「梶山季之」 「「エロ」と「ポルノ」」その2

インデックスへ    前のページへ    次のページへ


「エロ」と「ポルノ」

 四十七年、『週刊新潮』に梶山はエッセイ「ぽるの日本史」を一年間連載したが、これには毎日、古い資料をあさるなど、かなり時間がかかり原稿も遅れがちだった。
 そして、「瞳ちゃんがイヤがるからなあ、(「男性自身」と)同じ折(おり)にならないよう気を遣っているよ」と、 当時入院していた北里研究所附属病院に顔を出した私に、ポツリと漏らしたことがある。
 その山口瞳氏は「梶山季之の経緯(いきさつ)」で、こう記している。
 「梶山季之がポルノ小説を書きはじめたとき(この方面で彼は先駆者だった)、彼は私がいい顔をするわけがないことを承知していた。 誰かがポルノ小説を書いてもかまわないけれど、彼にはポルノや滑稽小説は向いていない。梶山の真骨頂はそこにはない」(『男性自身』)

 では、梶山の所感を聞こう。
「一口にポルノ、ポルノというが、私の場合は決して平坦な道を歩んで来たのではない。
 刑法第百七十五条に、挑戦するという大きな課題もあったが、本当のことをいうと、今までの日本の大衆小説に慊(あきた)りなかったからである。
 男と、女とが、恋をして、セックスをする。
 これは、当り前の話だ。
 こんなことを、のんべんだらりと書いていても仕方がない、と私は思った。
 そこで先輩作家の書いた恋愛小説を読破して、そこに欠如しているものが、セックスにおけるノウ・ハウである、 つまり性的なテクニックの描写がないことだと、気づいたのである。
 私以前の作家で、そうした性的知識を読者に伝えよう(若しくは教えよう)とした作家が、果たしていただろうか?
 私は、どんな男女の体位があるか、テクニックがあるか……ということを、小説を通じて、読者にわかりやすく説明(若しくは解説)した積りである。
 今だから告白するが、これは大変な作業であった。
 なぜなら、現在よりも過酷に、警視庁の目が光っていたからである。
 まず、その度胸を買ってもらいたい。
 これは、荊の道であった。……私は、セックスを、人間の二大本能だと思うが故に、とりあげたのである」(「頭に来たぜ俺だって・ポルノについて」)。

 また、次のように、心情を吐露する。
「命を賭して
 わたくしを、エロ小説(家)と見做す人が多いようだが、この『日本の内幕』を一読されると、 私がかなり硬派のレポーターであったことが、お判り頂けると思う。
 そのために、私は、“エロ”と云うことで警視庁に苛められた。 しかし、そのことについては、なにも遺恨に思ってはいない。ただ、行政上の、いやらしさを、みにくいと思うだけである。
 事実を書く。それは作家にとっては、命をかける、いや、家族のすべてを賭ける大変な仕事だ。 しかし、日本には、そんな作家はいないようである」(四十九年十月桃源社刊『傑作集成28 日本の内幕』あとがき)

 この「日本の内幕」シリーズを担当した高橋呉郎氏(のち『噂』編集長)は、さらにくわしく証言する。
 同氏の初仕事は日米の共同実戦計画をスッパ抜いた「S・ドラゴン作戦」だったが、当時“刑特法という厄介な障害”に阻まれそうな状態で、 具体的な地名、数字などは「伏せ字」にして掲載しようという慎重派のI編集長に対し、「伏せ字なし」を主張した。
 防衛問題を何とか頬かむりしようとする政府だが、「この計画を公表したからといって、当代の流行作家を逮捕したりしたら、 ヤブをつつくようなものだ。佐藤首相も、それほどバカではないだろう」と思ったからだ。
 当時「週に三、四回は梶山さんと酒場で顔を会わせていた」が、あるとき、「伏せ字の件を話したところ、梶山さんは、さりげなく答えた。 『あれでおれたちを逮捕するだけの度胸は、今の政府にはないと思うね。ただからめ手でいやがらせをされるかもしれんなあ』」と。 案の定、翌年には『女の警察』が、ワイセツ容疑で警視庁に摘発された。 「梶山さんがたしかな筋から得た情報によると、『日本の内幕』シリーズの何本かのレポートが、権力者側の目ざわりになったという。 つまり、テキは“エロ作家”という刻印を押すことによって、梶山季之の信用失墜を狙ったのである」(徳間文庫『日本の内幕』ノンフィクション選集(1)解説、六十年十月刊)。

 また、時が経つと、こういう見方も出てくる。
 広島二中時代の同級生だった吉田熈生氏(現・城西国際大学教授、文芸評論家)は、 同窓会誌で松本正氏のインタビュー「生前、早大のゼミだったか、梶山は文学史に残る作家だろうか、という議論があった……」に答えていう。
「もう『黒の試走車』の作者として文学史に載っている。社会派推理小説の書き手として松本清張や水上勉と一緒だよ。 将来文学史の考え方がもう一段変われば、ポルノ作家としてだって残るさ。大衆文学時代の性風俗文学を無視できないんだから」 (「二二会東京支部会報」第一一号、平成四年)。

 ちなみに、『噂』尼崎支部のメンバーだった佐々山林一さんや、個人誌『正觀(せいかん)』で独自に梶山季之研究を発表する水原肇(元読売新聞記者、大阪在住)さんなど、 市井の研究家は何人もいるようだ。

篋底記

 先の『頭に来たぜ俺だって』には、さらにこういう表現がある。
「なぜ、世の人々は、セックスを、闇雲に無視しようとするのか。
 それが、私には、わからぬ。
 食欲、そして性欲、これは人類の二大本能なのだ。
 それを無視して、文学作品が通過できるであろうか。
 ポルノ小説について、目くじらをたてる文化人の多くは、五十代を過ぎた(ハッキリいえば、アソコの役の立たなくなった)人たちばかりだ。
 しかし、私は、
<では、手前たちは、若いころ、なにをやっていたんだ>
 といいたい。私の手許には、いろんな資料があるし、いつでも公表できる。
 また世間に公表して、その鉄面皮をあばきたい作家も、数人はある。
 だが、それをしないのは、同業者であり、先輩だからである。

 トップシークレットを握り、いつでも公表できる資料があるだろうことは、親しい編集者ならたいてい知っていたようだが、 それがどんなものか分からなかった。
 五十年九月、私は創刊間近の日刊現代に入社した(五十二年七月退社)。 百か日もすみ、とりあえず一段落したと思い、親会社である講談社の榎本昌治氏の口利きで面接を受けたのである。
ちなみに、同氏の推薦理由は、梶山の葬儀のとき私が比較的冷静に働いていたからという、いかにも文壇冠婚葬祭係らしい評価からだそうだ。

 就職したからといって、梶山家と縁が切れたわけではない。 夫人には親戚や相談する人は多くいても、仕事半ばで倒れた梶山の後始末をするのは大変である。 細かいことは長年いた私たちでないと分からないこともある。
 市ヶ谷の自宅だけでなく、休みを利用して伊豆にも行き、整理の手伝いをやった。
 そんな十一月のある日、二十七日庵の戸棚の奥の引き出しから、白い紙に丁寧に包んだ原稿が出てきた。 一枚目に大きな文字で「篋底記」(遊虻庵山人)とあった。当時、編集部にいた私は、さっそくそのいきさつを書いて、川鍋孝文編集長(現・社長)に提出した。
「原稿用紙五〇枚ぐらい、いつごろ書かれたかは不明。 『トップ屋・小説書きとして、マスコミでメシを食って十六、七年、いろんな事件にぶつかり、活字にできないような、 すべてプライバシーにふれることばかりに接して来た。(中略)活字にする、しないは別として、書き残しておくことは、なんらかの参考になると思う』という書き出しで始まる。
 このメモは、五十音順に、人名と事件が列挙されており、サービス精神旺盛といわれた故人の、知られざる一面を見る思いで、 びっくりするようなことばかりだったという」(『日刊ゲンダイ』五十年十一月十四日付)。

五月十一日

 梶山の命日である。
 死の二日後、私も香港のクイーン・メアリ・ホスピタルを訪ねた。 何十人もの中国人患者がいる病室の、高い天井からいくつもぶら下がった、大きな四枚羽の扇風機が、けだるく回っているのが印象的だった。 この病院は、往年の名画『慕情』の舞台として有名である。映画好きの梶山が、そのことに思いをはせたかどうか……。

 ところで、それ以前の五月十一日前後を、電話ノートにより振り返ってみよう。
 四十一年 『週刊新潮』に連載中の「女の警察」が警視庁に摘発される。(五月十三日付毎日新聞ほか)
 四十二年 文春講演(九州地方)。四月『生贄』(徳間書店)、五月『五年まえの女』(桃源社)、『女の警察』(新潮社)、それぞれ出版される。
 四十三年 『週刊現代』に連載中の「かんぷらちんき」と、『週刊新潮』に掲載の「スリラーの街」が摘発され、警槻庁に呼び出しを受ける。
 四十四年 十日(土)、新潮社出版部より、『週刊現代』掲載(中断)の小説「ああ、蒸発」の出版の話あり(不成立)。
 四十五年 月曜日、『小説新潮』(七十枚)、『小説現代』(六十枚)、『週刊実話』の連載など重なる。父勇一氏、女子医大に入院中。 一日、前年度の収入、文壇所得番付一位の発表。寄付の申し込みが多くなる。
 四十六年 和歌山新報の講演。一方、東京のデパートで、為書のある色紙が売り出されるのを知り、手を尽くして回収。
 四十七年 (四月に喀血)女子医大を経て、北里病院に入院中。
 四十八年 毎日新聞社出版局の星野・武田両氏来訪、赤坂・千代新で会合を持つ(五名)。次の仕事の依頼で。
 四十九年 『夕刊フジ』および『週刊小説』の連載。九日、伊豆地方に、近来まれな大地震が発生。人災はなかったが、書棚の本がかなり落ちた。

 偶然だろうが、毎年いろんなことや事件が起こるものである。 なお、警視庁に摘発とは、先の“「エロ」と「ポルノ」”で紹介したように、いわゆる別件逮捕のことである。 政財界の腐敗や汚職など、権力者にとって都合の悪いことを、嗅ぎ付けられたり、小説に書かれたりすると、やんわりとワイセツで摘発という対抗手段をとる。
 そして、これに呼応して、鉄道弘済会では、次号の(摘発された小説を連載中の)週刊誌を取り扱わないという“経済制裁”を行うのだった。

前科一犯

『大統領の殺し屋』(四十九年四月刊)のあとがきに、
「この作品は、すべて架空の物語です。しかし、もし事実の部分があるとしたら、筆者がなんらかの形で報復されることでしょう。念のため。筆者」と書いて、一年後……。
 五十年五月十三日、香港。夜七時すぎ、私は夫人と美季さん、それに現地在住の日本人、領事館員、日本航空の人々と一緒に、梶山の仮通夜に臨んだ。
 外地であり、突然のことで参列する人も少なく、式は三十分ほどで終わったが、私はしばらく棺のそばにいて、中国式に長い線香を三本ずつ上げていた。
 ホテルに戻った途端、非情にも“梶山氏、謀殺される”のニュースが飛び込んできた。 現実を目の当たりにした私は「?」と思ったが、その夜は蒸し暑く、なかなか寝つかれなかった。

 それはさておき、
「憲法では、言論の自由を認めているのに、刑法ではワイセツ罪として、言論を取り締まる法規を認めている。
 こんな矛盾したことが、あってもよいものだろうか。
 そもそも犯罪とは、加害者と、被害者があって成立するものである。
 しかし、ワイセツ文書の場合、被害者がいるだろうか。
 私のポルノ小説を読んで、犯罪を実行したと云うケースは、未だにないのである。
 にも拘らず、私は過去三回、“加害者”として、警視庁に取り調べを受けている。
 被害者が、まったくいないのに、警視庁の保安課の人たちが、これはワイセツである、と判断すれば、作家も、映画製作者も、雑誌の編集者も“加害者”にさせられるのである」(『ぽるの日本史』)

 四十二年の春、私は代理で渋谷区東三丁目にある簡易裁判所に行き、いわれたとおり“金五万円也”の罰金を払ってきた。 前年、警視庁にワイセツ文書のカドで摘発された『女の警察』の略式裁判の結果である。
 当時、一日の労役は五百円相当である(しばらくして千円になった)。百日分働くより、現金で支払ったほうがラクだと、私でも思ったものだが……。
 あとで、広島二中時代の友人で弁護士の水谷昭氏に話すと、「だめじゃないか。たった五万円でも、払ってしまえば、前科一犯になるんだぞ」と叱られたそうだ。
 あっさり認めてしまったわけだが、梶山にしてみれば、ポルノは別件逮捕、政治家らの嫌がらせでしかないと、軽く思っていたフシがある。
「もっとも、田中(角栄)さんばかりでなく、政治家どもは、それぞれにけっこう、悪事を働いているのであるが、私は、それを知っている。 そして小説に仮託して、その事実を暴いている。するとすぐ、ワイセツ容疑で桜田門ホテル(註・警視庁のこと)からお叱りがくる。 ここにも、立法、行政、司法の不潔な癒着のハダがのぞいているのだ」(「政治は人なり」『政界往来』五十年一月号)。

呼び出し

“別件逮捕”についてはすでに触れたが、四十三年五月八日付の『東京新聞』に、「当局がねらい撃ち! 連続受難の“性豪作家” 当の梶山季之氏は音無しの構え」と報じられた。
 描写がワイセツという理由で、摘発の対象となったのは『週刊現代』に連載中の「かんぷらちんき」(三月十四日号)と 『週刊新潮』(五月四日号)に掲載の小説「スリラーの街」であった。
 もちろん、ネライは別件で、当局は福島交通事件を扱った別の小説「勝てば官軍」(『オール讀物』四十二年十二月号)や、 証券業界に題材を採った「乗っ取りの背景」(『別冊アサヒ芸能』四十三年二月号)あたりの関係者から、面白くないと横ヤリが入り、 それを受けて当局はちょっとお灸をすえてやろうとなったのではないか。

 その後もある。
 四十九年六月、『問題小説』七月号に掲載の「銀座ナミダ通り・大人の浮気」が摘発された時の警視庁の対応、マスコミの動き、梶山自身の言動を、 当時の電話ノートより再録してみよう。
 六月十九日 日経より、「銀座ナミダ通り・大人の浮気」が摘発されたが、との電話あり。梶山は取材旅行中、と答える。 問題小説のほうでは何ら動きなし。
 同日 共同通信より、同誌が発禁処分となり、警視庁保安課がいずれ事情を伺うとのこと、梶山にコメント依頼。
 同日 問題小説より連絡あり。警視庁から五、六人、ワイセツ云々の捜査令状を持ってきた。記者クラブで発表の由。 二十三冊押収。紙型は凸版印刷にある……。
 同日 夕刊ニッポンより、緊急インタビューの依頼。旅行中でもありノーコメント。
 同日 再び問題小説より連絡あり。梶山のほうに影響しないよう処理することを当局と話し合った。証拠物件として原稿を提出。明後日呼ばれている……。
 同日 フジTV報道都より、今朝の件につき…、と。ノーコメント。
 同日 NETアフタヌーン・ショーより、一週間の問題を取り上げて、事件関係者に三〜四分話をしてもらいたいとの出演依頼(六月二十六日の予定)。お断り。
 同日 朝日新聞社会部より、警視庁から連絡があったか? 梶山は?
 二十日 問題小説より、編集長、配本伝票など任意提出。明日、四時間ぐらい取り調べがある模様。内密の話だが、梶山のほうまで累は及ぼさないことに……。
 二十一日 週刊新潮・週刊ポストより、取材の申し入れ。いずれもノーコメントに。
 同日 問題小説に問い合わせ、本日は友好的に雑談、会社組織・編集会議などについて、この小説は大人の童話、他の作品のほうがむしろ……と。
 二十二日 週刊読売より、断固戦うなどとのコメントがほしい……。
 二十四日 問題小説より、桜田門(警視庁)から呼び出し、二十七日ごろ出頭してもらえないか。所用時間は一時間ほど。旅行中につき、連絡とれず。
 二十五日 問題小説に連絡、近いうちに出頭する旨を伝えてほしい。
 二十六日 問題小説より、出頭の際、五階の映写室(ブルーフィルムなど)へ。保安課では新聞記者が待ち構えているので……。メモにするか、いきなり調書をとるか?
 七月一日 問題小説より、桜田門から問い合わせ、四日か五日はいかが?
 四日 警視庁より、五日の四時〜五時、通用門から中へ。その時間は不都合と回答。
 五日 警視庁より、八日午後一時、刑事部菊屋橋分室まで出頭願いたい。
 同日 警視庁へ、十日あるいはそれ以降に。新聞記者がうるさいので場所を変えた由。
 〔九日 (これは別件!) 警視庁警邏総務課より、外勤警察官向けの機関紙に原稿の依頼あり〕
 同日 警視庁より、はっきりした予定を。十二日三時ごろ、病院の後に。菊屋橋に出頭。
 十二日  夕刊フジより連絡、担当者が警視庁防犯一課に出頭。梶山の連載小説「やめてよ、あなた」の表現が問題小説と同じで、検挙相当となった由。
 十三日 伊豆の梶山日く、言論の自由を刑法で取り締まるのはどういうことかとカミついたので、夕刊フジの場合はその報復だろう、と。

 態度はいつも、首尾一貫している。言い訳もしない。作家は書くことによって、自分の考え・主義主張を述べる。 ペン一本の力は小さくても、発言の機会を与えられているだけでも、一般市民に比べれば幸せなのかもしれない。
 しかし、この国では正義は必ずしも通らないのは、今も昔も変わらないようだ。

前のページへ    次のページへ


お問合せは・・・ kenha@wj8.so-net.ne.jp