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「ミニ自分史」(38)「父 八五郎のエッセイ『空想・独語』」その2

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「『役』の字」

 「役」の字はエキ(漢音)またはヤク(呉音)と読まれており、これを国語に当ててツトメと、いわゆる慣用音で読むことなどは、 ほとんどなく、字引を見て、初めてそういう謎み方もあることを知るというところであろう。 この字をヤク・エキと読んでいるのは、漢字が渡来した当時の読み方に似た読み方を、今もそのまま伝えているのである。 誰でも知っているキク(菊)もその仲間で、キクといえば日本語のように思われがちだが、元、支那語であったのが、 そのまま使われているので、こんな例は、たとえば身近な豆腐などもそうで、とくに書きあげるほどの事でもない。 ただ、役所・役人。また雑役・懲役・服役、さらに戦役などのヤク・エキが、日本語でなかったことを珍しがっているのは、 無学な私ぐらいのことだろう。
 ところで、この「役」の字は、ある時にヤクと読み、ある時にエキというのはどういうことか、何かわけがあるかといえば、 それは大いにあるらしいので、役所とか重役とかいう場合と、雑役とか懲役とかいうのを比較すればすぐ分かるように、 どうもヤクといえば上層、上等の事がらを書くために、エキの方はその反対を示すために使うらしい。 それにきまっているとは断言しないが、一応そんなように理解しても、差支えないと考えられる。
 そんなら「前九年の役」は戦役のことであるが、戦役というもの、これは人間の行動として賞すべく、また喜ぶべきことであろうか。 今日では議論する余地のないところであるが、古来中国民族は平和を尊重したというから、文字の使用の始めから、 戦乱を余り上等な行動ではないと認めていたのであるう、
 それにしても大昔から人間の住むところ、国家のあるところ、大なり小なり、戦争のなかった年は、一年も、 さらにいえば一か月も無かったとしても言い過ぎではないい。見方によっては、戦争も必要なものということを考えて、 戦争もまんざら捨てたものではないということで、一字を両方に使ったのではないか。
 前に、この字を日本流にツトメると読むことを書いたが、努力することは目的・手段にもよるが、それだけの効果もあるというので、 音の漢民族はこの字を発明したのではないか。そしてさらに面白いのはこの一字にかく二方面の含みがあると解釈した日本人、 われわれの祖先も、ずいぶん優秀な頭脳の持主であったことを示している一つの証明だといえるのではないか。
 「役」をふた通りに読むことによって、意味にもふた通りありとすることによって、役人、あるいは役所といっても、 同時に使役のエキの意味を含んであるので、役人も重役も、それぞれ使役、語をかえていえば奉仕の任務があるのであって、 威張ってばかりいることは許されないということになる。
 <執筆の時期不明、3枚>

「一つのトマト」

 本屋からの帰りに、時どき物を買うスーパーへ入った。
 時は午後五時を過ぎていたか、客足はまばらで、あちこちの店からは、さあさあ負けとく、まけとく、とか、安いよ、 さあさあ安いよ、などと呼ぶ声が聞こえていた。
 何を買うあてもなく歩いていたが、ある野菜屋が、もう売り切れて空になった商品台に、トマトを二盛り、その一つが五〇円、 もう一つは二〇円と紙札を立てて、小母さんが見張っている。もうおしまいだ、安くしてあるよ、という。 私は二〇円の方を買った。
 この頃マスコミで言い出したケチケチ暮らしの実行者である私は、よい買い物をしたくらいの気持ちで、紙袋一杯に、 重いほどのトマトを手にして外へ出た。
 さて歩き出してみると、急に脚・腰の痛みを感じてきたが、我慢するほかない。杖をはなすことは出来ない。
 トマトと本とをいっしょにして片手に持つという、すこぶる不安定なかっこうになったが、そのまま歩いているうちに、 あわれ、トマトの一つが、紙袋からころげ落ち、道ばたの低みへころんで行ったのである。
 不安定のかっこうは、ついに不体裁きわまる結果となったが、何とも処置することができない。両手がふさがっている上、 腰を屈めたり、伸ばしたりは、平素から不自由なんだから。もちろん私はトマトを拾うつもりはなく、また惜しくもなかったが、 ここでトマトをそのままにしておけば、今この道ばたにゴミを捨てたのと同じ罪を犯したことになるなどと、思うともなく、 思わぬともなく、先を急いでいるときに、私とすれすれの後から、おじいさん、トマトが落ちましたよ、という声がした。 少し顔を上げると、年若い父親らしい人が、男の赤ん坊を抱きながら、わざわざ歩度をゆるめて、そういってくれるのである。
 ありがとう、といったが、私に拾いあげる気のないことを察してもらいたいという考えをこめて、 捨てっぱなしにしておくのは悪いんですけれど……と、私の胸のつかえが通じるように心に念じ、詫びるような気持ちで答えたのだった。
 これは、時間でいえば五分とはかからぬ瞬間のことだし、父親はもう大分私の先をいっていたのが、今度は後ろを振り向いて、 後ろの人と話しあっている。聴力の衰えている私には判然としないが、例のトマトのついての話しらしく、 それはおじいさんが落としたものだといったのは、私の耳に入った。
 相手の声もはっきりしないが、どうも夫人らしかった。たぶん夫婦だろうかとチラッと思ったが、 それを考えるゆとりもないほど私は疲れが出てきたようだった。
 その時この道には人通りがなかったが、先頭が父親、数歩へだてて私、そして恐らく十数歩の後ろが婦人と、 三人が(筋道を同方向に)進んだ。しかしこれも数分にして、父親は曲がり角を北のほうへまわった。 おや、あの人も私と同方向へ行くのかと思いながら、同じところを曲がった。それから数分たつと、後ろから、おじいさん、 トマトが、と女の声だ。この場合、私はからだを曲げるのはじつに面倒だが、これは先の婦人であることは疑いない。 苦しいが、やや後ろ向きになって、ありがとう、どうもすみません、と婦人の手から、その差しだしてくれたトマトを受け取った。 これは極めて自然に、お互いに好意を感じ合って、手から手に渡ったのであった。
 ここで私は婦人の顔を、多少念入りに見たが、この人をさっきの父親の妻とすることは、その顔つきから想像する年齢では、 とうてい思いもよらなかった。そして気がついたら、婦人の姿はもう見えなかった。顔は覚えていないが、私のお礼に答えた言葉、 たいへんですね、といったのは耳に残っている。この大変とは、私はお礼をいったとき、どうも腰が痛くて動きにくいもんですから、 といったので、それを慰めるのであったろう。
 一方、若い父親は、もう大分離れた前方にいる。それは北ではなく、西に分かれた路上にである。 西に行くのは、私と同方向である。偶然にちがいないが、少々不思議になり、家に近づいた安心から、 いくらか気分に落ち着きが出たらしく、まだ家までにあるT字路と十字路を、この父親はどう曲がるかを見届けようという好奇心のようなものが動いた。 むろん彼はそんなことに頓着なく、三が所の曲がり角を、同じ方向、同じ方向へと私に先立ち、最後にわが家を指して西を向くとき、 彼は一〇〇メートルほどの先で、東へ向いてその姿を消したのであった。
 《執筆の時期不明だが、最後の5枚目の欄外に、小さな文字で「九月一日浄書了、じつに三度目である。頭の混乱の具合を知り、憮然たるものがある。」と記す》

「親心」

 長男、次男が幼稚園入園の年頃になったとき、私夫妻は、幼稚園に入れまいと決心した。大正の末期・昭和の初めだから、 世間の入園熱は今日のように烈しくはなかった。それでも大連という土地柄、何ごとも内地に遅れを取るまいとする意気込みは盛んで、 幼稚園熱も、少し考える家庭では、相当な程度ではあった。
 しかし私ら二人は、あまり躊躇することなく、二児の入園は取り止めと決心した。家内の胸中はどうだか記憶はないが、 私自身では、こんな可愛い二人を、毎日数時間も人手に托してよいものか、という考えからであった。
 幼い者を甘やかすつもりは、毛頭無かった。成るべく親子がいっしょに暮らすのが本当だし、よくもわるくも、 両親のすべてを彼らに伝えたいと思ってのことで、言葉を換えれば、個性を尊重したい、というのであろうが、 何よりも彼ら二人が可愛かったからである。
 <執筆の時期不明、1枚>

「断絶」

(一行も書かれていない)


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