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内田良平◆日韓合邦運動の支援と挫折

橋本 健午(ノンフィクション作家)

内田良平

 黒龍会主幹の内田良平(1874〜1937)は、旧福岡藩士内田良五郎の三男として生まれた。幼名良助、のち甲。俳号は硬石。 1902年に良平と改名。幼少より文武両道に秀でた父の薫陶を受け、弓道、剣道、柔術、相撲、射撃を学ぶなど豪胆にみえる内田だが、 少年時代はひ弱で生死の境を彷徨ったこともある。

 1892年、18歳のとき、玄洋社三傑のひとり叔父の平岡浩太郎に従い上京、講道館に入門し、福岡に初めて講道館柔道を広めた。 翌年東洋語学校に入学しロシア語を学び、1897年シベリア横断旅行を試みる。内田は平岡らの影響を受け、 青年時代から日本の朝鮮、中国への勢力拡大に強い関心をもつなど、明治から昭和にわたる国家主義運動の指導者であった。

 内田が初めて朝鮮に渡ったのは、朝鮮南部を中心とする農民反乱、すなわち甲午農民戦争 (かつて東学党の乱と呼ばれたこともある)が起こった1894年、数えの21歳のときである。 当時の朝鮮は五百年も続いた李朝時代の末期にあり、日清両国の係争の地となっていた。 下関から密航し、釜山で東学党を支援する組織、「天佑侠」のメンバーとなる(注1)。

 内田の心中は、「韓国が、清国と示し合わせて日本を出し抜き、東学党の鎮定を清国に依頼するであらうことも殆ど明らかであった。 そこで、良平は一日も早く韓国政府と清国の機先を制して東学党と連絡し、東学党を援けて韓国の弊政を改革せしむると共に、 韓国に親日政権を確立させねばならぬと考へたのである」と、『國士内田良平傳』にある。 この乱には韓国の志士李容九(イヨング)も指導者として参加、李朝政府から追われる身となっていた。
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 その後、内田は1901年、対露主戦論を唱えて「黒龍会」を結成する。1906年に韓国統監府嘱託として、 初代統監の伊藤博文に随行して渡韓(日本は日本海海戦でロシアに勝利を収めると、漢城(ハンソン)に統監府をおいた)。 翌年には「一進会」会長の李容九と日韓の合邦運動を盟約し、その顧問となる。 このとき初めて、日韓双方で合邦構想が確認された。

 合邦運動に絡む、民間の日本人は内田のほか、"ホラ丸"こと杉山茂丸(玄洋社出身、頭山満の弟分)や、 武田範之(久留米出身の僧侶、能筆家)らがいる。杉山は内田を伊藤博文に紹介するなど、明治政府の黒幕的存在といわれ、 1909年に一進会の私的顧問になると、内田らを操り、李容九ら韓国側をそそのかし、日本政府の思惑通りにことを運ぶのだった。

 李容九らは日露戦争に際し、"百万の教徒"を動員して、日本軍を援け、民党を組織して自国の政治の改善を目論む。 当時、李が朝鮮各地に組織した民党「進歩会」と、宋秉o(ソンビョンジュン)が漢城に組織した親日団体「維新会」 (のち「一進会」と改称)があった。動員の際の檄には「一、同盟国日本の軍事行動を援助すること  一、その経費は各自負担すること 一、会員は一斉に断髪すること」とあり、一斉断髪は東学教徒であると同時に、 開化主義のシンボルとされたが、宋はさらに"親日の血盟"の意味を加えることを要求した。 のち、この二つがまとまり「合同一進会」となり、李は会長に推される。

 その一進会に日本政府より十万円が下付されたのは、内田が桂首相に日露戦争での一進会の自弁による奉仕を報告した 「一進会財政顛末書」を提出したためである。もっとも、内田はそれ以後、非併合論者の伊藤から離れて、山県有朋、 桂らの"併合"強硬派に接近するのだった。
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 1909年7月、閣議で「韓国併合に関する方針」が決まる。一方、李容九は合邦への世論作りをし、 一進会に次ぐ大組織の西北学会と大韓協会との、三派提携工作に成功した。この二組織は元来、反日団体であったが、 日本の対韓政策への危惧と買弁的な李完用(イワンヨン)内閣の打倒のために結束したのである。 その一か月後の10月、日本政府は韓国併合を承認させるため、改めてロシアとの親善関係を結ぼうと派遣した伊藤博文が ハルビン駅頭で朝鮮人安重根(アンジュングン)に射殺されるという事件が起こる。

 合邦あるいは併合問題もいよいよ大詰めを迎え、東京と漢城での動きが再び活発となってきた。 東京にいる杉山・内田・宋らの圧力に押されて、李の合邦構想は大きく後退していった。 さらに、内田は李に理解を示しつつも、日本政府の意向には逆らえなかった。 併合となったときに、韓国民から一進会や李に非難の声が及ばないようにと苦慮しつつ、わが身の保身も考えていた。

 1909年12月、杉山・内田らの勧めによって、「一進会会長李容九および百万会員」の名で、 三通の合邦請願書(曾根統監・韓国皇帝・総理大臣李完用あて)が提出された。 実はこれらは、伊藤博文の国葬を口実に、東京に呼び戻された武田範之の筆になるもので、 "合邦は日本にも利する"旨の内容となっており、のちの世まで問題を投げかけたラブレター(証拠書類)であった。 李が、自発的に結婚(併合)してくれと申し出たのを、日本はそれを受けただけで、強制はしていないとの大義名分が立った、 とされるものである。

 "請願書を出した"後の李らの苦悩は深く、同月、李は桂首相あてに陳情書を書く。 「同じ合併をされるにしても強制的に行われた場合、韓国民は日本の奴隷になってしまう。 それよりも自発的に合併することによって、その屈辱を免れ、韓国側の希望を受け入れられる余地を残しておきたい」と。

 1910年1月には、事態は合邦か併合かなどの形式について最終段階となっていた。 李の決断がもっとも微妙なものとなったが、もうそのころには言葉の遊びでしかなく、同志武田範之でさえ、 日本人たらざるを得ず、李に対し、合邦も合併(=併合)も同じではないかと説く。 そして、「連邦」「合邦」構想を李と盟約していた内田も、日本政府の意向を予期し覚悟せざるを得なかった。

 併合の調印は1910年8月、桂太郎と李完用両首相の間で行われ、もはや民間人の出る幕はなかった。 かくして朝鮮が日本に"併合"されるに及んで、李容九は国内でも日本でも"売国奴"との汚名を着せられるのだった。 以後、1945年の終戦まで36年間、日本の植民地支配が続く。とくに1930年代後半には皇民化政策のもと、 日本語の強制(朝鮮語教育の排除)や創氏改名を強要されるなど、朝鮮人にとっては"奴隷状態"とあまり変わらなかった。
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 併合後、結核で入退院を繰り返していた李容九は、かつての同志、東京でやはり病中の武田範之に手紙を書いた。 「杉山・内田・武田の皆さんが人に欺されたのであるか、宋・李の二人が人に欺されたのであるのか」と。 最終的に欺したのは桂太郎だが、桂に連なる杉山・内田・武田そして宋秉oですら、李を欺す結果となり、 李の心中は察するに余りあると、西尾陽太郎九州大学名誉教授は『李容九小伝』で述べている。

 西尾はまた、こうもいう。「『日韓合邦論』は、……日本人側の働きかけの力も無視できない。 もしこのような考えを夢想だとしてわらう人があれば、それは李容九たち韓国人をわらうだけでなく、 日本人をわらう人である。当時の日本人がどれだけ自国の独立を憂えて、この種の『夢想』を描いたか。 板垣退助は明治十五年、世界政府論を説き、中江兆民も明治二十年、世界共議政府論や軍備一切放棄論を説いた。
 当時の強国イギリスも、ドイツも、アメリカも、連邦となることで強大を致していることは、 当時の人びとにとって眼前の事実であった。……そのような理念を一顧だにせず、却ってこれを利用し、これを裏切って、 帝国主義的形式で日韓併合を果たしたことを、われわれは、赤面せずに振りかえることはできない」。
 そして、「併合後、内田も武田も、せめて日本政府の善政による韓国民の幸福を願ったが無駄であった。 また、杉山茂丸はのち、彼の行動がすべて韓国民に対する罪悪であったと後悔したのである」と記す(毎日新聞九州版1978・3・16)。

 なお、併合の前年に生まれた李容九の遺児大東国男(本名・李碩奎、注2)は、死ぬ一週間前の内田から 「お父上の素志を実現できなかったばかりか、同志を裏切った思い、誠に申し訳なかった」旨の速達を受け取る。 大東は父の日本人同志たちの"良心"を知り、少しは安堵の胸を撫で下ろすことができたという。
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 父良五郎より受け継いだ祖先伝来の尊皇(愛国)と叛骨の精神とあいまって、若き日の内田がとった行動は、 当然日本のためのものであった。その根底にあったのは、父も叔父浩太郎も熱烈な征韓論者で、 幼いころからその影響を受けて育った内田の朝鮮観であろう。それは、帝政ロシアに脅威を感じ、その打倒を目論み、 シベリア横断旅行を企てた考えと軌を一にしている。

 とはいえ、のちに大日本生産党を結成しファシズム運動にも走る内田だが、「朝鮮統治制度に関する意見書」 を大隈首相らに提出、三・一独立運動後は朝鮮に渡り政府に朝鮮施策の改善を促す報告書を作成し、 また最晩年には「朝鮮施策改革の急務」と題する論文一万部を全国の識者に配るなど、併合後の朝鮮にも心を砕くのだった。

注1:"釜山の梁山泊"に集った日本人壮士が、東学党を援けるために結成した14,5名からなる組織。 武田範之も加わっていた。日清戦争がおこると、使命が終わったと解散する。
注2:大東国男(1909〜86)は戦後の日本で、父と同じく、日韓の狭間で数奇な運命に弄ばれるが、 のち病床にありながら、『李容九の生涯―善隣友好の初一念を貫く―』(時事通信社1960)を著わす。 近く、この本は大東夫人の手により、葦書房より復刊される予定である。

参考文献
黒龍倶楽部編『國士内田良平傳』(原書房1967)
滝沢誠著『評伝 内田良平』(大和書房1976)
西尾陽太郎著『李容九小伝―裏切られた日韓合邦運動―』(葦書房1978)
橋本健午著『父は祖国を売ったか―もう一つの日韓関係―』(日本経済評論社1982)
◆顔写真は『國士内田良平傳』より

(舘野晢編著『韓国・朝鮮と向き合った36人の日本人―西郷隆盛、福沢諭吉から現代まで―』所収…明石書店2002・4、四六判上製、240頁、2000円+税)


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