梶山は私たち若いものと一緒に食事をしたり、酒を飲んだりしながらよく観察しており、性格などを見抜いて、あとで的確な人物評をする。
毎日彼らと接している私でもびっくりすることがあった。こんなことが案外息抜きの一つになっていたのかもしれない。
一方、夫人はたとえ短期間でも、他人の子女を預かるのだから、よそへ行ったとき恥をかかないように、
「梶山の家にいたから悪くなった」といわれないようにと、かなり気を遣っていた。
にもかかわらず、美季さんの勉強相手や書庫の整理など、身近に接していながら、みんなで伊豆(の山荘)に遊びに行こうと誘うと、
「梶山先生は危険だから」と断った女子大生がいた。
“ポルノ小説“を書いているから、実生活までそうだと決めてかかるのが世の習いとはいえ、親戚の紹介だっただけに夫人の心をひどく傷つけたものである。
四十六、七年ごろ、ある週刊誌の連載対談は、肩の凝らないテーマのせいもあって、どんなゲストに会えるかといつも楽しみにしていたが……、
「料理屋で座談会なんかをやるとき、席順にじつに無頓着な編集者などがいる。
私はそのとき、気になるのだが、気が小さいから、別段なにもいわない。
しかし、メイン・ゲストを下座に坐らせ、自分たちは上座に坐っているのは、やはり何だか変だと思うのだ。
日本座敷では、床の間側を上座、そして出入口に近い方を下座としてある。
床柱を背負う……なんて表現は、そこから生まれたのだが、今の若い編集者などには、床の間――つまり上座に坐ることなど、なんともないことらしい」
(『梶山季之の あたりちらす』サンケイ新聞出版局、四十七年五月刊)
と、さっそく、当たり散らす人なのだ。
本人はどう評価されていたか。フリー速記者生活三十五年という塚本国男氏によれば、 「(三十年代初期のころ)編集者で速記者に対しても、こちらが恐縮するくらい礼儀をきちっとされていたのは梶山季之さんですね。 ……いやみがないんです。中には慇懃無礼な感じのする人もありますが」と語っている。 これは山口比呂志氏との対談で「編集者でとくに感じた人はありますか」の問いに答えたもの(『文化通信』平成三年一月十四日号)。
市ヶ谷の応接間には大きな革張りの椅子が五脚あり、梶山の席(下座)は入り口近くに決まっているが、たまにそこに座って待っているお客がある。 恐縮しているのだろうが、若くても客は客である、放っておくわけにも行かず、席の移動をお願いするなど、先方に失礼にならないように、私たちも気を遣った。
あるとき、私も注意を受けた。
取材や小さな会合に同行することがある。ある取材の席で、(左利きの)私は、少し離れていたお客さんに粗相のないようにと、
つい左手でビールを注いだところ、即座に失礼だとたしなめられた。
こういうことは、そのときの状況いかんによらず、弁解できるものではない。それからは、どんなときでも右手に持ちかえて注ぐように心がけている。
美季さんが小学校に上がる前、事務所にいた三人、私(橋本)、長田(おさだ)クン、田中サンをセットで、
ハシ(箸)ちゃん、おサラ(皿)ちゃん、タナ(棚)ちゃんと呼んでいた。
そのネーミングの巧みさはともかく、内輪のときは梶山もその呼び方をするのだった。しかし、ある先輩は何を思ったか、
そう呼ばれている私を「橋本は不マジメである!」と叱責したことがある。後輩のくせにと、やっかみもあったのかもしれない。
その私が、五歳から十歳ころまでの美季さんを両親の前でも、なにかと注意をしたものだが、それについては一度も“苦情”をいわれたことがない。
ただし、当の彼女からは、仕返しというのか、よく頬や手を引っ掻かれたことは事実だが。
ところで、「先生、……」と呼びかけると、「その、先生というのは止めようや」といわれる。
家族や内輪、気を遣う人がいないときは、とくにこの言葉をきらう。
「私は、先生ということばが嫌いである。なにしろ、先に生まれたとか、まず生きているという感じなのだ。
それと先生という表現には、どこか敬して遠ざけるようなところがある。これが私には気に入らない」(『あたりちらす』)
とはいうものの、私とすれば立場上、「梶山さん」とか、親しい人のように「梶サン」というわけにはいかない。
助手ならば、やはり「先生」と呼ぶべきなのだが、なぜか、同等の人間として扱ってくれるのだ。
そこで、表現上の工夫をした。日本語には「……れる・られる」や「…なさる」など、受身形と似ている、ゆるやかな敬語表現があり、
これらをうまく使いこなすと、「(先生は)…されます」などと、夫人に対しても、主語抜きで伝えることができた。
梶山家で先生というのは、大宅壮一氏の場合だけであったが、例外もある。
美季さんの小さいころのピアノの先生は、音楽家の岡山好直氏だった。
いつも温厚な老紳士で音響にもくわしい人である。「テレ屋どうし」(『積乱雲とともに』)で、次のような印象を語っている。
「梶山さんは、私の数ある父兄の中で、折目の正しさ、誠実さ、義理堅さ等で抜群の人であった。
私は世間並のピアノ教師ではないこともあって、生徒の家族ともかなり深入りしてのつき合いをする傾向がある。
それでも、父親の中には遂に一度も顔を見せずじまいという例がないでもない。
(中略)レッスンに伺って間もなく梶山さんの出掛けられる気配がしたと思うと『あ、先生が見えているのか』という声がして、
ピアノの室に入って来られた。どうやら靴を穿きながら私の靴があるのに目を止め、穿きかけの靴を脱いで、わざわざ挨拶に戻られたのらしい。
これだけの父親は、近来めったにいない。」
十一月半ば、知人の紹介で梶山の助手として働くことになり、二か月たらずで、再び上京した。
取材を手伝う時など、まだ時々先輩たちが出入りしていたが、初期のころの私の仕事は資料の整理や書庫の管理、電話の取次ぎ、時に車の運転などであった。
仕事はきつくはないが、馴れないせいもあって、はじめはかなり神経が疲れた。
夕方、解放されると高田馬場のアパート近くの食堂へ入り、まずビールを飲んで疲れをいやす。
しかし、その日どんな事があっても、グチをこぼすわけにはいかない。なにしろ、個人の家庭のことである。
いやなことも何もビールとともに流し込み、明日にそなえるように心がけた。出入りしたどの店でも、私が何をやっているか知る人は少なかった。
アパートに帰ってからは、ノルマとして毎月五十枚の小説を書こうと決め、せっせとマス目を埋めていた。
それを何か月か続けて、まず夫人に見てもらっていた。
いっぱしの恋愛小説のつもりでも、学生気分の抜け切らない稚拙なものだった。いかんせん人生経験が足らないし、文学修業もしていない。
ある時、「二、三日山谷(さんや)(当時、大阪の釜が崎とならび称されたドヤ街)にでも行って泊まってくるんだな」と梶山にいわれた。
引っ込み思案で、ついに足を踏み入れなかった私の甘さを一遍に見抜かれてしまったのだった。
それでも、断続的に書いた。梶山からは、タイトルがまずい、書き出しに神経を使え、通俗的な内容でも荘重に書け、などと寸評が付されて返ってきた。
中には、売文ならこれでよいが、賞を狙うなら書き直しなどという言葉もあった。
あるとき、「(大阪で)同人の集まりでもあるなら、行ってやるよ」ともいわれたが、残念ながらそんな仲間はおらず、せっかくの言葉にも応えることはできなかった。
それから四、五年経ってからだろうか、事務所の人も増え、また月刊『噂』を出すようになると、忙しさも複雑になり、私の仕事もかなり様子がちがってきた。
そんなある日、「小説を書くヒマがなくなって申訳ないね」といわれ、やさしい心遣いの人だなとホロリとさせられたものである。
しかし、今にして思えば、あまり才能がないようだから、早く諦めたほうがいいよという意味だったのかもしれない。
やがて、無事パーティがお開きになるころ、梶山はそっと私のポケットに二万か三万の現金を突っ込む。
「いいですよ」と断るのだが、「みんなで飲めよ」とさっさと先に行ってしまう。
ご苦労さんという意味なのだろうが、ほんの一瞬のことで、だれも気づく人はいない。
しかし、私としてはちっとも面白くない。当時一人五千円ぐらいで、接待係として呼ばれている銀座のホステスとは違うんだという意識もあった。
もちろん、事務所の仲間と会場近くの赤ちょうちんで、軽く飲み、腹をふくらませたが、せいぜい四、五千円で済むことだった。
翌日出勤していちばんに、昨夜の現金をそのまま夫人に返却する、「預かりました」と。
そのあと、自分たちが飲み食いした領収証を出して、それを認めてもらうのである。
そんな繰り返しが何回か続いた。いくら貰っても、翌日そのまま返していた。
それを知った梶山は、「橋本はバカだなあ、黙ってとっておけばいいのに……」と夫人に話したそうである。
給料とは別だ、これは女房(私たちにとっては社長)にも内緒だから心配するな、というところだろう。
そうと分かっていても、黙って自分の懐に入れることは出来なかった。
若いということで、自分自身を厳しく律していたつもりだし、“秘密”を持つのはなんとも気が重い。
また、そのお金をアテにするようになってはいけない、とも思ったからだ。
日ごろ、梶山の担当編集者から、「ちょっと一杯」とか「銀座でも付き合ってくださいよ」というお誘いがあったが、これも断った。
個人的には酒を飲みたいほうだし、いろんなところに行ってみたいという気持ちはある。
その当時、社用族の気持ちが分からなかったということもあるが、作家の助手など見方によっては、不要の存在である。
私自身、それをよく承知していたから、昼間の事務所での話し合いで十分ですよ、とお誘いを断るしかない。
カタブツだ、話の分からないヤツだと思った人も大勢いたことだろう。
しかし、私に愛想よくしたからといって、梶山が機嫌よく原稿を書いてくれる保証はまったくない。
挙げ句に、あの助手はただ酒ばかり飲んで、と悪評を立てられでもしたら、梶山に迷惑をかけるし、私の立つ瀬もないではないか。
この座談会は四十九年六月二十一日、パレスサイドビルの九階「アラスカ」で行われた。
司会は星野慶栄『小説サンデー毎日』編集長。出席者は川上宗薫氏の専属速記者、黒岩重吾氏の秘書、
清水一行氏の協力者、山岡荘八氏の秘書と私(助手)の五人、うち女性が三人。一口に“秘書”といっても、さまざまである。
ちなみに、これを掲載した『サンデー毎日』七月十四日号(七月一日発売)は、表紙に昭和天皇の顔写真を飾り、
数十ぺージにわたり「特別企画 昭和の天皇五〇年」を特集している。
事務所の人間は電話を取り次ぐだけでなく、ノートをこまめにつけた。
ページをいくつかに区切り、一件ずつそれぞれ日付・相手の名前・要件・諾否の欄を設けて、夫人はじめお手伝いさん、事務所のだれにでも分かるようにしていた。
原稿の催促など、ひんぱんな場合は時間まで書いたが、こちらから掛けることもあり、
絵組みの言葉(原稿が遅れる場合、挿絵画家にあらかじめ絵を描いてもらうためのヒント)があったり、
梶山との連絡、ハイヤーの手配など、また家族関係のものも細かに記録された。
ときには、“三鬼(陽之助、評論家)さん”が“美季さん”になったり、ギリシャの酒「サングリヤ・アヤーゴ」が、
クラブ“シャングリアの綾子”さんになって、戸惑ったりもしたが、おおむねスムーズにいった。
季節社としては「受注票」も作った。原稿の依頼や取材の申し込み、資料提供(ネタの売り込み)などをメモしておき、
あとで引き受けるかどうかを記入してもらう。
このあたりの手続きが編集者にはまだるっこしく感じられて不興を買ったのだろうが、的確に返事するには、
まずきちんとしたものが必要であったのも事実である。
つまり、私たちが間に入って邪魔をしている、のではなく、正確を期し迷惑をかけないように、
しかもだれでも答えられるようにしておくのが目的だった。
これは実は、依頼する編集者側にとっても効果を発揮することがあった。
断ってくれという梶山に、もう何度も同じ答えをしていますよ、そろそろ引き受けてあげねば……と、社長(夫人)が催促する根拠ともなるからだ。
また、記録はあとになって役立つものであり、ときには掲載誌紙を請求したり、原稿料の確認など、これらによって連絡することができた。
記録といえば、私の初期のころの話。資料の整理や新聞切抜きのほか、週刊誌・月刊誌の特集記事もチェックしておき、
いざというときそれらを揃えて提出していた。
しかし、どれが大事な記事か、またどれが、いつ必要になるか? なかなか予測がつかない。
ある日、全五段(新聞一ぺージの、記事下五段分のスペース)や半五段(さらに半分のスペース)の週刊誌などの広告を見ていると、
その号の目玉(特集)、力を入れた記事はどれかが、スペースや活字の大きさで見分けられることに気づき、
以来せっせとその広告をそのまま切り抜き、雑誌別にファイルした。
必要に応じて提出し、どの雑誌のいつの号かを指定してもらえば、すぐに現物を取り出すことができた。
手抜き作業かも知れないが、このファイルは大宅先生もほめておられたという。
また、揃えるように指示された新聞記事は、テーマ別に切り抜いたあと新聞名、日付、朝・夕刊の別を記してワラ半紙に貼るのだが、
ときには読みやすいように切って貼り直したりもした。
自宅には事務所や、のち季節社(梶山の仕事に関するマネジメント会社)となり、私たちはその社員である。
電話については、一般の会社で交換手や受付が応対するのと同じで、直接本人が出るということは少ない。
家庭と一緒だから、夫人が出ることも多く、朝晩や休日にはお手伝いさんも電話をとる。
また、相手や話の内容によって、他人が容喙できないというのも、一般の会社と同じである。
しかし、書斎には直通電話があり、大事な人には教えていたはずである。
本人があまり電話に出なかったのは、原稿依頼など、頼まれたら断れない性格であり、相手によっては居留守を使いたい場合もあるのは、
だれでも経験することだろう。
また、新聞などにコメントを求められ、しゃべることがある。活字になると、ニュアンスがちがったり、意見が半分も反映されない、
その繰り返しに懲りていたということもある。
しかし、先方の意思がまったく通じなかったかというと、そうでもない。
文書による原稿依頼、アンケート、また問い合わせや相談には、わりあいマメに返事を書き、“諾”のサインをする人だった。
信書の秘密は徹底しており、事務所のものはそれを守った。だから、私たちの知らないうちに、事が進んでいることもしばしばであった。
手紙類は梶山が開き、回答するのであるから、意外に早く確実でもあった。これは一種の盲点といえた。
電話といえば、夫人から、こっぴどく叱られたことがある。
一つは、書斎の直通電話の番号を変更した時、その数字(三五五−四五七四、当時局番は三桁)を見て、
私はとっさに“御心は死後なし”と語呂合わせをしてしまったのだ。縁起でもないといわれたが、梶山が亡くなったのは、それから数か月後だった。
言葉遊びもほどほどにしなければ、と思ったものである。
もう一つは、死後の話。季節社の私の机を整理していると、引き出しの中から電話番号を書いた紙切れが出てきた。
すかさず、夫人が言った。「これ、何よ?」
肉太の字は、紛れもなく梶山自身が書いたメモである。「何かあったら、ここへ連絡してくれ」と、夫人に内緒で渡されていたもの。
すぐに処分してしまえばよかったのだが、入れっ放しにしておいたのが発覚してしまったのだ。
もっとも、私は一度もその番号にかけたことはなかったが……。
その人とは同年輩、同じ広島出身ということもあり、また男気に惚れたから付き合っていたにすぎない。
しかし、仲間の一人が抜きん出ては、あとの人たちは面白かろうはずがない。そんな人たちからしつこく電話がかかってくる。
先生に会わせろといわれても、忙しいし、こんな無理難題にはどうしたらよいのか?
何度も応対するうちに、お前でもいいからといわれ、私が出ていく羽目になる。
出かけて行って、お話をじっくりうかがう。ていねいに接し相手の言い分は聞くが、弱みやスキをみせてはならない。
私は代理である、言質をとられてもいけない。ちんぴらと違ってお金を要求されることはないが、はじめは心臓ドキドキである。
それでも、一時間もいいたいことをしゃべると、たいていの人はホコを収める。ころあいを見て、趣旨はよく分かりました。
梶山に伝えておきますで、たいがいお開きとなる。
ある人は、喫茶店で飲むのはコーヒーではなくミルクだった。顔に似合わず? 不思議に思って尋ねてみると、
コーヒーは興奮するからいけないのだという。
また、別の人の座る席は、必ず壁際を右側にして、入り口を見渡せるところと決めていた、
などとそんなときでも、“作家助手”は観察して報告だけは忘れなかった。
先の、なぜ挨拶しなかったのかと息巻いた人とは、電話だけのやりとりだったが……。
「入院中に、小説読んだが、オレのことが出てこないじゃないか。どういうつもりじゃ!」
「どこに入院されていたんですか?」と私。
「アホ! ムショ(刑務所)に入っとったんじゃ! ムショに」
「それじゃ、あなたに連絡のしようがないじゃないですか!」
梶山にはいろんな形の付き合いがあったのだろうが、政治家の一部には、日本の内幕シリーズなど硬派の作品で、
政財界の恥部を小説に仕立てられたり、弱みを握られるなどして、梶山はいくぶん煙たい存在でもあったようだ。
それはさておき、先のお祝いは、以前に幹事長がらみの“事件”について、同氏を助けた?とかで、そのお礼を兼ねていたらしい。
くわしいことは聞かなかったが、それを受け取れば、あとあと面倒なことになると考えたのだろう。
翌朝、後輩の蔵知浩君と車で砂防会館の田中事務所にいき、件の秘書に直接手渡して、
「ご好意ありがたく……とのことでした」と型通りの挨拶をして辞去した。
後にも先にも、こんな使者を務めたのはこのときだけであった。二人で行くというのは、途中で悪心を起こしてはいけないということと、
返却したことの“立会人”的要素もあり、帰宅すると、「ちゃんと返してきたのだろうな」と念を押された。
その後、『噂』が伸び悩んだりしていると、冗談に「しまった、あの時の金を貰っておけばよかった」とか、
「橋本君、まさか二人でポケットに入れたんじゃないだろうな」などとからかわれたものだ。
それは、金のこわさ、魔力、人間の弱さなどについて教えてくれながら、自らも戒めていた言葉であろうと思う。