橋本健午(ノンフィション作家)
この半年ほど、かつて旧海軍省より戦地の将兵一人ひとりに無償で送られた『戰線文庫』復刻の作業に携わった。
多くの著名人が登場しているにもかかわらず、戦後ほとんどの日本人が知らず、また国会図書館にもなければ、
旧海軍関係者の団体「水交会」にもないという幻の雑誌である。それが五十八冊、合本で十四巻残っていたのだ。
所有者は友人の矢崎泰夫日本出版社社長。旧海軍省が委託したもので、父君の寧之氏らが興した戦線文庫編纂所のち興亜日本社の発行による月刊誌である。
文藝春秋社から独立したモダン日本社にいた同氏らが菊池寛に頼まれたものと推測される。
ちなみに、慰問雑誌は旧陸軍省のほうが先で、当初『恤兵』、のち講談社に委託した『陣中倶樂部』が発行されていた。
『戰線文庫』の創刊は日中戦争が始まって一年後、一九三八(昭和十三)年九月。"将士を鼓舞し時には消閑の良友"を目的にスタートした娯楽雑誌である。
創刊号には菊池寛や子母澤寛らの小説、また落語の柳家金語楼、浪曲の廣澤虎蔵らの名もある。前半には西條八十の歌があり、
原節子・高杉早苗が「皇軍の皆々様 どうも有難う」といえば、巻頭グラビアは桑野通子・田中絹代などいずれも女優らが
「頑張れ! 海軍の皆様/長期戦に感謝は愈々深し」と声援を送っている。
"真珠湾"前後まで海軍関係者の記事は少なく、大衆娯楽雑誌の体をなしていたが、徐々に戦況が色濃く反映される。
たとえば、完全復刻した五十三号(昭和十八年三月、A五判)の巻頭言「帝国海軍への期待と米の抹殺」では、
あるアメリカ人の言葉をそっくり返し、「彼らの野望は他民族圧迫による世界制覇であり、自己繁栄である」とし、
「我らは声を大にして呼ぼう。『すべてのアメリカ人を地球上より抹殺せよ』と」と結ぶ。
毎号二百三十八ページ、やがて二百ページに減じるが、用紙については市販雑誌に比べ優遇されていたことが分かる。
また途中から『戰線文庫 銃後讀物』という定価四十銭の内地版が同時に発行された。七、八割は戦地版と同じ小説や読物、
グラビア等を掲載するが、作品の配列を変えるなどして、現代では考えられない発行形態をとっていた。
さらに増刊として戦地に送られた女流文学者たち(輝ク部隊)による慰問文集など三冊もあった。
女優たちが毎号のようにグラビアに登場すれば、戦地からファンレターが届く一方、著名な画家による若い女性を描いた画文も登場する。
二十二号(昭和十五年八月)に「興亜調銃後女性画譜」として、宮本三郎、東郷青児、小野佐世男が筆を揮い、
『銃後讀物』三十四号(昭和十六年八月)には岩田専太郎の「銃後の娘 頭を遊ばせない娘の美しさ」など数多くある。
両版とも終戦間際まで発行されていたようだが、市販の『銃後讀物』は国民に対し、戦地の兵士に遅れをとらないよう、
銃後の"戦士"となって働くことと献金献納を奨励するためだったものといえる。
いま少子化で深刻な日本も、当時は「生めよ殖やせよ」だった。こういう記事も載る。国民精神総動員運動本部参与の医学博士竹内茂代は、
婦人の職域奉公中もっとも重要なことは子どもを生むことといい、男女とも結婚年齢が高い(平均男三十歳、女二十五歳)と現状を憂い、
女は十六歳で授乳することができる、成熟した"十八歳半から結婚を"と奨励するのだった(『銃後讀物』第三〇号・昭和十六年四月)。
また、広告には今も健在の企業が多く名を連ね、そのメッセージは戦況とともに先鋭化し、戦意高揚を謳うようになる。
私は二年半の研究や復刻作業を通じて、作家や女優はおろか庶民まで"戦争"と関わらずには生きるすべがなかったという印象を強くした。
そして、今年に入り「当時(大東亜)戦争をあおったのは、実は大衆だった」という発言に、その印象が裏付けられたことを知った(石井公一郎〈民間教育臨調副会長、八十一歳〉東京新聞〇五年三月十七日付)。
新聞や雑誌、ラジオ放送に煽られた国民が「天皇のために死ぬのは名誉」と"一億総・・・"状態となれば、
たしかに戦争を煽ったのは大衆(国民)ということになる。
戦争に正義はなく、勝っても負けても犠牲者が出る。嘆き悲しむのは多くの国民、われわれ自身である。
この『戰線文庫』には風化や時効にしてはならない"時代"がそのまま残っている。
それらはほぼ全号から記事・グラビア等を適宜選抜した、この復刻版(日本出版社発行)から読みとることができるであろう。
インターネットはじめメディアが多様化する現代こそ、若い人を含め多くの日本人が "戦争の歴史"と正面から向かい合い、
これからの日本はどうあるべきかを冷静に考え、慎重に対処するよう願って已まない。