「ミニ自分史」TOPへ。

「ミニ自分史」(124)若き日の思い(怒り・悩み・喜び)など ―抜書き―  2010・08・10 橋本健午

「ミニ自分史」(123)       「ミニ自分史」(125)


1955(昭和30)年4月16日・5月<12歳・中学1年>
 「身体検査:身長142・0cm、体重30・4kg、胸囲61・0cm、座高78・5cm:視力ともに1.5(3年次ともに1.2)」 /「5月テニス部に入りたいとラケットを買ってもらうが、1年間お預け」

1955(昭和30)年2学期・秋と冬休み日<13歳・同上>
 「2学期早々;実力考査;学年で45番/秋、初めての運動会;練習して1500mに出場。 トップだったが「小さいのが速いはずがない」と、もう1周(200m)走らされる」 /「遠足は「また京都か」という具合に京都ばかり行っていた(自宅からのハイキングも京都方面が多かった)」 /「冬:ませた同級生にスケートを習う(梅田リンク)

1956(昭和31)年8月13日<13歳・中学2年>
 「テニス初めての対外試合。練習するもの少なく、2チーム作るのがやっと。全く勝てず」(前衛)」

1956(昭和31)年10月*日/冬休み前<13歳・同上>
 「運動会、1500m6位」/「冬休み前、テニス部で3000〜4000mを何回か走ったが、たいてい成績は良かった」

1957(昭和32)年2月13日/9日<13歳・同上>
 「耐寒マラソン7位(3位に付けていたが、踏切遮断で抜かれる)

1957(昭和32)年5月4日/9日<14歳・中学3年>
 「初のテニス対校試合(島本中に遠征。成績余りかんばしからず。その為か愚痴が多い。コートが悪いとかネットが高いとか、いいたい放題)」 /「島本中学の代表△△より手紙来る。あの事件? の始まりはこのへんからか。『中三にしては、字は下手で誤りも多いが、もしこの手紙を出した事が自分の意思ならば一寸おかしい。 一目我々を見ただけでこんなことを考えるのは子供らしくない。おそるべき事なり』、また「彼女はませているなり」と日記に

1957(昭和32)年6月6日<14歳・同上>
 「此頃流感はやり、我学級も遂に閉鎖となる。しかし、小生は至って元気で流感の気配など毛頭なし」

1957(昭和32)年10月8日<15歳・同上>
 「二、三日 新聞・ラジオから 離れると何も解らなくなる」 /「日本は 弾丸道路を造るよりも悪路を少なくする方が 先決である」(同、南紀で)」…修学旅行記より

1957(昭和32)年10月13日<15歳・同上>
 「運動会;3度目の正直で1500m1位に」

1957(昭和32)年11月12日<15歳・同上>
 「新聞部に入り、テニス部と二つかけもつ事とした。次の日、早や新聞の仕事があったのには閉口した。 しかし、S氏(東大入学)の原稿なので喜んでした」/「軟式野球を学校で生まれて初めてしたが、案外当った」

1957(昭和32)年11月25日<15歳・同上>
 「又、流感が流行っているが、生徒は余り休まなく、先生の方がひどいので、毎日一時間位自習になる」

1957(昭和32)年11月30日・12月24日<15歳・同上>
 「同志社音楽会を聴きに行った。今年二度目であると共に生涯二度目の音楽観賞であった」 /「クリスマスイブ:関響の大音楽会を聴きに行った。辻久子のバイオリンを聴いた」

1957(昭和32)年12月12日<15歳・同上>
 「試験の前日である。担任の教師に呼び出しをくらった。十一月八日に遠足(一日奈良へ行く)の事で、 主に美術に関する感想文(その教師は美術担当である)を書けといったので、その日の教師のだらしない態度を非難したのだが、 一ヵ月も経って、小生は記憶も大分うすれているが、その教師は大いにおこった。しかし、説教はかしこまったふりをしているだけで、 余り耳に入らなく、心では「何をぬかすか」といった調子でお話にならない。 教師の癪にさわった事はわかったが、何とくだらない事だったろうと思うと、変な教師だなと思った。 この時しかられたのは、級長(C君)と、二人だけだった」

1957(昭和32)年12月29日<15歳・同上>
 「暮もおし迫った今日Y君と二人で心ブラと洒落こんだ。雑踏を行こうという事であったが、予想していたよりも人出少なく、がっかりした。 しかし、なかなか勉強になった事もある」
 《“心ブラ”とは“銀ブラ”の大阪版。繁華街・心斎橋をぶらつくこと》

1958(昭和33)年1月13日<15歳・同上>
 「タバコを吸わない決心をする(税金をケムリにするのがいやだから…)」

1958(昭和33)年4月11日<15歳・高校1年>
 「金曜日はカバンの重たい日」

1958(昭和33)年10月28日<16歳・同上>
 「何のために生きているのかわからない。運動会・試験と追われ、またたく間に時間が過ぎてしまった。 何といいがたい空虚さであるか。本当に小生の前には無しかない。本当に無である。何かマヒ状態であるかのようである」/「テニスをやめることにした」

1958(昭和33)年3月1日<16歳・同上>
 「四月一日から売春禁止法が実施されるが、大方の業者は本日限りでその営業を止め、新しく他の仕事により出発するという。よい事である」

1958(昭和33)年3月8日・9日<16歳・同上>
 「卒業式(証書第2197号・精勤賞[3ヵ年])」
 「小学校時代の通知表を調べていたら自分の欠点が書かれていたが、まだその欠点は直っていないようである。早く直さなければならぬ」

1959(昭和34)年2月13日<16歳・同上1年>
 「校内マラソン大会3位(13.4キロ;ただし、不正があったとかで表彰はナシ)」
 《マラソン成績;中I-38位,II-7位,III-1位、高I-3位,II-50位,III-なし》

1959(昭和34)年8月26日<17歳・高校2年>
 「なんど手がけても途中でやめてしまうのが日記である。この日記というものは後世の人のために残すものであろうか、 それとも過去をふりかえって正しく生きるためのものであろうか、今のところはっきり分らない」

1959(昭和34)年11月28日<17歳・同上>
 「午前三時五五分。ああ吾は何のために悩まねばならぬのか。……人間、この中途半端なもの。ああ吾もその一人か。 何故に吾人間として生まれたか。それは宿命か、因果か。ああ語りたい、語りたい、いつまでも。それは罪か、許されざるべきことか。 高貴か、卑しいか。悩むものは馬鹿か、悩むものは……」――そして、四時三三分に終っている。

1960(昭和35)年5月27日<17歳・高校3年>
 「自民党の警官導入、安保強行採決に腹が立つ」

1960(昭和35)年6月5日<17歳・同上>
 「先月30日ソフトボールをやっていて、KRを一発なぐってしまった。私の方が正しいと思っているが、手を出したのは何といっても不覚だった。 私は謝る機会を逃がしてしまったが、その後、仲直りしているはず。日記に天野貞祐の『生きゆく道』のことも書いてある」

1960(昭和35)年6月20日<18歳・同上>
 「本日は余の18回目の誕生日。別にうれしくも何ともない。姉が急に入院して今日、父が茨木の家に来たが、全く異常事でこまる。 母も具合が悪いという。余は手紙を出すべきか。また外部では、安保問題が取りざたされ、余の心は完全に空虚で、たい廃的になってしまった」

1961(昭和36)年5月15日<18歳・大学浪人中>
 「私は現在、数学の講座を除いてはテレビを見ていない。単に“テレビを見る”ということは、別に大して選択もせずに見る場合と、 いいもの、見たいものをやっているから見るという場合に分けられるが、私の今までの場合のそれは後者だった。 ところが、3月川口(埼玉県;受験のため一時寄留した知人の家)へ行った折の10日あまりは、本当に見たくないものでも見ざるを得ない羽目におちいり、 ずっと見ていて、そのオカゲで私は大分バカになったと思ったし(彼らの見るのがそれ程つまらないものであった)、また気分も大分こわされもした。 /別にテレビを見ないからといって、現代に置いてきぼりにされるわけでもなく、また見たからといって特別かしこくなるという性質のものでもない」

1961(昭和36)年5月26日<18歳・大学浪人中>
 「文学的才能、あるか否か? これは私の一つの気がかりになるところである。 文章を書くとき、自分の言いたいことを、納得が行くように表現するのだが、それも平明でなければならない。 /私は遠まわしに表現することが好きだ。それは露骨なのが適当でないからであり、またその方が面白みが出て来るからである。 /仮名づかいや漢字の問題など、今、中央でさかんに論議されているが、私は私なりの解決でもって表現している。 あまり、むずかしい漢字は使わずに、カタカナで書いたり、またアテ字もカタカナで書いている。これなども文章を平明にするためである。…」


ご意見、ご感想は・・・ kenha@wj8.so-net.ne.jp