『戰線文庫』研究

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恤兵(金)および献金・献納について

2006・01・04 橋本健午

1、恤兵(金)とは何か

 恤兵〈じゅっぺい〉とは、聞きなれない言葉だが、手元の辞書に「(恤はあわれむの意)金銭や物品を寄付して、 出征兵士を慰問すること」(新潮国語辞典)とある。
 その歴史について、『銃後讀物』(昭和17年新年号)に「文芸家と恤兵部主務海軍士官が語る 銃後と戦地を結ぶ座談会」があり、 次のように語られている(文芸家として、菊池寛と森田たまが出席)。

 記者「一体、軍の恤兵部といふのはいつごろに出来たんですか」
 K少佐「陸軍の方が早いです。陸軍の恤兵部といふのは、日清戦争のときに出来てゐます。 …日本の恤兵はいつごろから始まったか、…豊臣秀吉なんかあれだけの将兵を率ゐて転戦してゐたのですから、 何か恤兵のやうなことをやつたと思ひます。…神武天皇御東征の砌り、紀州熊野に御上陸の際、皇軍がみんな毒にあてられた。 神武天皇は非常にお困りになられてゐた時、丁度地方の豪族高倉下〈タカクラジ〉が参つて、何かと皇軍を掩護したといふ記録があります。 これは民間が皇軍のために力を尽くした最も古い記録です。降つて、秀吉が、やはり従軍した百姓の田畑はその村民に耕作さしたり、 衣服食物の慰問品を送つて陣中を慰問し、あるひは有名な医者曲直瀬道三を朝鮮に派遣して、毛利輝元を手当てさせるなど、 慰問を兼ねて医者を派遣してゐます」

 インターネットで調べたところ、「恤兵」「恤兵会」などに関して、さまざまな例があり、やはり日清戦争(1894〜95年)以来、 各地で出征兵士を慰問する活動が行なわれていた。これらについては、のちにふれる。
 しかし、太平洋戦争(大東亜戦争、いまアジア・太平洋戦争ともいう)時、国民が戦地の兵士に送っていた慰問袋や献金・献納と、 恤兵金はどう区別されるのか、はっきりしない。陸海軍当局による報告や説明からも、その線引きはあいまいに映る。
 いずれにしても、国民各階層による金銭的かつ永続的な"戦争協力"であったのは事実で、本稿では恤兵金と献金・献納を平行して述べることにする。

恤兵金で作られていた『戰線文庫』

 太平洋戦争時の"恤兵"はどのような状況だったか。慰問雑誌『戰線文庫』あるいは『銃後讀物』によって概観しよう。
 『銃後讀物』は、戦艦上や外地に散らばる将兵向けの『戰線文庫』が非売品であるのに対し、その姉妹誌ともいうべき内地版(有料)で、 誌面の七、八割は同じ内容であった。また、旧陸軍省でも同様に、大日本雄弁会講談社(いま、講談社)が編集を引き受けた『陣中倶楽部』や、 『陣中讀物』という戦地向け慰問雑誌が出されている。いずれも非売品。

 月刊誌『戰線文庫』は、旧日本海軍省の監修により昭和13(1938)年から当初は戰線文庫編纂所、ついで同じ人たちによる興亜日本社から、 日本が敗戦を迎える同20(1945)年8月ごろまで出されていたとされる。
 その制作費は、創刊号より各号の奥付にある角印に「本品ハ国民ヨリ寄セラレタル熱誠ナル恤兵金ヲ以テ購入シタルモノナリ /海軍省恤兵係」とあるように、恤兵金すなわち、国民のもう一つの"献金"によって賄われていた (海軍省経理局「海軍に寄する赤誠国民の献金の使途について」『戰線文庫 慰問讀物號』昭和14年12月号)。 これが、非売品の根拠であろう。

 戦時中に行われた献金運動は陸海軍別に行われ、また献金は指定制で、使途別に国防費と恤兵金、学芸技術奨励金等に分かれており、 当局はつぎのように説明する。「恤兵とは慰問と解してよく、恤兵係では、第一線の兵隊の慰問を主とし、 次に病院にいる戦傷病兵の慰問、遺族の慰問に重点を置いて、国民からいただいた物品や恤兵金で、適当な品物を買つたり、 施設を作つたりしている」(「海軍の恤兵を語る座談会」『戰線文庫』昭和15年11月号)。

 ひとつの数字を見よう。前出の『戰線文庫 慰問讀物號』にある「海軍報国献金美談(関西版)」によると、 「銃後国民のなすべき多々ある務めの一つである献金運動は銃後堅実の度を示すバロメーターだということができ」、 「(昭和12年の)事変以来赤誠あふれる国民が、我が海軍に寄する献金・品は事変二周年の記念日に当たる七月七日現在を以つて三千七百十二万七千四百六円四十六銭の巨額に達して」いるという。
 そのうち、国防献金は901万6626円38銭、学芸技術奨励金は51万3577円52銭、その他として592万7597円9銭の下士官兵家族病院建設資金があり、 「また恤兵品は七百八十六万千五百六十九点の多きに及んでいる」とある。

 しかし、恤兵品の数字は明示されているものの、肝心の恤兵金には触れていない。単純に引算すると、2166万9605円9銭となり、 実に国民の献金総額の6割近くを占めることになる。とはいえ、戦地の将兵一人ずつに配布されていたという『戰線文庫』の数は、 かなりのものだっただろうが、どれぐらいの金額がつぎ込まれたのか現在のところ不明である。

献金・献納の実態とその使途

 戦時中に行われた献金運動はどのようなものであったか。陸軍に対しても同じように行われていたが、 ここでは海軍の場合を見よう。その使途は大きく「国防費」と「恤兵金」、「学芸技術奨励金」に分けられるのは、 先に見たとおりである。

 海軍経理局は、前掲「海軍に寄する赤誠国民の献金の使途について」、次のように説明する。
 国防献金は飛行機、高角砲、機銃、聴音機、内火艇、戦車等あらゆる必要な兵器を作ることに充てる。 一方、恤兵金は七生報国を誓つて連日休むことなく空に、海に、陸に奮闘を続けている将兵のために利用される慰問金や、 遺家族、傷病将兵の見舞金等々あらゆる広い範囲に使用される。また、学芸技術奨励金は砲術、潜水術、航空術または航海術等あらゆる学芸技術の奨励金として利用されるという。

 国民が献金するには、"注意事項"を守らなければならない。
 すなわち「後日海軍大臣から感謝状が送られる事と国家褒賞等の関係」から、1)住所氏名をはっきり書く、 2)団体か個人かを明確に、3)献金の趣旨(区別をすること)、4)陸軍か海軍かの区別を とあり、 5として慰問袋にも住所氏名をはっきり書き、忘れずに自筆の慰問文を入れていただきたいとある。
 とくに、5は「印刷物でも慰問の意味は達せられる訳だが、殺風景な戦地では自筆の慰問文がどれだけ感激が深いか分からない、 文字の上手、下手とか文章の優劣ではなく、要はその赤誠である」からだ(同前)。

 その慰問袋の中身について、「別に制限はないが夏はカビやすいもの、腐りやすいものは困るし、乾物類、干魚類も喜ばれない。 煙草、缶詰(大きいものより小さいもの、数の多い方がいい)、懐中薬、鉛筆、手帳、塵紙、便箋、雑誌、読みもの等日用品で兵隊さんの好きそうなものを工風(ママ)する事で、 お金をかけたとて缶詰ばかりの慰問袋など感心出来ない」と、お願いながらも細かな注文を出している。
 慰問袋以外のものは、雑誌、梅干、缶詰、レコード、清涼飲料、煙草、清酒等であるというが、ダブっているものも多い(同前)。

 このような献金等を必要とする将兵は、どのような状況下にあったか、またその効果について次のように説明する。 「土を踏まず殺風景な航行遮断区域に警戒の艦船、支那大陸を翔破の海の荒鷲、勇猛果敢な陸戦隊等々の勇者にとつても、 傷つける身を白衣に包んで、病院の窓に過ぎし奮戦の日を思う将兵にも、水兵の父、母、身は靖国の宮に神鎮まれる勇者の遺族も、 心からなる銃後の国民の熱き感謝慰問こそ、何よりの慰問ではありませんか」(同前)。

 さらに続けて、「(昭和12年の)事変以来、本年五月まで八百五十七万二千余円のうち、支払い高四百九十三万六十余円」になるといい、 いくつかの項目別に使途金額を上げているが、このほか「恤兵品主要品種および数量金額」では、慰問袋128万8000個(金額にして198万50円)、 その他452万1000点(42万8000円)、合計580万5000点(241万3000円)に及ぶとある(同前)。 これは、たぶん関西だけの集計であろう。

 ところで、出来合いの慰問袋の中身はどんなものだったか。
 昭和12年7月7日に戦端を開いた日中戦争……。以後、戦闘地域を拡大し、同時に海外に派遣される兵士の数も増えていったこの年、 彼ら兵士のために慰問袋を作って送ることが盛んになり、いくつかのデパートでは皇軍慰問品売場を設けていた。

 三越の場合、その広告によると、3円、4円、5円の各セットがあり、3円セットにはアンダーシャツ・重宝帯・花紙・薄荷パイプ・将棋・扇子・新講談本・支那語絵本・汗知らず・氷砂糖・お多福豆・はぜ甘露煮・海苔佃煮・富久娘または菊華・慰問袋。 この他、送り箱とも送料として、上海・満州へは75銭となっていた。
 5円セットでは、さらに靴下・安全剃刀・香水・蚤取り粉・羊羹・昆布飴・茹で小豆・石けんなどが加わり、 シャツもクレープになる。しかし、これらのセットでは味気なくなり、デパート品を送る場合でも、一品お手製のものを加えたい、 とくに手紙をなどという訴えも見られた(『アサヒグラフ』昭和13年7月13日号)。

 なお、戰線文庫編纂所も慰問袋を献納している。
 第1回は「興亜の新春を迎へる前線の海軍将兵諸氏に戦線文庫を通じて常に熱誠の感謝を捧げてゐる当編纂所では、 去る十二月二十四日、真心一途につくりあげた新春の慰問袋を東宝明貌のスター三益愛子さんを代表者として、 海軍省に献納しました。内容の一部を申上げますと、将棋の駒、人形、風船、羊羹、五色豆、便箋、封筒、ハガキ、 人気女優のプロマイド、雑誌等々であります」(『戰線文庫』第5号、昭和14年1月30日発行、口絵)。

 また、「銃後の読物献納運動が白熱化し、今回、大阪地方海軍人事部へ、『戰線文庫』献納の申込み」をした人の名前が、 先の『戰線文庫 慰問讀物號』(昭和14年12月号)にある。
 申込み順に、50部、500部、1,000部(商店主)、250部、5,000部(宗教団体)、500部、10,000部(個人)、500部、150部、 500部となっており、「頒布の中、右の部数は、銃後の赤誠ある献納に依るものであることを御承知下さいまして、 陣中より表紙記入の献納者殿へ、何かとお便りでも、お寄せくださるようにお願ひ申し上げます」とは、 編纂所からのお願いである(「銃後赤誠譜/戦線文庫献納一覧表/献納者芳名録その一」)。

 企業の例もある。表紙に「大阪地方海軍人事部扱 塩野義商店慰問号」と印刷されているのは、 『戰線文庫』第12号(昭和14年10月号)である。
 他社の広告もあるが、表紙につづき目次ウラの広告に「海軍勇士諸君へ 株式会社塩野義商店/社長 塩野義三郎」と、 同社社長の写真とともに次のようなメッセージがある。
 「興亜の新秩序を建設すべき大使命に邁進し今次聖戦に嚇々たる戦果を収めて無敵皇軍の武威を世界に宣揚せられつヽある 我が海軍将兵各位に対し銃後国民として満腔の謝意を捧ぐると共に益々御武運の長久を祈り聊か御慰問の寸志を以て本号を贈る。昭和十四年九月」
 さらに、同ページの左隅に細かい文字で、「◇本号は塩野義商店殿の御厚意に依る塩野義商店慰問号でございます。 この慰問号に対する御感想又は戦地通信などを左記にお寄せ下さらば幸甚です。 (編纂所)/大阪市東区道修町 塩野義商店御中」と、これまた編纂所からの"お願い"がある。
 ところで、この第12号は塩野義商店が"丸抱え"したものかと想像したが、そうではなかった。 岐阜県立図書館所蔵の同号の表紙には、上記の表示が見当たらなかったからで、この号の一部(といっても相当の部数だろうが)について、 同商店がその費用を出したものと推測される。

とどまるところを知らぬ献納・献金熱

 献納・献金について、『戰線文庫』にたびたび登場する海軍省恤兵部恤兵係、石淵知定海軍主計少佐の、 戦線の兵士向け談話と記事を紹介しよう(『戰線文庫』創刊号「銃後の献金熱愈々高し―前線部隊意を安んじて奮戦されよ―」昭和13年9月30日発行)。
 まずは、編集部による長い"前口上"である。

 漢口陥落が目睫に迫つた。海陸の立体的猛攻が効を奏して、敵は続々敗退してゐるが、輝かしい漢口攻略の成果に銃後国民の献金熱に、愈々高まつて来た。
 海の荒鷲部隊の活躍振りは、世界戦史に新紀元を画した素晴らしいものだと感謝し、身戦隊〈りくせんたい〉の奮戦振りは寡兵よく敵の大軍を壊滅せしめたと感謝し、 漢口部隊の水路啓開の苦心奮闘には、何んとも感謝の言葉がない、また支那航行遮断部隊の不眠不休の看視振りは、?〈さぞ〉かし辛苦深いであらうと、 国民の誰もが、感謝して考へてゐることである。
 この為に、海軍省恤兵部へ連日殺到する献金者の姿は引きも切らず、係官は終日之に接待して、食事も忘れ勝ちの始末である。

 特に海軍記念日(注:5月27日)とか事変一周年記念日(注:7月7日、昭和12年支那事変勃発記念日)には、 早朝より多数の小国民の群れが、手に手に可愛らしい献納品を携へて現はれる。
 自粛のため収入の減少した筈のダンサア達が、各自の財布から、真心をこめた献金をして係官を感謝させるものである。
 かういう時に、石淵主計少佐は、早速即応の気転を利かして、壮烈無比の我が海軍将兵の激戦進攻振りを一席語る、 流石は愛国心に燃えたうら若き女性達のこと故に、すつかり感動して、瞼に一杯の涙を浮かべて、更にみんなに呼びかけて、 この次はもつと献金しませうと語つてゐる。
《カット写真には「海軍省恤兵係へ慰問金と慰問ふくろを献納する日活スタア連と受領する石淵海軍主計少佐」とある》

 そこで、恤兵部にゐられて之等の銃後の護りを固うする献金者達に接しられる石淵海軍主計少佐に、その感想を聞くと、 「また私が話しをするのですか。毎度の事で気がひけるが、戦線で活躍されてゐられる方々にも是を知つて頂きたいことを申上げませう」
 そこで、先づ細い数字から発表された。
 「八月十二日現在までの国防費は一千四百七万一千七百八十二円六十銭、慰問金六百八十一万五千九百卅四円九十四銭、 学芸奨励金十五万二千八百五十五円三十銭で、累計二千百四万五百七十二円八十四銭にのぼり、慰問品は五百十七万二千九百九十四点の多きに達してゐる。

 さて、此等国防献金に依り製作の献納飛行機報国号数は今日迄二三六号の多きに達し或は全日本号、小学生号、中学生号、 女学生号、実業学生号、青年団号或は朝鮮各道、台湾、樺太、北海道号或は満鉄号、ダバオ号、在亜同胞号等在外同胞による祖国愛の結晶たる報国号等々献納者の名も鮮かに、 我国民同胞の熾烈なる魂を載せて支那大陸の上空到る処に勇戦奮闘を続けつつあり、又其の武運は全く不思議にも長久である。 之れ偏に銃後国民の赤誠が荒鷲勇士の生魂に通じたる賜である。

 さらに、石淵主計少佐の熱弁はつづく。
 尚国防献金は報国号飛行機の外に製作せる戦車、高射砲、機銃、聴音機、内火艇、軍鳩、軍犬、軍艦旗等の 献納数も多数に上り或は飛行場へ防空砲台其の他の土地又は建物等を献納し祖国永遠の大計樹立に協力せんとする 日本国民精神を如実に表現する等麗しき限りである。
 恤兵金品の献納については銃後国民も持久戦に入りて引きも切らず一方出征将兵は又愈々一死報国を誓つて毎日休むことなく 空に海に陸に奮闘を続けてゐることは一般周知の通である。

《ちなみに、「軍鳩、軍犬」とあるが、軍鳩は伝書鳩として、軍犬は主にシェパードが従軍していた。 軍馬の育成はもちろんだが、ウサギも昭和16年に政府が飼育を奨励し、その毛皮が防寒具(防寒服・手袋・耳あて)となった。
なお、昭和19年に警視庁により"犬の供出"が実施されたのは、食糧の欠乏で野犬が凶暴化し、人に危害を加えるようになったためで、 成犬1匹60銭、子犬は20銭で買い上げられ、皮は軍に献納され、特攻隊員の耳あてなどになったと、早乙女勝元(著述業)は記す (東京新聞03・08・12夕刊コラム「放射線」欄「犬の供出」)》

 石淵少佐の熱弁にもどろう。
 此等に対する銃後の感謝慰問は或は金に或は物となつて殺伐極りなく、又慰問なき前線将兵を慰めつつあり、 特に慰問の手紙の入つた慰問袋や慰問文画は此上もなき将兵慰問の糧であり、彼等を勇気付け明日の戦闘に元気百倍させる清涼剤である。 然し此の慰問袋や恤兵品も献金等と同様海軍の伝統的方針として積極的に他に呼びかけたりして慫慂せぬ為か其の数も比較的に少く、 慰問袋も最前線部隊のみに配布してゐる状況である。端的に云へば航空隊や陸戦隊や艦隊等から慰問袋の配給少し等の通信あり又恤兵金の使途につき注文あるが、 銃後も食う物も食はず小さい子供迄節約に節約し或は釘を拾ひ集めたり、納豆売をしたり電車に乗るのもよして献金してゐる有難い赤誠であるから、 出来るだけ我慢させる様にしてゐる。

 海軍としては斯る尊い恤兵金等を花火線香式に消耗することを絶対に避け、差当り戦傷病者の遺稿並に戦死者遺家族の慰藉救護等は十分考慮するも、 出征将兵救恤も節約し恤兵金の少きを補ひ、一方出来るだけ恒久性ある事項に有効適切に使用する様に努力中で、 之れ偏に銃後赤誠を無駄にせぬ方針に外ならぬのである。学芸技術奨励金は航空機研究費其の他に充ててゐる。
 此の八・一三一周年記念日を迎ふるに当り銃後国民各位の赤誠総結晶を報告申上げ併せて衷心感謝の意を表する次第である。

 この記事は、一方的な"要望"だけでは終らない。編集子いわく「そこで、更に、石淵主計少佐は前線将兵へ左の如き点の気付いた事を述べられた」とあり、
 戦線で活躍される方々に戦闘の余暇に是非次のやうにして頂くと、慰問袋を出された銃後の国民が喜ばれるであらう。 即ち慰問袋其他の恤兵品を頂いたら、暇を見て、必ず御礼状を出して頂きたい。と云ふのは、前線の勇士から貰つた手紙は、 銃後ではおし戴いて、神棚へお祀りしている状況である。或ひは、会社等では全く得難い精神教育資料として、 纏めて印刷に迄付しているやうであるからである。

 それから、慰問袋の内部についての注文をきかせて頂きたい。慰問袋の内容は、思ひ思ひの方が変つてゐてよいとも思はれるが、 海軍は、艦船酒保等あるのが多いから、陸軍のそれと多少内容の注文が違ひはせぬかと思ふから、それらについて御遠慮なく、 お気のつく点を箇条書きにして、知らせて頂きたいものである。
 またその他恤兵品として何が欲しいか、普通海軍省から発送して、何日に手に入るか等何でもお気づきの点を通知して頂きたい。

 「そして次のごとくつけ加へられた」と、また編集子。
 ともかく漢口陥落しても、愈々銃後の献金熱は高まるばかりであるから、前線の将兵諸氏は後顧の憂ひなく皇国の為に戦つて頂きたいものであります。

【注】最後の章にあるやうな慰問袋その他の内容の御注文は、直接東京市霞ヶ関海軍省恤兵部石淵主計少佐殿ヘ書信されるか、 又は本誌に挿入の「戰線文庫」編纂所行の葉書へお認め下さると好都合であります。……以上、4ページに及ぶ、注文の多い"お願い"記事であった。

軍用機献納に熱心だった朝日新聞

 このころ、東京朝日新聞の社告には「軍用機第三次献納/新鋭機こヽに百機/「全日本号」に十機加ふ/国民・赤誠の結晶」 (昭和13年9月11日)などとあり、陸海軍に30万円ずつ献金したとの報告である。

 では、同紙に連日掲載されている「軍用機献納資金」の、ある一週間の状況をみよう(東京朝日新聞「軍用機献納資金」昭和13年9月16日〜22日分)、
 たとえば9月16日付の東朝扱いでは、金2844円61銭也とあり(午後4時現在)、大朝(大阪朝日)には、午後3時現在で金1万162円15銭也、 合計金額は534万993円20銭也とある。
 さらに、献金額や献金者の名もみられ、この日の東朝関係では、(1)金500円 田中 実〈赤坂〉、(2)268円60銭 天理教青年会宮城県分会、 (3)165円70銭 P.C.L高峰秀子、などと記載されている。子役から映画界で活躍していた高峰秀子は当時、14,5歳であったか。

 翌日以降を見ると、
 9/17…東朝2796円09銭/大朝1万3520円16銭/合計535万7309円75銭
 9/18…東朝5008円64銭/大朝5022円35銭/合計536万7340円74銭
 9/19…東朝432円61銭/大朝7024円09銭/合計537万4797円44銭
 9/20…東朝5181円75銭/大朝4227円75銭/合計538万4213円92銭
 この他、「在支在満皇軍慰問金」もある。
 9/22…東朝8万9963円20銭/大朝15万9195円23銭/合計24万9158円43銭

 この記事より、1年以上経つ『戰線文庫』第15号「皇紀二千六百年記念 新年号」(昭和15年1月1日発行)に、 同新聞による軍用機献納の状況が載っている。
 説明に、こうある。「銃後国民赤誠の結晶、朝日新聞社提唱報国全日本号命名式は秋空晴れ渡った十一月五日羽田空港において三十万観衆を集めて、 吉田海相始め関係諸員参列のうちに行はれましたが、式後行はれました空中作業は今川少佐指揮のもとに実戦宛ら火を吐くやうな一大攻防戦を演じて、 碧空にその美しい銀翼を輝かしました」。

 この直ぐあとに続く、オフセット印刷による「興亜図絵」の「報国全日本号の命名式」は、さらに詳しい。
 「東京朝日新聞社提唱献納軍用機五十機の晴れの命名式及び祝賀飛行は雨はれた快晴の十一月五日午後二時から海軍省主催の下に羽田東京飛行場で盛大に挙行された。 /この日畏くも伏見軍令部総長官殿下を始め奉り同博義王、久邇宮邦昭王、正子女王、朝子女王各宮殿下には親しく式場に台覧あらせられた。 /式は正二時海軍軍楽隊の吹奏楽によつて厳かに開幕され、銃後愛国の熱誠の結晶たる献納五十機は、吉田海相から『報国全日本号』と命名された。 /続いて待望の飛行作業に入り、式場上空に実戦さながらの火を吐くやうな一大攻防戦を展開、無敵海の大鵬の烈々たる闘志と妙技に固唾を呑む三十余万の大観衆を魅了し去つて午後四時式を終了した」とある。
 ちなみに、陸軍へ献納される軍用機は、「愛国号」と名付けられている。

小学生らも競う献納・献金美談

 もう一度、『戰線文庫』の初期にもどろう。
 第2号の、石淵主計少佐による「感激させられた献金譚〈ものがたり〉=恤兵美談=」である。 ここでは、恤兵とは「金銭や物品を寄付して、出征兵士を慰問すること」とある。

 「感激もされ、また微笑させられるものは、小国民の熱烈な献金ぶりであります。これらは、日の丸献金であり、 奉仕献金であつて、金額は、少々尠いやうですが、数多く、また何度も繰り返して献金されるので、相当な額に達してゐるやうであります。 日の丸献金とは、ご承知のごとくその小学生諸君が、一日のお弁当のお菜〈かず〉を廃して、日の丸弁当にして、 そのお菜の費用として、三銭なり四銭なりをお母さんから頂いて献金されることであります。

 奉仕献金もまた然り。朝早く納豆を売つてその純益を献金するとか、鉄屑やボロ屑を蒐集して、それをその儘献納したり、 屑屋に売つて金に換へてから献金するのでして、そのいづれにせよ、その金額の些少は問題ではなく、かくも事変の重大性を彼等小国民乍らも充分に認識して、 恤兵の誠を致さうとする愛国の精神に深く心をうたれざるを得ないのであります」

 さらに、特別号として出された「慰問読物号」(昭和14年12月1日発行)にある「この童心の少女に泣け!!」は、 「銃後の少女と戦線の勇士を結ぶ 涙の感激美談」で、「事変をめぐつて数々の涙ぐましい美談のある中に、 これほど純情に泣かされる話はまたとありませうか」と昭和14年10月8日付大阪朝日新聞朝刊の記事が、 少女の全身写真とともに載っている。

 「慰問袋の中の通帳 中身が増えて戻る 童心の少女と温情の勇士」(天王寺師範学校付属小学校1年ハル組 中西ミネ子、 慰問文とともに貯金通帳を送り〈月に1円を貯金〉、それに感激した兵士が、2か月分の金を加え、 手紙とともに小学校長に送り返した…というもの。

 再び、中西ミネ子は慰問文「ヘイタイサン」を送る。
 「ニツポンノヘイタイサンハタイヘンツヨイヘイタイサンデスガ、マタタイヘンオヤサシイヘイタイサンデス。 ワタクシハヘイタイサンノテガミヲヨンデイタダイテナキマシタ。オトウサンモオカアサンモシンブンヲヨンデナイテオラレマシタ。 オトウサンハヘイタイサンニオレイヲユウトイツテカイグンヘユカレマシタ。/ツヨイソシテオヤサシイヘイタイサン オカラダヲタイセツニオクニノタメニオハタラキクダサイ。 /ワタクシタチモ一シヨウケンメイオベンキヨウシテリツパナヒトニナリオクニノタメニハタラキマス。」

 さらに、後日談がある。「この娘にしてこの親あり 勇士の純情に感激のお父さん」は10月10日、大阪海軍人事部を訪問し、 「兵隊さんの純情には全く泣かされました」と『戰線文庫』特別号1万部を寄附したというのである。
 そして、この特別号が作られた、とある。したがって、兵士たちに向け、「この童心の少女に泣け!!」という"献納美談"となった次第。

2、恤兵美談、そして陸軍にみる恤兵の実態

 先に見た「感激させられた献金譚〈ものがたり〉=恤兵美談=」海軍省恤兵係海軍主計少佐 石淵知定(談)は、次のように続いている。

 「さらに、感激させられたのは、事変が突発するや逸早くも恤兵献金の挙に出たのは、新橋の芸妓諸氏でありました。 日頃兎角有閑遊楽の伴侶として軽視され勝ちの芸妓諸氏が、衆に率先して、報国の赤誠を、我が海軍の恤兵を通じて示された事は、 余りにも事の意外なのに感激した次第であります。彼女等は、更に国防婦人会に加入し、防空訓練に参加するなど、 銃後の護りにも、人後に落ちぬやうにつとめてをるのでありますが、こヽにその代表的な人物は、大阪宗右衛門町に昔しゐて名妓の名を擅〈ほしいまま〉にした故荒木さんであります。
《引用者注:『戰線文庫』等のグラビアに、女優たち以外で多く登場する女性は新橋芸者衆で、 それは海軍将校との縁薄からぬと想像される……》

 去る九月十七日、大阪の郊外盾津飛行場並びに甲子園浜に於て、関西方面で献納された海軍機七機(内訳水上偵察機一機、戦闘機六機)の献納式に、 小官も来阪して、式場に列席する光栄に浴しましたが、この七機はいづれも関西の有名な実業家又はその連合会で献金してつくられたものでありますが、 その中の一機荒木号は、実に一女性一人〈いちにん〉の献金に依るものであります。

 荒木さんは、すでに物故されて深く知る由もありませんが、昔は、大阪随一の花街南地の名妓として一頭地を抜きん出てゐたが、 その時分より飛行機が、何より好きで、東京への往復にも絶えず飛行機を使用してゐた由で、その飛行機に対する理解と愛国熱が、 遺言となつて、茲に実現した次第であります。国を護る精神から云へば、戦線で活躍する勇士も、銃後でこのやうに勇士の活躍を助ける飛行機を献納する婦人に、 わけ隔てはないと存じます。

 今度、東本願寺と西本願寺の門徒が、各家庭より真鍮の器具を献納しやうとする運動を起こしかけているやうでありますが、 全国の門徒全部が必ず一個宛献納するやうになれば大変な額になる事と存じます。
 小官も、恤兵に関して、一般人にそれを理解し認識して頂く必要を認めます故に、つとめて、一般に向けても、かヽる義挙が、 続々と我が海軍のために送られるやうに、機会あるごとにその趣旨の徹底普及に及ばず乍ら努めてをります。

 変つた献納の申し出には、土地一町歩を差し上げるから何んとか有効に使つて頂きたいとか、 別荘を提供するからよろしく使用してくれとか、いろいろ思ひがけないやうな申し出に接しますが、 之等はいづれも有難く頂きまして、然るべく最も有効に使用するやうに考慮してをります。

 尚慰問袋が、多少減少した傾向があるのではないかとの一部に心配する向きもある様子でありますので、先日、 少しく趣向を変えた慰問袋を送つたが、今後の研究材料とするためにその結果について報告をお漏らし願ひたいと存じます。

 〔追書〕慰問袋の内容の適否につきましては、殺虫剤はどうか、何かはどうであるかと云うやうになるべく細く、 直接海軍省恤兵係石淵主計少佐殿へ出されてもいヽのですが、挟み込みの葉書を御利用なさつて、戰線文庫行でお出しくださつても同じであります。(編纂部)

 もう一つ、"エース"石淵少佐の談話を聞こう(『戰線文庫』第3号・昭和13年11月30日発行「銃後にたぎる赤誠譜」海軍省恤兵係海軍主計少佐 石淵知定(談))。
 〔本稿は、去る十月十八日、JOAK〈注:NHK東京放送局〉の依頼により「海軍省の窓から見たる国民の赤誠」と題して放送されたる中より感激深い一説を転載したものである〕

 暑い日中の事であつたが、「私は故海軍二等機関兵の母であります」と海軍省の窓口へ訪れたお婆さんがあつた、 「息子は現役中病気で海軍病院に入院中に死去しました。親一人、子一人のわびしい生活から急に独りきりになつてしまひました。 その後は、タワシや、石鹸を売つて暮らしてをりましたが、倅が生きて居れば必ず此の、お戦にお役にたつものと思ひまして自分の葬式の費用にと貯めて置いた五十円を献金することを思ひ立ち海軍省を訪れたので御座います」と。

 私はこの老婆の話を聞いて、瞼の熱くなるのを感じ、「我が海軍としては、其御精神だけで結構です、甚だ出過ぎた様な話ですが思ひ止つては如何ですか」といつた、 所がそのお婆さんは、「私はまだ働けます。倅が御奉公出来ぬ為めにどうか受取つて下さい。兵隊さんのタバコ一本でも、鉄砲の弾一発でもお使ひ下さい」と熱心に言ふので 「では勝手ですが、もつと少額にされてはどうですか」といつてみた、すると言葉を強めて、「是非共このまヽ納めて下さい」と聴き入れない、 そこで遂にそのまヽ有難く頂戴する事にした。

 その生活は豊でなく、孤独の為め葬式の費用にもと多年貯蓄した、その老婆にとつて大事なお金を、国家非常時ともなれば、 何等の躊躇する事なく、献金する赤誠は、何んとも申上げ様のない赤心だと思つた。

 かうした涙ぐましい話は沢山ある。前線の水兵から送つて来た小遣を、私は皆様から手厚くして頂いています、 子供から受けたこの金は、もつたいないからと、全部献納するお母さんや、こんなにして頂くから何も入りませんと、 白衣の勇士から送金して来たり、工廠の従業員が勤労奉仕をしたり又は一日の給料全部出しては飛行機一台献納したり、 朝鮮の農民百十数万が綿の一つかみ、繭の一つかみ宛を集めて我等の報国号一機を献納したり、或は九十歳になるおぢいさんや、 身が不自由でうば車に乗つて息子さんに押さしてお婆さんが態々本省迄献金にやつて来たり、 夏の勤労奉仕で得た給料全部を献金して嬉々として帰る青年、少年等凡てまぶたの熱くなるのを感ぜずにゐられない。

 又旅行会や春秋会二回の慰安会を中止したとか、祭礼を質素にしたとか、お八を止めた坊つちやん、嬢ちやん、或は夜業したり、 残業し又は日曜祭日も働いたとか、お台所の節約だ、女中を廃止したとか、古釘を拾ひ集めたとか、又銃後の護りだと毎月十五日に十五円を、 数字を特に「銃後」にもぢつて献金する赤誠家等々、私の眼には、すべて海軍省にお出になつた方々のお顔がありありとうつつてくる。

 更に胸を強くうつものは匿名の献金の方々である。これは名を告げず住所も語らないのだから、 その奇特に感動せずには居られない。
 この匿名家の中には今回の事変からでなく、すでに五年間も続けて居らるヽ「軍港の乙女」や、事変後毎月の様に戴くのは、 某区役所を通じて各回十円づヽの無名氏、渋谷の一軍人の妻、赤坂の一婦人等その他、大衆作家で既に四回五百円宛を匿名献金の方等十指に余る赤誠家がある。

 只今まで申上げたのは何れも我が日本に於ける銃後国民の赤誠、同胞の熱意の事であるが、外国人で、 我が将兵の労苦をお察し致しますとて、献金したものは、事変以来これまた非常な数字に上つてゐる。
 以上申上げた様に感激美談は枚挙に暇のない程で、私は毎日かうした情景に接してをりまして、ただただ有難いと云う言葉より、他に御座いません。
 《思うに、こうまで言われれば、国民としては戦地の将兵を放ってはおけない心境に陥ったにちがいない。 いま、そのような状況下にあったとすれば、日本人はどのような反応を示すだろうか。興味深いところである》

慰問袋より飛行機を!ということに…

 少し、時代が下っても、献金熱はさめやらない。
 「☆戦ふ生活雑記帖☆ あの日〈12月8日〉、再び―一万人の美しい行列― 中村篤九 文ならびに漫画」によると… 「(前略)聞けば、この日の海軍省へは午後八時現在で国防献金百五十三万百五十三円六十九銭 恤兵金十万六千六百六十四円七十二銭  恤兵品一万三千八百二個、来着された人、一万人を突破といふまさに、天文学的数字に達したのである。 /並木の道を私は海軍省から帰つた。/どこを見ても日の丸の旗があつた。(後略)」(『戦線文庫』昭和18年2月号)。
 1万人以上も押しかけ混雑を極めたのに、国防献金と恤兵金の区分けが容易なのは、受付が別だったからである (筆者中村によると、恤兵金は「恤兵献金受付」となっている)。

 しかし、やがて「戦況は逼迫し、慰問袋などではなく、飛行機を増産せよと!!」という時代になってきた。〈恤兵豆手帳〉 「送らばや日の本の松風―廃止された慰問袋に代るもの―」吉屋信子(『銃後讀物』昭和19年4月号)によると、 次のような次第である。

 (正月のお餅も何もいらぬ、ただ飛行機を!)
 南海の勇士が、血と汗にまびれてかく叫ぶと、私どもは聞いたとき、厨に受取つた配給のお餅に思はず眼がしらが熱くなつた。
 そして、いよいよ勝敗を決する年は開かれた。ますます輸送力は逼迫した今日此頃。つひに、(慰問袋より、船を、飛行機を!) と前線の雄叫びは伝はつた。海軍省恤兵部では、その勇士の壮なる意思に添つて――当分南方向け慰問袋の受付は中止された。 銃後の人々は粛然とした。
 そして、その(慰問袋より!)の烈しい志気の凛々とひゞくつはものゝ叫びは、如何に国内を奮ひ立たしめたか!

 増産挺身の人々へ、今までそゝがれたあらゆる激励の文辞訓辞の雨の如きなかに、この前線よりの血の叫び(慰問袋より飛行機を多く!)の言葉ほど、 効果があがり奮起せしめたものはなかつたと思ふ。
 工場に鉱山に炭鉱に農村に、今や誰も歯を食ひしばり血眼でこの前線の言葉を胸にしつかと噛み締めて、 腕かぎり根かぎり日夜たゞ前線へ飛行機や船を。

 だが、激戦のさなか、英気を養ひ、明日の戦意を高揚させるものは、今も変はらぬ慰問文や慰問雑誌、 どんなに戦陣の勇士への心の糧だかを、しみじみ思ふとき、引込んでは居られぬ気持は誰もする。
 その慰問文や慰問雑誌袋こそは、今や銃前線と銃後をつなぐ心と心の通ひ道でもある筈だ。 こゝに、その通ひ道を絶えさせてはならぬ。なんとか工夫はなきものか?
 国民の赤誠であつた慰問袋に代へたものとしては、国民だれでも出来るものは海軍省恤兵部へ差し出す恤兵金の額をふやすことだ。
 まづ恤兵金は献納後、これが前線慰問の雑誌に映画になつて実現され、慰問袋に勝るとも劣らぬ効果がある。

 また直接に個人としての気持、情を実現して伝へたい――それには幸ひ慰問の手紙の道がある。 それも手紙模範文の型をそつくり取つたやうなのは仕方がない、自分々々の息吹きとまごゝろをどんな形にも含めて、 その上、毎日の新聞の切抜きを添へる、前線の人が読んで微笑むのもよし、それで離れて遠い内地の空気が――日本の懐かしい緑なす松風の便りと匂ひ渡るのもよし。 わが庭の紅梅一輪を封じてもよし。
 日本のさくらの春の素人写真もよし等々――知恵をしぼつても輸送力の邪魔にはならぬ筈だ。 慰問袋に代るこのやうな恤兵金や慰問だよりにすれば、前線へ絶へず送るわれらが神州秋津島根の松籟のひゞきさやけき如く、 銃後を護る心を、心に吹き通はせたい。
 あゝ日の本の松風よ、心あらば我らが祈りの心をラバウルの空へ、トラツク島の岸辺へ伝へよかし!

陸軍にみる恤兵の実態について

 このように"戦況"の次第で、献金・献納の中止という事態になったが、思うに、戦争は予算をつけて"国家がするもの"であろうが、 こと恤兵金(や献金・献納)に関しては、そうではなかった。もっとも、『戰線文庫』には欠本があるため、 "恤兵"の具体的な記述が見当たらない。そこで、旧陸軍省恤兵部発行(編集…大日本雄弁会講談社)の『陣中倶樂部』により、 類推していただくことにしよう。
 『陣中倶樂部』(第74号・昭和17年壱月号「恤兵の近況」)によると「恤兵金は御承知の通り、国家予算よりは一銭一厘も之れを仰ぐ事なく、 挙げて銃後国民によるもので…、使途に関しては慎重審議の上、前線将兵の希望と銃後の期待とに副ふべく、 毎年会計年度初めに大臣の決裁を経て使用している次第(以下略)」と、はっきり書いてある。

 その旧陸軍の「恤兵」の実態をみてみよう。
 「陸軍恤兵部の業務について」は、「特に恤兵部の業務が出征将兵に対する国民の感謝と同情に依ることの大なるものがある」ための解説である (陸軍恤兵部員 浅沼吉太郎、『陣中倶樂部』第65号・昭和16年4月号)。

 <恤兵部の組織>陸軍恤兵部は陸軍省内にあり、陸軍恤兵監が主宰し、恤兵監は陸軍省恩賞課長が兼務する。 専任の部員は佐官1、主計尉官1、その下に雇用人23名がいる。そのほか、陸軍省や参謀本部の関係部課将校が兼任部員として、 業務の重大方針の決定に参与する。
 それだけでなく、内地はもとより朝鮮、台湾等の各軍、師団にも規模は小さいが、同様の恤兵業務に携わる機関があり、 中央地方の各機関と相互に連絡をとり、全国的に恤兵業務を行っているといい、各論に入る。

 <恤兵金品について>「恤兵に関する経費の中、恤兵そのものに要する経費は一切、国民の恤兵金としての献金のみによつて賄つて居ります。 (国防献金は規則上、本業務には流用せられません)政府の令達予算には全然依つて居りません。 但し物品の輸送とか慰問団の派遣、給与等、恤兵業務の付帯経費はもちろん官費に依つて支弁されて居ります」とあり、 恤兵金を受け付けるのは当恤兵部をはじめ地方各軍師団司令部、また連隊区司令部、警察署、市町村役場でも、献納仲介の労をとっている、という。

 これまで、多くの人が献納に訪れ、それらは支那事変恤兵美談第1集、第2集として、戦地へ送られているが、 筆者(浅沼吉太郎)の体験したある日の例があげられている。いわく、
 粗服を纏った老夫婦が「子供がなくてお国のために尽くせませんから」と云つて古びた財布から出される百円、
 年輩五十歳位と思われる確かりしたお神さんが、「小遣を倹約しましたので兵隊さんにお餅でも上げて下さい」と出される五十円、
 「主人が先月死去しましたので、その御香典返しを……」と未亡人の出される百円、
 「昨年末、南支から還りました。出征中妻の貯えました金です」といつて、袋に入れたまゝ出される一銭銅貨ばかり約五千枚、
 或は、子供の教訓のためにと、子供の手を引いたお父さん、お母さん達の出される五十円、女学生、小学生達の慰問袋と一緒に出されるお小遣の一円、 二円等々枚挙にいとまがありません。
 又田舎からは梅干が小包で送られて来る。お百姓さんが稲の穂を持ち込んで来られる。何と云ふ麗しい情景なんだらう。
 これが皇国の姿なのである。これが皇軍の強い所以であると、感激の涙にくれることも屡々であります。

 続いて、その支弁費目を見ると、
軍人遺族扶助の方面…遺族の弔慰金/出動及応召遺家族の無料診療費/罹災見舞金/初盆又は一年祭供花料
傷痍軍人扶助の方面…退院の時傷痍軍人に贈る見舞金/傷痍将兵慰安の施設費/御下賜包帯入箱/戦傷奉公杖/恤兵絵葉書その他通信材料
出動軍人の慰恤方面…従軍手帳/書籍雑誌/娯楽器具/一般慰問品/酒保慰安施設費/演芸慰問団派遣費/帰還将兵接待費/帰還将兵祝賀会費/軍用動物慰恤費

 <慰問袋について>は省略するが、「大体事変地将兵各人に一年三個の割合でその数を決めて」いるという。 その他の恤兵品は「事変地で楽しまれるあの将棋盤や碁盤も、ラヂオをも蓄音機も映写機も、或は野球、庭球道具もすべて恤兵金で購入し、 恤兵部から送つたものがその重〈おも〉なるもの」といい、それら一つ一つが「銃後国民の美〈うる〉はしい志の結晶で購つたもの」であるから、 「感謝と共に大切にして」使うようにと要望する。
 さらに「最近物資は種々統制せられて居り、一般は多少の困難を感じて居りますが、恤兵品に対しては戦用品に次ぎ、 何かと便宜を与へられておりますから、この点恤兵部では幸でありますが、諸君に於かれましては、 多少の困難を排しても恤兵品を先取せしめられる当局の心情を理解して頂き度いと思ひます」と、多少の"恩着せ"が垣間見られる。

事変勃発以来恤兵部直接寄贈品(昭和15・13・31現在)によると、慰問袋462万5791個、清酒333樽、煙草6万2376個、 缶詰11万4915個、レコード6万7179枚、羽根布団1万6101枚などのほか、雑品として3508万8646点とある。

事変勃発以来恤兵購入品(昭和15・13・31現在)では、約100種類の品名があげられており、最多は清涼飲料の18億7588万7805リットル、 次いで缶詰2億0367万9560キログラム、三番目は恤兵絵葉書2726万6995組となっている。 絵葉書は、軍事郵便として故郷の妻子や父母に送るものがほとんどではなかったか。
《他に変わったものとして、軍用動物表彰状1万0300枚と軍馬功彰600個という数字がある (参考:1、恤兵(金)とは何か「とどまるところを知らぬ献納・献金熱」にある「軍鳩、軍犬」など)》

 なお、雑誌書籍などをみると、雑誌136万2630冊、単行本25万0000冊、書籍1万0960冊とあるが、個別に見ると、歌詞綴4460冊、 戦跡の綴400万0050冊、陣中倶樂部160万5200冊、少年航空兵の手記270冊、恤兵美談集21万0000冊、雑誌恤兵57万9000冊、 軍歌集13万0000冊、慰問文集10万0000冊、雑誌戦友3万7500冊、そして新聞つはもの347万2500部などとなっている。

 これらをもとに、<恤兵品配給(配当)基準>により、その状況を見ると、
 陣中倶樂部…毎月20人/1部、恤兵絵葉書…毎月各人/1袋、雑誌…毎月20人/1部、従軍手帳…年1回各人/1冊、 恤兵美談集(臨時配当)…20人/1部、恤兵扇子…年1回各人/1本、恤兵団扇…年1回5人/1本、碁具(中隊)4組程度、 将棋具(中隊)10組程度、野球具(大隊)1組程度、庭球具(中隊)1組程度、卓球具(中隊)1組程度、蓄音機(中隊)2台程度、 レコード 一台に付毎年20枚、ラヂオ(大隊)1台程度と15種類が出ている。

《ちなみに、陸軍省恤兵部は『恤兵』ついで月刊誌『陣中倶樂部』を発行していた(ただし、『銃後讀物』のような内地版はない)。 後者の編集は大日本雄弁会講談社(のち、講談社)で、その発行部数は当時の関係者による座談会で、7万7千部という数字が出ている。 上記160万5200冊を、事変以来の期間(20か月)×20人で割算すると月平均8万260部となり、関係者のいう数字に近いものとなった。
同様の計算によると、陸軍の将兵は延べ160万5200人となるが、従軍手帳の数からは約100万人〜134万人、 恤兵扇子からは約105万8千人と推計される。なお、最大発行部数が200万部といわれる『戰線文庫』関係の場合、 現在このように推計する手立てはない》

 最後にあるのは、<慰問団について>である。
 どのような形で行われていたか、その説明によると、「毎年貴衆両院議員の代表者を始め、各府県の代表者が普く第一線を慰問せらるる事はご承知の事でありまして、 感謝に堪へぬ次第」とあるように、国会議員や知事も慰問に行っていたことが分かる。
《ここにある「貴衆両院」とは、今とちがい、皇族や華族などで構成される貴族院と多額納税者などからなる衆議院を指す。 また、このころの「各府県」は3府(京都府・東京府・大阪府)35県制で、東京都となるのは1943年7月のことである》

 ついで、「諸君を慰めます芸能慰問団には、恤兵部から直接派遣するものと、各府県その他の団体において経費を負担して直接郷土部隊を慰問に赴かれるもの」とがあり、 「共に恤兵部で統制して」いるが、それも「慰問日数並びに北、中、南支、仏印、満州等の慰問方面を指定するのみ」という。 しかし、「演芸慰問の回数は各隊一年に二回位の標準で企図して居りますが、経費の関係等で其処に到つて居らぬと思ひまして残念であります。 これも恤兵品と同じく、慰安に富む後方地帯よりも、第一線の荒涼たる方面に手厚くせられるものと信じまして、 その回数などは自然平等にならぬことと思ひます」とある。

 悩みはそれだけではない、こういう注文もある。
 「第一線に於ける芸能慰問団の取扱ひに関し、若干希望を申しますと、これら演芸家はそれぞれ計画の下に第一線司令部に於いて任務を与へられて行動して居りますので、 強制的に自隊にのみ引留め置かれるやうな事はなるべく避けられたいと思ひます。又夜間充分睡眠時間を与へられ、 婦人等に対し特に健康の保全に留意を願ひます。更にその指導については、これ等内地に於いて大衆に接する人々の宣伝価値は大なるものでありますから、 その勢力の八部は慰問に、二部は戦跡或は陣中生活の見学等にあて、大いに第一線の状況を理解せしめて内地に帰還せしむる様取計られ度いものであります」。

 なるほど、差配はむずかしいものである。「守るも攻めるもくろがねの……」と軍艦行進曲にあるが、 "守る"も"攻める"もという意味では、"戦争"の相手は敵国ばかりではなかったようだ。
 これまで見てきたように、"戦争"は外地で行うだけでなく、銃後(内地)でも、ほとんどの国民がいやおうなく、 参戦させられていた実態がそこにあった。いわゆる国家総動員である。いまの私たちに、平時と戦時のちがいはなかなか理解できないが、 次項で日清戦争以来、各地で行われていた恤兵運動やその実態の歴史を概観してみよう。

3、「恤兵(金)」の歴史―国民は兵隊(戦争)を支持する?―

 このような国民の"自発的"な「恤兵(金)」などについて、インターネットで調べたものを時代順に並べて見よう。 アトランダムに選びましたが、関係各位にお礼申しあげます

戦争は銃後国民をも巻き込む

ア、「青年団」(アジア 日本 AD) によると、
「青年会ともいう。青年団という名称は、大正期以降に普及したものであるが、青年会は、1880年(明治13)に設立されたキリスト教青年会(YMCA)を嚆矢とするもので、 そのほか仏教青年会のごとく宗教や思想団体にも用いられてきた。しかし青年団はもとより、青年会の語も一般には明治以降に一定の地域を単位として組織された青年集団を意味する場合が多い」といい、 「明治20年代初めの青年団は、地域の青年有志や小学校の教師が文明開化の風潮に呼応して組織したもので、 学習会としての性格が強かった。しかし日清戦争からとくに日露戦争時になると、恤兵活動や銃後活動を目的とした青年団が各地に数多く発生した。 結成にあたっては青年自身によるもののほか、教師・僧侶・神官、あるいは村長などの地域の名望家による指導も少なくなかった」とある。

イ、(明治28年作)軍歌「雪の進軍」(作詞・作曲 永井建子)
1. 雪の進軍氷を踏んで  どこが河やら道さえ知れず
     馬は斃〈たお〉れる捨ててもおけず  此処は何処〈いずく〉ぞ皆敵の国
      ままよ大胆一服やれば  頼みすくなや煙草が二本
2. 焼かぬ干物に半煮え飯に なまじ生命のある其のうちは
     こらえきれない寒さの焚火〈たきび〉  煙いはずだよ生木が燻〈いぶ〉る
      渋い顔して功名話  「すい」というのは梅干一つ
3.着のみ着のまま気楽なふしど 背嚢〈はいのう〉枕に外套〈がいとう〉かぶりゃ
     背なの温みで雪解けかかる  夜具の黍穀〈きびがら〉シッポリ濡れて
      結びかねたる露営の夢を  月は冷たく顔覗きこむ
4.命捧げて出てきた身ゆえ  死ぬる覚悟で吶喊〈とっかん〉すれど
     武運拙〈つたな〉く討死にせねば  義理にからめた恤兵真綿〈まわた〉
      そろりそろりと頸〈くび〉締めかかる  どうせ生かして還さぬ積り

ウ、帝国軍人会眞瀧村分会
 明治三十七年二月、日露戦役開戦ト共ニ、村長首唱ノ下ニ、眞瀧村恤兵会アリ。次テ明治三十九年眞瀧村赤誠団トナリ、 明治四十一年十一月二十四日、眞瀧村在郷軍人団ト改称、続イテ明治四十四年、陸軍大将・寺内正毅、帝国在郷軍人会ヲ組織セラルルヤ、 同年三月十五日、本村軍人団ヲ現分会トナスコトトセリ。
 明治三十七・八年戦役後援
 ○恤兵義会ノ組織 国債應募(一万八千六百七十五円)
 ○慰問品ノ寄贈(毛布百七枚 袋五十八ヶ)赤十字社愛国婦人会(赤十字四十七名、愛婦十四名)
 ○出征軍人ノ送迎 戦病没者ノ葬儀 戦勝祝賀会
 ○凱旋軍人招待会 平和克復奉告祭(当時ハ状況ヲ想像スルダニ血湧キ肉踊ルノ心地ス)
(底本:「復刻 眞瀧村誌」2003(平成15)年6月10日発行 発行者・眞瀧村誌復刻刊行委員会、  代表・蜂谷艸平 2004年3月10日作成)

エ、戦争記念碑論レポート…「地域社会と戦争との関わりの考察−佐屋を題材として−」
 2 佐屋と日清戦争」(尾張地方の海部郡佐屋町)
 「現在の佐屋から日清戦争にどのくらいの人が出征したかは残念ながらわからない。戦死者は2名。 一人は歩兵二等卒の鈴木萬吉という人物で、台湾で病死している。特別下賜金として、150円が送られている。残念ながら、 この人物に関してはこれくらいしかわからない。もう一人は歩兵一等卒の後藤君吉という人物で、この人物に関しては、 『市江村誌』に松碑誌が残されている。(中略)
 日清戦争中、佐屋出身の海軍大尉真野巌次郎が水雷艇長として威海衛の攻撃に参加し活躍した結果、勲章を授けられた。 佐依木村では明治29年7月5日に真野を招いて当時の村役場で佐依木村をあげての凱旋歓迎会を開いている。
 そこでは、歓迎会の発起人であり、惣代の黒岩白石という人物が歓迎の辞を述べている。まず、真野の戦争での活躍を述べたあと、 「君ノ名誉ハ宇内ニ光輝シ、皇国ノ威武八紘ニ騰ス」と最大級のほめ言葉を述べ、「(それによって)佐屋川ノ水清ヲ増シ、半孤ノ阜高ヲ加ヘタリ」と結んでいる。
 このことから佐屋は地域社会として、出身の軍人の活躍を大いに喜び、盛大な凱旋歓迎会を開いていることがわかる。 そこには、出身者の初の対外戦争での活躍を郷土自らの誇りとするような風潮もあったはずだろう。
 ところで、佐屋においては日清戦争中においても地域と戦争の関係を表わしている、おもしろい事例がある。 まずひとつ目は「戦勝及ビ従軍者ノ為」、「氏神ヘ祈願献燈」をするという申し合わせである。(中略)
 また、この同じ申し合わせのなかに、在外兵士のために、一戸につき、軍用草鞋を二足以上、陸軍恤兵部に寄付することが申し合わされており、 草鞋が寄付できない場合は、金5銭以上差し出すようにと決定している。
 これは、地域社会が対外戦争に一丸となって戦っていた、ということを表わしているのではないか。 軍用草鞋を寄付するという行為によって、民衆は戦争を意識していき、自らが戦争に参加しているという意識を持っていくのではないだろうか。」

オ、与謝野晶子「みだれ髪」(『明星』一九〇四年一一月)
「君
 事なく着きし電報はすぐ打たせ候ひしかど、この文は二日おくれ候。光〈ひかる〉おばあ様を見覚えをり候はずなく、 あたり皆顔知らぬ人々のみなれば、私の膝はなれず、ともすればおとうさんおとうさんと申して帰りたがりむづかり候に、 わが里ながら父なくなりて弟留守にては気をおかれ、筆親み難かりしをおゆるし下されたく候」で始まり、(中略)
 「王朝の御代なつかしく、下様〈しもざま〉の下司ばり候ことのみ綴り候今時の読物をあさましと思ひ候ほどなれば、 『平民新聞』とやらの人たちの御議論などひと言ききて身ぶるひ致し候。さればとて少女と申す者誰も戦争(いくさ)ぎらひに候。 御国のために止むを得ぬ事と承りて、さらばこのいくさ勝てと祈り、勝ちて早く済めと祈り、はた今の久しきわびずまひに、 春以来君にめりやすのしやつ一枚買ひまゐらせたきも我慢して頂きをり候ほどのなかより、私らが及ぶだけのことをこのいくさにどれほど致しをり候か、 人様に申すべきに候はねど、村の者ぞ知りをり候べき。提灯行列のためのみには君ことわり給ひつれど、 その他のことはこの和泉の家の恤兵の百金にも当り候はずや。馬車きらびやかに御者馬丁に先き追はせて、赤十字社への路に、 うちの末が致してもよきほどの手わざ、聞えはおどろしき繃帯巻を、立派な令夫人がなされ候やうのおん真似は、 あなかしこ私などの知らぬこと願はぬことながら、私の、私どものこの国びととしての務は、精一杯致しをり候つもり、 先日××様仰せられ候、筆とりてひとかどのこと論ずる仲間ほど世の中の義捐などいふ事に冷かなりと候ひし嘲りは、 私ひそかにわれらに係はりなきやうの心地致しても聞きをり候ひき」。

カ、長野市誌第14巻 資料編 近現代』史料の「政治・行政」に、
「12 M40.7 明治37〜40年の長野恤兵会収支」とある。

キ、京都府画学校〜京都市立芸術大学略年表
「明治38年(1905)6月23日」の項に「職員生徒卒業生の作品を校内に陳列し慈善市開催。 収益を京都奉公義会・陸軍恤兵部・人圓会戦時救護会に寄付」とある。

ク、「母校百年史」より第十五 校舎増築と大川校長の死去
「そして明治三十八年五月二十七日、我日本海軍は対馬海峻にパルチック艦隊を邀撃して大勝し、遂に九月五日、 ポーツマスに於て日露講和条約が調印されたのである。国内に於ても唐津が生んだ女傑奥村五百子が全国の婦人を結集し、 愛国婦人会を創立して恤兵事業に尽力している」。

ケ、黒田記念館「黒田清輝日記 1914年」(大正3年)
「十二月二十三日 水 曇 朝雪 「亦父上樣御名代トシテ皇后職ニ出頭 昨日ノ賜物ニ付御禮ヲ申述置タリ  午後照ハ歳暮ノ御〓儀ノ爲笄町ニ伺候ス 余ハ家ニ在テ筆ヲ執ルコト二時間許也 夜銀座美術〓ニテ恤兵ノ委員會ヲ催シ十一時退散ス  恤兵六時半 久米 岡田ノ二氏缺席」

コ、「出口王仁三郎 文献検索」(昭和10年)
「大本史料集成U」にある「神聖会日誌昭和10年2月」の項に、「二月十二日 日出麿師、伊藤永春氏帯同上京せらる。 明十三日愛国恤兵会総裁朝香宮奉戴式に参列の為なり」。

サ、「郷土防衛  庄川郷土百科事典 庄川の歴史」によると、
「昭和12年9月、支那事変の軍人遺家族援護のため、村民各戸を全員として軍人後援会を組織、専ら出征軍人の恤兵、 戦病傷痍者の慰問、戦死者家族の弔慰活動に当たった。軍人後援会は14年9月銃後奉公会と改称し、終戦まで継続した」とある。

シ、聖護院八ツ橋の社史「歩み」によると、
 昭和12年の項に「陸軍糧秣廠大阪支廠より、大陸派兵の恤兵品として大量の受注あり」との記述がある。
 翌13年には「物資の統制が強化され、ブリキ缶使用禁止となり製品の防湿に苦慮する」。

ス、映画法と、蒲田スタジオの建設 《HP"電通映画社のなりたち〜終戦まで"より》
 日本最初の"文化立法"と称された映画法の公布は1939(昭14)年。その内容は、映画製作者の登録制や、 劇映画脚本の事前検閲などの項目が含まれ…、そのひとつに"文化映画の強制上映"がありました。 (中略)昭和15年7月1日をもって、文部省の文化映画認定を受けた一巻250メートル以上の文化映画が、 全国の映画館で強制的に上映されることに決まったのです。(中略)年間数千本とも勘定できるこの需要を見越して、 文化映画会社を名乗る会社が数々出現したようですが、電通映画部も(中略)昭和14年より年間6本の恤兵銃後奉公映画を制作し始め、 (中略)電通の文化映画自主制作は急増し、1941(昭16)年に、電通映画部で制作された作品をみると、 婦人公論社との提携「生活文化シリーズ」、「六〇〇万人の台所」「行商部隊」「強く育てよ」「南部の娘」 「女ばかりの村」など、この年だけで26本にも上ったそうです。(中略)この頃制作された、他の恤兵銃後奉公映画は 「靖国神社の英霊に捧ぐ」「神国日本」「海軍測量船」「若き産業戦士」とある。

セ、秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮社)P105
 秦郁彦氏によると「陸軍大臣も出席する局課長会報を記録した金原節三軍医大佐日誌(摘録)によると、 四二年三月二十六日の会報で、倉本敬次郎恩賞課長が「(恤兵金で)下士官以下に対する永久的慰安施設を設けたい」と発言しているが、 半年後の九月三日には、「将校以下の慰安施設を次の通り作りたり。北支一〇〇、中支一四〇、南支四〇、南方一〇〇、 南海一〇、樺太一〇、計四〇〇個所」(傍線は秦)の記事がある。傍線部分は「作りたし」の誤記ではないか、 とする見方もあるが、国民から国防献金として集まった「恤兵金」(陸軍省恤兵部長は恩賞課長の兼任)を、 慰安所の建築資金に当てたともとれる表現である」。

《ちなみに、この慰安所と関係?のあるコンドーム(「突撃一番」)の数は、陸軍が戦地に搬送したこの昭和17年では、 判明しているだけで3210万個という数字があると、知人から教えられた(出典:林博史氏の論文『陸軍の衛生管理の一側面』 「戦争責任研究」1993年9月号所収の由)。海軍の場合(「鉄兜」)は不明》

ソ、ある日記に
「九月十五日 晴 午前七時起床冷水にて身体を拭ふ 気爽然たり、本日恤兵部より菓子折、煙草、絵端書を給与さる」とあるが、 だれの、何年ごろかなど不明である。

タ、「絵葉書の袋の裏書一例」に、
「國家の非常時御互いに一致して銃後の力となりませう

 このヱハガキの売上げ賣上金は愛國恤兵財團の助成資金に宛てますので、不遇な戰死者の遺族や傷痍軍人の後援事業の為に有意義に用ゐられます、 尚本會は一般より右財團の基金募集をして居ります、どうぞ皆様この事業に御協力くださいませ。 本會への御寄附の金は愛國恤兵財團の出来る迄陸軍省恤兵部で保管いたします」とあるという。

チ、「川崎聖パウロ教会の75年」(名取多嘉雄)の「1.1924年(大正13年)から1947年(昭和22年)まで」に、
「1942年(昭和17年)いわゆる合同問題が起こります。川崎聖パウロ教会は聖公会の信条と職制維持を守るため非合同派として終始しました。 これは村岡司祭の明快で断固とした信条によるもので、信徒の中で異を唱える人はいませんでした。
 官憲の弾圧が強くなり主日礼拝出席者はさらに減りましたが、宮城遥拝、武運長久の祈り、恤兵寄付、 慰問袋の作成などによる官憲との癒着妥協は一切いたしませんでした」。

ツ、「年表 (2)沖縄戦」に、「1943.12 食糧増産報国挺身隊(1,000名)結成。国防献金恤兵献金、 飛行機献金など盛んに行われる」とある。

テ、HP「伊賀山正徳(正光)」の年譜に、
 映画監督(1905年秋田生まれ)「45年4月朝日映画社に入り、海軍省恤兵映画製作班員となるがすぐ終戦となり…」との記述がある。  もうひとりの映画監督川島雄三作品の上映、鑑賞活動をする「カワシマクラブ上映会」によると、「お笑ひ週間・笑ふ宝船」は 「戦争中の前線の兵隊に見せるために作った恤兵映画。音楽やコントをつないだヴァラエティで、 戦後、国策調だった個所をカットして公開された作品。兵隊たちのために、レビューシーンで女性の足を高く上げさせてもよいという許可が会社側から出されたという」。

ト、「戦後北海道の出版ブーム」の「大手出版社が北海道に疎開し、戦後の一時期に空前の出版ブーム」によると、
 「終戦直前の北海道では、現地生産の用紙を背景に、昭和17年の統合によって生まれた北方出版社が台頭していました。 そこへ講談社がやってきたのは昭和20年5月のことで、冨貴堂書店の一部を借りて事務所を構えました。社員は3人。 軍人を慰問するための出版である「恤兵文庫」を作るために送り込まれてきたのです。 この文庫は、前線の兵士を対象にした講談本などの大衆娯楽ものですが、携帯しやすいように作られています。
 講談社のほかには、東京証券印刷も北海道に入って来ました。これは印紙や株券などの証書類を専門に印刷する会社です」とある。
《1998年2月 通巻200号掲載 北海道の印刷出版文化情報誌「月刊アイワード」所収(平澤 秀和(社)北海道邦楽邦舞協会参与 戦中・戦後占領期本道出版文化研究家)》

 ところで、この"恤兵金"問題は戦後も残っていた。第1回国会で、次のようなやり取りがなされている。
ナ、第001回国会 予算委員会 第10号
 《参議院会議録情報 第001国会 予算委員会 第10号》
 付託事件 ○昭和二十二年度一般会計予算補正(第三号)(内閣送付) ○昭和二十二年度一般会計予算補正(第四号)(内閣送付)  昭和二十二年度特別会計予算補正(特第一号)(内閣送付)/昭和二十二年十月十日(金曜日)午後二時四十四分開会 /本日の会議に付した事件 ○昭和二十二年度一般会計予算補正(第四号)
○委員長(櫻内辰郎君) 只今より委員会を開会いたします。(中略)
○国務大臣(栗栖赳夫君) 昭和二十二年度一般会計予算補正第四号及び昭和二十二年度特別会計予算補正特第一号につきまして御説明いたします。
(中略)この一般会計歳出予算追加額の財源でありますところの歳出予算の追加額の内訳を申し上げますと、 本年七月の價格改訂に伴う刑務所の作業収入の増加四千四百余万円、国有の役牛、役馬を農家に拂下げることによる収入千九百余万円、 政府所有に係る日本証券株式会社の株式及び憲法第八十八条の規定によつて国に帰属しました皇族財産中の有価証券の賣却による収入見込額三千七百余万円、 旧陸軍恤兵金等の未整理分の受入見込額五千二百余万円、宝籤等の発行増加による国庫納金の増加見込額二億円、 昭和二十年度剰余金の受入三百余万円、合計三億五千七百余万円と相成つておるのであります。(中略)
○政府委員会(河野一之君) (中略)
 その他雑収入につきましては、国防献金、恤兵金において尚整理漏れのものがございまして、 これが約五千二百万円程入るという見通しがつきましたので計上いたしたわけであります。

ニ、第001回国会 予算委員会 第11号
 《参議院会議録情報 第001国会 予算委員会 第11号》
 付託事件 ○昭和二十二年度一般会計予算補正(第四号)(内閣送付) ○昭和二十二年度特別会計予算補正(特第一号)(内閣送付) /昭和二十二年十月十三日(月曜日)午後三時零分開会/本日の会議に付した事件 ○昭和二十二年度一般会計予算補正(第四号)  ○昭和二十二年度特別会計予算補正(特第一号)議事録途中より
○中西功君 補正第四号の三十四頁の中程に旧陸海軍恤旧金等の未整理分の受入見込額というのがございますが、 確かこういう項目は今まで殆んど出て來なかつたように記憶しているのですが、これは從來どういうふうに処理されておつて、 今大体どこでこういうことをやつているのか、それを説明して頂きたいと思います。
○政府委員(福田赳夫君) 三十四頁あります旧陸海軍恤兵金等の未整理分の受入見込額でありますが、 これは説明でありまして、予算書といたしましては雜入の甲に計上されているわけであります。 雜入の甲の中にすでにこの予算というものが出て來ているのであります。それは昭和二十一年度でありまして、 二十一年度の予算におきまして七億七千万円の金額が計上してあるのであります。これは御承知の通り國防献金、 それから恤兵金、学術技藝奬励金、この三つの軍関係の國庫金外の取扱いをしている、歳入歳出外の取扱いをいたしておりまするところの寄附金の金の集積であります。
 終戰と共にこれを整理することにいたしまして、この金額を調査して見ますると、國防献金において七億七千九百万円、 恤兵金におきまして四千三百五十三万三千円、学術技藝奬励金九百三万二千円、それから國防献金とも恤兵金とも又学術技藝奬励金とも当らない、 この三者のいずれにか属する性質のものが一千三十九万一千円、合計八億四千万円の金があつたのであります。
 その中昭和二十一年度予算の財源といたしまして、七億四千万円を計上といたしましであります。 その七億七千万円の財源を計上いたしましたところ、決算といたしましては八億二千八百二十七万七千万円という金額を收納するに至つております。 この八億二千八百二十七万七千万円を收納した上に、更のその後、これは全國各旧部隊に溜つておるものを掻き集めたのでありまして、 その間相当手間等もかかりますので、時期的なずれがあるのでありますが、この決算後におきまして、本年六月末までに集め得たもの五千二百七十六万円あるのでありまして、 この金額を今囘追第四号の財源として計上したものであります。かような経緯になつております。
○中西功君 そういたしますと、当然この項から入つて來る收益が相当あるわけでありますか。
○政府委員(福田赳夫君) 將來のことに関しまするのではつきりしたことは分りませんが、 尚若干入つて來るのじやないかと考えます。
○中西功君 若干でなくて、今の計算では、私少し正確に聞取れなかつた点もありますが、國防献金、恤兵金、 学術技藝奬励金その他を合せまして、皆で総額はどれだけになるのですか。
○政府委員(福田赳夫君) 八億四千万円であつたと見ております。

4、戦争とは何か、国民とは何か

 60数年前の日本は、米英等を相手に戦争をしていたが、飛行機や船を造る鉄鋼もおぼつかなければ、 それらを運航する石炭も乏しいという状況だった。
 『銃後讀物』(昭和19年7月号)の表3「図解 航空機増産と国民生活」にこうある。 「戦捷への鍵は航空機の大増産にあり、而して飛機増産の鍵こそ我々国民の日常生活の中にある。 直接生産に携はる産業戦士のみの問題では断じてないのだ。不急な旅行をして、大事な輸送力を阻害してないか。 不要な物件に纒綿〈てんめん〉として重要な材料素材を無駄にしてないか。ちよつとの工夫不断の注意で、電力も、ガスも、 ひいては石炭も節約が出来るのだ。而して足りぬ不自由だの不平はないか。これこそ決戦増産最大の隘路、 いま一度お互ひに周囲をふり返つて無駄はおろか便利も重宝もみんな供出の心意気で飛機大増産への工夫労力をがんばらう。」

 そして、添えられた図表は「飛行機一台にどんな原料がどれ程いるか」のほか2件ある。 まず、「労力は」によると「1年間に2万6千台の飛行機を建造し維持し飛ばすためには、こんなに多くの労力と燃料がいる」として、 航空隊員5万人、航空以外戦闘員25万人、航空機及び付属工業240万人、補助工業120万人とある。 燃料については貨車で50万台とあり、その下に小人型2万5千人、大人型30万人、トラック5万台、1台当り15トンと記されているが、 詳細は分からない("飛行機一台"とは可愛い表現ではある。普通は"一機"というのではないか)。
 ついで、「戦闘機1台つくるには、これだけの電力・石炭・輸送力がいる!」では、電力は8万キロワット時で、 家33万戸×20ワット電球3個×4時間(説明に「長野県全戸で一夜点灯する量になる」)とあり、 石炭は90トンで、内訳は特殊鋼製品に42トン、その他の金属材料に28トン、火力発電に20トンという。 さらに、輸送には石炭が75トン、ポーキサイドは27トン、鉄鉱石19トンが必要とある。

 さて、国民にとって悩ましいのは献納・献金に恤兵金だけではなかった。
 私は昨年末、HP『飽きずにエッセイ』に「国債という信用は…」という、次の小文を書いた(05年12月7日執筆)。
 国債=国の借金について、これも私にダイレクトメールが来たのですよ。
 要は、郵便貯金の利用総額が限度額を超えたため、それを限度内に戻すようにとの"ご通知"である。 零細な私にも"日本国"から文書が来るとは夢にも思わなかったが、日本郵政公社の文書(平成17年3月23日付)に 「…順次、預入限度額以内となるよう郵便貯金の一部を払い戻して国債を購入しています」とある。 国民ひとり一人の貴重な財産を、国は勝手に"歳入"としてもよいというんですかねえ。
 私は急いで預金の一部を他の金融機関に移したが、さて、これからが本論。
 60数年前、日本は"米英仏蘭支"を相手に戦争をしていたが、飛行機や船を造る鉄鋼もおぼつかなければ、 それらを運航する石炭も乏しいという状況だった。しかし、大和魂のもと、「撃ちてし止まむ」日本人はこぞって、 大本営発表の輝かしい戦果を信じ(込まされ)、勤労奉仕はおろか勤倹貯蓄に励み、先を争って陸海軍への献金献納に励み、 さらに兵士たちへの慰問を目的の恤兵金をも出す健気さだった。
 振り返ると、輝かしき紀元2600年を迎えた昭和15年の5月に、第1回報国債券が発売され、 国策協力のためという1等1万円の"夢"の富くじ(1枚10円)が人気となり、総額2500万円を1日で完売したという。 ついで、10月には月給から税金の源泉徴収が実施され("天引き"とは言いえて妙!!)たのは、 戦争遂行のためには貯金や献金だけでは足らなかったからである。そして、終戦の年7月15日に富くじ「勝札」(1等10万円)が8月15日まで売り出され、 同25日に抽選の予定であったが、国破れて…反古となった。
 いま、国債の発行額(借金)は、国民1人あたり612万円となっているそうだが、今年度末(2006年3月)には888兆円となるほか 地方債が205兆円となり、一人あたり856万円の借金となるのだそうな。師走のいま、個人国債を買えと政府はPRに躍起である。 預金より利率が高いからと、手を出す人も多かろうが、相変わらず日本人は懲りないんですねえ。
 ついでに申せば、日本人の、だれかがやってくれるだろうというDNA(他力本願)は、先の"天引き"を当たり前だと思っている神経に通ずる。 自分の稼いだものから勝手に取り上げられても平気でいるなんて、あのイラク人質事件で噴出した"自己責任"論は、どこへ行ったのでしょうかねえ。

 そして、HP「(岐阜県)河合村での戦時報国債券」には、次のような記述がある。
 太平洋戦争完遂を合言葉に、各家庭から金属類の供出を、各寺院から梵鐘の供出というようにありとあらゆるところから戦争に必要な資材供出を求めた。
 一方、食料・衣類・タバコなどの嗜好品・塩に及ぶまで切符制・配給制を実施した。その一方で国防貯蓄を呼びかけ、 戦時報国債券を発行し続け戦費の膨大化に対処した。当時村民で、毎月現金を手にできる人は僅かであったから、 まとまった金額の国債を買える人は少なかった。それでもお国の為と、無理して買える国債を買ったが、 この国債も敗戦とともに紙屑同然となる。昭和18年の15円は当時の米60kgの代金に匹敵した。

 いま(2006年1月)、日本国は何を目論み、何を目指しているのであろうか。そして、わが日本国民は、また……。


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