連載小説のタイトルを見ると、「悪人志願」(『週刊現代』四十年)、「かんぷらちんき」(同じく四十二、三年)や「と金紳士」(『週刊文春』四十三〜六年)も流行語となり、
「うぶい奴ら」(『週刊ポスト』四十五、六年)の“うぶい”や「にぎにぎ人生」(『週刊プレイボーイ』四十六〜八年)の“にぎにぎ”など、変わった言葉も作り出した。
また、流行語にも敏感で、いくつかタイトルに使っている。たとえば「夜のヤマトダマシイ」(『週刊文春』の連載エッセイ、四十二年)の“ヤマトダマシイ”は、
ハワイ生まれのプロボクサー藤猛の口グセであり、「腐乱死体の場合は」(『小説新潮』四十二年十一月号)は、
新谷のり子が“フランシーヌの場合は、あまりにもかわいそう……”と、歌って流行った『フランシーヌの場合』からとったもの。
一方、「のるかそるか」(学芸通信社扱い、三十八年)、「くんずほぐれつ」(『週刊ポスト』四十四年)、「逃げるが勝ち」(「漫画サンデー」四十五年)、
「やらずぶったくり」(「週刊明星」四十五年)など慣用句、ことわざも使っている。
登場人物の名前を考える以上に、タイトルをつけるのはもっと大変だったことがよく分かる。
最初の単行本のタイトルは、二十七年八月発行の短編集『買っちくんねえ』、広島高師卒業の年で、京城・南大門小学校時代以来の友人である坂田稔氏と共著の自費出版、
タイトルはズバリ、買ってちょうだい! であった。
若き日、上京してから第十五次新思潮の同人となり、自宅でひんぱんに同人会を開く。
ソウルでの体験に基づいた小説を書く一方で、“営業部長”も務めたようだ。
やがて、トップ屋として活躍するとともに、「赤いダイヤ」など日本の経済界、政界ものにも手を染めてゆく。
さまざまな業界があり、そこにうごめく人間の欲望、駆け引きを描き、ときに不正を暴く……、と作風・ジャンルも幅広くなっていった。
昔を懐かしんだのか、四十七年十一月噂発行所から、第十五次新思潮同人の自選作品集を発刊することになった。
同人の村上兵衛氏(評論家)によると、
「『愛と死と青春と』という表題は、梶山くんがつけた。私は、はじめ反対だったが、梶山くんが、『単行本でいちばん売れる題名は、愛と死と青春ですわ。
小説の中には愛も死も青春もあるわけですから、それをつけたらよろしいんやないですか』と主張したので、私もその意見に服した」(「『新思潮』のころ」『追悼号』)。
ところで、小説はいつも会心の作ばかりではなかったようだ。
『アサヒ芸能』連載の「どないしたろか」(四十八年)では、まだなかなか中国に行けなかった時代に、
薬品の売り込みに苦労していた小林雄友さん(義弟、在大阪)の話を元に書き出したが、政治的なこともあり、途中で筆が曲がったと残念がっていた。
不吉?なタイトルというか、「女の警察」(四十一年)は警視庁に摘発され、「生贄」(単行本、四十一年)はいけにえに(名誉毅損で告訴され、のち和解)、
「ああ、蒸発」は連載中に蒸発し(十五回で中止、四十四年)、「抜打ち袈裟切り」(『大阪新聞』四十九年)も、新聞社の意向と合わず八回目で打ち切られてしまっている。
最後の連載は「渡り鳥のジョー」(『週刊小説』)で、五十年一月十・一七日号から始まり、月一回掲載予定だったが、六回目までの未完に終わった。
これはツアーコンダクター(添乗員)の物語で、私も前年訪欧の際に知り合った青年に取材、データ原稿を提出していたのだが。
そして、五十年五月、原稿が一枚も書かれなかったものに、「ヒコーキ心中」(『小説現代』七月号予定)、
「さんふらわあの恋」(『小説宝石』七月号予定)の、空と海を連想させる二つのタイトルが残っている。
どんな内容の小説を書くつもりだったのだろうか。
次に、やはり初期の作品で、戦前の日本の韓国統治時代における国策(内鮮一体の名のもとに、日本名に改める「創氏改名」を強制する)と、
それに抵抗する地方の大地主、その心情を理解しつつ苦悩する日本人の若い役人(元画学生)などの葛藤を描いた小説『族譜』がある
(最初『買っちくんねえ』に、稿を改め三十六年、『文学界』九月号に発表)。
さまざまな脅し、迫害にあっても頑として受け入れない大地主だが、最後は孫に泣きつかれ、彼らには日本名を許すが、
彼自身は「七百年も続いた由緒ある一族の系譜を、自分の代で絶やすことはできない」と、自殺する。
誇り高い韓国人の悲劇を描いたものだが、五十三年(一九七八)三月一日、韓国でテレビドラマ化された『族譜』が放映されると、同国内で大問題となった
(脚本は以前から梶山と知り合いの韓雲史氏)。三月一日はその昔、全国的な反日独立運動が起こった日で、韓国の独立記念日である。
その日に、よりによって日本入原作の作品を放映するとは何ごとかというわけである。
抗議を受けた韓氏はこう語っている。
「私は泰然と答えた。『族譜』は私達が忘れていたことを日本人作家が、こういうこともあったよと知らせてくれた作品だ。
内容で気に入らないところがあれば云って見ろと。
誰も反発が無かった。かえって、そう、そういう情無い時代があった。韓国の作家は誰も書いていないじゃないか。
日本人作家が取り上げたのは殊勝なことだ。結論的にも日本軍国主義に味方していない。かえって人道的だ。
日本人の中にもそういう人がいたのだ。それを認めなければ時代の前進はない」と。
その後、日本大使館から連絡があり、韓氏が赴くと、須之部量三大使(当時)が「広い大使部屋の隅っこから出て来ながら、白髪の頭を下げた。
『族譜を見ました。全く申訳ないことをしました。日本人を代表してひらにお詫び申上げます』。それから須之部大使とはじっこんの仲になった」という。
同じ年に同氏の脚本で映画化もされ、同年の文化広報部の優秀映画賞に選ばれたが、韓国のアカデミー賞といわれる「大鐘賞」の最優秀作品賞にはならなかった。 実質的には第一位であったようだが、黒田勝弘氏(現・産経新聞ソウル支局長)は当時の新聞批評などを挙げて「小説にしろドラマにしろ『族譜』を両手をあげて歓迎することには、 韓国人としてどこか抵抗感が感じられることも事実だ」と報告している (「『波濤よ語れ』『族譜』をめぐって」コリア評論』五十四年九月号)。
やがて、同国大使館から夫人に寄贈されたフィルム(シネマスコープからプリントされた16ミリ)が、五十四年の命日に、市ヶ谷の自宅で上映された。
せりふが韓国語のため、黒田氏に吹き替えや説明をお願いした。百人以上のお客があったが、初めて韓国映画に接するという人がほとんどだった。
再び、韓氏は続ける。
「芥川賞作家の森敦さんは、私に云った。『あんた本当にいいことをやってくれた。梶山はポルノ作家だと銘打たれていた。
族譜を見た連中がみんなあれっと驚いている。梶山はやっぱりまじめな作家だったなと認めている。いいことをやってくれた……』」
(以上、韓氏の稿は「『族譜』と私」『梶(かじ)葉(のは)――梶山季之文学碑建立記念誌――』平成三年八月刊)
その後、『族譜』は日本国内では、池袋西武デパート内スタジオ200で、五十八年八月中旬に「レクチャーとフィルムによる現代韓国映画」で上映され、
同年十月にはNHKテレビの「アジア映画祭」で放映、再び六十一年八月下旬に「第七回現代韓国映画特集」(スタジオ200)で上映、
さらに平成四年四月中旬に岩波ホールでの「“自由と人間”国際映画週間」などで上映されている。
毎号各杜から送られてくる週刊誌・月刊誌・PR誌なども相当の数にのぼった。
蔵書が増えるにしたがって、書庫も手狭になり、青山のマンション時代は七階から、より広い三階に、ついで市ヶ谷に季節社ビルを建て、自宅兼書庫としたのである。
私もはじめのころは資料の整理、カード作りをしたが、専門のアルバイトも何代か続いた。
本好きの人、小遣い稼ぎ、文学青年などさまざまであったが、なにしろ梶山の頭に勝てるものはなく、こんな資料を出してくれといわれても、
結局は自ら書庫に降りてきて探すほうが早かった。
市ヶ谷に移ってからは、女子学生や朝鮮研究の東大大学院生が二人、資料整理をかねて勉強させてくれと来ていたが、
あとで気がつくと紛失したものもあり、梶山を慨嘆させてもいる(「頭に来たぜ俺だって・書物について」)。
しかし、これら資料を駆使して、長年暖めていた構想を書き始めようとした矢先に襲った突然の死。さぞかし、無念であったことだろう。
夫人はこのままでは死蔵することになる、遺書には大宅文庫へ寄贈することとあったが、書籍が多いので、しかるべきところで保管し、
多くの人に利用してもらえば故人の遺志にも応えられると考え、かつて同じマンションに住んでいた大森実氏(国際問題評論家)に相談した。
そして、分かったことは日本の文化行政の貧困さ、かつ度量の狭いことだった。
これまでも、図書館の書庫で紐を解かれないまま、ホコリを被っている例が幾つもあるとのこと。
それではと、同氏がハワイ大学に交渉し、受入れ体制を整え、一方、国内では前例がないというところを、
当時の三木武夫首相に働きかけるなどの尽力があって、ようやく五十二年三月、朝鮮・原爆・移民関係を中心に七三六六点を船積みし、
ハワイ大学図書館に寄贈したのだった。
この間のいきさつを、夫人は次のように書いている。
「(五十年)十月初め寄贈の件が決定、両地で新聞に発表されホッとしたのも束の間、寄贈先が非課税となる法人に該当しないと、
相続税の対象になることが判った。又々大森さんが心を痛められ、三木総理に直訴状を出して下さったのである。
ハワイ大学側も蔵書の入国免税措置を交渉中であり、日米文化親善にもなり得る寄贈に対して特別措置を、と」。
こうして、遺書に書いてあった大宅文庫への寄贈分(雑誌三千八百冊、書籍二千四百冊)も認められた。
ところが、「一年後。外国に多量の本が寄贈されるケースは前例がないと、通産省から本の全リスト、ハワイ大学の文献輸入証明書などの提出を求められたりした。
その間三カ月近く倉庫で眠っていた百十八カートンの蔵書は、横浜港からハワイに向かったのだった」(「亡夫の遺産」『宝石』五十九年五月号)
このHP「心」電子版 梶山季之資料館から〔ハワイ大学図書館・梶山文庫〕へアクセス可能
リスト作成などについては、「私は一年と三カ月、殆ど毎日、手伝いの学生二人と共に書庫で暮らしたことになる。 まず図書カードのチェックから始め、大宅文庫行とハワイ大学行をジャンル別に分けた。 リスト作成、古書の補修、それに一見、反古にみえる薄っぺらなものが大切な資料の場合が多く、それらに表紙をつけたり、 裏打ちをするなど纏めるのに苦心した」だけでなく、運送についてもかなりの工夫を凝らしたという(「梶山蔵書寄贈について」The Hawai Hochi 77/10/15)。
同大学では、すぐさま図書館内に「梶山季之記念文庫」を設け、研究者の利用に供し、
また五十五年には朝鮮に関する文献を中心に目録「Japanese Sources on Korea in Hawaii」が作られた。
その前書きで、ダグラス・S・山村前同大学学長は「この韓国関係の多岐にわたる日本語文献は、アメリカ国内では最も包括的と思われる。
司書の長年の努力の結晶であり、また何人かの研究者からの寄贈によるものである。
そして、最近ハワイ大学に寄贈された故梶山季之氏の貴重な資料は、このコレクションをさらに充実させた」(橋本訳)と述べている。
二十年以上前から、梶山と面識のあった同大学のジェームス・T・荒木教授は語る。
「『梶山コレクション』として当大学貴重資料室に納められ、内容は、海外日本人史(北南米、ハワイ、東南アジア)五百冊、韓国の歴史と文化一千冊、
広島と原爆百五十冊、歴史(東京、各県、アメリカ、ヨーロッパ、中国、台湾、満州)二千冊、その他、政治、経済、敗戦と占領軍、右・左翼、関東大震災、江戸時代社会史二千冊であり、
それ以外に、梶山さんの著作、愛読の文学・演劇集などが添えられている」と。
四十六年の夏、同氏が講義のために来日した時、梶山に会ったのが最後。
「(そのときの梶山の)『荒木さん、わたしはこんなものばかり書いてますが、あと三年続けます。
そしたら白由にものを書けるようになり、計画中の海外の日本人を主題にした小説を始めます』と」いう言葉をよく覚えているという。
そして、次のように述懐する。
「一九六八年(昭和四十三)あたりは梶山さんはすでに流行作家として売り出していた。
ある文士のグループと食事をしながら、私は梶山さんへの文芸作家としての期待を話し、『皆さんの御意見は』と質問したところ、
まず伊藤整氏が『彼は確かに文才です』とおっしゃり、評論家立野信之氏も同意見であり、川端康成氏も『そうですね』と合槌を打ち、私は嬉しかった。
首をかしげていたのは『李朝残影』を読んでいない詩人や学者の方々だった」(以上、「梶山コレクション」『積乱雲とともに』より)。
なお、死後十数年を経て(六十三年)、ハワイ大学財団に「梶山季之基金」(夫人が十万ドルを拠出)が設けられた。
同大学のジョージ・秋田名誉教授らの尽力によるこの「基金」は半永久的に存続し、すでに論文・小説集などの英訳・邦訳が三点刊行されている。
同教授は、生前の梶山とは面識がなかったが、「族譜」「李朝残影」など朝鮮ものの作品集(『THE CLAN RECORDS FIVE STORIES OF KOREA』)の翻訳事業にも手を尽くされた。
同書は平成七年四月にハワイで刊行され、一部は日本の書店でも発売された。
先に述べた、この国の文化行政の貧困さなどについて、秋田氏は次のようなエピソードを報告している。
「このコレクションが立派に図書館に保存された直後の事である。女流作家の山崎豊子さんが『二つの祖国』を書く資料取材と研究の為、
一年間ハワイ大学の客員教授として招かれて来た。
……コレクションに興味があるというので案内したところ、この内容を一目見て『これを日本から流出許可を出した官吏を首にすべきだ』と叫んだ。(中略)
そして女史が私の隣の研究室に一年いた間の研究の熱心さ、取材欲を見て、梶山氏がどれだけ自分と家庭を犠牲にしてまで八千点を蒐集したかが分かる様になった」
一『毎日新聞』「いま生きる梶山コレクション」六十二年六月十八日付夕刊)
なお、雑誌類は『新青年』をはじめ約四千点が、司法・捜査・軍事や文壇関係などの書籍約二千点とともに財団法人大宅壮一文庫(世田谷区)に寄贈されている。
一方、事務所(のち季節社)では、早くから各社に問い合わせて、作品リストの整理を始めていた。
小説などは掲載誌が送られてくるし、新聞広告などもあり、まず見落とすことはないが、新聞、PR誌、パンフレット等に書いたエッセイやコメント類にはチェックもれが出るからである。
何年に、何を書いた、どこで講演したという作業をやっているうちに、年譜作りにも手を染めることになった。
夫人は記憶力がよく、かつ几帳面な人で、かなり初期のころから克明に入(イ)リ(原稿料、印税など)と出(デ)(昔の“梶山部隊”のころの取材費・借金、領収書類など)の記録を保存していた。
上京後の苦労時代が長かったからだろうが、『週刊文春』のスタート時、大ベテランだとの触れ込みで編集部に紹介された“梶山部隊”の人たちは、
まったく素人同然だった当時を振り返っていう(「トップ屋時代の梶山季之!」『追悼号』)。
岩川 隆 梶山さんご本人は、非常にマメな人でしたね。
我々兵隊がボヤボヤしていると、こっちの二倍ぐらい動いて、さっさと取材の芯をつかんでいる。
加藤憲作 とにかく、梶山さんとしては、我々をかかえてヒヤヒヤもののスタートだった。
中田建夫 考えてみると、あの当時は、梶山さんに仕込まれながら文春からお金を貰っていたわけだ。(笑)
(夫人によると、そのころの彼らの月給は一万三千円ぐらい。取材費は週に一万円ぐらい使っていた。
一方、梶山は文春社内に資料室を設け週刊誌などを自腹で買い、女性をひとり置いて資料作りをさせるなど、毎月かなりの出費だったという)
岩川 あのころの梶山家の生活費は、『愛の渦潮』っていう、ラジオのリサーチ・ドラマなんかで賄っていたそうですよ。……
中田 取材があがるのが、夜の七時ごろだったから。
岩川 あのころの奥さんときたら、獅子奮迅で休む間もないようだったね。
トップ屋時代の梶山さん、というと、ぼくなんかすぐに奥さんがまったく梶山さんと一心同体で気を使い、苦労されていたことを思い出す。………
という夫人の苦労は、作品リストや年譜作りにも大いに役立った。
しかし、梶山の証憶と違うときがある。別に言い争いになるわけでもないが、しまいには、伊豆の山荘に持っていって、
何日も泊まり込みでやったものである。
このときの年譜をもとに、傑作集成・第二十九巻に所収の年譜が補強され、死の直後の『別冊新評 梶山季之の世界』にもすぐに役立ったのは、喜ぶべきことかどうか。
ところで、今年(平成九年)、二十三回忌を迎えるにあたり、夫人は梶山の遺志を継いで、 朝鮮、移民、原爆(そしてユダヤ関係)を各テーマとした大部な文集『積乱雲』(仮題)を季節社から刊行する。 多くの人の原稿や資料が中心だが、もう一つの大きな柱として几帳面な夫人が自ら作成した、原稿執筆をはじめ講演・出演など梶山の克明な「仕事の年譜」が収録される。
ソウルでの幼いころの写真が引揚げで紛失するなど、揃えにくいということもあったが、最大の理由は、当時まだ四十歳にもなっておらず、
伝記を作るには若すぎる積極的になれなかったからだ。
「私は、全集などは、生前に出すものではないと思っている一人だ、チボー家の人々や大菩薩峠を上廻る(ただし、枚数においてである)大長編をものにしようと考えている私に、
全集を出せとは、そりゃア、チトつれなかろうぜ……と云うものだ。
しかし、再度のお奨めがあって、自選集ならば―と妥協した。
だが、助手の橋本君から、百八十一冊の本を積み上げられた時には、全く驚いた。
作家生活十一年間に、これだけの本が出ていたのである。一年問に十六冊強というスピードで、私の単行本が生産されていたのである。
出す方も出す方だが、書く方も書く方だと、つまらないことを感心した」(「自選作品集を出すにあたって」『巷説 梶山季之』)
さて、死後十年目の時点では、文庫本がよく売れており、「文庫ブームがあずかって大きいが、…六十年五月までの文庫点数五十九、
総発行部数一千六十二万(生前発行二点、十一万五千)は、現在活躍する作家と比較しても驚異的な数字である。
彼が持つ作品三百二十六冊のうち、ほぼ六〜七割が文庫化されている(『週刊読書人』六十年六月三日号)。
中でも最も読まれているのは、『と金紳士』(四巻)で八十五万五千部、ついで『野望の青春』(二巻)が四十万四千部(ともに角川文庫)、
いずれも梶山が得意とした一匹狼もので、読者は生前の作者を知らない若者が多いという(同右)。
ちなみに、季節社によると、これまで刊行されたものは、単行本等は自選集、傑作集成を含め三四〇点(死後、二十三点二十四冊を含む)を超え、
文庫本は、角川書店の五十二点を筆頭に、十一社から一八八点(生前二点、三冊)が出され、発行部数はそれぞれ千六百万部と千七百万部を超えているという。
すでに作家生活より死後の年数が長く、発行部数もはるかに生前を上回っているのである。
ところで、『せどり男爵数奇課』(『オール讃物』四十九年一〜六月号連載)という、古本業界をはじめ、珍本奇本の世界を扱った作品がある。
タイトルも「色模様一気通貫」とか「半狂乱三色同順」などと、毎回マージャン用語をつけた凝ったものである。
これを桃源社の矢貴昇専務(当時)が、四六判のほかに二種の限定本を作ってくれた。
四十九年九月のことで、限定五部の超豪華本は三方(さんぽう)金(きん)総トカゲ革張の表紙で、其ノ壱はもちろん梶山家にある。
もう一つの限定五十部は、定価一万五千円。ワニ革張の表紙、こちらは天(てん)金(きん)のみであった。
書物の世界を題材にしており、好事家が喜ぶだろうと、矢貴氏自身もビブリオマニア(愛書家)ぶりを発揮した。
梶山は出版社が損をしないかと心配していたが、内心満更でもなかったようだ。
また、『女の警察』(四十二年五月刊)はさして宣伝もしないのに、版を重ねていた。
ある日、版元の新潮社から三十万部を超えたとして、何の前触れもなしに総革張の豪華本二冊が届けられた。
梶山は手にとって、「ふうーん」と一言いっただけだったが、嬉しかったにちがいない。死の直前、五十年四月末のことである。
この二点といい、先の作品集なども、志半ばで倒れた梶山にとっては、まとめて頂いていて大変よかったのではないかと思う。