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「ミニ自分史」(5)「田無学生寮」その1

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田無寮入口  いまは、保谷市と合併して西東京市となった旧「田無市」に、その学生寮はあった。 入寮したのは大学に入学した昭和37(1962)年の5月で、39年4月までの約2年間お世話になる……。
 当時はまだ両側に、ちっぽけな商店がわずかにあるだけの道を10分ほど歩き、麦畑に囲まれてぽつんと建つ4階建ての白い建物は、 イメージしていた"旧制高校"のそれとは、大いに異なるモダンなものだった。

 2002年11月、新大隈会館近くのホテルで開かれた、年1回の同寮OB会で、20代の後輩から、 次のような"突撃"インタビューを受けた。
 ア)田無寮に入った理由…経済的な問題/抽選で赤球(白球?)が出たから /寮はどんなところか興味があったから【これは途中で退寮した理由にもつながる】。
田無寮入口  イ)田無寮に入る時のエピソード…(大学近くの)和敬塾もあったが、田舎のほうがよいと思った。 保証人には父の友人で当時の校友会代表幹事だった仁尾磯之助さんにお願いした。 そのときの条件は"学生運動をやらない"ことだったが、ノンポリの私は何もしなかった。 何度か伺った旧大隈会館の、校友会の部屋は余り大きくなかったようだ。
 ウ)田無寮のよいところ…2人部屋だが、机・本棚・ベッドなどが完備され、 その前、3月中旬の東五軒町につづく4月の鷺ノ宮のアパートから、タクシーで布団袋を運ぶだけですんだこと /新築半年後の入寮で、キレイな佇まいであったこと(しかし、その間に4人も自殺したなどと聞いて、何が理由か少し考えた)。

田無寮付近  エ)寮での思い出話…いちばんの思い出は、夏の夜ビール瓶を片手に仲間と近くの芝生へ行き、寝転んで夜空を見上げたり、 人生論だか女性論だかをたたかわしたこと。いわゆる青春の1ページであった。 /食堂の若いオネエさんと結婚した仲間もいるが、食が細かった私はオバサンに好かれ、ファンである橋幸夫に似ているとか、 慶応ボーイなどといわれ、時どき別メニューのおかずを作ってくれた (ちなみに、子どものころ、最初に覚えた歌は「陸の王者 慶応」〔若き血〕だった)。 その後、文学部の食堂に配置転換となった顔見知りから、混んでいるときでも優先的に出してもらった。 このときは、クラスの友人も誘ったものである。
田無寮付近  オ)寮で学び、役に立ったこと…2年生になって、入寮してきた後輩からあいさつもなく、 「こいつは誰だ」というような顔をされ、2歳もちがうと(私は1浪)、"人種"がちがうのだなと思ったこと。 しかし、この経験はその後の人生で役に立った。/集団生活の難しさと、公私の区別について。

 カ)女性への口説き文句《この設問から、なぜか質問者の心境が察せられる!?》…口説くのは苦手だったが、 言い寄られることが多かった(ほんまかいな!)。4年生のときだったか、大学そばのサテンに勤めていた女性から、 「二号さんにしてくれ」といわれたときは驚いた。私はまだ独身だったのである 〈二号さんなんて、今では死語だろうから、若い人にはピンと来ないだろうが、古きよき時代でもあった〉。…(以下略)


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