『心-こころ- 橋本健午のページ』「ミニ自分史」

「ミニ自分史」（126）思い出桜子　　1990･8･5　橋本健午　（2010･09･07）

「おじいさんになったら、踊ってあげるわ」と、はにかみながら彼女は答えた。
　高校二年の夏、八年ぶりに故郷を訪ねたとき、生意気に英語の宿題を教えた代わりにせがんだときだった。
　すでに町では評判の踊り手だときいていた。のちに花柳流の名取となった。
　幼馴染み、その父が住職を勤めるお寺の本堂が私たちの遊び場だった。小学校も一緒に通った。三年の途中で転校した私には、彼女を独占していたという思い出だけが残った。
　この七月始め、毎年年賀状のやりとりをしていた、そのご住職が亡くなったという。やがて、比叡山から大僧正を招いて本葬が行われるとの案内がきた。

「お久し振りです」
「あらッ！　わざわざ遠いところを来ていただいて」
「……このたびはご愁陽さまでした。大勢の方がいらっして、立派なご葬儀でしたね」
「ありがとうございます。父もさぞかし喜んでいることと思います」
　…………
「もう忘れられたかと思っていましたよ」
「お出でになることは存じておりましたが……、なにしろ取り込んでおりますし、お会いしたとき何と申してよいものやらと」
「喪服姿の女性が何人もおられましたが、遠くからでも一目で貴女が分かりました」
　話している間も、会葬者が次々と彼女に挨拶をして帰って行く。若狭といえども、八月の容赦なく照りつける陽射しは身にこたえる。それを涼やかな顔で見送っている、控え目な姿に品があり、私は改めて心惹かれた。
「貴女はちっとも変わりませんね。昔いや、当時より色白になったかな」
　面やつれかもしれなかった。しかし、そうは思いたくない。
　結婚して京都にいるとは聞いていた、その後、今から十五、六年前に若狭が舞台のテレビドラマに初出演した彼女を見ただけで、三十年以上も会っていなかった。
「そんなことありませんわ。もうおばあちゃんですよ」
　落ち着きのあるのは当然だろう。幸せな毎日を送っていることだろうと思う。子供がいれば、大学生ぐらいにはなっているだろう。
「おばあちゃんといえば、その昔、踊りを見せてほしいと頼んだとき、貴女は何と言ったか覚えていますか？」
「ええ、でも今はほとんどやってませんのよ。ですから、お約束を果たすわけには……」

　…………
　縁濃い田舎道も、そこを歩いている私も子供のころとほとんど変わっていない。
　一言も彼女に声をかけずに本堂を去ったが、悔いは残らなかった。

ご意見、ご感想は・・・

kenha@wj8.so-net.ne.jp