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「ミニ自分史」(93)「わが「日刊ゲンダイ」あれこれ」

「ミニ自分史」(92)      


橋本健午09・05・05

その1 在職1年数ヵ月

 若いころ、いわゆる“定職”に就けなかった私は、思えば“出版”あるいは“マスコミ”という世界で生きてきた。 いや“生きてきた”などという不遜な気持ちはさらさらない。お世話になってきたというのが本音である。
 その一つに、「日刊ゲンダイ」(中央区築地)という、出版社として初めて講談社(文京区音羽)により発刊された夕刊紙に創刊時から1年7か月ほど勤めていたことがある(退職77年7月20日。当時33,34歳)。
 どんな勤務状況であったか、その一端をここに披瀝する次第である。

 入社は1975(昭和50)年9月25日である。2日前の23日まで梶山季之の助手として約8年半、梶山事務所(のち、季節社)に勤めていた。
 そのころのことは「10/3,4 旗揚げの旅行 1:30スタート、バス2台で今井浜へ(ホテル今井浜ガーデン)。 この会合で少しは打ち解けることができたが、このころの社員構成(臨時や嘱託も含む)は講談社の元社員、関係者のほかは雑兵集団といってよく、 個性的だが、まとまりがなかった」と記している(『『日刊ゲンダイ』時代(75/9〜77/7)とその前後」97/2/9)。

 当初、編集部のうち“生活班<ツデー情報>”に配属される。
 創刊は10月27日。なぜ、この日になったか。聞くところによると、日本中央競馬会のレース取材をするには、この月末までに発行する必要があったからだという。
 先行する「夕刊フジ」(創刊69・2・25)と同じタブロイド版、32ページ建てでスタート。 中面の<ツデー情報>は読者(主としてサラリーマン)にとって、お得情報や身近な話題を提供することを主眼としていた。
 私の無署名で書いたいくつかを紹介するが、期間は初期だけである。では、他に何をしていたか。
 75年11月18日、知人の弁護士Mさんに、顧問をお願いしたいとの会社の意向を伝えに。同21日には総務部長を連れて行く(現在も顧問)。
 そして、2ヵ月足らずの12月15日、総務部に配置転換となった。理由は私本人の問題、編集部での立場、 総務部には部長とアルバイト女性しかいないなどの理由からではなかったかと思うと、拙稿(前掲)に記している。
 ついで、翌76年10月14日、総務部長に呼び出され、異動(総務→経理)を申し渡される。 “経理心得”次長の代理ができるようにとのこと。その日のうちに引継ぎを行い、夜は歓送迎会(多喜本)となった。
 この間、10月9日(土)に社内全体の配置換え(レイアウト)作業を一人で行い、22日に「社長賞」(5千円)を受ける。
 私的なことでは、76年4月18日(日)夕刻、茨木より、父急死の報があり(88歳)、休暇をとる。また、翌77年2月14日には義父が亡くなっている(63歳)。

その2 生活班<ツデー情報>ほか

 入社以前、私は作家のそばにいて、こまごまとした仕事のほか、取材もやっていた時期もある。
 たとえば三億円事件では先輩について地方に飛んだり、各地の自衛隊に電話を掛けまくったりした。 カルーセル麻紀にインタビューをしたこともある。右翼や殺人犯だった男、お金のほしい男女の売り込みの応対をしたり、レズやホモの人たちにも会った。 71年6月ごろから梶山季之責任編集と謳った月刊「噂」の編集や雑事も手伝った。
 さて、この新しい新聞は当初からいつごろまでだったか、なかなか部数増への道のりは長かったようだ。 そんな中、即戦力にならなかった私は、いくつかの小さな原稿を書いたり、リライトしたりという状況も長く続かなかった。 いま手元に残っているバックナンバーの<ツデー情報>からピックアップしてみると、
 第5号(75・11・01)「ちかくの史跡めぐり」…●高麗(こま)神社《略》/●「ペットの話し」…「以前は、イヌやネコのエサは、かつぶしごはんか、煮魚でよかった。 ところが、今では主食は牛肉か白身の魚、食後にはサラダやフルーツと、人間なみ、いや人間以上にゼイタクだ。 /こんなおいしいものばかり食べていると、太りすぎで心臓が弱り、運動不足になる。 /栄養過多のために、人間社会にも多い糖尿病になったり、肝炎を併発したりする。習慣でまずいものは食べないから、食事療法がやりにくい。 /猫っ可愛がりが逆目に出て、せっかくのペットを殺してしまうことになる。犬も猫も、昔風にゴハンとカツオブシが一番体にあっているのです。 犬猫と人間を同じように扱うのはマチガイなのです。」

 第7号(75・11・05)「患者学入門」…「大病院へ行く場合、紹介状を持っていると、いないとでは大きな差がある。 紹介状があれば、日時の指定があり、待たされず、患者の状態も分かっているので、早く的確な診断が下され、専門の先生にすぐかかることも可能。 丁寧に診てくれるし、患者にも、病院(医者)にもムダがはぶける。/ただしちゃちな紹介状なら、ないも同然なことはいうまでもない。 /ホームドクターを選ぶには、大病院とコネの強い医者にするのも、紹介状を生かす一つの方法である。」

 第14号(75・11・13)「東京採点『ラーメン33』」…では、何人かが手分けして書いている。 33店のうち私は3店を取材し、掲載されたのは「進京亭(板橋区東新町)」「えぞ菊(新宿区諏訪町)」である。
 日記「(ラーメン屋をはしごして採点するという企画)私も2度ほど歩いたが、数時間のうちに3杯も食べるのはさすがに苦痛だった」。

 他の人では書けないものとして、第15号(75・11・14) 第2面記事…「有名人が震える梶山氏の遺稿」がある(これも当然、無署名)。
 「去る5月香港で亡くなった作家・梶山季之氏の納骨式が、11日鎌倉の瑞泉寺で行なわれたが、 最近、市谷の書斎から、筐底記〈きょうていき〉なる極秘メモが出てきて、美那江夫人を驚かせている。 /発見された『筐底記(遊虻庵山人)』は、原稿用紙50枚ぐらい、いつごろ書かれたかは不明。 /『トップ屋・小説書きとして、マスコミでメシを食って16、7年、いろんな事件にぶつかり、活字にできないような、 すべてプライバシーにふれることばかりに接してきた。(中略)活字にする、しないは別として、書き残しておくことは、何らかの参考になると思う…』という、 書き出しで始まる。このメモは、アイウエオ順に、人名と事件が列挙されており、サービス精神旺盛といわれた故人の、 知られざる一面を見る思いで、びっくりするようなことばかりだったという。 /この内容が公表されたら世間に衝撃というものだが、梶山氏逝って内心ホッとしている人も多かろう。 虎は死して皮を残すというが、この遺稿、梶さんのもっとも書きたかった作品だったのではなかろうか。」

 第16号(75・11・15) 「ちかくの史跡めぐり」…巣鴨のお地蔵さん/「ペットの話し」…
 /「ただデス」●ポケット吸がら入れ2千個上げます…11月16日(日)午後1時より。日本橋高島屋前歩行者天国で配ります。
 第31号(75・12・4) 「ちかくの名跡旧蹟」…四面塔 池袋
 第32号(75・12・5) 「バーゲン」…<結婚式・披露宴>
 第37号(75・12・11) 「バーゲン」…銀座SONYビル 毛皮・皮バーゲン
 第38号(75・12・12) 「わが町の有名店」…●室・室内金物新橋ショールーム
 第41号(75・12・12) 「催しもの」…●がさ市/●羽子板市

 ここにある16〜41号分について、記憶ははっきりしないが多分、他人の文章やニュース・リリース(宣伝・広告)を要約するなどの、 地味というか初歩的な仕事であった。一方、実際に取材をして書いたのは、次の2件である。
 第44号(75・12・19) 「わが町の有名店」…●とり一 四谷三丁目(11・28取材)「シャモといっても、最近はシャモブロイラーをさすのが当たり前になっている。 が、『とり一』は純粋なシャモ(関東大軍鶏・東光奴)を食べさせる日本で唯一の店。/故大宅壮一氏に“鳥の松阪肉”を作れといわれた主人が、 15年丹精して作ったのが、現在この店で使っている東光奴というシャモ。/今がシーズンで、2月一杯でシャモは終わり。 /シャモ皮のポン酢和え、シャモの刺し身、シャモの前菜(山海のものと組み合わせ)、大根おろしで食べるシャモのスープ煮、シャモ雑炊のコース、1人前5000円。 /他に、生肉と野菜の串刺しを炭火でじっくり焼いたものもあり、うまい。/小人数なら宴会もできる。 /また、七ヵ月で卵を産む、東光奴のヒナ(オス1羽、メス4羽)を3万5000円でわけてくれる。 /四谷三丁目交差点から、新宿方向へ少し歩いて1本目を入ってすぐ。火曜定休。ただし年内無休、AM11〜PM9。?351・****」←店はとっくに無くなっております。

 第50号(75・12・26) 「ちかくの名跡旧蹟」…●氷川<舎人>神社 竹の塚(12・6現地へ)「足立区には、たくさんの“氷川神社”がある。 /東武竹の塚駅から行く氷川神社、別名、舎人神社は、すばらしい龍の彫刻のある関東地方でも古い神社の一つ――。 /創建の年代は不明だが、江戸時代後期になって、きわめて優れた彫刻で飾られた社殿であることが発見されている。 /とくに、正面の門柱は、老龍を中心とした昇り龍、降り龍の九龍は一見の価値がある。 /社殿の左右の袖に彫られた唐獅子も見落としたくない。/本殿の扉を開けると目がつぶれるとの言い伝えによって、詳しい由来は秘密のままだったが、 昭和37年、禁を破って開帳したところ、康保3年(966年)11月8日、野上四郎太郎奉納と記された「懸仏」の部分が見つかった。 /それまで、関東地方で見つかった最古の記録は、鎌倉・長谷寺にある弘安年間(1280年代)のものだっただけに、一躍、クローズアップされた。 /これほどの神社だが、近くの人にもあまり知られていないのは残念。/(東武鉄道竹の塚駅下車。舎人入谷行バス、舎人町下車。徒歩3分)」

 第51号(75・12・27) 「今日のいただき!!」…●クラブハウスの利用権を10名にプレゼント!!
 第52号(75・12・28) 「ちかくの名跡旧蹟」…●巨人伝説と代田橋
 第55号(76・1・8) 「深夜営業」…●月光堂書店 新高円寺
 第58号(76・1・11) 「名所・旧蹟」…●板碑(いたび) 台東区三ノ輪

 これらも“担当”はしたが、私の取材や執筆したものではない。
 ところで、番外として加えれば、安直な“モデル”となって紙面を飾った写真もある。
 第410号<77・3・15)センターページp14-15…「健康特集 サラリーマンに悩み多い 腰痛の治し方」で使われた写真5点のうち(顔は良く見えないが)、 2点は私が(1)腰に手を当て、後ろに反っているところ、(2)やはりラジオ体操の、両腕を左右に振り上げ、腰の運動をしているところであり、 もう一点は(仕事場の)事務局机の間で社員6人が運動をしている中に私も入っているというように、“モデル”写真の何枚かが紙面を飾っている。
 さらに、同日号「新製品“ScoPet”」…上下に伸縮できるカメラ? を使っているところ。(いずれも撮影は3月11日)
 また、数人の男女がマスクをして玄関から出るところにも加わっているが、これは風邪の特集か何かで、時期は2月ごろか。

 要するに、この時代、私は何でもさせられる“便利屋”であったようだ?!


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