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「ミニ自分史」(1)「顔」

「ミニ自分史」(2)


 "男の顔は履歴書"といったのは、評論家の故大宅壮一(1900〜1970)である。 もっとも、その元となったのは、「人間40歳ともなれば、自分の顔にも責任をもたねばならぬ」という有名な言葉だと、 「家の光」昭和33年10月号に書いておられる。
色紙 (色紙は、大宅塾同窓会編・文集『大宅壮一は生きている』1980より)

 浪人1年後、私が大阪から上京して、大学に入ったのは20歳直前であった。 しばらくして、文学部のあるサークルに加入する際、先輩から「30歳に見える」といわれて、びっくりもしたが、 変に納得するところがあった。
 というのも、大阪(茨木市)で事情あって1年半ほど同居した母から、何度となく「鏡を見なさい」といわれたのは、 "顔に生気がない、それを直すように"という意味だと解釈していたからだ。 浪人時代は、人並みに"暗かった"のは事実である。なお、茨木市が大宅壮一の生まれた地(摂津富田)に近いと知ったのは、上京後である。

 先日(7月16日)、古い友人であるカメラマンの南川三治郎展「僕の窓から」を、 見に行った(銀座の富士フォトサロン、〜22日。以後8月広島・12月名古屋・05年4月大阪)。 彼の個展は数年前の「ベルサイユ宮殿」以来である。
 4、50点はあったろうか。そのカラー写真の配列は統一がとれ、いずれも美しく、パリ生活30年の記録、 すなわち彼が住む街の"表情"が昔も今も変わらないことを伝えたかったようだ。 一方、「東京の街は2か月も留守すれば、変わっている」という。

 久しぶりに会った彼は、私の顔を見るなり、「昔にくらべて、穏やかになりましたね」といい、 つづけて「あのころはきつくて、近寄りがたかったですよ」といった。
 "あのころ"とは、昭和42(1967)年1月に開塾した「大宅壮一東京マスコミ塾」の第一期生として、 ともに学んだ時代をさす。彼は写真大を出たばかりの21歳、三つ上の私は、梶山季之の助手となって、 まだ3月も経っていなかった。
 私は慣れない仕事と緊張感から(ついでにいえば、先輩のイビリもあり)、いつ"クビ"になっても……と覚悟の毎日だった。 自分では分からなかったが、はたから見れば、相当きつい表情をしていたのだろう。

 それから、40年近くが過ぎた。「ノンフィクション・クラブ」の一員として、 大宅先生に可愛がられた梶山も昭和50(1975)年5月に亡くなり、その後、私自身はいくつかの出版関係の仕事に就くが、 40歳のとき、ある出版団体の職員になった。これも、慣れないサラリーマン生活であったが、 梶山の助手時代に知り合った多くの方と再会したのは、新人の私には心強かった。一方、初めての人には、若く見えたらしく、 なかには「28歳だろう」という人もいた。これにも意外な感じを受けたが、肩書(あるいは年功序列)社会で、 "若い"のは必ずしもメリットではないことも思い知らされた。
 ともあれ13年3か月で辞職し、還暦を過ぎたいまも、時おり若く見られるのは、私の顔が"履歴書"になっていないからであろう。 あるいは、母のいう「鏡を見よ」も、ほとんど実行していないせいかもしれない。(2004・07・20)
《参考:71年11月22日、大宅壮一の一周忌に、梶山はノンフィクション・クラブ編による追悼文集『大宅壮一と私』を季龍社より刊行する(執筆179名)》


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