実際何を考えているのか、何を思っているのか判らないのです。そこが魅力でした。 女って馬鹿なもので、安定を望むくせに、危険なものにより惹かれるのです。私はひとりのとき、気がつくとよく彼のことを考えていました。
 夫には申訳ないという気持はあります。しかし、ただ好意を持つぐらいはいいのではないでしょうか。
 元はといえば、夫の鼾が原因なのです。いやそれは、言訳にしか過ぎません。 世の中には、いくらでも鼾をかく人はいるでしょうし、女だってかくでしょう。
 なのに、何故、夫に限って、鼾をかくことが、そんなにいやなのだろうか。始めから、少しも愛していなかったからなのでしょうか。
 私は結婚してから、まるで人間が変わってしまいました。自分でも想像もしなかったような面が出てきたのです。



     (3)
 彼は、本当にしょっちゅうやってきました。私の手料理が恋しくてなんて、お上手をいいながら、よく食べていました。 下宿が遠いせいもあるのでしょう、夫が遅い日でも来ることがありました。
 私は、そんな時、夫に給仕するよりも、嬉嬉としていました。悪い女だと思います。知らず知らず、彼が実際の夫のような気がしたのですから。
 二人でいる時、別にこれといって話すことはありません。なぜか、彼は会社の話をさけるのです。 もっとも、私にはそんなことはどうでもいいのです。ただ私は、彼の眼差しが気になるのです。 彼の考えていることが、ひょっとしたらと思うと、身体中がゾクッとするのです。まるで、初恋の少女のように。

 その日、夫は一晩泊りの出張に出ました。私は秘かに、彼が来ることを願っていたところ、七時過ぎに、夫からの預り物を持って、彼はやって来ました。
 私はうれしいのに、いつもの表情を崩すことはできません。まだ、貞淑な人妻なのです。 ところが、台所で夕飯の支度をしていると、不意に後ろから、彼が抱きついて来たのです。振り向くと、いきなり、唇をふさがれてしまいました。
『何をするのです、高野さん!』
『奥さん、許して下さい。僕は苦しい! 僕はあなたが好きだ』
『本当に、困りますわ』
 私は、高野の告白と、思いも寄らぬ行動に、いささか気が動転してしまいました。
『ご主人が帰って来ないのをいいことに、変な気を起こしてしまって、どうかお許し下さい。でも、後ろ姿を見ていたら、奥さんがかわいそうで……』
『…………』
 何がかわいそうなの? 彼は鼾に悩んでいることを知っているのだろうか!
『あなたって、悪い人ね。あなたは、人の心を見透かしているのね。私を悲しませただけね』
『それは、どういうことです?』
『私の心が、山谷から離れてしまっているということを、あなたは知っているのだわ。そして……』
『…………』
『もう、これ以上、何もしないでね。山谷に顔を合わせられなくなると困るでしょう』
『いや、それで悩んでいるのです。先輩に見放されたら、僕の将来は』
『だから、もう変な気は起こさないで』
『……でも……』
 私も、とても苦しかったのです。彼に抱かれ、接吻された時、どれほど胸の高鳴りを押さえるのに苦労したことでしょう。
 私の方こそ、高野を、高野の抱擁を夢見ていたのですから。

 そうです。言葉とは裏腹に、それは私が待ちに待ち望んでいたものの第一幕でした。
 私は、自分の心が、夫から完全に離れてしまっていたことを、彼の前で口にすることによって、はっきりと自覚したのです。
 次の日、遅く帰ってきた夫はいつもと変らず、私は一安心したものの、何だか夫ももはや私を愛していないのではないかという気がしてきました。
 結婚当初は、どんなに遅くても、帰宅するなり、すぐ抱き寄せてくれたのに、このごろは滅多になく、それも儀礼的になってしまいました。 もっとも、私の方も、あまり夫のそれを望んでいないのも事実でしたが……。
 先に寝た夫のあのうなりを上げる鼾に、申訳ないという素直な私の気持も、け散らされた感じで、また憎悪と化すのでした。
 そして、前の夜の、高野の抱擁と、その新鮮な口づけの味を、また奪われたいという気持ちとともに思い出し、切なく悩ましく、我知らず吐息が漏れるのを必死にこらえていました。 今の私なら、たとえ鼾をかいたとしても、彼を憎く思うことはないでしょう。
 夫の鼾は、かき始めが物すごいのです。眠りは浅いようですが、それでも自分の鼾に没入しているようで、滅多なことでは目を覚ましません。 それが、また私にとって憎らしいのでした。



     (4)
 十一月も中ごろのある夜、珍しく早く帰ってきた夫は、高野を連れていました。明日が休みなので、もしやと思もっていた私の予想通りでした。
 二人は、炬燵を囲んで、いつものようにお酒を飲み始めました。ビールの好きな彼も、冬は夫に付き合って、日本酒を飲んでいます。 ただ、会話がいつものように弾まないのが、少し気掛かりでした。気のせいだと思いましたが。
 料理は季節の野菜をふんだんに入れた水たきです。二人分よりいくらか多めに用意していたのに、夫は気がついていたでしょうか。
 彼が来ると、私の態度が目に見えて変わるのか、『俺と二人の時は不愛想なのに、高野君が来ると、途端に機嫌が良くなるな。 もう連れてくるのをよそうかな』と、私に皮肉をいうのです。
 彼は、困ったという顔で、『そうですね、これ以上ご迷惑になるといけないですからね』
というので、私も負けずに、『そんなことないわ。高野さんがいると、楽しいもの』と答えてやりました。
 今度は、高野に向かって、『こいつは、俺だけじゃ不足で、お前まで必要とするらしい』
と。少しつっかかったような夫の言葉は、冗談とも本気ともとれなくて、はっとしたのは私だけだったでしょうか?
 一瞬、みんな黙ってしまい、付けっ放しのテレビの音だけが、いやに耳に響くのでした。

 でも、その沈黙も、夫の陽気な冗談の連発で、すぐ元に戻りました。夫は、何も気にしてはいず、また何も疑ってはいないようでした。 それが、ちょっぴり不満に思う私は、やはりいけない女でしょうか。
 日頃の疲れが出たのか、家だというので安心したのか、夫は、『いい気持ちだ、眠くなってきた。先に横になるぞ。高野君は、泊っていけよ』というなり、さっさと寝室に引っ込んでしまいました。
 私は、さあ、いよいよ夫の鼾が始まるのかと、いやな気持になったのですが、彼の手前、放っておくより仕方がなかったのです。
『今度は、私がお相手するわ。少し頂くわよ』
と、催促すると、彼は手慣れたように、私のお猪口に、なみなみとお酒を注いでくれるのでした。
 私は余り飲めないのに、どうにでもなれと思ったわけでもありませんが、ぐいぐい飲んでしまい、彼をびっくりさせましたが、気持は大分ほぐれました。
 向き合った二人の会話は、テレビと、早くも始まった夫の高鼾に、中断されがちでした。 もっとも、その時の私の気持は、喋るよりも、ただ、彼と二人でいるというその雰囲気だけでよかったのです。
 いつの間にか、炬燵の中の高野の脚が伸びて、私の膝小僧に触れてきました。私も、酔いが回ってきて、顔がほてって来たのがわかり、 それと同時に、炬燵の中で、彼の脚に手をおくほど、大胆になっていました。
 私は、高野が好きでした。いや心のどこかで、愛していたのかも知れません。 一方、彼の方も、何かを感じているようです。しかし、それは私のとは違ったものかもしれないのです。それはそれでよかったのです。

 私たち夫婦は、結婚して三年以上経ったものの、一体夫婦と呼べるものかどうか、疑問でした。 後で判ったことですが、高野も、私たちのことを、本当の意味の夫婦とは思っていなかった、彼は夫のことを私以上に知っていたのです。
 午前0時を過ぎ、いつまでも、話をしていることもできないので、隣室に高野の布団を引きに行こうとすると、彼も手伝うというのです。
 部屋の真ん中に、真新しい客用布団を引きながら、『男は、そんなこと、しなくてもいいのよ』というまもなく、熱い吐息が、 耳元を撫で始めたかと思うと、布団の上に押し倒されてしまいました。
 めまいのようなものを感じたのも一瞬で、彼の荒々しい接吻と、抱擁に、私は身も心も任せていました。
 彼の手がスカートをめくり、下腹部をまさぐり始めると、『それだけは止して下さい。あの人がいるのよ』と、拒絶しましたが、本心からの抵抗ではないのです。 夫が、いつ起きるかも分からないのに、彼は平気のようでした。
 私は知っていました、夫は起きる心配がないということを。 でも、そう言ったのは、一線を越えることによって、本当に高野を忘れられなくなるということを恐れたのです。 でも、どこかで拒否し、どこかで期待している自分をどうすることもできないのです。
 いつの間にかパンティを半分脱がされていました。
 もう、ここまでくれば、私の体は意志とは関係なく、拒否から、受入れの姿勢に変わってしまいました。 隣室から、夫の鼾が何の変化もなく、規則正しく聞こえていました。
 着ているものを次々に剥がされて、高野は、私の自慢のすべすべした肌を、所構わず舐め始めました。 唇、耳朶、首筋、そして乳房に顔を埋めたり揉みしだいたり、一つずつ、静かに、あるいは強く噛むのです。 今まで、夫からこんな手荒な、しかも執拗な愛撫を受けたことはありません。 それだけで、私はしびれ、たまらなくなり、声が出そうになるのを堪えるのが精一杯で、それが余計彼を刺激するようでした。

 相変わらず、夫の鼾が聞こえていました。もう、遠い国の出来事のような気がしました。
 いよいよ、彼が私を愛し始めたとき、私は思わず、『好きよ、高野さん好きよ』と口走っていました。 そして、何度も声にもならぬうめきをもらしていました。
 私は、後悔はしていません。夫に秘密を持ったという意識、罪悪感は不思議とありませんでした。それほど、冷め切っていたのでしょうか。 でも、終わった後で、口をついて出てくるのは、『私、取り返しのつかないことになったわ』『夫に顔向けできないじゃないの』というのですから、 私も相当な悪の女でした。
 高野は、私たち夫婦のすれちがいを知っていたのです。そういう人だから、私は安心して、身を任かせたのでしょうか。 あるいは、夫への復讐からでしょうか。
 でも、その時の、私の気持を理解してくれる人が欲しかったのも事実です。ろくに喋りもしないのに、分かってくれた彼。だから、なのです。
 彼は言いました。『あなた方は、夫婦じゃない』そして、自分のことを聞かれると、
『僕は、多分、すき間風でしょうね。でも、それに徹し切れなかった』と答えるのでした。
『…………』
 私には、意味がよく判りませんでしたが、体が満足しています。それ以上、深く考えようとはしませんでした。
 私は、高野との布団から抜け出すと、何食わぬ顔をして、夫の寝ている部屋へ戻って、はだけた布団をそっと直してやりました。

 女って、やろうと思えば、何だってできるのですね。平気なんですから、不思議です。  次の朝も、私はさも不満そうに、夫に向って、『せっかくの休日だというのに、あの人がいるから、できないじゃないの』と言っているのです。
 それにまた、夫は『しかし、あいつも疲れているだろうから、ゆっくり寝かしてやれよ。もう、ウチに来ることもないだろうから』と、平然としているのでした。
この時初めて、とぼけているのか、あるいは何も察知していない夫に対して、特別な感情が沸かなくなっている自分をはっきり知りました。



     (5)
 それから三日経って、私は、高野の死を知りました。運転していた小型乗用車が、大型のトラック二台に挟まれて重傷を負い、病院に運ばれる途中で死んだというのです。

 夫の前で驚いては見たものの、涙を見せることはできませんでした。
 明日葬式に行くという夫は、久し振りに私を求めるのが、不思議な気がしました。だが、そんな夫とは逆に、私の心は全く虚ろでした。
 高野が仕事にかこつけて、私を尋ねる途中だったとは、口が裂けてもいえませんでした。

 ただ、どうして、トラックなんかに挟まれて死んでしまったのだろう、とそのことが、いつまでも頭にこびりついて離れませんでした。

 夫は、自分だけ興奮を鎮めてしまうと、
『バカな奴だ、高野は。俺のいう通りに大阪へ転勤すればよかったんだ。もう少し、見込みがあると思って、ウチまで連れてきてやったのに。 女に狂いおって。それもよりによって、何の取り柄もない女に!』
と、呟く声がしたかと思うと、ものの五分も経たないうちに、一段と高らかに、鼾をかくのです。それは、永遠に続きそうに思われました。
 やがて、私の顔は鬼のようになっていたことでしょう。それも、復讐の鬼に。これ以上、あなたの犠牲になるなんて、真っ平だわ!

 あの、高野さんが、もういないなんて……。
 ひとり枕を濡らしていた私は、夫の鼾に腹立たしく思いはしたものの、それと同時に、数日前、その鼾の最中に、高野に抱かれたことが、まるで嘘のように思えるのでした。

 ひょっとしたら、私が高野さんを殺したのではないかしら、という気もしてきました。 もう一つ、腑に落ちないのが、夫の態度でした。 夫は私たちのことをみんな知っていたのではないかしら?
 夫は、私、いや女が好きではなかったのです。私との結婚も世間を欺く方便でしかなかったのです。 本当は、目鼻立ちの整った青年を愛していたのです。中でも、特に目をかけていたのが、高野さんだったのでは……。 ゆっくり時間をかけて、夫好みの“愛人”に育て上げようとしていたのに、彼は愛してはいけないものを、愛してしまったのです。

 事故は偶然だと思いますが、夫はいい気味だと、思っていたのではないでしょうか。 葬儀に行くのは、あくまで上司の体面を保つためで、高野の死を悼むためではないでしょう……。 夫の正体が、やっと判りました。でも、もう手遅れです。
 高野さんがいなくなってしまった以上、私も生きている意味はないわ。

 一晩中まんじりともせずに、夜を明かした私は、自分が死ぬか、夫を殺すか、それともいっそのこと、 ……その結論に達した時、私はこの数年間で、これだけ変貌する自分の中に棲む魔性に、ぞっとしたものです。



 女は、やろうと思えば、何でもできるのです。

                                <了>(29枚)


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