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わが高槻との縁2  ―高校時代―

わが高槻との縁2 ―高校・浪人時代― 13期卒業50年と古希を祝う会  2011・10・02 橋本健午

1958/4・10高校入学式(T-4)/4・11「金曜日はカバンの重たい日となる。本校の教師は一人一派という感が強いことを悟る」 /4・26新聞部(高T)取材「槻校生をどう見る 住宅・商店街の人々にその評判を聞く」/6月新聞部主催第1回校内ソフトボール大会でクラスが優勝 /10・12運動会1500m1位(5分12秒5:前年に続き連勝、400m2位;仮装行列でクラス(職業百花選)が優勝:総合2位 /11・20新聞部員として高槻ロータリークラブの昼食会に招待される/11月体育館完成

1959/2・13(高1)校内マラソン大会3位(13.4キロ;ただし、不正があったとかで表彰はナシ) /4・10皇太子ご成婚(休日)友人と芦屋ロックガーデンに遊びに行く…巷ではR・サントス作曲「皇太子のタンゴ」のメロディが流れる /5月朝日ジャーナル「編集者への手紙」へ投書(皇太子結婚とお祝い金の使途について) /10・11運動会1500m2位。400m1位(このころ、みな裸足で走っていた)

1960/2・*高2)最後の校内マラソン大会50位/2・25卒業式(3年生を送る) /4・10雨で流れたハイキングの代わりに、杉君の家で半日、20項目ばかりの問題を論じる /4・14〜20修学旅行(14神戸→別府(母に絵ハガキ)→15阿蘇→16熊本(母に絵ハガキ)→17雲仙→18鹿児島→19宮崎→別府→20大阪 /5・6「初の校内モギ試験。国語・英語。かんばしからず」/5・27自民党の警官導入、安保強行採決に腹が立つ /6・6学園新聞・論説第74号「認められる矛盾」約1,500字;捗らない後輩を見かね、節を曲げて書く /7・18〜杉・中津両君と忍頂寺へ(1日150円・精進料理/23モギ試験のため下山/9・25体育祭仮装行列(20数名のダッコちゃんで優勝:私は400mで2位のみ) /11・7ごろ新校舎3階に入る

1961/1・5新聞部の新年会(送別会;高槻・唐崎屋8人出席・級友2人欠;私以外は酒を飲んだ) /1・7「今年最初の、そして最後のモギ試験を受けた(YMCA予ビ校3回目)」/1・25二人の教師が私たちに「いい人間になれ」と話す /1・28-31学期末試験/2・25卒業式、私も無事卒業できた。ただし最後の成績順位が大変悪く、これはショックだった」;V-3組〔皆勤賞〕 /3・19上京「高谷・中津君が見送りに来てくれた」/22東外大ロシア語科受験1次(東京大学法文経第1号館11号室) /27掲示板に348番を確かめて“銀ブラ”有楽町で「ぺぺ」(米)250円/29:2次試験 /5・29「私の父は一般的にはおじいさんの年令(73)である。今や父が父としての権威あるいは存在価値を有していないことを、最近二人の友から聞いた」 /6・3義姉から青年歌集第1編をもらい歌ったりオルガンを弾く「多くを歌えないのは高槻時代、音楽の授業がなかったからだ」 /6・4朝ハモニカを1時間半ほど吹く/8・3茨木で「忘れないための自叙伝」スタート(第一部「出生から引揚まで」誕生と名前に関して〜第三部まで「急に思い立って一気に数十枚も書いた」 /8・10母校を訪ねる/9・30「私には凡俗なものから目をそらすような傾向があると、だれかがいった。そして、それはお高くとまっているようで悪いと…」 /9・30「このごろ思うこと感ずること“肉体は精神より下である”…告白:性に関して無知だったこと(結婚について)」 /11・1灘高校まで研究社モギを受けに行く/11・5最高の秋晴れ、午前中ゴルフをやる(なかなか面白い、運動のために) /12・8「母校へ。勝山(校長?)はふさわしくない。あれは万年“副”のついている方がよく似合う。校内は雑然、新校舎建築中でひどくなっている」《実力考査の成績 中1-45位/全学年、中2-50/全学年、中3-22/全学年、高1-8/全学年、高2-30/全学年、高3-15/48》

1962/2・19同志社一文受験(合格)/2・21「今日もまた母にビフテキの厚いやつを食べさせてもらった」 /2・22「私は昨日から、風邪気味。学校(卒業証明書3通)から帰宅後、卵酒(今冬2度目)を作ってもらい、それを飲んで、湯たんぽを入れて、布団を一枚余分にかけて、完全に頭までかくして寝ていた。 上京まであと1週間しかないのに。再び風邪にかかっては早稲田受験さえ危ぶまれる…」


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