『戰線文庫』研究

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『戦線文庫』の〈公式〉記録と戦時下の出版界〔05・09修正版〕

橋本健午(ノンフィション作家)

〔はじめに〕

 私はいま、昭和13(1938)年9月より、海外の将兵を慰撫するため旧海軍省が民間に委託して刊行された月刊誌『戰線文庫』について調査研究を行なっている。
 『戰線文庫』および、その発行元「戰線文庫編纂所」あるいは「興亞日本社」が、当時日本の出版界でどのような"位置づけ"をされていたか、 当時の『雑誌年鑑』および『出版年鑑』により、また、その内容評価、戦時統制下における出版界の状況とりわけ"戦争協力"について、 旧内務省の『秘 出版警察資料』等にあたってみた。これはその報告である。

《『戰線文庫』復刻版の出版(05年7月)について、新聞や雑誌等で取り上げられたため、何人もの方から貴重な情報やご意見をいただいた。 そこで、03年8月、保阪正康責任編集『昭和史講座』第10号に発表したものに加筆修正を施した次第である。05・09・14》

第1部 非売品と市販雑誌のちがい

 戦前の雑誌出版界の動きを網羅した『雑誌年鑑』は、日本読書〈トクショ〉新聞社が編集発行した〈わが国初の雑誌年鑑〉(序にかえて)である。 ただし、昭和14年版から同17年版までしかない。しかも、最後の17年版は日本出版文化協会の監修、協同出版社の編集発行である(注)。 また、18年以降は、書籍中心の『出版年鑑』に吸収され、19〜21年分はまとめて一冊となっている。
 この年鑑の刊行は古く、最初は大正15年1月発行の1926年版で、国際思潮研究会「読書人」編集部の編集発行となっている。 のち発行所が東京堂に変わるが、最後はやはり日本出版文化協会監修、協同出版社の編集発行であった。
 (注)18年度版『出版年鑑』の奥付に、葛ヲ同出版社は「出版界の公的機関としての性格に於いて特に公的必要書籍類の編集刊行を続け来る」とあり、 取締役社長は大橋進一(博文館社長)である。

1、紛らわしい発行形態―戦地版と内地版―
 まず、『戰線文庫』の奥付について説明しておこう。
 当初、戰線文庫編纂所は東京市日本橋区呉服橋二―五、春秋ビル四階にあり、B6判238ページの創刊号(昭和13年9月5日印刷、同10日発行)に、 発行兼印刷兼編集人として笠倉寧之の名がある(のち、矢崎姓に戻る)。同氏は、合本を所有する日本出版社矢崎泰夫社長の実父である。
 第6号(14年2月28日発行)より、住所が東京市麹町区内幸町二―二―一、太平ビル別館三階に移るとともに、責任の分担か、 発行人…笠倉寧之/編集兼印刷人…加藤千代三となり、14年5月30日発行の第9号から、再び笠倉(発行兼編集兼印刷人)のみとなり、 少なくとも第16号(16年2月1日発行)まで続く。
 この間、住所は変わらず、興亞日本社の名が出てくるのは、第15号と同時に発行された『海の銃後 輝ク部隊・慰問文集』(ページ数230)で、 奥付に「皇紀二千六百年記念 海の銃後 第1集 輝ク部隊慰問文集」とあり(注1)、編集…輝ク部隊/印刷兼発行人…大島敬司/発行所…興亞日本社となっており、 さらに「指導…海軍軍事普及部/監修…海軍省恤兵係」とある。
 その一年後の、「海の勇士慰問文集 輝ク部隊寄稿」(16年1月1日発行、250ページ)でも、奥付は「監修…海軍省恤兵係」とあるほかは、同じである(注2)。
 (注1)『毎日年鑑』昭和16年(2601)版の「図書と新聞」欄に、「輝く部隊」活躍すとして、次のような記述がある。
 長谷川時雨女史の主宰する「輝く部隊」では前線将兵や白衣慰問のため、このほど小説や随筆類の原稿を陸軍省へ献納、 当局でも大いに喜び恤兵部で雑誌に編集、総数十一万部を印刷して十四年十二月二十六日前線へ発送した。 また海軍将兵慰問に「海の銃後」を出版し軍事普及部を経て戦線へ贈った。この慰問雑誌の表紙は長谷川春子女史が絵筆を揮ったほか 吉屋信子、林芙美子、窪川稲子、ささきふさ、村岡花子、森田たま、小寺菊子等十数名の女流作家が小説に詩に随筆に慰問文集を綴っている。
 (注2)最初の"慰問集"は、第14号(14年12月1日発行)と同時に出された『戰線文庫 慰問読物号』で、奥付表示は『戰線文庫』と同じであった。

 このように、『戰線文庫』と3回出された臨時増刊"慰問文集"以外に、『戰線文庫』の第25号(15年11月1日発行)あたりより、 同時に内地向けの雑誌『戰線文庫 銃後讀物』(以下、『銃後讀物』)という、定価40銭で売られた"戦線文庫"(ページ数200)もあるため、話はややこしくなる。
 両誌の異同を比べると、第17号〜21号は欠本のため不明だが、22号(15年8月1日発行)より、本誌である戦地版『戰線文庫』の奥付は、 発行兼編集兼印刷人…笠倉寧之/発行所…興亞日本社 戰線文庫編集部となっている。
 一方、内地向け『銃後讀物』では、現存する表紙をみると「戰線と銃後を結ぶ… 戰線文庫」に「(停)定価四十銭」などとあり、 奥付には「戰線文庫 第二十五号/発行兼編集兼印刷人…笠倉寧之/発行所…興亞日本社 (停)定価四十銭」とある(注)。
 このため、両誌の同月号を持たない人は、"戦線文庫"が二種類あるとは、まったく気がつかないことになる。
 (注)(停)〈○の中に"停"の字〉は、昭和14年9月18日現在の物価を凍結する価格統制令によって価格が据え置かれたことを示す (池田浩士著『「海外進出文学」論・序説』インパクト出版会1997・03)。

2、広告を出しても〈認知〉されない興亞日本社
 さて、昭和13年秋から、終戦間際の20年8月ごろまで発行されたという『戰線文庫』および『銃後讀物』だが、 14年版の『雑誌年鑑』(14年5月発行)にある「創刊雑誌一覧」および「雑誌目録」には何一つ記録されていない。
 その理由は、同誌が市販雑誌ではなかったからであろう。つまり、出版法または新聞紙法による届出をしていなかったか、 する必要がなかったからと思われる。したがって、旧「日本雑誌協会」(大正3年創立、昭和15年8月15日解散)の、 会員ではなかったからということはいえないであろう。
 ちなみに、当時、同協会は東京を中心に大阪19社はじめ地方15社、満州国3社等を含め595社の会員を擁していた (『日本雑誌協会史』第一部 大正・昭和前期、1968・09)。

 また、発行元である戰線文庫編纂所あるいは興亞日本社については、『出版年鑑』の14年版(14年6月発行)にも見当たらない。
 同15年版(15年6月発行)でも状況は同じだが、興亞日本社は松下三鷹著『海国二千六百年史』をはじめとする9点の書名を並べた1ページ広告を出している。
 雑誌『戦線文庫』はともかく、書籍は他社と同様、一般流通しているはずなのに、"出版社"として記録されていないのはどういう事情からだろうか。
 ついで、『雑誌年鑑』の16年版(16年7月刊、定価2円50銭)をみると、『戰線文庫』および興亞日本社の名が"登場"しているが、 日本出版文化協会の会員としてであって、先に見た「雑誌目録」や「発行所一覧」への記載は依然として見当たらない。 したがって、索引にも出てこないわけで、出版市場ではまだ"認知"されていないともいえる。

 ところで、先の14年版の年鑑には、昭和13年度雑誌界のトピックとして、「北支に、中支に、南支に転戦する皇軍将兵の慰問品として、 数多くの雑誌が戦線に送られてゐることは、雑誌が一般に発達してゐなかつた日清、日露、或は欧州大戦当時の我が国には見られなかつた現象である」との報告がある(「慰問品として」)。

3、現われれば、いきなり〈幹部〉に名を連ねる
 戦時体制下、多くの雑誌が統合廃刊されるなか、出版界は大同団結して日本出版文化協会(文協、会長…公爵 鷹司信輔)を結成したのは、15年12月19日のことである(注)。
 同協会の役員・委員・評議員の名簿を見ると、43名の評議員にダイヤモンド社(石山賢吉)・中央公論社(嶋中雄作)・改造社(山本実彦) ・実業之日本社(増田義一)・文藝春秋社(菊池寛)らと並んで、興亞日本社(大島敬司)の名が載っている(16年4月20日現在)。
 (注)社団法人日本出版文化協会の設立趣意書に、こうある。「出版事業に於ける職域奉公の大義に徹するの要今日より切なるはない。 今や国を挙げて邁進しつヽあるコウコ(=未曾有)の大業を真に完成せんが為には夫れに即応する健全なる新日本文化の建設が絶対に必要でありそれは実に出版文化事業の担ふ光栄ある使命である。 此の使命達成の為めには苟しくも出版事業に関係する者はすべて出版報国の精神に帰一しなければならない。 問題は如何にしてこの精神を実現すべきかであるが、現下の出版界を観るに各種出版物の内容は固より機構等に於いても時局に副はざるもの少しとしない。 乃ち茲に国家の全面新体制確立の要請に即応して出版界に一大革新を加へ、全国の出版事業関係者が一元的なる出版事業新体制の傘下にあつて健全なる新日本文化建設の使命を担当するの任務に就き、 以て出版報国の実を挙げんとするものである」(『雑誌年鑑』昭和16年版)。

 上記、大島敬司は初めて名の出た人物である。発行兼編集兼印刷人である笠倉寧之の名はないが、"責任者"ではある(注)。 文藝春秋社から独立したモダン日本社の社員だった彼ら(故人)は、菊池寛に請われて、当初から『戰線文庫』編纂所および興亞日本社に関わっていた。
 (注)14年版『雑誌年鑑』にある「現在の検閲制度」の解説によると「J 司法処分」の項に、「雑誌が法規に違反した場合は、 発売頒布の禁止の行政処分以外に、責任者に対する処罰が行はれる。/之は司法裁判所によつて行はれる。 責任者とは、著作者、編集人、発行人、印刷人である」と規定されている。

 さいきん矢崎(旧姓笠倉)家から出てきた、昭和20年3月31日付の葛サ亞日本社・第一回決算報告書によると、 社長 大島敬司/専務 笠倉寧之/他に取締役2名となっていることが分かった(注)。ちなみに、大島は明治40年生まれ、笠倉は同37年生れである。
 (注)同社は、8月期決算であったが、「情報局並日本出版会ノ指導斡旋ニヨル出版事業ノ企業整備ニヨリ設立セラ」れ、 3月期決算に変じ、最初の決算は19年9月1日より20年3月31日の7か月が対象となった。その間の事情について第一回決算報告書に次のようにある。
 「一、概要 情報局並日本出版会ノ指導斡旋ニヨル出版事業ノ企業整備ニヨリ設立セラルタメ当会社ハ其ノ設立ノ趣旨ヲ遵守シ社長始メ従業員一同ハ業界発展等ノ為一層ノ努力ヲ為シオル次第也 /尚空襲ニヨリ当会社モ相当ノ打撃蒙リタリ」。
 ついで、「二、庶務事項」をみると、
 一、昭和十九年七月二十八日付ヲ以テ会社設立ノ許可アリ
 二、仝年八月八日創立総会開催
 三、仝年八月十日設立登記完了
 四、仝年九月十日前経営者ヨリ之ヲ引継ギ営業ヲ開始ス

 余談だが、昭和17,8年ごろには、社長と専務が入れ替わっていたように記憶する方もおられた。 当時、アルバイトで同社に勤めていた女性の方からのご連絡である。

 また、日本出版文化協会第一種第二種会員名簿の、〔コ〕の部に「名称…興亞日本社、代表者…大島敬司、主要出版部門…社会、経済、修養、他。 雑誌…戰線文庫、住所…東京市麹町區内幸町二―二―一、電話番号…銀座五二一五」がみえる(16年4月17日現在。第二種会員は「出版を業とする者に準ずる者」)。
 ここで、ようやく"認知"された興亞日本社および『戰線文庫』だが、同社がいきなり評議員に名を連ねたのは、 海軍"御用達"の雑誌発行元だからであろうが、まだ疑問が残る。

 一方、16年版『出版年鑑』をみると、やはり興亞日本社は1ページ広告を出している。上4分の3を占める書籍広告は、 海軍大佐広瀬彦太著『皇国の興廃 太平洋にあり』、文部省・海軍省推薦図書の倉町秋次著『空の少年兵』など11本である。
 その下に『戰線文庫』の宣伝があり、「銃後と戦地で大評判!! 娯楽慰問の新体制・南進日本の新読物雑誌/胸おどる大内容!! /◎大家中堅女流の読切小説揃い/◎涙ぐましい銃後実話、感激的の現地報告/◎時局早わかり・南進日本の海洋特別記事満載 /断然面白く異彩を放つ読物雑誌!!/毎月五日発行/定価 毎号四十銭/送料二銭」とある。

 次いで、『雑誌年鑑』の17年版(注)に、前年12月末現在の「一般雑誌目録」がある。 その「二五 大衆」欄に初めて『戰線文庫』の名が登場し、発行者…笠原寧之、編集長…大島敬司とある (ただし、「笠原」は「笠倉」のまちがい)。
 (注)同年8月刊、日本出版文化協会監修、協同出版社編。初版4,000部。

 遅ればせながら、やっと"一人前"の雑誌として認められた格好だが、なぜこのようなことになったのか。 目録を仔細に見ると、「(外)A5判二〇〇頁。一部定価四十銭、一年前金は送料とも四円八十銭。出版法による届出雑誌、 第三種郵便物認可。内容…海軍省軍務部ならびに恤兵部監修指導の戦局報告解説、小説満載の大衆雑誌。発行所…興亞日本社。 昭和十四年九月創刊」となっている。
 この頭部にある(外)とは、文協が"官庁外郭団体雑誌"と分類したものを指す。先の「一般雑誌目録」をみると、 (外)印は「5 国家 軍事・国防」雑誌に多いが、大衆誌では23誌のうち『戰線文庫』のみであった。
 また、同年鑑でかなりのページを割いた「大東亜建設参考資料」は、16年中に発行された約130種の雑誌に掲載された記事(論文)の一覧表であるが、 その「A 民族・国家・政治・国策」のうち「2 欧米諸交戦国に関するもの」に、 『戰線文庫』(16年9月号)に掲載された柴田賢一「南方共栄圏を拓く日本民族」がリストアップされている。 約2,500本の論文のうち、約420本がこの「2 欧米諸交戦国に関するもの」である。

 なお、興亞日本社はこの年鑑にも1ページ広告を出しており、上部3分の1は『戰線文庫』の宣伝で、 「決戦下の戦局読物満載/大評判の大衆雑誌!/素晴しき大内容/◎興味深い、戦線有志の血戦記/◎報道班員の、現地報告 /◎大東亜共栄圏の現勢生態早わかり/◎戦局に呼応して大家中堅女流の特別読物満載/毎号忽ち売切れの人気! /本社へ直接申込購読が便利/毎月二十二日発行/毎号四十銭/送料二銭」とある。
 その下に「興亞日本社発行優良図書」として、大本営海軍報道部編纂『大東亞戰争と帝國海軍』など、11本の書籍名が並んでいる。
 ここでいう『戰線文庫』は、定価表示のあることから、『戰線文庫 銃後讀物』を指すのであろう。 しかし、発行日は一年前には毎月5日だったが、22日に変わったのはどのような理由からだろうか。

4、雑誌も出版社も、その団体も統廃合され
 ついで、17年の『出版年鑑―書籍年鑑―』を見ると、興亞日本社はやはり1ページ広告を出しており、 上下2段に分けて『大東亞戰争と帝國海軍』はじめ、長谷川時雨著『時代の娘』など22本の書籍名を細かく並べ、 その下に「月刊雑誌 戰線文庫 発行」とある。
 ちなみに、この年鑑は中トビラに「監修 日本出版文化協会/書籍年鑑〔昭和十七年版〕/協同出版社編」とあり、 つづいて「凡例」の冒頭に「一、本年鑑は昭和五年以来逐年刊行の歴史を持つ東京堂発行出版年鑑の移譲を受け、 我が社において改題の上新しく刊行した書籍年鑑の第一集である。本集においては新たに日本出版文化協会の監修を受くることとなり、 出版文化発展への指導性を多分に発揮しめることができた。(以下略)昭和十七年八月 編集者識」とある。 また、奥付に「(停)定価 金三円五十銭」とある。

 18年版はどうか。
 背表紙には『出版年鑑―日本出版年鑑―』とあり、「凡例」には「一、本年鑑は日本出版文化協会監修の下に我が社において昨年編集刊行せる書籍年鑑、 ならびに雑誌年鑑の二書を併合改題し、新たに日本出版会監修の下に新構想により編集刊行せる日本出版年鑑の第一集である。(以下略)  昭和十八年十月 編集者識」とある。
 この年3月11日、日本出版文化協会が解散し、代わって出版事業令の公布にともない日本出版会が誕生し、同月26日、 出版統制団体として設置認可を受けている(注)。会長・理事長は久富達夫、理事に石川武美ら4名、監事2名、 顧問には文協の会長だった鷹司信輔公爵ら6名、そして52名の評議員には菊池寛らとともに大島敬司の名がある。
 この18年版の、日本出版会第一種第二種会員名簿〔コ〕の部に(18年6月1日現在)、興亞日本社が記載され、 また「雑誌目録」の「3 大衆」欄に、『戰線文庫』があり、「(外)月刊、A5判一五〇頁(以下略)」とある。
 (注)その設立の状況は「日本出版會概要」によると、その前、文化統制団体としての日本出版文化協会は、 組織も複雑なまま、さまざまな困難と戦いつつあった。「然るに発足一年を以て大東亜戦争の勃発となり、 国内の一切の組織は急速度を以て必勝態勢を整へねばならなくなった。出版界も同様である。 自由主義的な思想を払拭し営利主義的な経営を蝉脱し、健全なる新日本文化の建設並に高度国防国家の確立に挺身するといふ当時の指導目標は最早すでに手緩く、 もっと端的に、出版界は思想戦の兵器廠たらざるべからずとの要求が強く奔流して来た」。
 ところが、日本出版文化協会は"何ら法的根拠を有さず"、また"多数決制という脆弱さ"があったため、 このような「諸般の情勢を睨み合せて此際厳乎たる指導理念の確立と抜本的な統制組織の設定が漸く真剣に政府当局並に文協首脳部との間に考慮せらるるに到」り、 半年間の慎重な準備も約二か月遅れたが、昭和十八年二月十八日、勅令をもって出版事業令と同施行規則が公布された、とある。
 日本出版会の文化局で雑誌部門が強化されたのは、「雑誌は発行誌の種別に於ても総発行部数に於てもまた用紙の総使用量に於ても遥かに書籍を凌駕する膨大な数量的存在であり、 且つその思想的影響力に於ても国民大衆を対象とするだけに決して軽視すべからざる存在」であるためだった。
 具体的には、知識層、教養層が対象の書籍中心だった当局の指導の重点を雑誌に移し、「醜敵米英の侮るべからざる戦力を向ふに回し、 これを飽くまでも破砕し撃滅し最後の勝利を獲得」するためには、「国民の八割を占める勤労大衆、すなはち非教養層への直接的なはたらきかけが極めて肝要となつてきた」ためであるとする (『出版年鑑』十八年版)。

 なお、用紙統制で『戰線文庫』はともかく、『銃後讀物』は市販雑誌だけあって、他誌と同様ページ数が減じ、 200から150となったことが分かるが、さらに大幅な減ページを余儀なくされていた(後述)。

5、それでも、ややこしい発行状況
 ここまで見てきたのが、『雑誌年鑑』と『出版年鑑』による、『戰線文庫』関連の記述であるが、 いくつか説明を加えないと理解に苦しむところである。

 まず、本誌『戦線文庫』(13年9月創刊、戦地版)は非売品である。つまり、笠倉寧之や大島敬司らの戰線文庫編纂所のち興亞日本社が編集発行し、 すべてを海軍省恤兵部に収め、同省が海外の将兵一人ひとりに送っていたものである。
 その間の事情を物語るものとして、『戰線文庫』第10号編集後記〔銃後餘録〕には、こうある。 「当編纂所宛本誌御購読の御希望を寄せらるヽ方が多数居られますが、当方にては販売致して居りませず、 御希望の方は東京市麹町区霞ヶ関海軍省恤兵部宛、「戰線文庫」頒布の御申込をなさいますやう御願ひ申上げます」 (14年6月25日印刷、同7月1日発行)。
 すなわち、一般流通の対象とならない『戰線文庫』(非売品)であるから、創刊以来、これら年鑑に記載がなくても不思議ではなかったといえる。

 ところが、先に述べたように、途中から内地版ともいうべき『銃後讀物』(有料)が毎号、同時に発行されるようになった。
 これが、年鑑に記載されているように、「(外)月刊、A5判一五〇頁。一部定価四十銭、一年前金は送料とも四円八十銭。 出版法による届出雑誌、第三種郵便物認可」であり、"昭和十四年九月創刊"というわけである。
 もし、これが本誌『戰線文庫』の第11号あたりからとすれば、私の仮説(第25号より、『銃後讀物』の同時発行)が、 大幅に覆されることになるが、合本には欠本があるため、この"創刊号"を確認するに到っていない。
 また、戦地版と内地版は、一部を除いて、記事(小説等を含む)は、明らかに違っており、苦心の編集作業といえるが、 表題はともに"戰線文庫"と銘うたれているため、好事家による調査には、戦地版と内地版を同一視、 あるいは『銃後讀物』のみで"戰線文庫"と解釈するなどの混乱を招く原因ともなっていた。
 内地版はわずかだが、日本国内に残っているものの、戦地版は皆無に近く、全体像を掴むのは容易ではない。

 余談だが、旧陸軍省関係の雑誌で、講談社(当時、大日本雄弁会講談社)が編集を委託された月刊誌『陣中倶楽部』については、 ここに掲げた四年間のどの年鑑(たとえば、講談社の"九大雑誌広告"〈15年版『雑誌年鑑』掲載〉)にも見当たらなかった。 なお、『陣中倶楽部』については、竹添敦子「山本周五郎と『陣中倶楽部』」(「三重法経」三重短期大学法経学会機関誌No.110、1998・10)に詳しい。 これは国会図書館に収書されている『陣中倶楽部』に関する唯一の文献である。

第2部 内務省は『戰線文庫』をどう捉えていたか

 戦前の出版物に関して、もう一つ、"主流"ともいえる資料に、『秘 出版警察資料』という内務省警保局図書課編による月報がある。 内容は、内務省に納本された新聞紙法や出版法に基づく出版物の統計と分析である。
 なかでも「出版物の今月の傾向」は、雑誌を綜合・政治・経済・文芸・婦人・幼少年少女そして大衆娯楽などに分類し、 毎月の動向を論じているもので、かなり詳しい分析を行なっている。
 では、大衆娯楽雑誌を中心に、『戰線文庫』がどのように評価されていたか、順を追って見てみよう。

1、大衆娯楽雑誌の〈雄〉だった『戰線文庫』
 『秘 出版警察資料』(第36号)は、14年4、5、6月号を対象としており、「大衆娯楽雑誌が本年度に入つてから截然たる動向を示した一例は、 今までの時局的教化性を帯びたるものと娯楽のための娯楽雑誌との二分野が次第に接近してきたことであろう」と総論を述べる。
 その"時局的教化性を帯びたるもの"について、少し長くなるが説明を引用しよう。
 「従来『キング』『日の出』『家の光』等は『青年』『大日本青年』『現代』『雄辯』『愛之日本』『戰線文庫』等にも含まれてゐるが如き、 教化性を多分に帯び、他誌に見られざる訓話形式のものや時局認識の一助たるべきものを包含した謂はヾ綜合大衆雑誌であつて、 この系統に属する『大陸』『話』等は教化的な訓話形式のものこそ乏しいが、単なる娯楽本意の雑誌と異なり、多分にニュース性を持つてゐて、 時代の動きに対して鋭敏な編集方針が採られ、現在も亦これからも益々その方針の下に発展せんとする機運が見受けられるやうである」。
 一方の、純娯楽本意の雑誌には、娯楽本意…『オール讀物』『講談倶楽部』『モダン日本』 /『新青年』『新大衆』『富士』『講談雑誌』『奇譚』『ユーモアクラブ』『讀切雑誌』『讀切小説』『讀切講談』『讀切と講談』 『サンデー毎日特別號』『週刊朝日特別號』+『大洋』(菊倍判、一一二頁、四十銭、文藝春秋社) 『士』(菊判、二七二頁、五十銭、さむらい社)/實話系…『實話雑誌』『實話讀物』『實話と講談』 /漫画本意…『大阪パック』『カリカレ』『ショップガイド』『世紀』等と分類されている。
 さらに、「六月創刊号の『大洋』には海軍色を帯びた時局向きの記事が相当あり、『新大衆』は四月号のみに時局的匂いのあるものを数編載せている」と分析は細かい。

 『戰線文庫』は、大衆娯楽雑誌の編集方針の変化を詳述する中で、触れられている。 「大衆娯楽雑誌中に於ける編集内容の動向は、最近ますます勢ひを得てきた所謂〈皇軍慰問雑誌〉の専門的発展に起因するところが多いやうである」として、次のように解説する。
 「大抵の娯楽雑誌や婦人雑誌類が〈戦地への慰問〉を兼ねた銘の下に編集されてゐるのに対して、 専門的に〈慰問〉を主眼として編集された雑誌が昨年あたりから簇出して」おり、「この最も代表的な雑誌は『戰線文庫』(四六版、二三八頁、非売品)であり、 毎号の巻末奥付に「本品ハ國民ヨリ寄セラレタル熱誠ナル恤兵金ヲ以テ購入シタルモノナリ/海軍省恤兵係」の印が押され」ている、とある。
 なお、この文中にある"『戰線文庫』(四六版、二三八頁、非売品)"という表現により、同誌がこの資料で初めて取り上げられたことが推定できる。
 それは、内務省が戦地版つまり特殊な雑誌であるにもかかわらず、調査の対象としていたといえるが、 "検閲"することはなかったようだ。というのも、海軍省の"検閲"ですら、戦争末期になるまで、かなり緩やかであったことがうかがえるからだ。

 解説はまだ続き、「本誌はその奥付の印でも自明のごとく、海軍将士の慰問雑誌として綜合大衆雑誌の形態を備へ、 口絵、教訓、時局解説、実戦記、娯楽読物、実益記事等を小柄ながら全部収めてゐる」と"お褒め"の言葉がある。
 しかし一方で、「戦線の拡大と東亜新建設のため日本民族の大陸への進出が盛んになるにつれて、 現地における娯楽方面の吸収率は高まり、『戰線文庫』に似た純慰問用の雑誌が盛んに刊行される機運が見うけられるが、 中には俗悪低級ないかヾはしいものも少なくないやうである」と手厳しい。
 それもそうである。作家をはじめ女優など一流の人物を起用できる雑誌は他にほとんどないからである。 このように、『戰線文庫』は新参ながら、海軍という後ろ盾に、"文壇の大御所"菊池寛などの協力を得て、 当初から本格的な"官製"慰問雑誌として出発していた。

2、子供雑誌が大人向けに〈変身〉の事情
 次の第37号『秘 出版警察資料』は、14年7、8、9月号が対象で、「大衆娯楽雑誌」の冒頭に、こうある。
 「『キング』『日の出』『家の光』『現代』『雄辯』『大陸』『青年』『愛之日本』『戰線文庫』等のいはゆる一般的な大衆綜合雑誌に於いては、 この七、八月に発行せる八月号と九月号は、従来どほりにその特色とも言ふべき教化性とニュース性とを比較的によく発揮してをり、 特に八月号は、事変二周年記念日前後に発売されるだけあつて、孰れも戦時色が濃厚、時局推移の跡を逐ふた事変戦記、 日英会談、満蒙国境戦記等の素材が紹介・解説され、一般に反英、反蘇の気分が横溢し、一方、時候から銷夏向きの記事読物が多い点は、 例年とさして変りがない」という。

 また、こんな変化も起っている。「九月号にいたつて子供雑誌の改題による一般大人向きな娯楽雑誌化が三誌も現れている」として、 博文館の『新少年』が『名作』に、『少年少女譚海』が『譚海』に、大衆文藝社の『令女の友』が『銃後の花』に改題され、 読者層を高齢に設定し内容の変更も行なっているという。
 その要因として、子供雑誌の浄化と取締りが厳重になったばかりか、活字の制限、ルビの廃止、行間拡大、粗悪用紙の禁止などにより、 従来の編集方針や経営方法が困難になったことが挙げられている。 一方、娯楽雑誌の売行きが「近来非常に好調である時流に乗ぜんとするも雑誌用紙の制限によつて新雑誌の創刊の困難とを見越した窮余の策」としての改題とも見られていた。

3、発売日の都合で"トク落ち"の雑誌も
 第38号にも、『戰線文庫』の名はあるが、この「(14年)八月下旬から九月上旬にかけて種々の大事件があつたが、 九月上旬(三日〜七日)に発売された大部分の大衆娯楽雑誌は十月号の最終校了日を僅か数日早めてゐるため、 この千載一遇のチャンスを逸し、印刷、製本、発送の期間中に、すつかり時代から取り残されてしまつた」と、容赦ない論評である。

 この間の"大事件"とは、次のような次第である。
 8月20日ソ連軍がノモンハンで大攻勢を開始し、日本の第23師団と第7師団の一部は包囲攻撃に遭い、全滅に近い損害を受けた。 9月15日に日ソ両国間で停戦協定が結ばれ、その前8月23日に独ソ不可侵条約が調印され、同28日この条約締結を契機に、 平沼内閣は世界情勢の見通しを誤ったとして、「欧州情勢は複雑怪奇」との声明を出し総辞職。 30日陸軍大将阿部信行内閣が成立する。
 9月1日にはドイツの空陸軍がポーランド侵攻を開始し(第一次世界大戦)、3日、英・仏はドイツに宣戦布告。5日、アメリカは中立宣言をする。
 国内では、9月1日に初の興亜奉公日が実施され、以後毎月1日は酒の不売、ネオンの消灯、勤労奉仕の日となった (以上、『昭和史年表』神田文人・編、小学館1986・05)。

 先の論評の続き、「数ある大衆娯楽雑誌の中でも特に時局の推移に敏感な『話』『日の出』等がかヽる大転換期を捉へることが出来なかつたことは、 従来の編集方針からみても現行営業制度下の一悲劇に違ひない」とする一方で、毎月13日以降発売の雑誌はどうか。 「週刊物以外には比較的綜合雑誌に近い『大陸』『現代』『雄辯』(三誌とも十三、四日発売)等が定期月刊物として始めて世界大戦や新内閣の記事を発表する」ことができたと評価し、 発売日によって、「その取扱はれてゐる話材の差があまりに大きく且つ顕著」であるという。

 これを受けた『秘 出版警察資料』第39号は、「幸ひ、ドイツのポーランド席捲後の欧州情勢は西部戦線その他に於いて戦局のめざましい進展を見せず、 未だ"挑戦せざる攻勢""待機作戦"の中にあつて、大衆の大向ふを唸らすが如き活場面なく、大衆雑誌も他と一ヶ月おくれながらこの大戦の線にまで追付いて来てゐる」とするが、こうもいう。
 「時局解説風のものはニュース性を多分に含み且つ教化的要素を持つ『キング』『日の出』『家の光』『話』『愛之日本』『戰線文庫』等の殆どが取扱ひ、 物語風のものは大部分が回顧ものであつて、スパイ秘話と称するものが多い」。

4、十二月号と新年号の編集は今も同じ?
 第40号によると、雑誌の年末年始号の編集状況は今も昔も変わらないようである(対象は14年12月号)。
 すなわち「大衆娯楽雑誌の十二月号といへば大抵、社運を賭して次年度の幸先を卜する新年号編集の片手間に同時並行で作られる為、 一年中で最も手間の省かれたものとなり勝ちである」として、「恒例ともいふべき忠臣蔵ものとか本年度の回顧とか歳末景気を盛る以外に、 読切小説のストツク原稿をこの機とばかりに整理して、恰も『オール讀物』式の臨時増刊に似た体裁が感ぜられるものも無理からぬ状態である」。
 論評はさらに細かい。「この月は一般的な通例として、最も自然的な切替時に当つての長編読物の整理結末をつけることが旺んに行はれるのである。 殊に用紙統制が更に強化された場合にはその影響は早晩実現されるべく、従つて従来の建前は必然的に大変革を予期されてゐる関係上、 各誌の長編と短編、或ひは記事と読物等々の均衡が、この月号ほどデリケートな動きを示してゐるものはあるまい」。
 とはいえ、「ニュース性や教化的要素の流動に対する新鮮な取材は、『大陸』、『話』、『現代』、『雄辯』、『キング』、 『日の出』とか、専門の慰問用娯楽雑誌たる『戰線文庫』や『にっぽん』等に於いて僅かながら用意されてゐる」とする(注)。
 (注)『にっぽん』は、17年版『雑誌年鑑』に「名古屋新聞社出版部」発行と登録されているが、編集は興亞日本社。 14年6月創刊の、新聞紙法による「家庭大衆を中心とした健全読物を内容として代表的大衆雑誌」とある。

5、"クラスマガジン化"に頭を悩ます? 内務省
 昭和15年の新年号について、『秘 出版警察資料』第41号(14年12月発行)によると、大衆娯楽雑誌には次のような分類"三大主流"があった。
 A級…教化性ニュース性に富める綜合的娯楽雑誌
 B級…娯楽的要素のみを追及、多量に包含せるもの
 C級…実話趣味を根幹とせるもの
 その説明を聞こう。「茲に問題となるのは『教化性』と『娯楽性』であつて、この両方面を貫くニュース性も亦一応規定されねばならない。 即ち大衆娯楽雑誌に於けるニュース性のある記事とは、他の綜合雑誌、政治、経済、思想に属する雑誌とは異り、 時事的な論調はいたつて希薄であつて、通俗大衆の理解し得る程度にまで軟かく濾過された時事解説風のものにしか過ぎない。(後略)」。
 また、"皇紀二千六百年記念号"の割には「その孰れも前述の『婦人雑誌』の傾向と同じ行き方をしており、 やヽその程度に於いて活発さを欠いてゐる」と総括する(なお、『戰線文庫』の表紙に「皇紀二千六百年記念 新年號」とある)。
 もっとも、「日本歴史、日本精神の高揚に資せんとするが如き編集意図は大体A級雑誌の巻頭言とか名士訓話に見受けられ、 その他、二千六百年奉祝記念特集としての長詩や時局解説、読物特集など」を取り上げていると評価もする。
 ここでも、「それらの内でも出色の方である」と、8誌9編を取り上げ、『戰線文庫』からは「神武天皇と日本海軍」(松下三鷹)が挙がっている。

 B・C級も論じているが(省略)、次のような論評は今日的でもある。
 「一般に、この新年号はその名前からして時季的な匂ひを出さうと苦心し、春場所相撲とか興亜の新春気分を夫々盛つているものヽ、 何分にも新年号は一ヶ月近くも先走った師走の月始めに発売されるため、誠に取つて付けた奇異の感を催さしめる。 これは正に配給組織と輸送関係による国民文化に影響する一段面でもある」と断じている。
 なお、「我が国の雑誌界はその発行部数、種類に於いて、世界的にも圧倒的な隆盛ぶりを示しているが、 中にも我が国に於いて雑誌用紙消費量の過半を占めるものは大衆娯楽雑誌と婦人・子供雑誌である」と、 この第41号にある「大衆文学(小説)の現状―大衆娯楽雑誌・婦人雑誌の新年号に就いて―」は述べている。

 このころ、どの雑誌も、新年号には競って付録をつけていたが、『戰線文庫』には内地版を含め見当たらない。
 もっとも、後の昭和18年1月号『戰線文庫』には、「戦線の新春お年玉 豪華な「海軍日記」完成」と"社告"にあるように、 付録として小型(袖珍小型B7判)の日記がついた。「普通の日記と異なり、戦線にあつて必要な記載と娯楽を兼ねる」もので、 川合玉堂(装丁)、口絵は横山大観、藤田嗣治、伊東深水などそうそうたる大家が協力している。 少し書き込みがあるこの日記の一つは、古書店で3万円の値がついていた。

6、厳しい減ページも、出版社には痛くはない?
 第42号(15年1月発行)では、まず婦人誌の状況を見よう。「二月号の婦人雑誌の特徴は全体的に非常に薄くなつたことが目立つ」として、 新年号との比較が載っている(7誌)。
 『婦人公論』本誌(菊)518→406ページ(112減)、定価70銭→60銭
 『主婦之友』本誌(菊)488→378ページ(90減)、付録8種→3種、定価85銭→60銭
 『婦人画報』本誌(四六倍)290→212ページ(78減)、定価1円50銭→1円
 と、この3誌は減ページが大きく、少ないのは『婦人之友』で、本誌(規格)232→224ページ(8減)、 定価は50銭で変わっていない。
 また、本誌56ページ減、付録を4種→1種に減じた『婦人倶楽部』は、定価を『主婦之友』と同額の60銭に下げている。
 この現象は「昨年秋の戦時統制による再度の雑誌用紙統制がこの月になつて現われてきたもの」であり、 「二月号は第二新年号とはいい条、その程度は大衆娯楽雑誌ほどのものではなく、各誌とも薄目になつてゐるが、 今年ほど両月号の懸隔のあるのは未曾有の現象である」という。

 ついで、大衆娯楽雑誌の場合はどうか。「偶々今年は紀元二千六百年を迎へ、二月十一日の紀元節をその期間に含めてゐる関係上、 二月号は愈々本格的に奉祝の企画が訓話、歌謡、小説、口絵にあらゆる層に及んでいる。(中略) こヽに最も大きな特徴として挙げねばならぬことは、この大衆娯楽雑誌も全般的に頁数を減少したことである。 (中略)各誌を通じて昨年最も少頁数であつた十二月号と略々同じ位の厚さになつた。 定価は昨年普通号の値段をそのまま据置にして頁数はグツと減少させ」ているという。

 ちなみに、非売品である『戰線文庫』は、この年発行の22号(15年8月)あたりより、238→200ページとなり、 そのまま推移したかに見えるが、77号(20年3月)では218ページになっている。
 一方、『銃後讀物』は、その後判明したところによると、17年9月号(184)、18年4月号(150)、18年8月号(160)、18年10月特大号(152/定価50銭)、 18年12月特大号(120)、19年新年号(112)、19年4月号(96)、19年7月号(62)、19年10月号(第72号/62)、 19年10月号緊急増刊(第72号ノ2…86/本號限り定価50銭)などと、かなり厳しい減少であることが分かる。

 内容面を見ると、「減頁によって最も打撃を受けたものは表看板ともいふべき小説陣と収入の纏つた道である入広告欄であらう」といい、 さらに、「行間は狭められ、活字は小さくなり九ポイント組が八ポイント化する等の付随現象を生んだ」ことは止むを得ないとしている。
 しかし、「返品率の激減、定価の据置、新聞紙の広告段数の制限等が昨年初めより実現されている」ため、 「会計の出入りは相殺されてもなお余りあるようである」と当局は見通し、こう結論づける。 「この度の全面的な減頁は単に編集内容のみならず、戦時下平和産業に属する出版界の経営方面に画期的な波乱を惹起していると観られるのである」と。

7、いよいよ"戦争協力"を打ち出す講談社系雑誌
 国策に沿う雑誌を望む内務省だが、「全く反対現象ともみられるものが最近の漫画挿画等に散見される」として、 たとえば、「オール讀物」の赤紙頁の『マツチ飢饉』(鈴木耕輔画)、『用紙節約』(港貞吉画)の如きは現下の物資不足に関する事項を揶揄し、 又「日の出」の『漫画サロン』中の『四月馬鹿』(佐次たかし画)は重慶市街に「日本軍撃退」「東京大空襲」等大書せるビラを多く描き所謂「四月馬鹿」(嘘)を主題とせるものであるが、 之らは共に時局柄徳義上にも面白からぬ画材である、という。
 さらに、挿画について「最近は女の顔を大きく出すことを以て能事終れりとする観を呈して」いるようだが、 「その事自体には何ら取締上の制限はないであらうが、間々やヽもすれば劣情を挑発せしむるが如き姿態を描くもの」などが散見され、 これからの季節柄、挿画・口絵写真等には注意するように、と結んでいる(第44号の「大衆娯楽雑誌」)。

 さらに大衆娯楽雑誌15年5月号の状況を見よう(『秘 出版警察資料』第45号)。
 「五月号の雑誌経営方針で特に顕著なものは、大日本雄弁会講談社発行の各誌が先月号より提唱せる『国策完遂への協力運動』とも云ふべきものであつて、 これが今月号に於いては、更にその運動の発展のため一斉に『質素生活』『貯金報国』とを協調した社説を掲げてゐることであらう」と冒頭に述べる。
 ちなみに、その前の第44号の「大衆娯楽雑誌」には、「講談社発行の雑誌はすべて申合はせたやうにこの四月から一斉に『国策に協力しませう』の社説を掲げてゐる。 その主旨とするところは結構であり、又斯くあつて欲しものであるが、その標榜するところのものに出来るだけ速かに各誌の隅々まで浸透徹底するの日を見たいものである」とあった (『秘 出版警察資料』15年3月)。

 ではそれまでは、どうだったか。
 「従来、この国策協力運動が大衆娯楽雑誌には表紙の片隅や埋草代用の標語程度の現象しか見受けられず、 各誌とも巻頭言や巻末編集だより等に国策云々の言辞は見受けられてはゐたものヽ、実質的には興味本位にのみ終始したり、 中には『ユーモアクラブ』(「巻頭言」及び「時事談義」阿部眞之介)のやうに反官僚的気勢を揚げることによつて恰も智的憂国的態度の如く振舞ふものすらあ」ったという。

 そこで、講談社の〈英断〉について詳しく論じる(注)。いわく、
 「講談社が一応その旗幟を闡明にし、今後の経営編集方針を更に時流に副わしめやうとする意図は、 単に『今更ながら』と一笑に付すより寧ろ『今からでも遅くない』の感を抱かしめるやうである」。
 同社の雑誌のうち、五月号の内容で顕著にその趣旨をもっているものとして取り上げられたのは、 『キング』…「一日十銭 私の簡素生活」岸田軒造/『富士』…「本多式貯金法」本多静六/ 『現代』…「わが家の簡素生活」八氏/『講談倶楽部』…「貯金の徳」石山賢吉等の記事。
 また、『富士』が時局読物の特集を掲載し、「夫々貯金・結婚・五族共和・スパイ警戒等のテーマで、 低い読者層へ国策を興味とともに理解させやうとする意図が窺はれる」として、次のようなものが掲げられている。 「心の掟」山岡宗八/「日本の振袖」木村 毅/「母の悲劇」川口 繁/「強いコスモス」佐山英太郎 /「漢口のカチューシャ」大森三平
 (注)これらの"戦争協力"により、戦後、講談社は日本出版協会から除名と出版界からの追放決議を出されることになる。 昭和21(1946)年1月、GHQが「戦争中日本国民を戦争に駆り立てた出版者は、悉く出版界から払拭追放されることになろう」と発言したことによる(除名は不成立)。 その時、名指しされたのは、他に旺文社、主婦之友社、第一公論社、そして興亞日本社、山海堂、家の光協会の六社であった (山本武利「終戦直後の出版界とGHQ」『出版の検証―敗戦から現在まで―』日本出版学会編文化通信社1996・12所収)。

 15年5月号の論評はまだ続く。
 具体的には、事変関係・欧州戦争・国内問題だが、中でも「事変関係の実戦手記はこの種の雑誌に於いては最も華々しく且つ大衆の感情に厳く強へるものを持つてゐて、 看板や呼物になつてゐる」と(『秘 出版警察資料』第45号)。
 そして、8誌9編が挙げられ、『戰線文庫』(第14号)の場合は「武漢攻略戦参加の思出」(続木禎弌・海軍中佐)、 「長沙水路の制圧」(林田重五郎・従軍記者)の2編である(この号の表紙に「武漢・廣東攻略一周年記念」の惹き文句がある)。

 このほか、時事解説的なもの、欧州戦争に関するもの、季節物としては、全国中等学校の選抜野球大会の総評や六大学リーグ、 職業野球はじめ、夏場所大相撲の予想、競馬の勝ち馬予想など"大衆娯楽雑誌の五、六月号恒例の記事"など。 また、「近頃の社会風潮として注目をひいてゐる青少年工の生活や犯罪を扱つたもの」(7誌8編)は、 「少年保護法制定の記念日(四月十七日)をも兼ね覘つたものだらう」とみる。

 ついで、小説について論じ、「今月号の小説陣で特記すべきは二、三誌に於いて海洋文学の特集が行はれていることであらう」とし、 広義に取り上げると、『大洋』…「海の見える窓」木々高太郎、「食ひ氣と色氣」葉山嘉樹、「海邊有情」鹿島孝二/ 『にっぽん』…「熱海魔」小栗虫太郎、「親爺丸」菊田一夫、「人魚の結婚」南澤十七、「海濱の銃声」築地半七、 「沖の蜜柑船」一龍斎貞鏡/『戰線文庫』…「暗車奇談」北村小松、「西班牙海圖」清水鐡也、「海に消えた潜水夫」築地半七、 「島の為朝」神田愛山など、大衆小説・ユーモア小説・講談の類いまであった。
 解説に、いわく「単に五月廿七日の海軍記念日目当てといふ以外に、漸く海洋に親しまれだした季節の関係もあり、 また右の三雑誌が共に海軍と特殊的な緊密な関係にあるためでもあらう」と結論づけている。

8、ABCから甲乙へと分類が変わった? 大衆娯楽雑誌
 ところで、内務省警保局図書課編による月報『秘 出版警察資料』は、第47号で突如、終わっている(15年6月。七月号が対象)。
 また、奇妙なことに、大衆娯楽雑誌の分類が、「ABC」から「甲乙」に変わり、『戰線文庫』に関する記述も消えている。 大雑把に見ると、時局に敏感な「甲種」雑誌は、『現代』『雄辯』『大洋』『キング』『日の出』『家の光』『青年』『週刊朝日』 『サンデー毎日』などとなっており、「乙種」雑誌には、『オール讀物』『講談倶楽部』『ユーモアクラブ』『新青年』 『第一讀物』『講談雑誌』『譚海』『奇譚』『讀物と講談』『新大衆』『讀切雑誌』『讀切講談』などである (この月報では、『週刊朝日』は常に「週間朝日」となっていた)。

 このころ、出版社側の対応として、次のような報告がある。「大衆雑誌の自粛策」と題するもので、 「大衆雑誌の一部では自主的に時局適応を図るため各作家に左の如き事項を要望、文壇の注目を惹いた。 即ち某大雑誌社では、一、防諜の必要を強調した小説 一、傷痍軍人の厚生を描いた小説 一、開拓民の逞しい生活を描いた小説 等々五十何ヶ条を列挙、作家に通達してその取材の範囲を限定、また某ユーモア雑誌は「べからず集」を作り  一、物資の不足欠乏を書くべからず 一、邪恋を採上げるべからず 一、自由主義的思想を盛るべからず  等々十数ヶ条を挙げて同様関係作家に配布する等、種々の意味から共に作家間に論議を醸した」という (「昭和十五年度雑誌界彙報 八月」『雑誌年鑑』昭和十六年版)。

 余談だが、"時局に敏感な「甲種」雑誌"の一つに数えられた、産業組合中央会発行の『家の光』は、 「一般版」と「都市版」の二種が同時に出ていたようだ。『戰線文庫』の戦地版および内地版の例と同列には論じられないが、 このような発行形態が他にも存在したことは参考になるのではないか。 上記「大衆文学(小説)の現状」にある、15年1月号の目次の一部を引用して、比較検討の材料にしていただこう。 なお、付録は共通のものである。
「一般版」
 現  代 「戰ひの中の女」       川口松太郎
 義士講談 「不破 數右衛門」      大島 椿山
 現代農村 「郷土賛歌」         間宮 茂輔
 現代リレー「花咲く頃」         編 集 部
 翻案児童 「ロビンソン・クルソー漂流記」池田 宣政
 時局脚本 「二千六百年の子」      畑中 陽廣
 農村芝居 「大日向村」         和田 伝・前進座一党
 「都市版」
 現  代 「戦ひの中の女」       川口松太郎
 義士講談 「不破 數右衛門」      大島 椿山
 科  学 「不思議な黄孃」       海野 十三
 翻案児童 「ロビンソン・クルソー漂流記」池田 宣政
 当選戯曲 「二千六百年の子」      畑中 陽廣
 児  童 「晴れわたる元日」      宇野 浩二
 映画物語 「白蘭の歌」         久米正雄・東宝映画

第3部 大東亜戦争下、日本および出版界の状況

1、検閲と指導に、内務省は忙しい…
 先の大東亜戦争の真っ只中、日本および出版界の状況について、『雑誌年鑑』から、いくつか拾って見よう。 まず、内務省からの要望である(要旨、注)。
 「編集は防諜の立場からも」…わが国は島国でスパイによる痛手を如実に嘗めたことがなく、一般に諜報の恐ろしさに対する観念が薄い。 「諜報は歴史と統計なり」といい、A誌の記事とB誌の記事から、ある国の防諜機関は「日本海軍の航空基地は○○であり、 爆撃機の時速は三五〇粁以上である」と航空機の性能を的確に報告した例がある。
 「前線将兵に読ます気で」…どんな雑誌でも戦線に送られて、兵士たちが読む。たとえば漫画で、凱旋した兵士が嬉しそうなのを見ると、 前線の兵士の士気に影響を及ぼす。娯楽雑誌はほとんど全部行っており、婦人雑誌の軽薄な流行記事も士気に関係する。
 「検閲の苦労を知って貰ひたい」…当局は検閲もやれば、指導もする、二重人格的な立場を編集者は考えるべき。 「どうせ検閲官の方で削除してくれるのだから」という調子で、ずい分ひどい原稿を持ち込む例もある。 雑誌の指導は検閲とは別個の問題で、いわば思想戦の立場からやっている。
 「あやしいものは内務省へ」…陸軍省や海軍省へ行って、留守ならば内務省へ来てくれればいい。 留守のために雑誌に迷惑をかけることもないだろう。
 「綜合雑誌について」…要望はいろいろあるが、執筆者も編集者もしっかりした国策的見地を持ってもらいたい。 たとえば、革の統制で、靴を履かない女学生の足がズラリと並んだ写真と記事が出ると(国民に節約と貯蓄を奨励する上で効果はあるが)、 支那に行くと日本はこんなに貧乏して困っているという宣伝になり、支那兵の士気を鼓舞することになる。 綜合雑誌には、一つの問題に真剣に取り組んで真面目に取り扱って行くものがもっとあってほしい。 知識階級を指導してゆく雑誌としては力が足りないのではないか、等々。
 (注)14年版『雑誌年鑑』「二、当局は雑誌に斯く望む 内務省、陸海軍省雑誌研究会の速記抄録」 (昭和13年3月13日夜、虎の門・晩翠軒にて日本読書新聞社主催)。

2、軍部に協力する出版界、軍用機の献納も
 陸軍や海軍に協力させられる出版業界だが、雑誌界では前出のように「我が国の雑誌界はその発行部数、種類に於いて、 世界的にも圧倒的な隆盛ぶりを示している」(『秘 出版警察資料』第41号)と当局に目をつけられており、 14年2月には「海軍雑誌懇談会」が発足する。
 「長期戦下海軍に対する国民の関心と理解を雑誌を通じて深めるを目的に海軍省軍事普及部が海軍関係、綜合、大衆、婦人、 少年等各主要雑誌に呼びかけて海軍雑誌懇談会を結成、第一回会合を三日麹町区虎ノ門晩翠軒に開催し海軍から金沢少将、 松島中佐ら関係者が出席した。以後毎月一回会合、雑誌編集者の海軍への認識、協力を求めることになつた」とある (「昭和十四年度雑誌界彙報 二月」『雑誌年鑑』15年版)。

 上記の続き、海軍の雑誌指導…検閲とは別個の問題で、思想戦の立場から"時局下において如何なる方針で世論を指導するか"という趣旨で、 その機関として「雑誌懇談会」が設けられ、陸海外の三省が協力し、内務省からも参加、月に一回、雑誌業者を集め、 時事問題を説明。会員は五十名くらいで、婦人雑誌以外の有力雑誌は大抵参加している。(上記、晩翠軒)

 少し話は変わるが、陸海軍に対する軍用機の献納は、企業ばかりか県民、団体(小学生や幼稚園児も含む)、 そして個人も行なっていたが、出版界も例外ではなかった。その消息を「全国書籍雑誌業者の軍用機献納」で見よう。
 「全国書籍雑誌業者の軍用機献納運動は、全連奉祝事業委員会の真摯な努力に依つて漸くその実を結び十一月十八日大野記念事業委員長並に全国書籍業連合会岸副会長の両氏が打揃つて陸海両省を訪問、 全国書籍業連合会及び雑誌協会の連名で陸軍省へは『書籍雑誌愛國號』を、海軍省へは『書籍雑誌報國號』を夫々献納した(注)。 この名誉ある報国号に対し軍当局では全国書店人の熱意を永遠に記念する意味で仮令その飛行機が奮戦の結果故障を生じてもそれを修理の上書籍人の熱意の結晶である名称だけは永久に存続せしめる旨を誓つた」 (「出版界一年史(昭和十五年度)十一月」『出版年鑑』十六年版)。
 (注)両省への軍用機献納の実態について、海軍関係は同OBである横井忠俊の「報国号海軍機の全容を追う」 (『航空情報』1984年2、3、12月号)に詳しく、陸軍は戦後生れの方のHP「陸軍愛国号献納報告」に随時"中間報告"が掲載されている。 ただし、その実態は資料に乏しく、前者は昭和7年〜20年の間で1700〜1800機と推定し(筆者曰く「五九二九号」もあるが、 「常識的に見ても報国号飛行機が5000機以上も献納されたとは到底思えない」)、確認できたのは35%程度といい、 後者では「番号通りであれば7000機を超えるであろう」が、わずか2割程度しか判明していないという。

 なお、「報国号海軍機の全容を追う」によれば、16年3月21日に全国書籍連合会・日本雑誌協会から「書籍雑誌号」が贈られている。 また、出版社独自には、滑笏g書店が「岩波号」を17年9月20日に、(株)文藝春秋社が「文藝春秋号」を18年9月20日に、 それぞれ海軍に献納している。
 さらに、横井は、朝日新聞の呼びかけで行なわれた「全日本号」の実態について、「自社が提唱した大国民運動による陸海三五〇機にもおよぶ献納機の記録が (同社に)全く残されていない」という事実に驚いている(『航空情報』1984年12月号)。

3、間近に迫った"戦争"に出版界も必死の協力
 昭和16年に入ると、海軍省はさらに露骨に出版界を巻き込む。少し長くなるが、「海軍雑誌協会強力発足」によると、
 「今や国を挙げて邁進しつヽある興亜の聖業たる大東亜共栄圏の建設のため海国民たるわが日本民族は大洋に乗り出し悠久三千年の雄図を具現しなければならない、 わが海軍の完璧なる海の護りの下に、海の交通、海の資源を齎してこそ、初めて皇国を世界に冠絶せる最強な高度国防国家たらしめるであらう、 海こそ日本民族の発展の道標だ、しかも太平洋の波は依然として高く皇国の興廃太平洋にかヽる、対アメリカ会談が成るか成らぬか、 ABCD鉄環が不法にもいよいよせばめられつヽある重大時局に際し」、
 「海防と国防国家の文化的役割を全面的に担当し、海国日本の国家目的達成に文化的な役割を完遂するを目的とする 『海軍雑誌協會』が今回大本営海軍報道部長前田稔少将を名誉会長とし、海軍関係の雑誌出版業者を一丸として(16年)十月二十七日水交社に於いて創立総会を開催」、
 「次いで十一月四日全役員並に海軍省報道局関係官出席の下に披露会を行つたが、いよいよこの協会が海軍省直接指導下に、 一方関係官庁とも緊密なる連絡下に『太平洋の文化要塞』として転変する国際時局に対応して果敢なる運動を展開することとなつた」という (「雑誌界彙報 十一月」『出版年鑑』昭和17年版)。

 具体的に、どのようなことになったか。さらに、こうある。
 「松島大佐、高瀬中佐の海軍々事普及部時代から海軍外廓文化団体は直接指導を受けて発展してきたが、 最近の臨戦体制に立脚し、高度国防国家の文化的役割を積極的に推進する機関として在来の指導団体の整理を断行、 海軍協會(「海之日本」発行)、海と空社(「海と空」発行)、海防義会(「海防」発行)、日本機動艇協會(「舵」発行)、 水交社、興亞日本社(「戰線文庫」発行)、文藝春秋社(「大洋」発行)、帝國海軍社(「帝國海軍」発行)、海軍有終會(「有終」発行) の九社関係者を会員」として発足している。
 このあたりになってくると、海軍が前面に出てきて、ついで海軍との関係の深浅の度合いで、人事が決まったようだ。 「大洋」を発行する文藝春秋社の名はあるが、菊池寛の名は見当たらない。次のような次第である。
 理事長…大本営海軍報道部課長平出英夫大佐、理事(常務)…大本営海軍報道部、情報局古橋才次郎中佐、 海軍有終會常務理事廣瀬彦太大佐、横関愛造氏(海と空社)とある。次いで、(常務)…大島敬司氏、以下、 幹事長、幹事(常任)…野間久治二朗氏他五氏、評議員…国枝三郎氏他四氏とあり、〈指導顧問〉として「大本営海軍報道部関係」四名、 「情報局関係」三名が参加とある。
 〈目的・事業〉は、「時局柄特に太平洋問題に重点をおき、海軍諸問題(軍事普及、報道、募兵、恤兵事項その他) 海軍の調査研究航空問題をテーマとする雑誌並に出版の企画から研究、調査、編纂、刊行を協会事業として取り上げてゆくほか、 常に世界情勢と睨み合はせ緊急に応じて研究会、講演会その他必要なる事業を計画実行に移す」ことになった。

 16年11月…同じく「雑誌界彙報 十一月」の項の「雑誌翼賛懇談会」では、大政翼賛会が第二回雑誌編集者全員懇談会を開き、 昼ごはんを食べながら、雑誌編集者約六十名と"雑誌文化に対する真摯なる研究討議"を行なった、とある。

4、開戦、そして言論出版集会結社等臨時取締法の制定
 その後の動きは、翌月に報告されている。
 「太平洋の波涛将に狂瀾せんとする前夜十月二十七日、海軍関係雑誌九社の関係者を統合、 強力に創立発足した海軍雑誌協会では対米、英宣戦布告、太平洋開戦起るの報に接するや九日午後六時より緊急研究会を虎の門曙荘に開催、 海軍省側より大本営海軍報道部古橋才次郎中佐外二氏、海軍雑誌協会側より理事廣瀬彦太大佐、横関愛造、大島敬司、 幹事長小坂英一の諸氏以下数氏、海軍協会側より野間久治二朗主事以下十二氏」が出席して、 「太平洋作戦の現状と今後の方向について海軍指導雑誌としての編集方針、出版、会合等同協会関係の諸問題をめぐつて慎重な打合せ」を行い、 「今後の活動に備えて一切の準備」を整えたとある(同年鑑「雑誌界彙報 十二月」の項「海軍雑誌協會 緊急研究會」『出版年鑑』昭和17年版)。

 さらに、同月作家らによる「航空文学会」も結成された。
 「わが陸海荒鷲の嚇々たる武勲に今更ながら一億国民が賛嘆の叫びをあげ一段と空への関心を新たにしてゐるとき文壇においても航空に深い関心を持つてゐる諸氏が集ひこの程『航空文学会』を結成」している(日時不詳)。
 メンバーは顧問…航空総監、会長…菊池寛、幹事…瀧井孝作、北村小松、木村荘十、事務長…本橋錦一が就任し、 本部は文藝春秋社内に置かれた。
 趣旨は「航空知識の涵養及び航空文学の創造普及を目的」とし、毎月一回以上、航空研究会を開くほか、 「航空文学の創作に資すべき調査研究、航空文学賞の設定」など、早々に具体的計画を立てた、とある(同上年鑑「雑誌界彙報 十二月」の項「航空文学会結成」)。

 しかし、その間、"戦時下治安確保の万全を期する"言論出版集会結社等臨時取締法が制定される。 「十二月十七日、議会を通過成立し、十九日に公布され、二十一日より施行される」という有無を言わさぬ迅速さであった (同上「言論出版集会結社等臨時取締法」)。

〔おわりに〕

 たとえば、献納機の例に見るように、戦前の記録は、どの分野でもかなり散逸している印象を受ける。
 しかし、今からでも、できることはやらねばならない。再び、"戦争"を招来させないためにも、 過去をしっかりと見つめなおす作業を。私にはこの『戰線文庫』の研究である。急がねばならない。


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