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「青少年有害環境対策基本法案(素案)」の問題点

2000・07


橋本健午(作家/メディア倫理研究)

 ことし(2000年)5月11日、参院自民党より「青少年有害環境対策基本法案(素案)」が出された。 その目的は「青少年の健全な育成を阻害するおそれのある社会環境からの青少年の保護に関し、その基本理念を定め、 国、地方公共団体、事業者、保護者及び国民の責務を明らかにするとともに、 青少年の健全な育成を阻害するおそれのある社会環境からの青少年の保護に関する施策を総合的に推進し、 もって青少年の健全な育成に資すること」とある。

 "国、地方公共団体、事業者、保護者及び国民"が"それぞれの立場で青少年の健全な育成に協力しあう"という趣旨には、 国民総ぐるみで青少年の自立を阻害することを目的とし、「子どもの権利条約」の精神を踏みにじるものとの印象を受ける。

 つぎに「青少年有害環境」とは「青少年の性若しくは暴力に関する価値観の形成に悪影響を及ぼし、又は性的な逸脱行為、 暴力的な逸脱行為若しくは残虐な行為を誘発し、若しくは助長する等青少年の健全な育成を阻害するおそれのある社会環境」 と定義されている(下線筆者)。

 これまで長野県を除く各都道府県が制定してきた青少年条例の"有害"概念「……のおそれがある」ものに新たに"暴力"を加え、 "見込み(可能性があるというだけの恣意的な)判断"で"有害指定"=排除、してきた考え方の延長線上のものである。

 この定義を読んで誰しも思いつくマスメディアは、"性的な逸脱行為、暴力的な逸脱行為若しくは残虐な行為を誘発し"、 (人の尊厳や名誉を傷つけるおそれのある)テレビのドラマやワイドショー (凶悪事件の生々しいシーンを繰り返し流す公共放送も含む)であり、 同じことは犯行の動機や手口を教え"暴力的な逸脱行為若しくは残虐な行為を誘発し"、 また少年法の限界(刑罰年齢制限、少年たちにとってメリットだから"有益"か)等を詳細に報じる新聞であろう。

 もちろん、週刊誌等の記事や写真、それに広告表現、『完全自殺マニュアル』に代表される一部の書籍も同じ判断を下されることはまちがいない。 さらに映画やビデオ、ゲームセンターやカラオケ、森首相の指摘するテレビゲームも然り。 文部省が学校教育で推奨するインターネットに至っては、匿名性を利用した誹謗中傷やハッカー行為、 麻薬やポルノ情報の売り買いまでやってのける少年たちもいる。 新しい"法案"が、これら新聞・テレビからインターネットに及ぶ"有害環境"を放置することはないであろう。

あいまいで恣意的な"有害環境"の定義とスケープゴート

 しかし現実には、そうはならないところに問題がある。 というのも"青少年の健全な育成を阻害するおそれのある社会環境"は固定的な概念ではなく、 また、どのような場合に"青少年の健全な育成を阻害するおそれのある"ものと判断するのか、明確な根拠もなしに、 恣意的に行われてきたからだ。

 例えば、この春の青少年育成国民会議「青少年と社会環境に関する中央大会」(いわば"全国の規制派の集り")で、 「なにを有害とするのか、客観的科学的には説明できない」としながら、 「被害者である青少年を救いたいと思う人たちには、法律を変えていきたいという願いがある」 などという議論が披露されたことでも証明される(昨年11月からの同会議・環境問題専門委員会の審議経過報告、 委員長・藤本哲也中央大学教授〈犯罪学・刑法・刑事政策〉、下線筆者)。

 平たくいえば、警察や行政の担当者、あるいは住民が"これは青少年に有害のおそれがある"と取り上げれば、 たちまち「有害環境」となるのである。すなわち、淫行などの「有害行為」、有害玩具や有害出版物などの「有害物品」、 「有害施設」などであり、また「それ自体では有害ではないが、青少年に有害な環境となるもの(たまり場)」としては、 万引きの多発するスーパー、自転車盗の多発する駅周辺、深夜営業のコンビニ店などが指摘されてきた (いまや、万引きの多い本屋も"有害な環境"となるのであろうか)。

 恣意的とは、大人にとって気に入らないというだけで"有害"とすることであり、逆に「有害環境」としたくないもの、 例えば新聞・テレビなどのマスメディアが、規制の対象外とされていることをも意味する。

 したがって、「有害な社会環境」とは次のように"定義"も簡略化され、あいまいなものではなくはっきり限定されることになる。 先の環境問題専門委の報告書には「青少年に有害な影響を与える可能性のある媒体、物、場所、機会、行為等をいう」とあり、 具体的には「性的感情を刺激し、または粗暴性(または残虐性)を助長し、 あるいは青少年の健全な育成を阻害するおそれがあるものをいう」と説明されるが、 「一言でいえば、『青少年の正常な情緒の発達を阻害するもの』が有害な社会環境」である、と断定する。

 いつのまにか"おそれがある"が抜け落ち、「一言でいえば、性的なもの、粗暴(または残虐なもの)」=「有害なもの」と、 規制派でなくても読み誤るレトリックの世界が、ここにある(下線筆者)。

 もっと大きな問題がある。戦後その時々の少年非行のピーク時にあわせて、 スケープゴートにされてきた"青少年に有害な影響を与える可能性のある媒体、物、場所、機会、行為等"は、 非行との直接的な因果関係はないとされているものの、第一次ピーク時は「性典もの映画」(昭和26年)、 第二次は「テレビ」(同39年、東京オリンピック)、そして第三次は「少女誌」(同58年、中央立法化問題) と名指しで批判されてきたことだ。

 そしていま、第四次のピーク時といわれ、法改正・規制強化のスケープゴートにされるのは何と何なのか。 最近のテレビでの、東京都の条例指定件数が他県に比べて極端に少ないなどと、 感情論に訴えるアンチ出版キャンペーンはだれが意図して行っているのか。

 その都条例で"図書類"は「書籍、雑誌、文書、図画、写真、ビデオテープ及びビデオディスク並びに コンピュータ用のプログラム又はデータを記録したシー・ディー・ロムその他の電磁的方法による記録媒体並びに 映写用の映画フィルム及びスライドフィルム」が指定対象となっていた。

 ところが、今年5月12日付「都政新報」は「『完全自殺マニュアル』のように青少年健全育成条例が想定していない図書類の扱い、 電車の中吊り広告などで使用される週刊誌の過激な性表現、コンビニでの不健全図書類の販売など」について、 東京都青少年問題協議会(会長石原知事)では"規制の方向で検討が行われ、来年の都議会で条例を改正する"旨報じている。 何が何でも、"有害"扱いにしたいということのようだが、名指しされたコンビニに問題の多い雑誌を納入しているのは"取次"ではなく、 大新聞社系の即売会社であるという事実は、なぜかオモテに出ていない。

昨年の"素案骨子"には、規制対象が明確に上げられていた

 この参院自民党による素案は平成9年7月28日、時の橋本首相から諮問を受けた青少年問題審議会が、 昨年7月22日小渕首相へ提出した答申「『戦後』を超えて―青少年の自立と大人社会の責任について」に、 当然リンクしていると思われるが、実はその答申が出る少し前の7月はじめに、(本案の元となる今年4月のではない) 素案骨子が出されていたという。それにはかなり具体的に「有害環境」を規定しており、 指定対象とされているのは「図書類・玩具・興行・広告物」のみであったという。

 さて、常に青少年条例との関係で論じられてきた中央立法化問題であるが、先の答申に 「青少年育成に関する基本的な法律(青少年育成基本法〈仮称〉)の制定に向けて検討する」という【具体的な提案】があり、 これを受けて青少年育成国民会議は常設の環境問題専門委員会で検討を行い、 報告書「青少年を取り巻く有害な社会環境の抜本的改善に向けて〜地域住民運動の進め方と法整備の方向について〜」 を作成した(下線筆者)。

 その中の「有害な社会環境の規制の方向性と中央立法化への道」の項で、条例は(a)青少年の定義がまちまち、 (b)各自治体の規制の内容が不統一、(c)条例運用上、各自治体で隔たりがある (d)罰則のない業者の自主的努力義務のみでは効果に疑問、などが全体的レベルでの問題点とする。 また具体的には(a)有害指定(とくに図書)についての時間的・量的限界、(b)スポーツ紙についての規制の困難性、 (c)自販機を規制する場合の、酒・たばこ自販機とのバランス、(d)みなし規定(注:包括指定)を業者が アンコ本で逃れてしまうことなどが指摘されており、したがって「中央立法が必要である」という文脈が読み取れる (執筆者は藤本委員長、下線筆者)。

 話は少しややこしくなるが、"有害環境"は定義がはっきりしないため、人々が有害だと思えば、 それがすぐさま"有害環境"となりうるもののはずである。例えば、幼児虐待をする家庭や、イジメや暴力、 体罰のある学校もというように。しかし、あるイメージをもち、「有害環境」を規定する人たちの多くは、 家庭や学校が"有害環境"とは夢にも思わないであろう。

 しかし、こんな実話がある。昭和30年代はじめ、"男女共学は子どもを不良にする"と、 子ども3人を小、中学校に通わせなかった父親(最高裁で上告棄却を言い渡され、児童の就学義務違反で有罪が確定)がいう。 「(はたち前後の)長女、次女が家を捨てたのは、男女共学で不良になったからだ。 私が有害な場所と信じているところへどうしても行かせるのは、国家権力の人権じゅうりんだ」 (毎日昭和32・9・19夕刊、下線筆者)。

 そして、「『有益環境』であるはずの学校も有害環境としての条件がそろえば、有害環境化する」という学者もいる (矢島正見中央大学教授〈犯罪社会学・社会病理学〉「有害環境と非行―青少年と性文化―」『少年非行文化論』学文社1996)。

「素案」の行く末は? 出版物はどう扱われるのか

 ところで、素案にある"国、地方公共団体、事業者、保護者及び国民"と、青少年育成国民会議とはどのようにからんでくるのか。 同会議は民間の団体だが、出版倫理協議会および構成四団体はじめ、新聞・放送などのマスメディア団体も加わっている "国民の総意による青少年育成"のための組織である。素案の「第三 国民的な広がりをもった取組の推進」を行うことは、 屋上屋を重ねることになりはしないか。

 しかも、国民会議は青少年問題に関する"世論"形成の格好の場であることも否定できない。 毎年開かれる「中央大会」の参加者の多くが「報告書」にあるように、 中央立法化を求めるのは条例がうまく機能していないという各地の苛立ちを代弁しているからだ。 出版に関していえば、彼らには昔から"出版憎し"という感情論が先にあるようで、これまで出版物はなんども繰り返し敵視され、 指弾されてきた歴史がある。

 このたびの"立法化"による出版規制は、青少年への出版物の販売等の行為以外には考えられないが、 これまで各都道府県が独自にやってきた"指定作業"を、今後どのように行おうとするのか。 全国で販売された雑誌や書籍類をどこかに集めて、国(総務庁)か国民会議のような組織が、 人海戦術でチェックするということだろうか。

 いや、そうではあるまい。前述の"条例"の具体的な問題点「(a)有害指定(とくに図書)についての時間的・量的限界」および 「(d)みなし規定」云々を逆に読めば、発行と同時に、あるいは印刷の段階でも出版物をチェックしかねないという、 憲法第21条にからむ問題が潜んでいるのではあるまいか。  先の総選挙で自民党など与党が"圧勝"したあとを受けて、着々と進むかに見える中央立法化問題に、 出版界はどう立ち向かうべきか。改めて、国、地方公共団体、警察、民間団体等の"規制派"の動きを概観し、 出版界の取るべき道を提案しようと思う。

出版界、出版物の特性がウラ目に

 以上のように「青少年有害環境対策基本法案(素案)」の意図と、想定される「有害環境」の概念と その"指定方法"について考察を試みたが、残念ながら出版物は既存の条例を踏襲・強化する(素案)の意図から逃れることができない状況にある。

 出版物を"有害"とする規制派の論理は、それが「出版物」だからである。この大前提は彼らにとって、 唯一残された"ターゲット"である。雑誌や本のような手ごろで馴染みがあり、 かつ小憎らしい古典的なメディアは他にないからである。

 もう一つ、目の敵にされやすい理由は、各地の書店等を除いて、地方(地元)には出版業に携わる人たちがほとんどいないことによる。 つまり、いくら敵に回しても親類縁者はじめ、その地ではだれも傷つかない、というところに出版業の地理的弱点がある。

 これはテレビ会社や新聞社と比べればすぐに分かる。それらは道府県どこにいっても、 立派な社屋を構える地元の有力な権力機関として君臨している。その社員であることは、 県庁職員と同じように"エリート"であり、その家族や利害関係者は数多く、身内意識は高い。 かつ、身内のスキャンダルを隠したり、庇ったりするのは日本の"美風"である。

 また、出版界には新聞・放送界のようにOB政治家は皆無に近く、またほとんど政治献金もしないうえに、 週刊誌等が政治家や高級官僚の悪事を暴くのでは、永田町や霞ヶ関を敵に回しているようなものである。 テレビは郵政省管轄の免許事業であるが、出版には監督官庁がない(新聞も同じだが、OB政治家が多い)。 つまり、天下り先がないという点でも魅力のない業界であろう。それでも、めげずにやっているのが出版の強みであり、 それがまた小憎らしいというわけである。

 世論調査ではないが、日本人がメディアをランク付けするとすれば多分、一にテレビ、二が新聞、ずっと下がって書籍、 最後が雑誌やコミックであろう。(有名人のスキャンダルやプライバシーを楽しませてくれるなど)生活に必要不可欠なものが一位で、 毎日配達され(読まなくても、景品がうれしい)ものが二位、なくても一向に困らないものがあとに続くというわけである。 また、日ごろ雑誌を愛読していても、まわりが騒ぐと、つい尻馬に乗って非難の声を上げる人の多いことは、 新聞の投書欄を見れば分かる。

規制の対象から新聞・テレビが除外されているのは…

 さて、新聞やテレビが既存の条例や"素案"の規制対象になっていないのは、なぜか。 その経緯を見ると、中央立法化が検討された1955年10月、総理府の中央青少年問題協議会が各都道府県に 「青少年に有害な出版物、映画等の排除に関する条例についての参考意見」を送った。 立法化がかなわぬとみた同協議会の条例制定の勧めであるが、"有害"概念は「不自然に性的感情を刺激する」 「残虐性を有する」「射幸心をそそる」ものとし、"指定"対象は「興行(映画、演劇、観せ物、紙芝居等)、 図書、玩具、広告物」となっていた(中村泰次「青少年条例の歴史―出版規制を中心に」 『青少年条例―自由と規制の争点―』清水英夫/秋吉健次編・三省堂1992)。

 新聞はもちろん、ラジオ(51年4月放送開始)もテレビ(53年2月放映開始)も、 当初から指定対象とはなっていなかったのである。

 ついで、64年に成立した都条例に関する東京都青少年問題協議会の答申には「有害文化財(図書、映画、広告、興行等)の排除、指定」 とあるだけで(朝日39・4・10夕刊)、東京オリンピックのこの年、"有害"テレビでさえ除外されていた。

 この条例制定に関し日本新聞協会は「協会は新聞倫理綱領を決め、新聞各社はこれに従っている。 新聞を規制の対象にする条例には反対する」と主張したものの、「出版物規制など、 表現の自由を制約するおそれのある条項は慎重に考えてほしい」と要望するに止めている(同上、下線筆者)。

 これに異を唱えた人がいて、「同じマスコミの中で、新聞・ラジオ・テレビだけは、完全に条例の対象外にはずされています。 プレス・コードやテレビ・コードを信頼した結果でしょうが、それならばなぜ、 出版業界の自主的な倫理化運動や映画倫理規制を尊重して条例外において支持していく方策が考えられなかったのでしょうか」 と疑問を呈したが、都側には何の考慮もなかったようだ(神崎清〈日本子どもを守る会副会長〉 「青少年条例の問題点/東都知事への手紙」朝日39・6・29文化欄)。

 つぎに、先の中村泰次(元マス倫事務局長)は「52年に岡山県は同県青少年保護育成条例を全面改正し、 『放送』までその規制対象にしようと試みたが、地元新聞放送が激しく反対しこれを阻止している」と報告する (「青少年条例の歴史」、下線筆者)。

 テレビが除外されている点について、澤村浩(元映倫事務局長)は映画のテレビ放映に関して 「60年以降民放テレビ局の躍進は続いた。これが映画業界を圧迫する。 (中略)テレビ放映は郵政省の免許事業なので条例の対象とはならなかった」という (「映画・ビデオと青少年条例―自主規制の歴史と展望―」『青少年条例―自由と規制の争点―』、下線筆者)。 下線部分はちょっと解せない話で、法律の専門家に絵解きをお願いしたいところである。

 80年1月、マスコミ倫理懇談会は青少年条例の運営の実態について各都道府県にアンケート調査を行った。 それによると「(悪影響を与えるものは)俗悪出版やポルノ映画だけでなく、新聞記事放送番組」 についても各県担当者から数多くの指摘があり、そのことは「新聞、放送はその性質上条例規制の対象にしないとの解釈 をとりながらも、青少年に与える影響をかなり重視、一部の放送番組、スポーツ紙、夕刊紙に厳しい目を関係者が向けている」 と中村泰次は解説する(「青少年条例運営の実態」『新聞研究』第348号1980、下線筆者)。

 各地の"規制派"の人たちが"その性質上…"と慮る理由は明確には示されていない。 前述のように、必要不可欠、地元密着という意識下でなければよいのだが……。

戦後の中央立法化問題の変遷

 これまで見てきたように、新聞や放送は、出版と同じ立場に立っていないという点で、真の意味の味方ではありえない。 ビデオやゲームソフト、インターネットは"仲間"というより、規制派には出版物の"同類"と見られているが摘発されにくく、 やはり古典的メディア=出版物はターゲットにされやすい。

 中央立法化問題は、55年の"悪書追放運動"の前後にはじまり("青少年保護育成法")、ついで57年自民党法務部会は 「青少年育成基本法案」を次の通常国会に提出し、成立をはかる考えと報じられた。 同部会は「青少年の育成指導=青少年育成基本法を作り、この中に犯罪防止の面と積極的健全化の面をおりこむ。 これは各府県で条例などにより、映画、出版物、娯楽などを規制しているものもあるが、いずれも不完全かつ不統一であるので国内一本の法律に統一してもらいたいとの地方からの声に応えようというもの」とある (毎日32・8・16夕刊、下線筆者)。

 これは、国民会議・環境問題専門委の報告書にある、「条例は(a)青少年の定義がまちまち、 (b)各自治体の規制の内容が不統一、(c)条例運用上、各自治体で隔たりがある」などという、 本来の地方自治の精神を自ら否定する考えに通じる"思想"である。 しかも、これら条例の"バラツキ"を法律の専門家は憲法第14条の「法の下の平等」に反するといわんばかりの "詭弁"を弄するから困ったものである(同報告書)。

 しばらく時は過ぎ、78年に全国都道府県議長会が「青少年健全育成基本法」(仮称)の制定を政府に求め、 自民党文教部会で中央立法必要論が出された。80年3月に日本PTA全国協議会は225万3000人の署名をつけ、 有害図書販売規制立法請願を国会に提出している。そして、翌81年には長野県を除く都道府県で条例が完備されたのである。

 84年、少女誌問題で自民党は"有害図書規制法案"(少年の健全な育成を阻害する図書類の販売等の規制に関する法律〈仮称〉案要綱試案) を検討したものの、国会上程までは至らなかったが、これはいま改めて読み返すべき重要な資料である。 そして、ポルノコミック問題(90年夏〜)では、自民党主導による条例強化"政策"により、 東京・大阪・京都をはじめ各地の条例がかなり改正強化されるに至った。 昨99年には「児童買春・児童ポルノ処罰法」が成立した。部分的だが、これはまさに出版物に対する中央立法である。
 なんども浮かんでは消えた"中央立法"だが、今回の基本法案は20世紀の総決算(たな卸し)として、 出版物規制を目論む"最後の案件"と位置付けられているといえる。

今後、出版界はどう対応すべきか

 出版界としては一刻も早く、どうすれば立法化阻止、あるいは規制強化を最小限に食い止めることができるか、 を考えなければならない。そのために検討すべきことはまず、自主規制の見直しとその強化策であり、 戦術的には、個人・団体を含め、だれが"味方"で、だれが"敵"なのかを見きわめることである。

 出倫協はじめその構成4団体、および出版問題懇話会、また各出版社が、これまでの対応をそれぞれ再検討し、 出版界として改めて何をなすべきかの意思統一をはかり、だれにでも理解される自粛策を打ち出すことである。

 具体的には、青少年に不向きなものは、彼らの手の届かないところ、書店等でいえば「成人コーナー」への収納等、 棲み分け(区分陳列)を徹底することである。その際に、コンビニ店も含め"アウトサイダー"の書店も忘れてはならない。

 「成年向け雑誌」等第二大衆紙に求められるのは、記事内容の再点検であり、販売方法の再考である。 同時に、出版社⇔取次⇔書店間における"取引条件"の改善であろう。 「成年向け雑誌」を出している出版社の多くが、法人所得ランクでかなり上位に位置するのは、 すなわちその出版物を扱う取次会社や一部の小売書店等も利潤を上げていることを意味する。 であれば、お互いに歩み寄り取引条件を改善して、成年向け雑誌や書籍をビニール袋に詰める、特別の書棚を用意する等の、 青少年への配慮に資金を投じることである(最近は新聞でさえ、(水ぬれ防止の)ビニールパックされる時代である)。

 これまでのように、狭いムラ社会の発想では、読者をはじめ世間は納得しないし、何の評価もしてくれない。

 さらに、青少年条例にも抵触せず、かといってワイセツでもない記事や写真など、 多くは週刊誌が中吊りや新聞広告の表現も含め問題視される点について。
 「成年向け雑誌」の発行部数がせいぜい二、三万部のマニア向けといってもよい存在なのに対し、 毎号数10万部も発行される週刊誌等は、それだけ社会的影響力のあることをもっと自覚して、新たな対応策を考えるべきであろう。

 出倫協は63年に設置されて以来、その組織運営は委員構成はじめほとんど変わらず今日まできたが、 見直しをする時期がきているのではないか。事態を大局的に見るために、経営者レベルの参加をはじめ、 青少年問題を出版界全体の問題として対処することが求められる。 その上で、常に積極的な広報活動を行うことが必要である。

 他業界を見ると、民放連は昨年7月より、青少年に配慮して午後5時から9時まで、 暴力や性表現を控えるという時間帯制限を設け、"青少年番組"を増やした。 また、同じ理由で全国小売酒販組合中央会は今年6月より、全国17万台におよぶ屋外の酒自販機の撤去に踏み切った。 同じ時期、ゲームソフト流通業者の団体は、暴力的な表現のあるゲームを販売する際の自主規制案の策定に着手することを発表した。

 それぞれが、どこまで効果を上げるのか、それは分からない。 しかし、いま出版界に求められるのは、目に見える自粛策の速やかな実行であり、 それが立法阻止のいちばんの力となるはずである。最後の"味方"は、タテマエ論の好きな日本人である。

(『出版ニュース』2000年7月下旬号)


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