1975(昭和50)年は、いろいろと大変な年であった。断片的だが、「白い本」に書きつけたモノが残っていた。(2008・10・07)
「3月28日(金) 夜11時」
思えば長いような、道のりであった。今日、Mさんに話を聞いてもらう。25日に羽田でもらしたことを伝えて、いろいろな話になる。
私もやっと、自分の胸の内を打ち明ける人が見つかって、とてもうれしく思う。生まれて初めてである。三時間以上も話した。
前途に光明が見え始めた感がある。他人には相談すべきだ。
利用しなくてはダメだし、季刊「噂」をやるべきだという。先生の意見と同じなのだが、他の条件がそろわなければ、動き出すのはムズかしい……。
責任をもってやれないのだ。何はともあれ、プランを出そう。SやYのためにも…。
「11月27日(木) 夜9時40分 小雨」
(S、スト、交通渋滞で、武蔵関から帰れず)
8カ月ぶりで開いたノオト、その間一体何をしていたのだろう。
……ジャズを聞きながら……
今日は「日刊ゲンダイ」創刊一カ月目でもある(10月27日)。複雑な心境だ。
私の人生にとって、こんなに様々な出来事の起こった年はない(まだ1ヶ月以上もあるが)。
4月上旬、幸恵の百日で、名古屋の母が上京した。
5月初旬の三連休(3,4,5)には、大阪の父の要請があったが、大阪には行かなかった。
5月11日(日)、香港で、わが師梶山季之が死んだ。連休を利用して、伊豆ならぬ、香港マカオへ、
"ちょっとした旅"のつもりで行ったのだが、不幸にして、不帰の客となった。
後始末がたいへんだった。私は翌12日、香港へ迎えに行った。幸恵がちょうど4ヵ月。
この日を記念して、生命保険に入ろうかと、さち子と話していた、その日だった(21日に入った)。
複雑な気持ちだった。何としても無事に帰らなければならない(死んでたまるかと思った)。
14日に帰るまでキンチョウの連続だった。だいたい「別冊新評」に書いてある通りである。
中略、もう一つ、中略
エンあって、日刊ゲンダイ(講談社系)に入った(9月25日より。梶山家には23日まで、24日がお彼岸の中日)。
自分に向いているかどうかという問題ではなく、早く自分なりの生き方をしなければということが最優先であった。
幸恵は大分知恵がついて、元気に育っていると思う。尤も、大部分がムサシ関でやっかいになっているのだから、エラそうなことはいえないが…。
10月の中旬、ちょっとした危機があった。さち子がノイローゼで、生きる自信がなくなり、死にたいといって、医者までついて行ったことがある。
本当にびっくりしたが、今は大分落ち着いている。
何しろ実家に帰って、気をつかうというのだから、少しおかしい。今は大分改善されたと思うが、親子といえどもムズカシイものである。
日刊ゲンダイ、がんばらなくてはならないのだろうが、何かとムズカシイ。組織というか、上司の問題というか、
こちらも反省すべき点は多いが、私は子分になるつもりはない(大したことのない親分の)。
今日も子分を連れて、どこかへ飯を食いに、出て行った。
「11月30日(木) 午後10時」
武蔵関から帰って、風呂に入り、頭をかわかしたところ。ビールがにがい。
先日(28日)、四谷三丁目、とり一の社長に久しぶりに会った。気にかけてくれていたらしく、会社に3度ぐらい電話をくれたという。
いい処に入ったと喜んでくれた。
文春・文士劇の初日だが、肝腎の役者がいないのだから、行っても仕方がないやというので、5時ごろうかがった。
大宅壮一の門下で、いちばん信頼があったのが、梶山季之とこの主人Yさんだという。
その梶山季之の最期をみとった私は、直系も直系、血統正しい跡継ぎだという。私を高く買ってくれるのは、そういう処にあるらしい。
事は重大である。何しろ、ある意味での一番弟子なのだそうである。
だから、何か事業を始めて(日刊ゲンダイを使って)大宅文庫とNさんを助けなければならないのだという。
事はすぐ実現したりするものではないが、ひとつうれしいことは、こんな私を、評価してくれる人が、何人もいてくれるということである。
講談社のEさんは買ってくれたが、文春のHさんは逆だった。これは真理。
この世界では大事なことである。ある意味で、大変な人に見込まれたのである。
さち子がんばれ! 俺も一生ケンメイなんだ。くよくよせずに、大きくやろう。色濃く生きるんだ……。 俺はやっぱり、しあわせものである。
《この夜の文章、「ビールがにがい」わりに、昂揚感はかなりのものである。先のMさんを含め、私のことを気にかけてくれる人がいたのは事実。
では、現実はどうだったか。Eさんは日刊ゲンダイへの道を開いてくれたものの(1年7か月で退職)、Mさん(集英社)は私に編集プロダクションを作らないかと持ちかけ、
Yさんの事務所を借りて準備をはじめたが、Hさんが罷りならぬと没にしてしまった次第。
その後、Yさんと会社を設立するが、これも実際に動き出す前に頓挫してしまった。
要するに、使いやすい"駒"として振り回されたということであった。
ちなみに、せりふ「色濃く生きるんだ」は、Yさんの口癖であったか。2008・10・07》
もう一つ、翌1976(昭和51)年には次のような"心境"でもあった。
「3月20日(土) 彼岸の中日」
本来、鎌倉に行くべきであろうが、色々あって、いま家にいる。先日は、築地本願寺へお参りして、ご冥福を祈った。
見せかけの行動よりも、心の問題ではないのか。私はいつも、やり方が下手なので、損をしている処があるが、見せかけよりも、
いずれは判ってもらえると思う。"仲間はずれ"にされたという、発想自体がおかしいのではないか。
徒党を組むことを、いちばんに嫌ったのが梶山季之ではないか。
その梶山季之のまわりの者が、墓参りをするのに、なぜ"団体"で行かなければならないのか。
お彼岸にはちがいないが、動機が不純であるうちは、同一行動をとる気はない。
私は、没後間もないうちに、夫人に言ったものである。先輩たちを頼りにしない、と。それは今も変わらない。
頼りにならないばかりか、足を引っ張られるのだ。一致団結して、事を運ばなければならないほど、困ってもいないし、
大勢の人間が、無責任に好き勝手なことを言って、余計迷わせるようなこともしたくない。
そういう人たちと、同列に扱われては、かなわない。
いつも思うのは、梶山季之は若くして立派であったが、その取りまきがその気持ちを少しも判っていないどころか、
没後も、足を引っ張るようなことをしているのではなかろうか。