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大正時代の雑誌出版

大正時代の雑誌出版         橋本健午(ノンフィクション作家)  2011・12・25

 日清日露戦争後、また第一次世界大戦の影響も少なかったからか、14年余と短い大正時代だが、 “大正ロマン”とか“大正デモクラシー”などといわれるように、文化的に花咲く時代であったようである。
 ともあれ、時代・世相を写す新聞や雑誌は、その時々に限らず、後世まで多くのものを伝えてくれる。
 例えば、1905(明治38)年1月に創刊され、1913(大正2)年8月号まで刊行された『女子文壇』という女学生向けの投稿雑誌は彼女らに多大な影響を与えていたようだ。

 雑誌の起源はヨーロッパで、1665年パリで創刊された『ジュルナール・デ・サヴァン』という。
 日本で最初の雑誌は1867(慶応三)年に柳河春三(しゅんさん)が創刊した『西洋雑誌』といわれる。 これは外国の雑誌から抄訳したものを載せた木版刷りの小冊子だった。
 また、週刊誌の第1号は1908(明治41)年11月発刊の『サンデー』で、タブロイド判20ページ、定価は1部20銭(東京・太平洋通信社)で、 1915(大正4)年9月5日の第266号まで確認されているという。

 その後、雑誌は多くの版元(出版社)から創刊された。 「明治も二十年頃までの雑誌は、其の多くは、政党の宣伝機関、若しくは学者の啓蒙事業であったが、社会の進展に順応し過去の消極的方針より脱却して企業たる立場に発展した」と、 (社)日本雑誌協会編『日本雑誌協会史』第一部(大正・昭和前期)1969・09にある。

 当時の、主として“雑誌”“出版”について概観してみよう。まず明治時代後半から(拙著『発禁・わいせつ・知る権利と規制の変遷-出版年表-』出版メディアパル2005・04)。
◇1905(明治38)年
1・3/実業之日本社、『婦人世界』を創刊(1909・01:新年号から委託販売制度に切換え、雑誌の返品制を採用、大量販売に成功)
4・15/漫画雑誌『東京パック』(有楽社)創刊、漫画雑誌の先駆 《1906・11『大阪パック』創刊》
9・10/雑誌『直言』が発行停止
10・6/夏目漱石『吾輩は猫である』(上編)発行、ベストセラーに(雑誌『ホトトギス』に05年から06年に連載、大正年間に13万部以上)
◇1906(明治39)年
1・−/白木屋、PR雑誌『流行』を発行
3・15/堺利彦、幸徳秋水『社会主義研究』を創刊、「共産党宣言」を掲載し発売禁止(発禁)となる
◇1908(明治41)年
1・−/『婦人之友』(婦人之友社)創刊
2・15/川村インキ製造所が設立される(のちの大日本インキ)
11・−/『ベースボール』(野球研究会、博文館発売)創刊
◇1909(明治42)年
6・10/幸徳秋水ら『自由思想』を創刊
6・25/映画雑誌『活動写真界』創刊
7・−/森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」掲載の『スバル』発売禁止となる
11・−/高等女学校、読書取締りを受ける(『文芸倶楽部』『新小説』『婦人画報』『女子文壇』『東京パック』など閲覧禁止)
 〔発禁〕小栗風葉『姉の妹』(「中央公論」6月号)。永井荷風『ふらんす物語』
◇1910(明治43)年
2・1/『雄弁』(雄弁会主宰・野間清治)を創刊、初版6,000部が即日売り切れ
3・28/『偽紫田舎源氏』(吉川弘文館)、発売禁止
4・16/予約出版法を公布(内務大臣への届出と保証金が必要。1967・8・1廃止)
◇1911(明治44)年
4・3/冨山房、『新日本』創刊(主幹大隈重信)
8・21/警視庁に特別高等科を設置し、新聞・雑誌の検閲を管掌
8・29/東京朝日、「野球とその害毒」の連載を開始
9・−/平塚雷鳥(らいてう)ら『青鞜』創刊
以下、同44年に『幼年世界』、45年には『武侠世界』などが創刊されている。

 さて、先の『日本雑誌協会史』は「大正となり、有益なる雑誌は次々に創刊された」として、次のように列記する(*で始まる雑誌)。 やや煩雑になるが、別の年表(拙著)からも加味しよう(//で始まる雑誌)。 ◇1913(大正2)年 *『少年』、『料理の友』、『ダイヤモンド』
//8・5/岩波書店の創業(岩波茂雄、古本屋からの出発)
この年…『立川文庫』、青少年の人気を呼ぶ》
◇1914(大正3)年 *『少年倶楽部』
//3・24/雑誌の“定価販売”を目的に、東京雑誌組合が結成される
12・−/安田皐月『生きることと貞操』、小倉清三郎『性的生活と婦人問題』発売禁止に
(このころから“貞操”“性”について大胆な発言が行われ始める)
◇1915(大正4)年 *『婦人画報』、『新家庭』
//2・−/伊藤野枝『貞操に就いての雑感』発売禁止される
10・10/『大阪朝日新聞』、夕刊を発行(以後、毎日・万朝報も発行)
この年…5・−杉本京太、邦文タイプライターを完成》
◇1916(大正5)年 *『婦人公論』、『面白倶楽部』、『講談雑誌』、『一大帝国』
//1・−/『婦人公論』(中央公論社)創刊
5・−/風俗壊乱・安寧秩序紊乱で発禁続出する
9・18/東京家政研究会(のちの主婦之友社)創業(翌年3・−『主婦之友』創刊)
9・−/書籍・雑誌の発禁事件の増加、出版物の取締り強化される
〔ことば〕デモクラシー(吉野作造の民本主義論などによる)
◇1917(大正6)年 *『主婦之友』(「この誌は社主石川武美の精力努力に依って婦人雑誌一位の多数の部数を刊行して居る」と説明がある{『日本雑誌協会史』第一部}。
◇1918(大正7)年 *記載なし
//4・−/児童中心を標榜する小学国語読本「ハナ ハト マメ マス」発行される(第3期国定教科書)
7・−/児童文学雑誌『赤い鳥』(主宰鈴木三重吉)創刊
〔発禁〕岩野泡鳴の短編『入れ墨師の子』『青春のころ』。 いずれも近親相姦をひとつのモチーフにして、大正7年の6月と7月に発表し、相次いで筆禍の厄にさらされ、筆禍史にも異色の本という。
この年…『受験と学生』創刊》
◇1919(大正8)年 *『改造』、『解放』、『社会問題研究』、『女性』
この年…弱冠21歳の島田清次郎『地上』第1部、ベストセラーに》
〔ことば〕サボる(仏語「サボタージュ」から)
◇1920(大正9)年 *『婦人倶楽部』、『女性日本人』、『現代』、『新青年』
//10・3/賀川豊彦『死線を越えて』発行、100万部を売り、大正期最大のベストセラー(当初1,000円の原稿買切り、のち印税契約に)
◇1921(大正10)年 *記載なし
//2・−/金子洋文ら『種蒔く人』創刊(プロレタリア運動の先駆をなす)
◇1922(大正11)年 *『科学知識』、『令女界』、『女性改造』
//4・2/週刊誌『週刊朝日』(←『旬刊朝日』)、『サンデー毎日』が同時創刊
4・8/国語調査会、漢字制限案を決定、常用漢字約2,113字を選定する
8・8/相賀武夫、小学館創業、最初の学年別雑誌『小学五年生』『小学六年生』創刊
◇1923(大正12)年 *『文芸』、『文藝春秋』、『少女倶楽部』
//1・1/菊池寛、文藝春秋社(のちの文藝春秋)創業、『文藝春秋』創刊
◇1924(大正13)年 *記載なし
◇1925(大正14)年 *記載なし
//1・−/『キング』創刊(初刷50万部、重版し74万部に。28年には150万部に)
◇1926(大正15・昭和元年)年 *『幼年倶楽部』、『婦人と生活』、『経済往来』(後に『日本評論』と改題)

 戦前(ここでは大正・昭和前期)について、再び『日本雑誌協会史』第一部より引用する。
 前年の関東大震災で多くの会員社が被害に遭ったのち、大正一三(一九二四)年五月二〇日それまでの東京雑誌協会から改称した旧日本雑誌協会は、 今度は内務省の指示により昭和一五(一九四〇)年八月一五日をもって解散する。そして、出版業者は一元的統制団体である日本出版文化協会にまとめられた(注1)。
 この昭和一五年現在の会員者は五九五社で、内訳は東京五四七社、大阪二〇社、各地方一五社、満州国三社 (興亜経済時報社・哈爾濱市/ジヤパンツーリストビユロー満州支部・奉天市/満州映画協会・新京市特別市)となっている。 なお、「満州グラフ」を発行していた南満州鉄道株式会社(満鉄)の所在地は都内赤坂区葵二、であった(注2)。

(注1)戦後、占領を解かれた日本では新しい憲法(1947・5・3施行)により「出版言論の自由」は保証されているが、それまではここに見るように内務省による検閲および解散などのため自由な出版活動ができなかった。 (注2)余談だが、約13年余、(社)日本雑誌協会に勤めていた私は、わが父橋本八五郎(1888-1976)が大正時代から昭和にかけて、大連(中国)で滿鐵讀書會発行「讀書會雜誌」(大正7年〜)や満鉄各図書館報「書香」(第1次:大正14年〜)などの編集人(前後して、各地の満鉄関係図書館長)だったとは2004年、ある研究者(大学教授)からご連絡と資料をいただくまで全く知らず、想像すらしたこともなかった。

 ところで、2011年3月11日、東日本大震災と東京電力福島第一原発による被害は多くの犠牲を伴った。 100年に1度などといわれているが、他人ごとではない。自然を相手に人知は無力である。
 88年前の1923(大正12)年9月1日正午直前、関東大震災が起こり、出版界も被害を蒙っている。
 関東大震災と雑誌の休刊
 九月一日午前十一時五十八分俄然関東地方に大地震起り次で大火となり為めに本会会員にして罹災せられたもの実に二百十余社、 本協会事務所も類焼の厄に遭遇し会計に属するもの以外のものは総て焼失した。 九月十日、野間清治氏宅を仮事務所とし臨事幹事会を開き、善後策として雑誌は九月中は発行せざる事に決し、左の如く東京の諸新聞紙に広告を掲載した。
 東京雑誌協会会員各位に急告
 未曽有の大震火災の善後策に就て本協会は九月十日臨時幹事会を開き大取次店列席の上輸送機関の未復旧と各位営業開始の余儀なき都合とに依り左の決議を為し執行することに相成候
 右は総会の決議を経べき筈なるも非常事変の場合之が招集不能と相認め已むなく臨機の処置を施したる次第なれバ御承知被下度候    / 決議 (省略)
   (以上、『日本雑誌協会史』第一部より)

 ついで、今回の被害状況とその対応について、「雑誌協会報」(平成23年9月号)より引用する。
 東日本大震災後の出版界の対応
3月11日(金)地震発生(14時46分)後から印刷等のトラブル発生、夜には紙調達の困難の事例/その後、2週間、取次協会雑誌進行委員会中心に作業に忙殺
3月14日(月)取次協会隔日配送、被災地の配送中止発売日搬入確認基準導入方針/印刷工業会出版印刷部会製造設備、紙調達等の困難を表明/日本製紙連合会社長会で紙の融通の方針決める
3月15日(火)雑誌協会、取次協会で緊急対策連絡会議(販売・物流委員会) /取次協会は15日受け渡し分から「隔日配送」等を実施22日までの措置
3月16日(水)雑誌協会理事会で緊急対策特別委員会設置/雑協対策特別委で配送遅れ等の告知決める
3月17日(木)雑誌協会ホームページで「配送遅れ」のお知らせ/雑誌協会広告主、広告会社向けの「配送遅れ」のお知らせ
3月18日(金)取次協会と緊急対策会議来週以降の配送計画等/雑誌協会会員社雑誌への「配送遅れ」のお知らせ原稿リリース
3月19日(土)取次協会、19日引き渡し分から通常配送へ戻す搬入前日午前に確認前提/雑誌協会「配送遅れのお知らせ」広告を全国紙に掲載
…これら“対応”は9月5日まで記録されているが、以下略。

 少し話題を変えて、戦後の“女性向け”雑誌について概観しよう。
 昭和40年ごろ『婦人倶楽部』『主婦之友』『主婦と生活』『婦人生活』の婦人4誌は、毎月合わせて400万部を超えていた。 その後、女性向け雑誌は時代とともに、ジャンルも誌数も増加する。 日本雑誌協会・広告委員会編『会員社発行雑誌媒体資料』1994年10月(66社・538誌)によると、分類は「女性誌(92誌)」のみで、 数では「総合誌(57誌)」をしのぐが、「趣味誌(99誌)」の後塵を拝している。

 ついで1999年版『出版指標 年報』(出版科学研究所)によると、“女性向け”雑誌群は次の通り。
 ヤングファッション(12誌)/OLファッション(4)/ハイソマガジン(7)/三〇代ファッション(5)/キャリアウーマン(2)/モード系(6)/モノ・グッズ(3) /遊び情報(8)/コスメ系(3)/ヤングその他(4)/生き方情報(10)/生活情報誌(15)/四十代女性誌(2)/教養(4)/高級グラフ誌(4)/週刊誌(3)/その他(6)……以上100誌

 さらに、10年後の状況は、手元にある日本雑誌協会編『マガジンデータ2009』には、641誌が網羅され、「男性」「女性」「男女」の大分類がある。 「女性」の内訳をみると、[総合]/[ライフデザイン]/[ライフカルチャー] /[情報]/[コミック]とある。 たとえば、[ライフデザイン]では、女性ティーンズ誌…ローティーン・ティーン総合・ストリート・エンターテインメント情報・その他となっている。 それぞれ細分化され、「女性ヤング誌」3誌/「女性ヤングアダルト誌」8誌/女性ミドル誌」4誌などと詳細である。(以下省略)

 なお、大正時代の雑誌に関して、多くの雑誌から選りすぐった記事・論文など(広告を含む)をまとめた『復録版 大正大雑誌』(流動出版S58・06発行/408ページ)という“参考書”もある。                                          (終)


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