「梶山季之」 「教師と作り話」その2

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レスビアン

「レスビアン殺人事件」「苦い旋律」「青い旋律」など、女性の同性愛を扱った小説がいくつかある。 そのために、梶山は恋人同士のホステスと女子大生に数万円も払って、港区内の彼女らのアパートで、その“愛し方”をつぶさに見学、いや取材したことがあった。
 残念ながら、私はそういう取材には連れていってもらえない。勝手に想像するしかないが、かなり異様な光景だったようだ。 相手の泣き所というか、感ずるところは同性ゆえによく分かる。
 つまり、その部分を責めるから、相手は参ってしまう。それを知ると、男では満足しなくなる、と真顔で語っていた。
 四十二年から翌年にかけて「苦い旋律」連載中に、読者から『女性セブン』編集部にさまざまな体験記が寄せられた。 すぐさま、それらのいくつかが小説に織りまぜられて読者に届けられる。 ネコ(女役)とかタチ(男役)という役割があるようだが、彼女らはまるで自分たちがヒロインになったかのように、酔い痴れたことだろう。
 ある日自宅に、「先生は(レズのことを)ちっとも分かっていない!」と抗議のハガキがきた。 見ると、桜の花びらのマークに“東”の字の判が押してある。 現在池袋サンシャインシティになっている、未決囚を収容していた東京拘置所からで、差出人はもちろん女性である。
 本当のレズを教えてやる、との申し入れであった。さっそく取材に行ってきてくれという。 仕事上の命令とはいえ、しばらくは悩み? ました。それまでの二十数年、拘置所などに縁のない人生を送ってきた私である。しかも、会うのはまったくの赤の他人ではないか。
 面会は朝八時から、一日に二組しか許可しないとそのとき初めて知ったが、朝早く、知らないオバサンに会うのは、ゾッとしない気分だ。

 それだけではない。身内でもないし、面識もない相手に、そのハガキ一枚もって会いにきた私に、看守の男は好奇の目を注ぐ。 “梶山季之 助手”という私の名刺を見て、“カジヤマトシノスケ テ”と読んで首を傾けている。 作家の助手だというと、へえ、そんな職業があるんですかと聞く。そう、当時は看守さえ知らない職種だったのだ。
 彼女は五十がらみで恰幅がよく、わしは下着から洋服まですべて男物を身につけていると、まず軽く私をいなした。 そこに入っているのは、詐欺を働いたからだという。
 金網越しに、三分といわれた面会時間を十分近く、なんとか彼女の一方的な話を聞いて、早々に退散した。 簡単な取材メモを提出したが、ついに何の小説にもならなかった。
 その女サギ師は、『女性自身』などにも話を売り込んでいたことが分かったからだ。

ホモ

『週刊文春』編集部からだったと思うが、どさっと手紙の束が届けられた。 会員誌を通じて、ある中年男にあてた若い男たちからのラブレターで、三百通近くあった。
 梶山には、松尾芭蕉の男色を描いた初期の作品「合はぬ員」や、「どんでんがくる」「からまわり」など、男の同性愛を描いた小説がいくつかある。 対談などでも何人か、その趣味の人に会っている。自らの体験では、ニューヨークで黒人の巨大な逸物に恐れをなして逃げ出した、 などという話がある程度で、その趣味はなかったようだ。
 さて、その手紙の束だが、助手としては興味本位ばかりでなく、小説の材料になるかどうかの分析もしなければならない。 さっそく、近くのコピー屋さんに行って、写しを取って調べてみた。四十二、三年ごろのこと、コピー機も古い湿式の時代だった。
 いずれも熱烈なラブレターである。中には、写真だけでなく便箋の上に、自らの体液を染み込ませたものもある。 彼らの職業は自衛隊、警察官、肉体労働者など、男性的な仕事が多く、また地方からの手紙が多かった。
 結局、これも小説の材料にはならなかったが、おかげで私は、男の同性愛にはホモ、おかま、ゲイ、また女装愛好など、それぞれに違いがあるということを知った。

 私の本格的な取材は、四十三年四月のカルーセル麻紀だったが、先の男装のサギ女といい、取材相手は選ぶことができない。
 有名人に会うのは初めてだと本気で尻込みし(すでに梶山という有名人の家にいることも忘れて)、しかも男か女か分からない相手では……。 しかし、仕事である。ここを突破しなくては、物書きへの道もなくなる、と悲壮な? 決意で高級ウイスキー二本を持たされた私は、 六本木近くの“彼女”のマンションを訪ねたのだった。
 そんな私に不安を感じたのだろう。梶山は二十数項目にわたる質問事項をメモして渡してくれた。 家庭環境は? いつから女になりたいと思ったか、男性遍歴について? 今までどういう生活をしていたか、地方での思い出、苦労話、後悔をしたことはないか、 などと具体的かつ細かいものだった。

 当時、二十四、五歳の私と同年の彼女は、はるかに大人だった。小柄で、色白の肢体をなまめかしいネグリジェに包んでいたが、初(うぶ)な私に自慢の入れ墨など見せてはくれなかった。 カラッとした男っぽい気性なのに、どうして男しか愛せないのか不思議な気がしたし、それが分からないでは取材は失敗ではないかと不安でもあった。
 やがて、「実名小説カルーセル麻紀」は、『小説セブン』(四十三年七月創刊号)に掲載され、いくつか取材原稿が使用されていたのを見て、 私は内心ホッとしたものである。

 四十四年五月、ある若い男が売り込みの電話をかけてきたので、会ってみるとホモだったというのもある。
 お金に困っている、自分のネタを買ってほしいという。聞いてみると、週刊誌に紹介されたほどの、その世界ではちょっと名の知れた男で、 芸能人との付き合いも多く、ウソかマコトか西郷輝彦、太田博之、ジュリー(沢田研二)、マリー・オリギン(女性占い師)らとの交遊をしゃべった。
 だが、こういう世界から足を洗い、大阪へ行って、心機一転、一から出直したいと、私といくらも年のちがわない彼は、殊勝なことをいう。
 しかし、面白い話だと思っても、私はあくまでも代理である。その話をいくらで買うのか、言い値どおりに出す価値があるのか、 的確に? 判断しなければならない。三万円といえば一万円に、一万円ならば五千円になどと控え目にいうのが私の仕事である。 それでも、当時大卒の初任給は二万五千円から三万円だったことを思えば、かなりの金額である。
 翌日もつ一度、喫茶店やレストランで、都合五、六時間付き合ったのだが、別れ際に相手から、 「ずっと見ていたんですが、橋本さんは仲間じゃないですね」と、未練たらしくいわれたのには、ア然とした。 何のことはない、私の方が取材されていたのだった。
 なにがしかの金を渡して、それっきりになった。と思っていると、数年たった二月ごろ、また金に困ってと電話がかかってきた。 やっぱり、その世界から足が洗えなくて、新宿辺りで労務者をしながら、宿に困っている地方出の大学受験生を、安宿に案内して添え寝してやるんです。 心細い彼らに、せめてもの親切心からですよ、と。
 この時の謝礼もわずかだったが、行儀の良い芸能人はたいがいホモ、あるいは世に出るために師匠に仕込まれた疑似ホモですよ、 などと教えてくれたものである。

 作家助手をしていると、好むと好まざるとにかかわらず、いろいろな人に出会う。 のめり込んではいけないし、かといって、せっかくのいい素材を逃しても申し訳ないと思うから、そういう時は緊張の連続であった。

編集者も苦労する

 助手になる前、集英社でアルバイトをしていたとき、高名の作家が週刊誌に発表した連載小説を単行本にする仕事を手伝ったことがある。
 琵琶湖周辺で事件が起こる推理ものだったが、女主人公が現実には走っていない区間のバスに乗っている。 これはおかしいと気づいた担当者が、おそるおそるその先生にお伺いを立て、うまく辻棲が合うように修正していた。
 週刊誌の連載ものは、往々にして書き飛ばしが多く、単行本にするとき矛盾のないようにしなければと編集者は苦労する。 その時は、(作家より)編集者は大変なんだなあと思ったものである。

 梶山の場合、いちばん多いときで週刊誌の連載を六本も抱えていた。
 四十六年夏ごろのことで、『週刊文春』に「続・と金紳士」、引き続き「現代源氏物語・いろはにほへと」、『週刊ポスト』(小学館)に「うぶい奴ら」、 そのあと連載対談、『週刊読売』(読売新聞社出版局)に時代小説「彫辰捕物帖」、『週刊アサヒ芸能』に「小説・総会屋 みんな黙れ!」、 『週刊明星』(集英社)に「やらずぶったくり」、『週刊プレイボーイ』(集英社)に「にぎにぎ人生」と、主な週刊誌に顔を出していた。
 同時に、新聞連載は『スポーツニッポン』に「エアー(AIR)」、『夕刊フジ』にエッセイ「あたりちらす」の二本と、 『婦人公論』に「甘い道草」、『王婦の友』に「妖しい花園」と婦人月刊誌にも二本ある。
 ちなみに、主舞台である中間小説誌にも数多く発表している。この年だけで『オール讀物』八本、『小説新潮』六本、『小説現代』八本、 『問題小説』十二本、『小説サンデー毎日』五本などで、別冊を含めるとさらに増える。
 当時、四十一歳の梶山は脂の乗り切っていた時期だが、これを粗製濫造と見るか、それだけ人気を博していた、 売れていた(編集部が欲していた)と見るか、私は結論を出す立場にはない。

 このような状況で、よく混乱しないものだと不思議がられたが、前週のゲラ(製本する前の印刷物)を読み返すだけなのに、ミスは少なかった。
 しかし、単行本にするときに、前述と同じように修正することが何回かあった。
 たとえば、『悪女の条件』の場合は発行元の光文社から、せりふの中で“名神高速道路”とあるのは、単に高速道路でよいのではないかとの指摘があった。 伊丹空港へ行くのに名神を使わない。大阪では高速道路といえば、市内線のことをさす。市内線は梅田ビルから二十分位で空港へ着くというのだった(四十三年十月ごろ)。

 単行本化の時、新たに組んだゲラ(著者の校正用)が送られてくる。 梶山は忙しいので、まず私が見て、次に夫人が目を通し、疑問点を梶山にただすという手順を踏むことが多かった。 『色魔』(青春編・怒涛編・完結編、徳間書店、四十三〜五年刊)のゲラを見ていたとき、時代は昭和のはじめなのに、“オーケー(OK)”というセリフが出てきた。 全体から見れば、さしたる問題ではないのだが、やや気になって、英語の辞書に当たってみた。 日本で広く使われるようになったのは戦後のことなので、やはり修正してもらった。
 四十五年ごろの、作品の名は失念したが、国電・中央線の車内の描写で、立っている客が真ん中のポールに寄り掛かっているところがあった。 すでに車両は改良され、ポールはもう無かった。
 そうか、最近は余り電車に乗る機会がないのだなと思いつつ、これも「?」マークをつけて、夫人に渡したのだった。

 こういう“直し”については、わりあい簡単に受け入れたが、中には、勝手にしろと怒り出すものもあった。 四十九年ごろから、あらゆるものに差別表現だとメクジラを立てる人たちが、特定の週刊誌をネライ撃ちし始め、連載中、担当者から何度も、 表現を変えてほしいと電話がかかってきた。
 はじめのうちは、まかりならんと言っていた梶山だが、先方のオシの一手に半ばあきらめ、どうぞご自由にとなり、やむなく私たちが対応し、 本人はいつの間にか“カヤの外”に置かれてしまっていた。自分なりの確固たる考えはあったが、何しろ編集者にいちばん“奉仕する”作家だったのだ。

本質は教師

 広島高師(国語漢文科)を出て教師にならなかったのは、オレと先輩の小石原昭氏の二人だけだと、よく言っていた。 本当に免状を持っているのかといぶかる人もいたが、国語、書道など四つもあると自慢?していた。 もっとも、二十七年、旧制最後の卒業というドサクサ紛れが幸いしたらしい。卒論もわずか十枚だけだった。

 当時の担任だった真下三郎氏一のち広島大学名誉教授)は、いつも欠席が目立つ梶山のことが気になり、卒論提出日は朝から教務課で待っておられたそうだ。 午後四時ごろになって、やっと顔を見せたが、窓口で課員と押し問答をしている。課員は枚数が少なくて受け付けられないという。 問題は枚数よりも中味である。「そこで課員に『卒論の中味を読んで及落をきめるのは私だ。一応受取りなさい』といって受け取らせた。 K君(梶山)は安心したらしく、ニッコリして立ち去った」。「その論文は、表紙に彼一流の太い大きな字で『真下三郎教授提出論文』『嘉村礒多論』とある。 もとより十枚! だから、完全なものでなく、私小説論の序論の序論みたいな内容であるが、悪くない所論であったから、 私は合格点をつけ、彼はめでたく高師を卒業していった」(「たった十枚の卒業論文」『積乱雲とともに』)。
 このエピソードはある意味では“いい時代”を象徴するものであり、これこそ、本当の恩師というべきであろう。
 そして、梶山は実際に教壇に立ったことがある。悲愴な決意で上京した二十八年、二十三歳のときで、 その年九月から勤めたのは横浜の鶴見工業高校の国語教師である。わずか七か月で辞めているのは、替え玉受験(レントゲン撮影)だったため、 身体検査で胸の病気がバレると思ったからだ。

 その作品が情報小説などといわれるように、物価などの数字や客観的なデータをふんだんに使う。 駆け出しのころ、ルポルタージュをやっていたこともあり、時代背景なり風俗をデータに基づいて論ずるものが多く、具体的で分かりやすく、面白い小説になったのだろう。
 つまり、ストーリー展開だけでなく、その時代や社会を浮彫りにするには、主人公の心理だけを追っていたのではダメだ、 また、自分一人だけが分かっているようなものは大衆小説ではないと考えていたからだ。
 そのため、資料を集め、丹念に調べたし、それらのデータを駆使し、スラング、専門語・特種用語なども、さり気なく解説した。 単なる読者サービスというのでもない。

 また、それは自分が初めて? 知りえたことを作品の中で紹介することによって、知識を読者と共有したいという思いもあった。 硬い内容の小説でも、エロとかポルノといわれるものでも、その姿勢は変わらなかった。知識を私物化することを嫌っていたのだ。
 教養という言葉を広義に解釈すれば、梶山の作品の多くは、教養小説であった。読者からすれば、ただ面白いだけでなく、ためになる。 いろいろ新しい知識、とくに他人には聞けない性に関することも知ることができる。

 たとえば、レズを扱った『青い旋律』(四十四年七月)を書くにあたって、梶山は「小説家の仕事の一つは、現代の隠された病根、風俗、流行などを、 読者に伝えることである。少なくとも私は、他の作家に先駆けて、そうした新しい材料を、読者に提供してきたつもりである」と述べ、 人間の性欲には男女問の“正常な”性愛だけではない、さまざまな形があることを小説を通して伝えている。
 そういう意味で、梶山の本質には生来の“教師”というものがあったように思う。 それは、教壇に立つよりはるかに、生徒(読者)にとっては有意義だったのではないか。

劇画化

 小説類の二次使用(映画化等)は先に述べたが、やがて同じく原作を使用した漫画化・劇画化の時代がやって来る。 四十六年ごろから劇画化が盛んに行われるようになったが、先鞭をつけたのは芳文社の『週刊漫画TIMES』だった。
 初期(四十〜四十五年)は、やなせたかし(「悪女の条件」)、針すなお(「妾の整理」)、 白吉辰三(「てやんでエ」)氏らのマンガ家が一回読切り形式で漫画化したものを掲載、他社も同様に漫画を載せはじめ、 やがて劇画の連載ものが主流となっていった。
 当時は今とちがって、漫画化・劇画化など思いもよらない時代であったが、モチは餅屋というか、編集者の時代を見る目はさすがといえる。

 連載ものを列挙すると(タイトルの下の*印は『週刊漫画TIMES』誌を指す)、
「梶山季之名人シリーズ」*四十六年五月二十九日号〜(10回)画・水島健一朗
「色魔」*四十七年五月十三日号〜(26回)
「苦い旋律」(少年画報杜・『ヤングコミツク』)四十七年七月十二日号〜(14回)画・上村一夫
「と金紳士」*四十八年一月六・十三日号〜(51回)
「すけこまし」(徳間書店・『増刊アサヒ芸能コミック&コミック』隔週刊)四十八年六月十三日〜(21回)
「どんと来い」*四十九年一月五・十二日号〜(20回)
「かんぷらちんき」(『増刊アサヒ芸能コミック&コミック』)四十九年五月一日号〜(10回、休刊)
「にぎにぎ人生」*四十九年六月一日号〜(30回)
「かんぷらちんき」(芳文社・『漫画パンチ』隔週刊)四十九年十一月二十六日号〜(16回)

 五十年には、二月から「見切り千両」(画・辰巳ヨシヒロ)が『週刊漫画TIMES』で、八月から『漫画パンチ』で「くんずほぐれつ」が始まった。 痛快な男の生き方、分かりやすいストーリー展開に、お色気の要素も加わって、サラリーマンなど成人向け漫画誌には格好のものだったのかもしれない。
 いちばん多く掲載した『週刊漫画TIMES』の「色魔」「と金紳士」などの画はいずれも横山まさみち氏による。 同氏は、このあと創刊された『日刊現代』などでも活躍するが、不思議なことに梶山とは一度も会う機会がなかった。

 これら連載をまとめたコミック単行本は、四十八年から次々に刊行された。 まず芳文社から『色魔 青春怒濤編』(二月)、『同 大陸無頼編』(三月一、『同 人生昇龍編』(四月)。 さらに『と金紳士 歩の巻』(八月)、『同 桂馬の巻』(十月)、『同 金の巻』(十二月一と続き、初版はいずれも五万部であった。 少年画報社からも同六月に『苦い旋律』が出ている。
 四十九年に徳間書店から、『すけこまし』(前編・一月)、同(後編・六月)、『かんぷらちんき』(十二月)が出され、 芳文社の『と金紳士』は角の巻が三月、飛車の巻が六月、王将の巻が八月と続き、さらに『どんと来い』上・下巻が、五月・七月に出ている。
『週刊文春』に四十三年七月から丸三年連載された小説『と金紳士』は、四十四年から四十六年にかけて文藝春秋から新書版・四分冊(歩の巻・金の巻・海外雄飛の巻・王手飛車の巻)で出された。 しかし、この四十八、九年秋には、新装版として再度発刊され、原作と劇画が同時に書店に並んでいた。
 原作者としては、ポルノ的なものが多いから、つまり、そこだけが誇張して描かれるからと、あまり好ましく思っていなかったが、時代はマンガ花盛りへと移行する時だった。

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