からむコラム目次

からむコラム 2002年11月下旬号

10月下旬号     12月号


「今、なぜクリントン?」
 さきごろ、水戸市を中心とする企業経営者で作るボランティア団体が、ビル・クリントン前アメリカ大統領を招いて、 地元の高校生千数百人を相手に「希望」という演題で講演をしてもらったという。
 4度目の手紙でやっと、OKをもらったそうだが、なぜ今クリントンなのかといえば、 彼がかつてケネディ大統領(当時)に会って、握手をしたのがきっかけで、 大統領を志したというエピソードをヒントにしたのだという。
 では、なぜ高校生なのか。実行委員長曰く、「希望のない子どもが多いと感じていた。若いうちに希望が持てるきっかけを与えたい」からだった。 うーん、さすが経営者(大人)の考えることは、素晴らしいといいたいところだが、短絡的な人選こそ、 希望のない選択ではなかったか。
 いや現実に戻れば、いま人気の首相の名を知ってはいても、前やその前の首相の名さえ覚束ないわが国民(あえて高校生とはいわない)に、 政治家になろうという"希望"を抱かせる人物がいないからか?
 しかし、この程度の動機(握手をしたら、大統領になれる!?)ならば、「あゆ」や「ヒカル」を呼んで、 彼らが今日まで歩んできた"人生"(経験)を、本音で語ってもらい、意見交換するほうがマシであろう。
 あるいは、身をもってこの社会に、ケータイでエンコーしたり、フリーターで過ごす以上に、 将来に対する魅力を感じ、希望を抱かせるのが大人の責務ではないか。
 もっとも、ホワイトハウスで、別の執務にも励んでいたクリントンのこと、「大統領になったら、いいことあるよ」と囁いたのかな。 彼を招いた大人たちのホンネは、高校生のためというより、自分たちの憧れだったのかもしれない。

「二度とこのような…」
 この国の役人は「誤らない(間違わない)」ことを前提に"存在"しているらしいが、 間違いを起こしても「謝らない」のが役人の本質である。
 その点、不祥事の続く大企業のトップの謝り方は、潔い印象? を与える。 記者団の前で、一斉に立ち上がり、深々と頭を下げる。しかし心中、「やったのはオレじゃない。 オレが頭を下げるなんて、不愉快極まりない」などと思っているようだから、お詫びの言葉も何かそらぞらしい。
 少し古い話だが、テレビニュースを見ていると、死者も出たある事故の葬儀で、その社長は原稿を棒読みして、 「アイシンより、哀悼(アイトウ)の意を捧げます」といっていた。
 「衷心(チュウシン=本心)」の「衷」をよく似た「哀」と勘違いしたとしても許されるものではない。
 この社長には心から謝る気持ちがないからであるが、もっと注意すべきことは、 部下は日ごろから、上司の教養の程度を知っておき、あいさつ文などでは普段使わない言葉や難しい熟語や表現は避けることだ。 アメリカでは、トップには専門のスピーチライターがついているほどである。 (ブッシュだって、自分で原稿を書いていると思いますか。)
 もうひとつ、気軽に「二度とこのような過ちはいたしません」とか「絶対に…」などと、 身分や立場に関係なくだれでも口にするが、あれは止めたほうがいい。
 しょせん、人間である。同じ過ちをすることはままあるからだ。 二度目、三度目のときは、どう弁解するのだろう。
 そうか、お互い忘れやすい日本人だから、とりあえず、その場を繕えば、事が収まるというのか。 じゃあ、なぜ北朝鮮の"拉致"発言を、蒸し返すのだろう?

「拉致と大岡裁き」
 だれしも予想したことだろうが、"拉致"被害者5人は、故郷(親元)には一時帰国(のつもりだった)したものの、 1か月以上も家族(夫や子どもたち)と離れ離れという、最悪の事態となっている。 自らも子どもたちも"人質"状態である。
 日本と北朝鮮の"政略"の犠牲というべきものだが、彼らにとっては"拉致"も"人質"もたいした違いはないだろう。 本当の母親はどちらかと、子どもの手を引っ張らせ、(痛がる子を見かねて)手を離したほうが本当の母親だとする"大岡政談"のようにはいかないところに難しさがある。
 また残酷なのは、"拉致"被害者の家族のなかでも、「生存」と「死亡」や「不明」「未確認」情報だけの人との"差別"が生じていることだ。 一方で、近隣の住民が署名に群がるのは、"村八分"にされないためであろう。
 それにつけても、連日のマスコミ報道は相変わらずであり、また国や当該自治体の対応も至れり尽せり、 降って沸いた仕事にひたすら勤しんでいるのは、やはりテレビに映るからであろう。
 そこへ、警察庁は拉致"被害者"数十人説を発表した。現実にそうであれば、国や自治体が今のような対応を続けることができるかどうか疑問である。 ここらあたりに、外交でもなんでも、その場を繕う"ドロ縄式"といって悪ければ、弥縫策しかない国家に住んでいることを、 われわれは喜んでいる場合ではない。
 熱しやすく、冷めやすいのがわが国民の弊である。もっと、5人をそっとしてあげたほうがよいのではないかと思うが、 国家思想の違いに戸惑いも見せず、みな風邪も引かず、疲れも見せずというところに、なぜか強靭さを見出し、 わが非"拉致"家族の、脆弱さを思わずにいられない。どちらが幸せの? 国なのか。

(以上、2002・11・24までの執筆)


ご意見、ご感想は・・・ kenha@wj8.so-net.ne.jp