復刻に関する私の考え方や、上記各メディアでの"発言"部分の再録は、次のとおりです。
読売(6・27夕)…「こんな貴重な雑誌がよくぞ残っていてくれた」 「戦局の悪化に伴って、国威の発揚を訴える内容が徐々に増えてくる様子が手に取るように分かり、興味深かった」
毎日(7・2夕)…「戦争協力をうんぬんするというより、同じ状況なら自分はどうするかといった想像力を働かせて、 とくに若い人に読んでほしい」
朝日(7・21夕)…「当時の雑誌の中でも内容の充実度は群を抜いていた」
「文壇も漫画家も女優も生活のためには戦争協力せざるを得なかった。〈その〉責任の是非を問うより、
そんな時代がったことを若い人にも知ってほしい」
「『戰線文庫』は海軍省が出版・検閲(published and checked by the Imperial Japanese navy)していた。
一般の雑誌のように、生き残りのために過剰に戦争協力の姿勢を見せる必要がなく、かえって自由な娯楽雑誌になっていたのでは」
《下線部分の発言は正確ではない。「海軍省が民間に委託した雑誌で"検閲"は市販雑誌に比べ、緩やかだった」》
週刊新潮(7・28)…「前線の兵士を慰問するのが目的の雑誌とはいえ、我々戦後の人間が語る戦争とは異なる雰囲気が誌面に広がっているのに驚きました」
「創刊は国家総動員法が発令された直後の13年。すでに前年には日中戦争が始まっています。戦況が悪化するにつれ、
国威発揚を訴える記事も増えてきますが、娯楽色は最後まで失われなかった」
「本当の総合雑誌といっていいかもしれません。もちろん戦争を肯定するわけではありませんが、
こうした雑誌が今に残っていたということが素晴らしい。現代史を学ばない若者が多い中、歴史に興味を持つきっかけになれば一番いいのですが」
文藝春秋(9月号)…「戦争に正義はなく、勝っても負けても犠牲者が出る。嘆き悲しむのは多くの国民、
われわれ自身である。この『戰線文庫』には風化や時効にしてはならない"時代"がそのまま残っている。
それらはほぼ全号から記事・グラビア等を適宜選抜した、この復刻版(日本出版社発行)から読みとることができるであろう。
インターネットはじめメディアが多様化する現代こそ、若い人を含め多くの日本人が "戦争の歴史"と正面から向かい合い、
これからの日本はどうあるべきかを冷静に考え、慎重に対処するよう願って已まない」
FM東京(8・2朝)…「雑誌としては、よくできているという印象を受けるんですが、時代を考えますと…、
〈この雑誌には〉もう一つ大きな要素がありまして、国民が献金・献納する、慰問袋を送ったりする、そういう記事が必ず載っているんです。
それはある意味では兵士を慰めるといえるんですが、逆に送る側の視点から見ますと、作家も画家も女優たちも、
そして慰問袋を送るなど国民、一般の人たち、要するに誰もが、軍に協力せずには生きていけなかったという時代に出された雑誌です。
たとえば、小学生の話なんですが、白いご飯の真ん中に梅干一つだけの弁当を"日の丸弁当"といいますが、
これは貧しさや質素を示すものですが、小学生がおかず代を浮かせ、その金額3銭か4銭を親からもらって献金する"日の丸献金"が何度も行われていたということが、
昭和13(1938)年ごろの記事にあります。つまり戦争は、子どもまで巻き込むのです。そういう意味でも、
この『戰線文庫』は「戦争は二度とあってはならない」というメッセージを伝えるために生き残っていたんではないかという印象が強いですね」
FMえどがわ(8・18午後)…広告がとても多かった点について…「創刊号をのぞいて、胃薬や風邪薬などの製薬会社、
石鹸や歯磨き、化粧品、お菓子などのメーカーや、娯楽の中心だった映画やレコードの宣伝などが主なものでしたが、
「商品を買ってください」という宣伝より、広告を出すことによって軍(国家、すなわち戦争)に協力する、
という意味が強かったのではないでしょうか。
その証拠に「海軍将士の武勲(=手柄)と健康を祈る」などという基幹産業13社による合同広告(第2号、表4)とか、
「撃滅・米英/整髪・**」(**は製品名)とか、「不自由を忍んで、総てを戦争へ」、「すべて勝ち抜くために!」(万年筆メーカー)、
「矢面に立つ …国内こそ、家庭こそ、職場こそ戦場である!」(洋酒会社)などと、勇ましい限りですね」
朝日(12・17夕)…"戦後世代も本で疑似体験することで少しでも戦争を知り、これからの社会を考える手がかりにして欲しい"
「授業で両親、祖父母の時代から教えれば、戦争と、その影響をもっと身近に感じ、考えるのではないか」